第一話 壁ドン
「リサは本当に神秘的な容姿をしているね。特にこの瞳なんて吸い込まれそうだ」
いったい何故こんな状況に陥っているのか?
私、小桜理彩は背面に感じる石壁の非情な冷たさに、絶望という二文字を思い浮かべながら深いため息をついた。
事の始まりはそう、一週間前まで遡る。
四月下旬。
七限の日本史という、史上最強の睡魔の導き手に危うくこの身を受け渡しそうになった私は、授業終了を告げるチャイムの音でハッと意識を覚醒させた。
授業が終われば健全な女子高生がやる事といえば、部活動をおいて他に無い。
茶道部に属する私は部室へと急いでいた。
私は朝から放課後になるのをずっと楽しみにしていた。
今日は先日正式入部してくれた一年生を交えての活動の初日だ。
最初だからまずは上級生のお点前を見てもらって、その後は文字通りお茶会にしよう。
まずは部の雰囲気に慣れてもらう事が先決だ。
顧問の梅田先生を含めてみんな気安い感じだから、きっとすぐに打ち解けられる筈。
新入生が名前を覚えられなくなる程、部員数は多くないのでその点は安心だ。
それから明日は割り稽古に入る。
まずは一番基本の帛紗の扱いに慣れてもらおう。
帛紗の折り目の乱れは心の乱れだ。
これでも部長なんだから、私がしっかりしないと。
とは言っても、一年生を合わせても六人しか部員はいないんだけど。
「コラッ、小桜! 廊下を走ってはいかんぞ!」
「先生、これは早歩きですよ。じゃっ!」
渡り廊下で口煩いと有名な生徒指導係の体育教師に捕まりそうになるも、長い黒髪を風に靡かせ、軽やかなステップで回避する。
我ながら上手い言い訳だ。
そうして私は部室に辿り着いた。
「失礼します……って、あれ? まだ誰も来てないのか」
どうやら気持ちが逸る余り、早く来過ぎてしまったらしい。
授業終了と同時に教室を飛び出したものね。
せっかく時間が出来たのだから、たまには自分の稽古をしよう。
今日は盆略手前でいいかな。
必要な道具をお盆に飾り付け、運び出す。
茶室の入り口手前、茶道口に膝を付き、ゆっくりと一礼した時だった。
「ちーっす」
背後から聞こえたのは男の子の声だった。
畳の目と向き合ったまま、私は頭に疑問符を浮かべる。
うちの部に男子生徒はいないのだ。
顔を上げ、ゆっくりと後ろを振り返ると明るい髪の色をしたチャラい男子生徒の姿が目に入った。
まず最初に思ったのは、『誰だこいつ?』だった。
長めの襟足から覗く男子生徒の耳にはピアスが光っている。
よく見るとYシャツの胸元にも金属のプレート状のペンダントトップが輝いていた。
「あ、邪魔してごめんね? どうぞ、続けて続けて」
その男子生徒は随分と気安い口の聞き方をする人だった。
失礼な事に彼は、入り口を塞いでいる形になっていた私の身体をひょいと跨いで、茶室にズカズカと入り込んでくる。
「あのっ、困ります! ここへは何しに?」
「ああ、ごめんごめん。そうだな……見学ってところでいいんじゃない?」
勝手知ったる我が家のようにどっかりと腰を下ろし、胡座を掻く男子生徒は実に茶室に不釣り合いな風貌をしていた。
これ以上の横暴は許すまじと、早々に摘まみ出してやろうと近付いていくも、彼はのらりくらりとこちらの言葉を躱すのでまるで手応えが無い。
新入生の仮入部期間なら、先週末に終わった筈。
今の時期にいったい何の用だろうか?
「不審者だ、不審者がいる」
「ひどっ!」
「じゃあ、変質者」
「なお酷いだろ、それ」
思わず心の声が溢れてしまったのは、仕方の無い事だ。
私は悪くない。
だけど、傷付いた顔をされてしまっては、多少の罪悪感も生じようというものだ。
建て付けに置いていたお盆を一旦茶室の外に出し、私は立ち上がった。
流れを絶ち切られてしまったのだから、稽古の方は今更だ。
「本当にひでぇな。いきなり不審者呼ばわりするか、普通?」
しずしずと摺り足気味に畳の上を歩いて、苦情を言ってくる彼に近付く。
部外者という事で茶道部部長の権限を行使して摘まみ出そうかとも考えたけれど、一応見学という名目を口にしている以上、取りつく島も無く邪険に追い払うのは不適当に思えた。
それに彼はうちの学校の制服を着ている、イコールうちの生徒なのは多分間違いない。
灰色のブレザータイプのうちの高校の制服は、胸元に校章が入っているから他校との判別は容易だった。
とりあえず訳を聞こうじゃないか。
それでその後、彼をどうするか決めよう。
どうして先生を呼ばなかったのか?
いや、先生でなくとも他の部員が来るまでどうして待たなかったのか?
この時の己の判断を私はすぐに後悔する事になる。
「一応うちの部は見学する時に届けが必要なんだけど……」
「引っ掛かったね?」
見学するならするで届け出が必要だと親切に説明してあげようとした私の声を、彼の不穏な発言が遮った。
胡座を掻いていたはずの彼の脚が、私の足元を払う。
当然の事ながら、彼のそんな動きを予期していなかった私は見事にバランスを崩した。
それだけなら彼は子供じみた悪戯をする、ちょっと足癖が悪いだけの男子生徒だろう。
だけど彼の攻勢はここで止まなかった。
立ち上がり様の反動を利用して、よろめく私の身体をさらに後方へと突き飛ばしたのだ。
ドンッと背中が壁にぶつかったのが判った。
少し痛いけれど、人様の前で不様に引っくりこけずに済んだ事を思えばこれで良かったのかもしれない、なんて考えたのも束の間の事だった。
「俺、一応アンタと同じクラスなんだけどなぁ~、小桜理彩チャン?」
顔の横を何かが通過したのを、風圧に舞う髪で知覚する。
続いて急速に接近してきた肌色を視認した。
頭の横にあるのはつい先程見学に来たと言った彼の腕、正面にある肌色は彼の顔だ。
すっきりとした鼻筋に、涼しげな目元、男性らしく急角度な曲線を描く眉。
間近に見ると彼の顔が整っている事が判る。
「どう? 学年一のモテ男に壁ドンされた気分は?」
薄い唇にはこれまた薄い、軽薄な笑いが浮かべられていた。
ギュッと握った拳が震える。
「最悪!」
自分より高い位置にある自称・モテ男の顔を睨み付けながら吐き捨てるように言った。
顔がちょっと整っているだとか、背が高いだとかそんなのはどうだっていい。
いきなり女の子の足を引っ掛けておいて、壁ドンがどうだとかその所業が信じられない。
学年一のモテ男だか何だか知らないけれど、こんな状況でときめいたとでも言うと思ったのだろうか?
有り得ない、本当に有り得ない。
「そっか、見た目が古風で気になるなって思ってたんだけど、理彩チャンは考え方も古風な子なんだね?」
「名前、勝手に呼ばないで」
ぞわりと肌が粟立つ。
不愉快だ。
不快極まりない、目の前のナル男が。
それと同時に迂闊な自分にも腹が立った。
「大和撫子っていうの? そんな感じの見た目で、ツンデレだと男としては燃えるよね」
そう言ってナル男は私に手を伸ばしてきた。
こんな顔だけ男が女子に人気だなんて理解出来ないけれど、他人の人気なんてどうでも良かった。
他の女の子にモテようが何しようが、私がコイツを好きじゃなければモテてないのと同じ。
壁ドンなどと言われても、喝上げする不良と変わらない。
もともとイケメンなんて、取り巻きのおこないを含めてトラブルメーカーでしかないので、興味も無ければ近寄りたくもなかった。
意図的に視野から閉め出していたと言っていい。
顔だけはいいみたいだから、きっとこの男もその中に含まれていたのだろう。
私の興味・関心の外に置かれていた彼はこれまで、無関心という感情を私から享受していた。
だけどそれがたった今変わった。
今、そしてこれから彼に向けられる私の感情は万年雪のような嫌悪だ。
お茶を冒涜する奴、そして女の敵は赦さない。
「私はツンデレでもツンドラでもない!」
「ぐっ……」
叫ぶと同時に重心を後方へと倒し、脚を前方へ投げ出してまずは勘違い男のお腹へ一発。
一旦脚を下ろし、十分な距離が確保出来たところで再度脚を繰り出し、無作法者の側頭部へと放った。
前蹴りからの上段廻し蹴りである。
先の前蹴りと二撃目の軌道を勘違いした彼は無意味に腹部を防御したまま、横へ吹き飛んだ。
「茶道部だからってナメるんじゃないわよ」
視界がスッキリと晴れた事に気を良くして、決め台詞を吐いた瞬間だった。
急に足元の畳が発光して景色が白む。
余りの眩しさに目を瞑ると、すぐに続いて耳鳴りがし始めた。
「――陣、異常な……を…………ます!」
耳鳴りに交じって誰かの声が聞こえる気がする。
船上でもないのに、波のような揺れを感じる。
時間にして数十秒。
赤、青、黄と騒いでいた自己主張の激しい光が落ち着いたのを瞼越しに感じ、そろりと目を開けると私は絶望した。
そこには先程滅した筈の、ナル男と同じ顔があった。