第七話 足ドン
「リサ、それ逆効果……」
銀色の頭を抱えながら呟くウィルの言葉に私は嫌な予感がした。
だけど勢いのついた足はもう止まらない。
「ぐはっ!」
二度目の蹴りはジェイルの顎に当たり、彼は派手に吹っ飛んでいった。
一瞬見えた顔が痛みに歪んでいるというよりは、法悦に満ちているように見えたのは気のせいだろうか?
「ウィル、逆効果ってどういう意味?」
やっと危険地帯の壁際から離れる事が出来たけれど、何故か素直に安堵出来ない。
引っ掛かるのはもちろん、先程のウィルの発言とジェイルの表情だ。
ひとまず床と懇ろにしているジェイルは放置しておいて、ウィルに尋ねる事にした。
頭を抱えるのに忙しいなんてウィルなら言わない筈だ。
「ジェイルはね、いわゆるマゾヒストなんだよ」
「なんてマジェスティー!」
「ええとリサ、大丈夫? それ、何か文脈がおかしいよ?」
大げさなくらいに打ちひしがれた私を優しいウィルは気遣ってくれる。
彼にとってもこの状況はだいぶ頭の痛い展開の筈なのに。
もう一回蹴りを入れられたら、さらに怒り狂うのが凡そ平均的な人間の反応だ。
一回目はつい不可抗力でという事も考え、心の広い人なら許してくれるかもしれない。
だけど二回目となれば、ぐっとハードルは上がる。
いっそ、ハワードみたいに一度目から判りやすく怒ってくれた方が良かった。
結果論ではあるけれど、あのタイミングならジェイルが反撃してくる前にウィルが駆けつけてきて無事だった可能性が高い。
多分だけど、一度目はまさか淑女がそんな事をしてくるとは思わなくてまともに食らってしまったのだろう。
不審人物として警戒はされてはいたようだけれど、頭突きやビンタでなく蹴りで行くとは思わなかった可能性が高い。
人前でドレスの裾を乱すなんて、淑女にあるまじき行為だから。
だけど、二度目は?
一度食らって油断してただとか、予想外とかそんなのは考えにくい。
あの熱にうかされたような顔。
あれはわざと、自分から蹴られに来たのだ。
「一応確認してみるけれど、マゾヒストって被虐趣味の事よね?」
「残念ながらね……」
哀れみと憂いを含んだアイスブルーの瞳でウィルは私を見つめた。
「嗚呼! 私はなんて事をしてしまったの!?」
神様、仏様、ご先祖様と思いつく限り尊いとされる存在を挙げ連ねて祈る。
己の行いを悔いてはいたけれど、これはジェイルの無事を願っての事ではない。
百パーセント己の保身に走った結果だ。
「リサ……」
「げっ、もう起きたの!?」
懺悔が終わる前に再び受難の時はやって来た。
「ちょっと待って! 話ぐらい聞いてから試練を与えるのが筋ってもんでしょうよ! こんなのあんまりだわ! 蹴られても蹴られても起き上がってくるなんて、貴方ゾンビ!?」
「リ、サ……」
「ヒッ……!」
とても正気とは思えない表情で迫ってくるジェイルに私は恐怖した。
練乳に砂糖を大量にぶち込んだみたいな甘ったるい声色で名前を呼ばれて、背筋に悪寒が走った。
怖い、たかが蹴りの二発でここまで乱れてしまえるジェイルが。
「ウィル!」
再度壁際へと追い詰められた私は救いを求めてその名を呼んだ。
だけど彼は悲しそうに首を振る。
「他人の求婚中は邪魔してはならないというしきたりなんだ」
壁ドンがこの国では正式なプロポーズの作法。
その最中に邪魔をしてはならない。
「そんな異世界のルールなんて知らないわよ!」
そんなものはクソくらえだと白い壁と黒いジェイルに挟まれながら叫んだ時だった。
――バンッ。
けたたましい音がして、扉が開いた。
外の明かりと共に飛び込んで来たのは予想外の人物だった。
「ハ、ハワード!?」
「チッ、なんか嫌な予感がすると思って帰って来てみればこれかよ……」
私の声にハワードは応えない。
苛立たしげに舌打ちしたかと思うと、ツカツカとこちらに大股歩きで近寄ってきた。
「そいつは俺のだ」
ベリッ、なんて音が聞こえる筈が無いのに、聞こえた気がした。
ハワードがジェイルの肩を掴んで引き剥がしたのだ。
「ウィルー!」
「リサ!」
晴れて自由の身になった私はウィルに駆け寄って抱きついた。
「しかし、殿下! 彼女は私が先に……!」
「後か先かって話をしてるんなら、俺が先だ。ウィルが俺の為に異界から喚んでくれた。転位したのは俺の腕の中だ。つまり、彼女は俺のものだ」
しきたりを振りかざして食ってかかるジェイルをハワードは一蹴した。
何も言えなくなった黒装束の青年は唇を噛み締めている。
いつも以上に細められた糸目の隙間から、見えるか見えないかのような光がちらついていた。
「ちょっと、私は貴方のものじゃないわよ、ハワード。誤解を招くような言い方をしないでくれる?」
「今はそうじゃなくても、どうせすぐにそうなるんだから問題無いだろ……って、お前は何を堂々と他の男に抱きついているんだ! 浮気か!」
「浮気じゃないわよ! ……怖かったからつい、勢いで抱きついただけよ」
「その場合、助けた俺に抱きつくのが筋ってもんだろうが。他の男のところへ行くな!」
「だって、ウィルのところの方が安全だと思ったんだもの」
ハワードに指摘されて己の行いを省みて、急に恥ずかしくなった私はすぐにウィルから身体を離そうとした。
だけど、その瞬間にウィルが私の腰を抱き寄せて邪魔をする。
「ウィル、お前……」
「私に抱きついたのは彼女の意思だよ、ハワード殿下」
「殿下って呼ぶな」
ハワードとウィル。
両者の間に火花が散る。
これじゃ完全に二次災害だ。
「ハワード、公務はどうしたの?」
「どうもこうもない。嫌な予感がしたからさっさと切り上げて、急いで帰ってきたんだよ」
一触即発の雰囲気に気を逸らそうと話し掛ければ、ハワードはウィルから視線を動かさずに答えて寄越す。
野生の勘というものだろうか?
動機がどうあれ、私はそれに助けられたわけだけれど。
「助かったわ、ハワード。貴方が扉を蹴破って現れた時、正直第二の災厄が襲来したかと思ったけれど、こうして自由の身なのは貴方のおかげよ」
「なんで第二なんだ! 唯一無二にしろ!」
「怒るところはそこ!?」
せっかく素直にお礼を言ったのに台無しだ。
ずれた突っ込みにさらに突っ込んで返す。
そんな私たちを見て、ウィルは私の頭上でくつくつと上機嫌な笑い声をこぼした。
ハワードの後方に立つジェイルの目はどこを見ているか判らないけれど、顔はこちらを向いていたから多分、私たちの事を見ていたんだと思う。
「じゃあ私はそろそろ部屋に戻るわね」
「おい、待て。話はまだ終わってない」
ウィルの腕が緩んだ隙を窺って私は退却しようとした。
だって、この場でぐずぐずしていたらまたろくでもない事件が起きるのは目に見えているから。
暇乞いもそこそこにハワードの横を通り抜けようとしたのだけれど、彼もそう甘くは無かった。
「ちょっと、何をするのよ!」
「話は終わってないって言ってるだろ?」
肩を掴まれ、引かれたかと思うと、次の瞬間には背中に軽い衝撃を受けた。
ここ最近で嫌というほど覚えのある感覚。
振り返らなくても判る。
私は壁際に返り咲いていた。
ハワードはすらりとして憎たらしいほど長い足でふわっと舞い上がった私のドレスの裾を壁に縫い止めた。
「嫌、そんな……」
やっと解放されたと思ったのに、また駕籠の鳥になるなんて。
いいえ、駕籠の鳥の方がまだましだ。
私は、標本にされた蝶と同じだ。
「さて、さっきの状況を順を追って説明してもらおうか?」
正面から私を覗き込むピカディリ・ブラウンの瞳に剣呑な光が灯ったのを見た瞬間、私は悟った。
本当に信じるべきは己のみ、だ。
私は本日三度目の蹴りを入れるべく、足を振り上げた。