第四話 おでこトン
「ちょっと、放して! 放してったら!」
「よっと……」
地に足が着いていない状態に不安を覚えてじたばたと暴れても解放してくれないので、踵で蹴りを入れてやろうとしたちょうどそのタイミングでハワードは私を降ろした。
「お前、相変わらず足癖悪いな」
「ハワードこそ随分と手が早いじゃないの」
狙ってやったらしい殿下が憎まれ口をたたくので、私もそれに習って謗り言で返す。
急な展開に涙はすっかり止まっていた。
「今回はお前の為だろうが」
そう言ってハワードは辺りを示した。
それに従うわけではないけれど、つられるようにキョロキョロと見回すと色とりどりの花々が咲き乱れていた。
名前も知らないそれらの中に、所々よく見知った花が紛れ込んでいる。
どうやら城の外れにある庭園まで運ばれたらしい。
「落ち着いたか?」
その問いかけには応えない。
こんな天敵で宿敵なハワードに慰められるなんて不覚だ。
黙ったままの私を見て彼は肩を竦めた。
「じゃあ勝手に言うぞ? まず、ウィルのさっきの話だが、あれは別に意地悪で言っている訳じゃない。それは判るな?」
確認の言葉に無言で頷く。
ウィルは優しい。
常にこちらを気遣う言動、穏やかな笑顔。
優しいからこそ、ウィルは私にああ言ったのだ。
「あいつは優しい、俺と違ってな。欲しいものが俺と被った時は、あいつはいつも俺に譲ってくれた」
ウィルらしいなと思う。
それは臣下としての礼か、或いはハワードへの信頼からか。
どんな思いで、手に入れたかったものを諦めたのだろうか?
「だから今回も身を退いてくれと言ったんだ。お前を諦めてくれと。それにあいつはなんて答えたと思う?」
ハワードはそこで言葉を切って植え込みに近付いた。
桜の花に似た色合いの薄紅の花を一輪摘んで、高い鼻梁の前に翳す。
高い位置から降り注ぐ太陽の光を浴びるその横顔は絵画的に見えた。
考える時間をくれたのだろうか?
ウィルは何と言ったのだろう?
それは予感というものなのだろうか。
ささやかな時間の中で、胸の奥のざわめきを覚えていた。
「嫌だと言ったんだよ、あのウィルが」
「……っ」
予感が現実に変わる。
何となくだけれど、ハワードがそう告げる事は分かっていた。
いや、心のどこかで私はそれを望んですらいたのかもしれない。
だというのに、私はただ息を呑む事しか出来なかった。
「俺は欲しいものは欲しいとはっきり言うのが正しいと思っている。だからこんな事は初めてで少なからず戸惑ってはいても、それ自体は良い傾向だと思っている」
何で、どうしてと理由を問いたいのに、それらが一つも言葉にならない。
それでもそんな私の表情を読み取ったのか、ハワードは続けた。
「それだけ今回の事が特別という事だろうな。あいつはお前が考えているよりずっと柵の多い人間だ。アクロイド王家の臣下として、聖職者として、俺の幼馴染みとして。色んな立場から色んな制約に左右される。一方では正しくとも、他方ではそれは過ちだ。あいつは無限に生み出されるその矛盾にずっと苦しんでいる」
ぼんやりとテーブルクロスの染みを見つめるウィルの姿を思い出す。
いつもあんなふうに一人で堪えていたの?
「なんで支えてあげないの? 貴方、幼馴染みなんでしょう?」
「俺は王族だ。支える側で無く、支えられる側の人間なんだよ。それにあいつ自身がそれを望んでいない。だかららそれは俺の役目じゃない」
一見、冷たい人間のようにも映る。
だけどハワードは確かにウィルの気持ちを深く理解し、汲んでいた。
ウィルにはウィルのプライドがある。
誇りを粉々に打ち砕いてしまっては、それは心を守ったとは言えない。
「俺は詳しくは知らないが、あいつは神話の中に出てくる異界の女とやらにずっと憧れていたらしい」
「異界の、女?」
再び胸がざわめいて、ゆっくりと噛みしめるようにその単語を呟く。
すると、ハワードはまっすぐ右手を私の方へと伸ばした。
「そう、お前の事だよ」
花がそよぐ風に煽られて揺られている。
まさかという考えと、そうかもしれないという淡い期待が互いを打ち消しあう。
「どうしてそんな……」
「俺たちは、お前しか女として見れないんだ」
私しか女として見れないとはどういう意味なのか?
ここに、この世界に呼ばれた理由と何か関係があるのだろうか?
「まあ、詳しい事はウィルに聞け」
「そんな!」
意味深な言葉を重ねておいて、こんな中途半端なところでお預けだなんてあんまりだと思った。
それにあんな退室の仕方をしたのだ。
ウィルと会うのが気まずい。
「どんな顔をして会えばいいのか判らない」
「どんな顔しようと対して変わらないだろ、その顔じゃあ」
いつまでもぐじぐじと悩む私の額をハワードは指先でトンと弾いた。
「自分がちょっと整った顔をしているからって、調子に乗り過ぎじゃない? 何様のつもりよ?」
「王子様だ」
ふんぞり返って宣言するハワードが馬鹿みたいにお気楽に見える。
この人は心配事なんて無いんじゃなかろうか?
上手い事を言ったというその表情を見ていると、自分が悩んでいるのが馬鹿らしくなった。
「まあ、冗談はさておき、ウィルならお前が行けばどんな顔をしていても喜ぶと思うぞ?」
「だといいけど」
おどけたように肩を竦めて返す。
ここに来てからずっと、ハワードの事を嫌な奴だと思っていた。
それだけ第一印象が最悪だったのだ。
だけど、今日は他ならぬ彼に助けられてしまった。
最初はその事に抵抗があったけれど、こうして話している今は不思議とそれが嫌じゃない。
こんな楽天的な性格になれれば、或いは幸せになれるだろうか?
まだ答えの見いだせない命題がぼんやりと浮かぶ。
「これ、せっかくだからやるよ」
そう言ってハワードは私に花を差し出してきた。
そっと手を伸ばしてそれを受け取る。
「ありがとう」
自分でも驚くほど素直にお礼を言うことが出来た。
ハワードはきっと花のお礼だと思っているだろうけどね。
「そういえばずっと気になってたんだけど……」
「なんだ?」
茎を摘んで手元で花をくるくると回しながら、思い出したように尋ねると、ハワードは何だか嬉しそうに聞き返してきた。
意外と邪険に扱われるのが堪えていたのかもしれない。
「ハワードってマゾなの?」
「は? なんで急にそうなる!?」
そう、ずっと気になっていたのだ。
本人は急だなんて言うけれど、私にしてみればそれは唐突でも何でもなかった。
「いや、冷たくしても追い駆けてくるからさ」
蹴られて、あからさまに避けられて、時には無視されて。
普通は怒るか諦めるかするところだろうと思う。
私なら絶対怒る。
いや、ハワードも最初は怒り狂って追い駆けてきていたんだけど。
逃げ回っていたらいつの間にか許されていた。
意外と心が広い?
いや、でもハワードって絶対短気だよね。
「おまっ、俺がどんな気持ちで……」
「他人の気持ちなんて解るわけないでしょ、神様じゃないんだから」
目を見開いたかと思うと、肩を落としてしょぼくれたりする。
そんなハワードは見ていて楽しかった。
俺様だと思っていたけれど案外、子犬みたいな性格をしているのかもしれない。
優しいウィルと強引なハワード。
対照的な二人が仲良しな理由が少しだけ分かった気がした。
「俺からもひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「向こうに帰れる方法が判ったらお前は帰るのか?」
「帰るよ」
「じゃあ頑張って口説かないとな」
即答する私を帰す気は無いらしい。
彼の辞書に諦めるという文字も無いようだ。
ふざけているように見えてピカディリ・ブラウンの瞳には真摯な光が灯っていた。