第五話 肩ズン
「スー、ハー……」
ある扉の前で私は大きく深呼吸をした。
これは心の準備だ。
本当はもう少し時間を置くつもりだった。
だけど、ハワードの馬鹿が今日も今日とて私を追い駆け回すから、自分でも知らず知らずの内にいつもの如くこちらへ足を向けてしまった。
猛追して、壁に押しつけて捕獲するなんて、ハワードは虫取り少年か何かなのだろうか?
その場合、自分が標本にされる蛾か蝶の立場だと思うと、ものすごく嫌な気分だ。
どうせなら捕獲する側の立場でいたいと思うのは、我が儘なのだろうか?
勿論、これがハワードなりの気遣いである事には気づいている。
かなり荒療治だけどね。
尤も、半分くらいは彼の趣味みたいなものと踏んでいるけれど。
「よし、準備オッケー」
仕上げにパチンと自分の両頬を叩いて活を入れる。
女は度胸だ!
――コンコンコンコンッ。
木製の扉を四度拳で叩くと、思っていたより低い音が鼓膜を打つ。
返事は無い。
いないのだろうか?
このまま帰るか、それとももう一度ノックをしてみるか。
随分と長い事迷った。
いや、体感として長かっただけで実際にはそんなに長時間でも無いのかもしれない。
悩んだ末、私が選んだのは勇気を持って一歩踏み出す方だった。
「ウィル?」
今度はノックの後に続けて部屋の主の名前を呼んだ。
すると、扉の向こうでガタッと何かが倒れるような物音がした。
「……リサ?」
一晩ぶりに聞いたその声は少し掠れていた。
驚き、戸惑い。
色んな感情が入り交じっているように聞こえる。
「うん。今日もお邪魔していいかな?」
扉のすぐ向こうにウィルの気配を感じ取った私は努めて自然を装ったつもりだった。
だけど、そんな事はウィルはお見通しだったのだろう。
彼は長い事沈黙した。
ひょっとしてもう部屋の奥に引き籠もってしまったのではないかという疑念すら生じてしまうくらいに。
ドア板一枚を隔てた向こうとこちらは別世界で、その絶対的な隔たりがもどかしくて疎ましい。
だからこそ、細く開いた扉の隙間から零れる弱い光を私は希望だと思った。
「入ってもいい?」
もう一度お願いすると、ウィルは黙って頷いてようやく部屋の中に招き入れてくれた。
第一関門は突破した。
だけど、これからどうやって話を切り出せばいいのだろうか?
紅茶を淹れるのを口実に私はまだ何も話していない。
ノックの前に確かに心の準備をした筈なのに、本人を目の前にするとやっぱり緊張してしまう。
口から心臓が飛び出そうだ。
そんな浮ついた状態でぼんやりと淹れていたからだろう。
「……熱っ!」
手元が狂って跳ねたお湯が手の甲に掛かってしまった。
「リサ!」
ウィルの動きは早かった。
向かいのカウチに腰掛けていた彼はサッと立ち上がると、一瞬で間合いを詰め、私の手を取る。
初めて触れたウィルの手はひんやりとして冷たかった。
「火傷してない!? 手は? この辺りだったよね?」
「う、うん……」
ウィルは取り乱した様子で矢継ぎ早に言う。
気まずさを感じていたところに、いきなり触れられた私は現在の状況に頭がついていかない。
彼の言葉にただ頷くので精一杯だった。
「赤く……は、なってないみたいだ」
「だ、大丈夫よ。少し驚いただけだから」
私の隣に腰を下ろしたウィルは私の手を左手で持ち上げて、真剣なまなざしで見つめた。
右から、左からと彼が首を傾ける度に一緒になってプラチナブロンドの髪が揺れる。
「本当に?」
「本当よ」
アクアブルーの瞳に抱きすくめられる。
不安、戸惑い、焦燥、寂寥、渇望。
そこから色んな感情を感じ取りながら、私は彼を安心させるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
ううん、本当は自分が落ち着きたかっただけかもしれない。
「良かった……」
張り詰めていたものが一気に弛緩するように、彼は私の隣で崩折れた。
そのままもたれるように私の肩に銀色の頭を乗せる。
「リサが無事で良かった。それにもう相手に来てくれないかと思っていたから……。本物のリサがここにいる……」
近い。
距離が、顔が。
だけど、まるで私の偽者にでも会ったかのように言う彼を今振り払うのは躊躇われた。
「今はしばらくこのままで。話をしてもいいかな?」
僅かに身じろぐとウィルは静かに懇願した。
ひとまず落ち着こう。
深く息をすると森林にいるような緑の香りがする。
前を向いたまま頷くとウィルは語り始めた。
「これは遠い昔の話なんだけど、この国で権力争いが起こったんだ。当時、後宮に多くの側妃を抱えていた国王にはたくさんの王子・王女がいた。その子供たちの間、側妃、彼女らの実家で争いが起きたんだ。『次の王位は誰のものだ?』ってね。王位の継承問題に始まった争いは国の高官同士の派閥争い、高位貴族のお家騒動にまで波及した。国中が荒れたらしい」
現代日本でいうと、政治家同士の抗争が一番近いのだろうか?
どちらにしてもあまり馴染みのあるものではないので、想像がしにくい。
だけど、そこかしこで毎日争い事が起こっていたとしたら?
それはとても悲しい事だと思う。
「血で血を洗う醜い争い。それに怒った女神が人間に罰を与えた。王族に呪いをかけたんだ。生涯一人の人間しか愛せないように」
胸を貫かれたような気がした。
「それは、今も続いているの?」
「うん、呪いは子々孫々に至るまで。王族に習うようにして一夫多妻制は廃止された。それで全ての争いがなくなった訳ではないけれど、随分と平和になったよ」
争いが減った。
その側面だけみれば、女神は正しかったのだろう。
だけどもし、たった一人の愛する人に出会えない人がいたとしたら?
それはひどく残酷だ。
頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
彼はもう愛する人を見つけたのだろうか?
「うん。私たちはまだ恋をした事がなかった。愛する人を得て幸せそうなカップルを見るたびに、それはどんな気持ちなんだろうと思っていたよ」
「ウィルも?」
「ハワードは私の従兄弟だよ」
驚きに声を裏返せば、ウィルはクスクスと小さく笑い声を立てながら教えてくれた。
ハワードの従兄弟。
王族の血を引くもの。
という事は彼も呪われている。
生涯、一人の女性しか愛せない。
「私は神職について継承権を放棄している身だけれど、ハワードは直系の王族だからね。その血を途絶えさせる訳にはいかない。だから国内外の年頃の女性という女性からハワードの運命の人を探した。だけど、結局見つからなかったんだ」
「でも、さっき『恋をした事がなかった』って……」
過去形だった。
つまり今は……。
「ハワードは愛だの恋だのなんて自分には必要ないものだと普段から豪語して、馬鹿にしていたけれどね。私が王命で喚び出したんだ。リサ、君をね」
急に核心を貫かれて、呼吸が止まった。
それまで、知っている人の事とは言え、神様だなんてどこか絵空事のような気がして、他人事みたいに聞いていたのだ。
まさか、そこで自分の名前が挙げられるだなんて思ってもみなかった。
「迷いもあったけれど、それでハワードが幸せになれるならと私は喜んでやったよ。そしてハワードは陛下の望み通り君を求めた」
「あれはでも嫌がらせとしか……」
「古い習慣でね、相手の女性を壁に押しつけて真正面から見つめるのが、この国の正式な求婚作法なんだ。ハワードはああ見えてけっこう古風なところがあるから」
最初の一回はただ偶然、私がハワードと壁の間に現れてしまっただけ。
でもそれ以降は紛れもなくハワード自身が意図してやっている事だと言う。
壁ドンが正式なプロポーズって、異文化恐ろし過ぎ!
虫取り少年はハワードだけじゃなかったのね。
「確か、『貴女を私の虜にしたい』という意味から転じて、腕の中に囲い込むようになったんだ」
意味が解らない。
いや、解りたくなかった。
わざわざ説明してくれたウィルには申し訳ないけれど、そんな解説は聞きたくない。
「だけど一つ、誤算があったんだ。ハワードの運命の人を召喚したら、まさか僕まで君を好きになるだなんて思ってもみなかったな」
ぴくりと肩が揺れる。
左肩にもたれ掛かるウィルの腕を右手でそっと押すと、彼は私に預けていた身体を起こした。
急に寂しくなった左側に首を向ければ、参ったなと言いながら困ったように笑うウィルの姿が目に入る。
「勘違いって事は……」
「そうであってくれたら、僕もこんなに悩まずに済んだのだけどね」
ウィルはゆっくりと頭を振る。
いつの間にか彼は『私』から『僕』に変わっていた。
「一目惚れだった。多分ハワードもじゃないかな? だけど、リサを知るたびに、お茶を淹れる君の所作の美しさに目を奪われた。思いがだんだんと強くなっていったんだ。どうしても、いつものようにハワードに譲る気にはなれなかった」
淡々と語る声は凪いでいるようでその実、複雑な感情をはらんでいた。
私に聞かせるというより、彼は自分自身に語り掛けているようだ。
「隠そうとしたけれど、ハワードにはすぐにバレてしまったよ。自分に遠慮するなと言われてしまったんだ。だから僕はもう隠さない。僕はリサ、君が好きだ」
氷のような瞳が私を射抜く。
いつもより低く、重く響くその声は響いた。
学校でも色恋の話は日常茶飯事だった。
毎日のようにカップルが成立しては、破局する。
くっついては離れて。
当人同士には深い事情があるのかもしれないけれど、傍目にはそれらは気軽に繰り返されているように見える。
だけどハワードやウィルにとっては違う。
それは刹那的なものじゃない。
一生だ。
「昨日からずっと僕はここに引き籠もって考えていたんだ。君に会って初めて実感した。恋とは複雑だね。僕は君が好きだから、君の願いは全て叶えてあげたい。だけど、帰りたいと言う君の姿を見て、この胸を貫くものは何だろう? 一人の女性として大切にしたいと思うのに、帰したくないだなんて、まるで自分の所有物のように思う傲慢なこの心は何なんだろうってね」
百戦錬磨のように振る舞うウィル。
だけど彼は初めてだと言う。
優しい顔の下で彼も悩んでいたのだ。
「安心して。すぐに答えをもらおうだなんて今は思っていないから」
私も相当に酷い顔をしていたらしい。
気遣うようにウィルが手を伸ばす。
そっと包み込むように触れた手が、熱した頬に心地良かった。
何かが支えていた胸がふっと楽になった。
「待つよ、他ならぬリサだから。僕はハワードと違ってせっかちじゃないからね。その代わりっていう訳じゃないけれど、リサの淹れた紅茶が飲みたいな」
「ふふっ、冷めちゃったから新しいのを淹れるね」
どこか吹っ切れたように冗談めかして言うウィルに、噴き出しながら私はティーポットを手に取った。