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汀線(みぎわせん)〜sea side〜

作者: 鈴木 一加

 私は嵯峨野朱美さがのあけみ22歳。



 『松崎探偵事務所』と小さな看板が掲げられているビルの前に立っている。今からここで、私の面接が行われるところだ。








 私には、高校の時からずっと好きな人がいた。そんな気持ちを抱いているとは知らない彼にとって、私は何でも話せるただの女友達だった。



 好きな人の恋愛話ほど苦しいものはない。親身になって話は聞くけど、心から応援は出来ないし、笑顔でいて欲しいと思うけど、うまくいかないことを願ってしまう。



 付き合っている彼女の話の時は、笑顔で聞きつつも、なんで私の気持ちに気付いてくれないのかと、苛立ってもしまう。


 なのに告白も出来ないでいた。気持ちを伝えてしまったら、この関係が壊れてしまうんじゃないかと怖かったからだ。



 この関係が続く限り、もし何かあった時、いつでも自分が傍にいてあげれると、思い上がっていたのだ。このポジションを誰にも譲りたくはなかった。



 大学3回生の2月頃、彼から恋愛相談を受けた。人妻を好きになってしまったのだと。



 あり得なかった。彼は、私がどんな相手でも応援してくれると思っていたのだろうか。自分のことを決して軽蔑しないとでも思っていたのだろうか。



 彼のどこが好きなのか、分からなくなる時があった。彼の何が、私を引き留めさせたのか。



 2ヶ月後、彼から例の人妻と付き合っていると報告を受けた。



 その上、彼女は旦那よりも自分の方を本気で愛していると語ってきた。



 決して報われない恋に身を投じるなんて、馬鹿だ。一層傷つけば良いとさえ思った。ただ、その傷付いた彼を、ほっとけない自分がいるだろうことも分かっていた。私も馬鹿なのだ。



 彼は、私に何でも話してくれた。全てを晒け出してくれた彼だから、愛しく思えたのかもしれない。



 私の持論だが、信頼の上に愛情は成り立っていると思っている。信じられるからこそ、身も心も委ねることができるのだと。



 ある日、恋に盲目になっていた彼に、一つの提案をした。



 本当にその人妻が、彼のことを一番に考えているのか、探偵に調査してもらってはどうだと言ったのだ。



 彼はその挑発にのった。半分冗談で言ったことだったが、彼の目を冷ますには良い機会だと思った。



 しばらくして、再び彼から報告を受けた。案の定だった。いやむしろ、現実はもっと非情だった。



 人妻にとって彼は、ただの遊びで暇潰しだった。旦那と別れる気なんて更々なかったし、他にも浮気相手はいたようなのだ。



 それを話す彼は、どこかスッキリしていて穏やかだった。彼も薄々気付いていて、それがハッキリして良かったのかもしれなかった。私は、彼の態度をそう了解した。



 だが、彼の言葉はまだ続いた。



 彼は、調査を依頼した探偵に恋に落ち、恋愛対象が男性に変わってしまったことを告げてきた。



 すぐには受け入れられなかったが、受け入れるしかなかった。それにほっとしたところもあった。



 今まで少しでも可能性があったからこそ、自分の気持ちを諦めきれずにいたが、こうなった以上、諦めるしかなかったからだ。



 それでもやりきれない気持ちは残った。そしてそれは、私をその探偵へと突き動かした。



 何をどうしたいか、という明確なビジョンがあったわけではないが、まず探偵事務所に依頼して、その探偵について調査してもらうことにした。



 そして考えた末、彼を唆した探偵のいる探偵事務所で働くことを思い付いたのだ。








 ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着かせてから、一歩前に足を踏み出した。いよいよヤツに挑む時がきたのだ。



 エレベーターで五階にある事務所まで行き、『お気軽にどうぞ』と張り紙されたドアをノックした。



 中から「どうぞ」と男の声がした。



「失礼します」と中に入り、探偵の座るデスクの前に履歴書を提出した。



30秒程の沈黙。やけに長く感じる。緊張で微かに手が震えていた。



やっとむこうが口を開いた。



 「どうしてこの事務所に?」



 手元の履歴書を流し見しながら、私の顔も見ずに質問してきた。



 ちゃんと聞く気があるのだろうか。



 「ミステリーが好きで、探偵という職業に憧れてます。体力には自信がありますし、視力も良い方で、いろんな人間に興味があります。

それに、以前知り合いがここでお世話になったことがありまして、間接的ではありますが、知っている所というので安心感があり、ここに決めました」



 男の方を真っ直ぐ見つめて答えた。



 「後者か…」



 男が小さく呟いた後、



 「安心という観点からなら、大きい事務所の方が良いんじゃないか?わざわざこんな……、自分で言うのもなんだけど、いつ潰れるか分からないようなちっさな事務所を選ばなくても」



 自嘲気味に、でも卑下した感じではなく言ってきた。



 建物を見た時も胡散臭そうに感じたが、話してみると、一段と胡散臭く感じた。一癖二癖もありそうな男だ。



 なんで彼は、この事務所を選んだのだろう。



 「人が多いとこは苦手なんです!こういうこじんまり

あっ、すみません」



 「いいよ」



 「私は、こういう職場の方が好きなんです!!」



 キッパリと言ってみせた。



 「ありがとう、でも今は人を雇う程の余裕はないんだよね、ごめんね」


 やんわり優しく言われて、帰されそうになった。



 「本名は有馬丞ありまたすく、有馬医院の院長有馬隆司ありまたかしの次男で、10歳離れた有馬亨ありまとおるという兄がいる。T高校を卒業してN大学法学部に入学するも中退し、2年程数ヵ国を旅して過ごし、その後、志賀探偵事務所に入り、5年前に独立し現在に至る」



 男の経歴を述べた。



「調べたの?もし自分で調べたのなら優秀だけどね」



 見透かすような目で見られて、「自分で調べました」とは言えるはずもなく、



 「調べてもらいました…。

雑務でも何でもします。それに女の人がいた方が、仕事上都合の良いこともあると思いますし」

 一生懸命自分を売り込んだ。



 「何でも、ねえ」



 ネクタイを弛めて、艶やかな瞳で私を見つめてきた。



 恐怖と高揚で、脈が早くなった。この男には抗えないような独特な雰囲気がある。



 「ちょっとこっちに来て」



 そう言われて、確かこの人はゲイだったはずと思い、ドキドキしながらも近付いた。



 男は、座っていた椅子を少し後ろにやり、



 「じゃあ、処理してもらおうか」



 その言葉に、自分は今から何をさせられるのかを察っし、固まってしまった。



 すると、男はデスクの下の段ボールを指差して、



 「この書類の処理をお願いするよ。全部シュレッダーにかけてくれる?」

 男は、してやったり顔で言った。



 私の想像したことは、お見通しだろう。絶対にわざとだ。からかわれて顔を赤くした。腹が立ったが、



 「わ、分かりました」



 段ボール箱を持ち、シュレッダーのところに向かった。気を取り直して、



 「採用ってことで良いんですよね?」



 一応確認をした。こんなゲスい人の下で働くのはどうかと思ったが、この男の弱味を見つけて、ギャフンと言わせてやりたかった。



 「いや、まだ採用するかは未定だ。まずは見習いを1ヶ月してもらう。使えそうなら継続するが、使えないと思ったらやめてもらう。

まっ、この仕事は時間も拘束されるし、危険な場面に遭遇することもある。人の見たくないところも見えてしまうしな。

やめたいと思ったら、すぐやめろ」



 冷たく言われてしまった。



 「俺は今から仕事でここを出るから、お前も出ろ」



 「えっと、私は…?」



 「ああ、次は3日後に来い」



 「はい」



 男の有無も言わせない雰囲気に、思わず萎縮して返事をした。この男の裏をかくなんてこと、自分に出来るのか全く自信がなくなってしまった。








 三日後、初出勤した。男のことは、松崎まつさきさんと呼ぶことにした。私の仕事は、ほぼ掃除や整理、お茶くみだった。定時勤務で、いてもいなくても良いような仕事だ。



 最初の頃は、松崎さんが一体何の依頼で動いているのか、よく分からなかった。ちゃんと教えて貰えなかったのだ。



 まだ本採用ではないので、信頼されてないということだろう。



 松崎さんは、ふらっと出掛けて居なくなる。帰ってきたと思うと、パソコンに向かってデスクワークをする。たまに何日も居ないこともあった。



 その間は、留守番係りもしたが、依頼者の名前と連絡先、依頼内容を聞いて、「後は追って電話します」と伝えるだけだった。








 俺は松崎或まつさきある36歳、探偵だ。もちろん名前は偽名である。



 一ヵ月前、面白い娘が事務所にやって来た。俺に敵意むき出しで、「ここで働かせて下さい」と言ってきた。



 真っ直ぐな目をした若者は、眩しくて苦手だが、嫌いじゃない。なぜかほっとけない愛しさを感じるのだ。



 特に、叶わぬ恋に溺れている人間ほど。そして、藁をちらつかせてみたくなる。



 彼女がやって来たその日に、彼女について調べさしてもらった。2日もあればだいたいの素性は把握できた。どうやら、9ヶ月程前に依頼にきた青年の、高校時代からの友人のようだった。



 そう、その彼もまた、叶わぬ恋をしていた。人妻に本気になるなんて、不毛なことに情熱を燃やす彼を、憐れに思ったのだった。



 女性というのは、結婚に関していえば、愛情というのは条件の上位には入らない、とても打算的な生き物だ。愛だ恋だで、それを壊す愚かなことをするのは、少数派だろう。



 その妻としての安定を手放すわけでもなく、それでいて、女性として愛されたいと、恋という刺激を欲しがる強かさを持っている。



 俺は彼に事実を突き付け、「君は愚かだ」と、ひどいことを言って傷つけた。



 そして、泣く彼を優しく抱き締めてキスをし、自分のものにした。



 最初少し抵抗はしたものの、失恋で心が弱っていたのだろう、しばらくすると身を委ねてきた。



 思いの外、具合が良かったのか、彼は再び事務所にやって来て、行為を望んだ。



 恋愛関係とも違うその関係は、2ヶ月程続いただろうか。



 彼はどうだったか分からないが、俺はちゃんとした愛情らしい愛情を持ち合わせていなかった。彼もそれは承知していただろうし、だからこそ、自然と彼は事務所には来なくなったのだった。



 寂しいとは思わなかった。パートナーが見つかったのなら良かったし、幸せになって欲しいとは思った。



 で、つまりは彼女は彼のことが好きで、俺のことを恋敵とでも思っているのだろうと推測された。



 まぁそれも面白いかと、しばらく様子をみることにしたのだった。



 彼女は至って真面目に仕事には取り組んでいた。それに、向上心も見受けられた。



 ほぼ毎日同じ雑務をこなしながらも、何か違うやることを探して働いていた。それで、採用しても良いと判断した。








 ここ一ヶ月間、たいした仕事もしていないので、役に立っているのか不安だった。日によって、違う飲み物を勝手に提供しているのだが、それは好評なようだった。あと、百均を利用した収納術も褒められた。



 今では、松崎さんをぎゃふんと言わせるというのはどうでもよくなっていて、単純にもっと探偵としての仕事がしたいと思うようになっていた。



 松崎さんに対しても、最初のような「嫌な人」という印象はなくなっていた。仕事で見せる姿勢は流石で、私が最初に会った松崎さんは演技だったのかと思う程、今は基本紳士的だ。たまに変な冗談を言ってくるのは、ご愛敬ということにした。


 

 しばらく働いて気付いたことがある。最初この事務所には、松崎さんだけしか働いていないのかと思っていたが、そうではないみたいだ。たまに電話でやりとりしてる仲間のような人間が、一人ないし二人はいるようだった。素性も知らないし、会ったこともなかったけれど。



 一ヶ月と少し経っても、松崎さんから特に何も言われなかった。このままで良いものなのかとは思っていたが、変に聞いて「やめろ」と言われるのも嫌だったので、忙しくて忘れているならそのままでいいと思って、やり過ごしていた。



 すると突然、松崎さんから封筒を渡された。



 「何ですか、これ?」



 何事かと身構えた。



 「遅くなってすまんな。給料と明細書、それに契約書だ。

お前を正式にこの事務所に迎え入れるつもりだ。まだしばらくは見習いだけどな」



 「ほんとですか?やった〜」



 喜んだのも束の間、



 「で、だ。

お前の気持ちを今一度確認したい」



 松崎さんのその鋭い眼光に、ビクッとした。



 「お前はこの事務所で本当に探偵になる気があるのか?動機が俺への執念なら、やめておけ!

お前は器量が良い、やる気があるなら、他の事務所で雇ってもらえ」



 私の下心なんて周知の上だったのだ。



 「最初はそうでした。

でも今は、そんな気持ちはなくて、ここで探偵として働きたいと思ってます。色々ここで学ばせて下さい」



 正直な気持ちだった。



 「分かった。

じゃあまず、ここでのお前の名前を考えとけ。」



 ニコッと笑った松崎さんにドキッとした。別の下心が芽生えそうだった。



 「あと、嘘も上手につけれるようにな」



 さらっとそう言いのける松崎さんは、平気で嘘をつくんだろうなと思った。





一週間程して、松崎さんに「そろそろ名前は考えたか?」と聞かれた。



 採用されたのが嬉しくて、すっかり忘れていた。



 「あっ、まだです…。

今のところ、名前を名乗ることもないですし」



 「早く考えろよ」



 「松崎さんも一緒に考えて下さいよ〜」



 ふと、松崎さんの名前の由来が気になった。



 松崎さんは自己紹介するとき、「松崎です。『崎』は濁らない『さき』でお願いします」という決まり文句を言って、名刺を差し出す。



 「松崎さん、何で松崎さんの『崎』は濁らないのにしたんですか?

正直、言いにくいんですよね

あっ…」



 思っていたことをつい口にしてしまい、失礼だったと反省した。



 「人は聞き慣れない音の方が意識するだろ?だから、この方が覚えてもらいやすい」



 「そういうもんなんですか!?」



 「又は、人は聞き慣れた音で記憶に入るだろう?そうなれば『さき』が『ざき』となり、名前はあやふやになって、ちゃんと覚えてもらわなくて済む」



 「さっきと言ってること違うじゃないですか!!」



 「うん、どちらとも解釈できる。

これが良いように転ぶ時もあれば、悪いように転ぶ時もあるんだよね」



 「何ですかそれ」



 私には、時々松崎さんの言うことが分からなかった。



 「あと、或って名前には、何か意味があるんですか?」



 「『或』って漢字は、はっきりしない事物・人・場所・時を表す語なんだ。

なんか自由な感じで良いだろ?」



 威張っていう松崎さんにに、生返事を返してしまい、ちょっとムッとされてしまった。



 「単純に『ある』って響きが好きなんだよ。漢字を当てはめたら、たまたまこれだった!

納得頂けましたか?」



 口調は優しかったが、強く言われて、「はい!」と答えるしかなかった。本当は納得などしてないけど、これ以上掘り下げても、松崎さんの機嫌を悪くするだけだと判断した。極稀に、子供っぽいとこのある人なのだ。



 「さっ、俺の事はいいから、お前の名前を考えよう」



この人は、本当のところ何を考えてるのか分からない。まるで掴めない雲のような人だ。色んな形に姿を変えるし、白く綺麗な色だったり、どんより暗い色だったりする。そして時には雨を降らす。



 そんな人だから、自然と人を惹き付けるのだろう。



松崎さんはしばらく黙り混んでから、デスクワークを始めてしまった。



 考えるのが面倒くさくなったのかな。



 私も自分なりに名前を考えてみた。難しい。何を基準に考えたら良いか分からない。平凡な名前は嫌だし、かといって、いかにも芸名のような名前は恥ずかしい。



 すると、松崎さんが「佐野亜美はどうだ?」



と言ってきた。



 仕事をしてるのかと思ったら、ちゃんと考えてくれていたのだ。



 「えっと、さのあみですか?

良いですね、なんかしっくりきます」



 「気に入ってくれたか?良かった。間抜けな名前だけど、響きも悪くないしな」



 そう言われて、『さのあみ』という間抜けなイメージのある有名人がいたかなと少し考えたが、思い当たる人はいなかった。



 「ちょっと、それどういう意味ですか?」



 少し怒った私に、「まんまの意味だよ」と、松崎さんはイタズラな少年のように言ってきた。



 少し考えて、理解した。私の名字と名前の間の文字をそれぞれ抜くと、『さがのあけみ』が『さのあみ』


となるのだ。



 「分かりましたよ〜」



 そう言った私に、松崎さんは「崖ドンだ」と意味不明なことを呟いて、ふっと笑った。



 『崖ドン』って、『壁ドン』の間違いでは!?『壁ドン』だったら恋に落ちるパターンだけど、『崖ドン』だと落ちて死んじゃうパターンだ。どっちにしろ謎のフレーズが怖かったので、突っ込むのはやめておいた。



 ようやく名前も決まり、松崎さんからは「亜美」と呼ばれることになった。



 以前は、「お前」か「おい」で呼ばれていた。今更ながら、なんだか急にムカついてきて、松崎さんにかなり熱めの珈琲を提供した。松崎さんは猫舌なのだ。



後ろ背に、「あちっ」と松崎さんの声が聞こえて、小さくガッツポーズをした。








 俺たちの仕事は、人や物を探したり、調べたりするのがメインだ。ただ、彼女には内緒にしている仕事もある。



 ある刑事の違法捜査の手伝いをしている。危険なので、彼女にはこの仕事に関わってもらうつもりはない。



 それにしても、彼女は想像以上役に立った。趣味が人間観察というだけあって洞察力もあるし、機転も利いた。



 この間のこと、俺がやむなく尾行続行が不可能になった時、彼女がわざと対象者にぶつかり、鞄に発信器をつけた。その後、衣装を変え、対象者が喫茶店に入った際に、そこでゴミを拾うフリをして、発信器を回収したのだ。


 度胸もあり、使える。が、最近の彼女の変化が気になっている。



 最初ここを訪れた時は、俺に恨みを抱いていた。その一ヶ月後には、探偵への意欲が見受けられた。そして今は、俺に好意を寄せてる気配がある。



 面倒なことになる前に、予防線を張ることにした。







 現場にも何度か同行させてもらって数ヶ月、初めて仲間の男の子に会った。



 彼は、何やら荷物を持って来て、松崎さんのデスクに置いた。



 「ありがとう、こう



 「おう」



 「前髪長いから切れよ、目が悪くなる。

せっかくの男前の顔が見えんし」



 「うっせぇ、あんたが言うなよ」



 「ふんっ、また頼むな」


 「今度は部屋に取りに来いよなぁ。俺は絶賛引きこもり中なんだから」



 「分かったよ、また行く。エサもやらんとな」



 「心配しなくても大丈夫だよ。別に飢えてねえから!」



 二人の会話を聞いてると、上司と部下って感じが全くしなかった。もっと親しげな感じだ。



 そう言えば、松崎さんはゲイだったと、思い出させられていた。二人はそういう関係なんだろうか。



 とりあえず挨拶しなきゃと思い、「あの、佐野亜美です。ヨロシクお願いします」と言うと、彼はチラッと私の方を見て、



 「ああ、知ってるよ。俺は熱海晃李あたみこうり、よろしく!まぁ、ボスのサポート頼むよ亜美ちゃん、じゃあ」


 そそくさと去っていってしまった。



 前髪が長くてはっきりと見えなかったけど、イケメンな感じがした。それに気になることが…。



 「彼に一目惚れでもした?」



 「いや、そういうんじゃ…」



 見とれたのは事実だったので、口ごもってしまった。



 「格好いいからね〜。でも、私よりなかなか性格に難ありだよ。付き合うにはオススメしないな。

あれの家族関係は複雑でね、高校を卒業してすぐに家を出てるんだ。自分を必要のない人間と思ってる節があってね」



 松崎さんは、思い詰めたように語った。



 彼に私を近付けさせないための嘘か…。ただ、首の包帯が気になった。



 だけど、それ以上彼について言及することは、躊躇われた。





 それからしばらくして、問題はたくさんあるけれど、松崎さんのことを好きだと自覚してきていた。



 そんなある日、松崎さんに踏み込んだ質問をしてみた。



 「松崎さんって、男の人が好きなんですか?」



 「急にどうした!?あぁ、君は僕と君の想い人とのことを知ってるんだったね」



 「はい。彼には女の人はもう愛せないって、告白されました。

好きだって伝える前に、フラれましたよ」



 「そうだったのか。

正直に言うと、俺は女性も男性も愛せないんだ。身体は別なんだけどね」



 松崎さんの発言に引っ掛かったが、続けて質問した。



 「結婚はしてないんですよね?」



 「一度もしてないよ」



 「昔に辛い恋愛をしたんですか?」



 「これ以上聞いてどうしたい?」



 松崎さんの威圧に、深く立ち入ってしまったと動揺した。



 「さっきも言ったけど、俺は誰も本気で愛せないんだ。

だから、君のことを愛することはないよ」



 そう言われて、聞かなければ良かったと、ひどく後悔した。



 今回も、清々しい程きっぱりとフラれてしまった。そんなつもりはなかったのに…。



 こうなったらもう一つ、気になっていたことを聞いてみた。



 「晃君って、松下さんの甥っ子ですか?」



 「そうだよ、兄のところの子なんだ」



 「やっぱり。前に一回会った時、松崎さんに似てるかもと思っていて。スッキリしました」



 なんだかホッとした。そういう関係ではなかったみたいだ。



 「三年前までは、そう思ってたよ」



 「えっ!?」



 「晃は、俺の子なんだ」


 松崎さんの発言に思考がついていけず、何も返せなかった。これも松崎さんの嘘なのか…。



 私の今後の態度を見据えてか、「続けるか?」と聞いてきた。



 私は仕事のことだと思い、揺るぎなく「続けます」と答えた。



 「えぇっ、これ以上は何も答えないよ!

だって、ミステリアスな方がカッコいいでしょう」



 困り顔で、松崎さんはふざけて言った。だけど、どこか安堵の表情だった。



この人は私に、かまをかけたのだ。冷たい態度やひどい言葉を投げ掛けて、相手がどうでるのかをみている。ふるいにかける、それがこの人のやり方なのだ。



 松崎さんは人を愛せないと言ったけど、愛せないんじゃなくて、会いそうとしてないだけなんじゃないかと思った。








俺は小さい頃、できの良い兄と比べられた。そして、周囲の期待と感心は、全て兄のものだった。



 それでも、母だけは平等に接してくれた。


 父は、あからさまな態度をとっていたわけではなかったが、劣等感は感じさせらていた。



 昔の俺は、父に認められたいと強く思っていた。



 しかし、中学生の時に母が亡くなり、支えが無くなってしまい、現実から目を背けた時期があった。



 それまで兄には劣るものの、そこそこの成績だったのだが、著しく落ち始めたのだ。



 そんな時に現れたのが、兄の婚約者だった。彼女の言葉で、またやる気を取り戻した。



 同じ土壌で兄と戦うのではなく、違う分野で父親に認めさせれば良いのでは、と助言をくれたのだ。そこで俺は、法律の道に進もうと決めた。



男というのは、女性に母親のような無償の愛を求めるものなのだ。最終的には包み込んで欲しい。



母がいなくなり、何かにつれて優しく接してくれた彼女は、俺にとってそんな存在になっていた。母と違うのは、異性として意識出来るということだった。



 だが、兄の奥さんになる人だというのは分かっていたので、その気持ちは圧し殺した。それに、直ぐに彼女は人妻となった。



高校2年生の夏頃、彼女が僕の部屋にやって来た。信じられないことに、彼女は「結婚を考えた時、選ぶのは亨さんだったけど、愛したいと思うのはあなたなの」と、告白してきた。



若かった俺は、彼女の誘惑に勝てなかった。それに、罪悪感はあったが優越感もあった。初めて兄に勝った気になったのだ。



 それはその一日だけの情事。その後、彼女とは距離を置くようになった。俺にとって、これが一種の『失恋』というものだった。俺の中で、彼女は大切な女性ではなくなってしまった。



大学は法学部に入ったが、この頃には、父に認められたいという気持ちは薄れていた。本当にやりたいことは何なのか、考え直したくなり、大学2回生の夏休み前に、大学をやめた。



 世界を旅して、俺は探偵という職業に興味を持ち、志賀探偵事務所に就職した。



そこには9年間勤務し、その後独立して、個人事務所をかまえた。



 そして、2年が経とうとした時、俺の事務所に一人の青年が現れた。顔を見てハッとした。俺の若い頃にそっくりだったからだ。



 「宇喜都うきとか!?しばらく見ない間に大きくなったな、ビックリしたよ。

今日はどうしたんだ?」



 数年会ってない叔父のところを訪ねてくるなんて、よっぽどのことだろうと思い、出来るだけ穏やかに聞いた。



 「家を出てきたんだ。

叔父さんの家に、泊めて欲しい」



 「兄貴達は、知ってるのか?」



 切羽詰まった様子に、少し戸惑った。



 「もう、僕はあの家にはいられない。要らない人間だから」

 宇喜都は、倒れるようにソファーに座り込んだ。



 「宇喜都…」



 「僕は父さんの子供じゃないんだって。DNA鑑定もしたらしい。」



 俺は全てを納得した。



 「すまなかった。

辛い思いをさせてしまったんだな」



 「母さん、あんたは悪くないって言ってたよ」



 そんなことはない。あの時、俺には邪な感情があったのだから。



 「父さんは、病院を弟の生琉(いくる)に継がせるって。

アイツの方ができも良いしね」



 昔の自分と重なった。血は正直だということか。



 ひとまずその日は、俺のマンションに泊めることにした。



 その次の日、久しぶりに兄の携帯に電話をかけた。

 「丞か?」



 「ああ。

今、宇喜都がうちにいる」


 「お前のところに行ったか。

様子はどうだ?」



 「相当参ってるよ」



 宇喜都は、有馬家を出てから俺の事務所に訪れるまでの数日、ろくな食事も摂らずにいたようだった。



 「あいつには悪いことをした。もっと早く解放してやるべきだったかもしれん」



 「前から、知ってたのか?」



 「あいつが高校生になったあたりかな。

だいぶお前に似てきてたからな。もしかしたらと思って、七海(ななみ)に問いただしたんだ」



 約3年前から知っていたのか。その間、特に兄からの連絡は無かった。



 「兄貴…、俺」



 「お前を責める気はないよ」



 昔からそうだった。俺が悪いことをしても、兄は決して頭ごなしに怒ったり、責めたりはしなかった。父もそうだ。だからいつも、やり場のない懺悔の気持ちが、俺の胸を締め付けた。



 「兄貴は本当、親父に似てるな」



 決して嫌味ではなく、常に思っていたことだった。



 「そうか!?

宇喜都はお前によく似てるよ。父親に認められようと努力するところとかな。

だから、辛く悔しい想いもたくさんしただろう」



 「よくそんな風に思えるな」



 一層、怒鳴って罵ってくれた方がどんなに楽か。いつも味方でいてくれようとする兄を、素直に受け入れられない俺は、ひねくれているのだ。



 「そう思えるまで、少し時間は掛かったがな。

宇喜都のこと、お前に頼めるか?」



 「あいつのことは俺が責任を持つから、兄貴にはもう」



 「迷惑はかけないようにする」と言おうとしたが、



 「勘違いするな!俺にとってもあいつは今でも息子だ。出来ることはする」



 そう言われてしまい、俺はまた、自分の浅はかさを思い知らされた。



 「分かった。ありがとう」



 それだけ言って、電話を切った。



 いつだって、俺は兄には勝てない。数年ぶりに感じた劣等感。だが、感じ方は昔とは違った。兄に憧れ、ふがいない自分に苛立っていた有馬丞はもういない。俺はいつまで経っても俺でしかないと分かったからだ。



 その日、マンションに帰った俺は、宇喜都に探偵にならないかと誘った。



 「なぁ、俺のとこで働かないか?

住むとこは用意してやる。まぁ、しばらくは俺のとこに住んでもらうけどな」



 宇喜都は少し躊躇いながら、



 「うん、いいよ。

ただ、頭では分かってるけど、僕はあんたを父親とは思えない。」



 申し訳なさそうに返してきた。



 当然のことだと思った。


 「いいよ。無理に思わなくて」



 俺だって、すぐには受け入れられない事実なのだから。



 「生まれてきちゃ、いけなかったのかな!?」



 ぽつりと発された言葉に、哀しみが込み上げた。



 「そんな風に言わないでくれ」



 宇喜都は、負の感情の矛先を俺達ではなく、自分に向けていた。そんなところもまた、昔の俺に似ていた。



 「ねぇ、母さんのこと好きだったの?」



 「昔の話だ」



 突然の意外な質問に、ぶっきらぼうに答えてしまった。



 「そっか…」



 宇喜都は、ちょっとだけほっとした顔を見せた。それを見て、少しだけ救われた。



だが、宇喜都は時折自傷行為を行った。不意に訪れる嫌悪感を、自分自身を傷つけることで抑えられるらしい。



 死ぬつもりはないようだが、俺のマンションの救急箱からは包帯が減り、ゴミ箱には血の付いたタオルやらが捨てられていた。



その度、俺の心臓に痛みが走った。



宇喜都はほぼマンションに閉じこもっていたが、約一年ぐらいすると、少しずつ外出するようになった。



 その頃から、俺の仕事を積極的に手伝うようになった。宇喜都には、『熱海晃李(あたみこうり)』という名前を付けて、それからは「晃」と呼んだ。



 晃は元々、メカ弄りや工作が好きだったので、仕事で使う小道具を作ってもらったり、機械の修繕や改造をしてもらったりした。



 女役が必要な時は、たまに女装をしてもらうこともあった。嫌がられるかと思ったが、本人はノリノリでやってくれた。こういうことを楽しめるのも、俺ゆずりかもしれなかった。



 少し前までの宇喜都は、自分のことを「僕」と言っていたが、「俺」と言うようにもなっていた。地が出てきたのか、俺と一緒に過ごすうちに、喋り方まで似てきたのだろうか。



 有馬家を出たことで、初めて自分らしく生きられたのかもしれない。俺がそうだったように。



 最初の頃は、親子というにはあまりにもよそよそしい二人だったが、今では上司と部下という関係で、うまくやっている。



 ある時俺は、晃に親心が芽生えそうになったのを感じ、あまり傍にいすぎない方が良いのではと思った。


 自傷行為も減っていたので、晃の為に別のマンションを借りることにした。



 お互い、今更親子の関係を築きたいとは思っていないことは承知していたし、少し距離を空けているくらいの方が、関係はうまくいくと思ったからだ。もちろん、いざとなれば直ぐに駆けつける。



 「晃、子供部屋欲しいか?」



 「はぁ?何才だよ」



 「すまん、親ならこういうセリフを言うかと」



 冗談めかして言った。



 「俺に出ていって欲しいってことか?」



 そんな風に思って言ったわけではなかったが、彼なりに敏感に何かを感じ取り、そう言ってきたのだろう。



 「俺はお前に見られても困るもんはないんだが、お前は何かと不便なこともあるんじゃないかと思ってな」



 男同士なので、察するところは一つだ。



 「それはお互い様だろ!まっ、くれるんなら有り難くもらっとくよ。

子供部屋」



 無邪気な子供のような笑顔を見せて、返してきた。胸がきゅっとなった。



 「晃、何かあったらすぐ言えよ。俺はお前の」



ついつい、親らしいことを言ってしまいそうになったが、



 「ボスだかんね」



 喰い気味に、晃が言ってきた。



 「ふっ。部下は大切だからな」



俺は何を期待したのだろう。晃にとって俺は上司であり、俺にとって晃は部下なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。








 あれからも、今まで通り、私は『松崎探偵事務所』で働いている。



 松崎さんには、自分の口からは気持ちを伝えていない。私の気持ちなんか、とっくに気付いてるに違いなかったけど。



 松崎さんは、自分に強い好意を持つ人間を、遠ざかける傾向があった。それがなんとなく分かっていたから、気持ちは伝えずに、少し距離を置いて、側にいることを選んだ。



 決して結ばれることはないけれど、そうすることで、誰よりも最も松崎さんの近くにいられてると、感じることが出来たからだ。



 松崎さんは嘘つきだ。だけど、私はそれを分かってる。それを松崎さんも受け入れている。歪んでいるかもしれないけど、そこに信頼がある。ただ側にいるという愛情もあるのかと思う。








 あれからも、彼女は俺の事務所で働いている。



 彼女は勘が良いのだろう。俺のことを随分理解してるのかもしれない。



 彼女の距離は居心地が良かった。遠過ぎもせず近過ぎもせず、俺が寄せては返す波ならば、彼女はそれに合わせてくれる砂浜だ。



ずっと海を眺めて、見守ってくれているような存在。昔に望んで諦めた大切なものが、今ここにある。


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