表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

二章 鳥(人間のことしか)頭(にない)


第二章 鳥(人間のことしか)にない

「ようこそ、政成大学航空部、スカイアライアンスへ」

 翌日の早朝、俺を迎え入れるように、美空蒼子が歓迎した。

 昨日も来た部室の中、所狭しと置かれている純白のパーツ類と、申し訳程度に置かれた机とパイプ椅子。唯一の窓からしか風は入ってこず、夏になったら暑いだろうな。と思う。

 昭和の貧乏作家の部屋を彷彿とさせるような照明が天井からぶら下がっている。そんな倉庫の中に、俺を含めて五人の人間が詰め込まれていた。

「ようやく、パイロットが見つかったよ。自己紹介をしてもらおう」

「あ、えと、附属高校の二年三組の雨宮秋人です。一応パイロット、らしいです。よろしくお願いします」

 美空にせかされるようにして、第一印象が大事だと思いながら、最終的には要領を得ない自己紹介をしてしまった。

 自分の自己紹介を終えて、よくわからない愛想笑いを浮かべていると、俺以外では唯一の男性だと思しき、小太りの男性が口を開いた。


「一応この航空部の部長の旅谷時掛、政成大学の四回だ。よろしくな」

 そういって彼は、微笑んだ。俺も合わせるようにして会釈をした。


「あたしは本田枕子、三回生よ。一応メカニックしてる。よろしくね」

 続いて、その隣に座っていた、派手な恰好のボーイッシュな女の人が続いて、口を開いた。どうやら悪い人では無いらしい。


「は、初めまして、二回生の蓮池瑠乃緒…… です。よろしくお願いします」

 最後に一人残った、小柄の女の人が、どこか緊張した感のある、自己紹介をしてくれた。人見知りなのか、容姿と相まって、言われないと同年代か、それよりも幼く見える。


「と、以上がこの素晴らしきスカイアライアンスのメンバーだよ?」

 美空が、最後を引き取って、

「その『スカイアライアンス』って一体何なんですか」

「政成大学航空部。では面白みが無いだろう? 一応、決めたときには部長もまんざらそうでなかったのだけれど?」

 そういって、美空は視線を旅谷さんに向けた。

「いや、うん、そういえばそうだったね。うん」

 意気揚々と決めた名前が、後々自分にとって思い出したくない過去に変わるのは、そうそう珍しい話でもない。とりあえず俺はそれをそっとしておくことにした。もっとも、これから先、延々とその名前で自らの部活を呼称されるというオプション付きになってしまった旅谷部長の心中は察するところだが。


「この航空部って美空以外は全員大学生なんですか?」

「うーん、そもそも一応ここって大学の部活なんだよね。だからどっちかというと、ここに美空さんがいるほうがイレギュラーなんだよね」

 天才故の特権というやつなのだろう。しかし、この天才はもっぱらその才能を鳥人類のためにしか使わなさそうだが。

「ふふ、鳥人類に挑戦するためだけに、この学校まできたようなものだからね。それができなければ意味などないよ」

「勝手に人の思考に茶々を入れるな」

 おちおちと考え事も出来ないでは無いか。


「これから賑やかなことになりそうだなぁ」

 旅谷部長がそんな風に呟いた。美空一人で十分賑やかだとは思うが、それに加えて、これだけの人数がそろえば、賑やかどころか、むしろ五月蠅いレベルだろう。


「最初は『マジで鳥人類にでんのかよ』とか思ってたんだけどさ、いけるかもしんないわね」

 ざっと、部室の面々を眺めた本田さんが、納得したように言った。

「行くんだよ。大丈夫だ、問題ない」

「やっぱ、あんたのそういう所、凄いと思うわ」

 なにやら、感心しているのか、呆れているのか、傍目に見ているとよくわからないが、美空のその自信だけは凄いと言うことが、俺にもよくわかった。


 ――


「あのー……」

「ん?」

 がやがやと会話している最中、あまり会話に参加していなかった蓮池さんが、顔を覗かせた。

「あの、ボク達は大学生なんで、時間割がばらばらなんですけど…… 高校生ってそろそろ授業、始まるんじゃないですか?」

「あー……」

 ここは、大学の敷地内、しかも端の方にある航空部部室。ここから附属高校の俺の教室まで帰るとなると、必然的に、かなりの時間がかかることになる。

 そんなことを思っている間に、一限目の、予鈴が、鳴った。


「すみませんがまた後で!」

 後ろにそう告げつつ、目の前にあった自分の鞄をひったくるように持ち、前傾姿勢になる。

 そして、そのままの姿勢から上半身を持ち上げ、右足を一歩踏み出す。踏み切った後、左足を前に引っ張り出す。上半身が押し出されるように前に動くのを感じた。

 だけれど、悠長にその感覚を感じている暇など無く、そんな暇があるのなら、足を動かしてより早く走る事が、この状況における正答だった。

 そして、学校の敷地を横断するように全力疾走を果たし、なんとか校舎の入り口までたどり着いた俺の前に、まるで玄関前を守る守衛のように、美空蒼子が立っていた。


「ご苦労様」

「いや、『ご苦労様』じゃねえ。教室に行きたいからそこを通してくれ」

「残念だけれど、それは許可できないよ?」

 俺の美空への言葉は、一蹴されてしまった。別に勉強自体に興味は無いけれども、だからこそ、せめて出席は稼いでおきたいのだが……

「おいおい、ここで茶番をしてる暇はねえんだよ」

「いや、伝え忘れていたことが一つあってね」

「後じゃダメなのか」

「流石にね」

 焦れったい。と、言うよりも、意図的に美空が焦らしている気がする。そんな事を思いだすと、だんだんと美空の手のひらの上で踊らされているんじゃないか、という気になってきてしまう。

「だったら早く言えよ」

「君は教室に行かなくても良いよ」

「いや、授業だろ」

 何を言い出すのかと思ったら、全くこの天才ときたら、俺の生活をどこまでかき回していけば気が済むというのだ。しかも、この状況下で俺が授業に出なければ、鳥人類だって危ないだろうに。

「だから授業に出なくても良いと言っているんだよ?」

「どういうことだよ」

 だんだんと、心臓のビートも落ち着いてきて、肺の空気を絞り出すようにしていた会話が幾分か冷静に出来るようになってきた。

「なに、職員室とちょっとした取引をしてね。このまま君が悠長に学校の授業を受けているだけで、赤点を回避できるとは思えなくてね、だから……」

「だから?」

「君は体育以外の授業は出なくて良いよ。その代わり、僕が君に徹底的に勉強を教えてあげよう。そういうことになったよ? 赤点を回避してくれないと鳥人類に関わるしね」

「おい」

「ん、どうしたんだい?」

 心臓も呼吸も、ついでに思考さえ落ち着いてきたというのに、顔は真っ赤になりそうだった。なんでかって? そんなもん、コイツに怒っているからに決まっているだろう?

「そういう大事な話は最初にしやがれ!」

「する前に君が走って行ってしまったからね。自転車で後ろを追いかけていたのだけど、気付かなかったのかい?」

「……」

 美空は俺の怒りなんてどこ吹く風のしれっとした顔で、そう言った。

「だけど、いいものが見られたよ。流石だね、その走り、鳥人類に俄然やる気が出てきたよ?」

 お前は元々俄然どころか、それしか考えてなかったでは無いか。とか、自転車で追いかけているなら途中で止めろ。などと、喉元まででかかったものの、これ以上、美空にツッコミ続けるのも疲れそうなので止めておくことにした。

「さて、我々の部室へと帰ろうか」

「ああ、今のところ俺にはそこしか居場所がなさそうだしな」

 出る必要のなくなった授業を受けに行こうと思うほど、俺は勤勉ではない。結局、航空部の部室にしか、行き場所は無いようだった。

 無駄な全力疾走を演じた道を、美空が自転車を押し、俺がその横を歩く。二人乗りをしてもよかったのだが(よい子はしてはいけない)小恥ずかしいので、その提案は心の中にしまっておくことにしておいた。

「さっきの走りを見ている限り、足はまだ退化していないみたいだね」

「ああ、自分でもびっくりしたぜ。トレーニングもずっとサボってたってのにな」

 する必要の無いトレーニングなどをしようとは思わない。それでも、それなりの脚力を維持できていることに自分でも驚いた。昔取った杵柄と言う奴だろうか。

「ふふ、これよりもっと進化する脚力…… 期待できるね」

「おいおい、あんまり期待しないでくれよ」

 そんな軽口を叩きながら、俺達は部室への道を歩く。道すがら横を眺めてみると、入学式の頃には燦々と光を浴びていた、桜の花びらも大部分が散ってしまい、そろそろ葉桜になろうとしている。俺が一人何もしていない間に、季節は勝手に進んでいたらしい。

「どうしたんだい? 一人もの悲しそうな顔をして」

「いや、なんでもねえよ。軽く感傷に浸ってただけだ」

 正直、自分のガラでもないと思い、感傷に浸るのもこのあたりにしておくことにした。

「「あ、おかえりー」」

 部室に帰ると残るメンバー三人は、まだ部室に残っていた。

「さて、ちょっとこれから予定を話しておこうか」

 そう言って美空が全員に集合を掛ける、よく考えて見れば、部長の形無しである。

 中央のボロテーブルに向かってボロパイプ椅子に全員が腰掛ける。

「まず機体製作は前からの通り本田っちに」

「そう呼ぶな、ってんでしょ。アホ子」

 稀代の天才に対してアホ呼ばわりとは、勇気のある人である。むしろ無謀とも言えると思うが。そんなことはお構いなし、という風に涼しい顔で流していくのは流石の美空だ。

「るのーは機体搭載の電子器機の設計」

「あ、はい」

「部長は適当に両方のサポートに。あと事務仕事も任せて良いかな?」

「ん、わかったよ」

「僕は、あきとんのテスト対策するけど、遠慮無く声を掛けてくれて良いから」


「みんな、目指すのは、夏の終わり、鳥人類コンテスト選手権大会だよ!」


 そんな簡素な、口を挟む暇も無いような指示だけでミーティングは美空のかけ声で、各々分かれて作業に移った。本田さんは工作機械のある工学部の方へ行ったようだった。

「では、始めようか? あきとん」

「とりあえず、その呼び方は止めてくれ……」

「なにはともあれ、まずは数学から始めようか」

 何も気にしないといった風に、美空のペースで話は進んで行くようだった。

 俺の天敵、勉強である……


 結果から言うと、良い意味でも、悪い意味でも、天才的だった。

 美空の自信の通り、彼女の教え方は、嫌と言うほどに的確だった。将来、塾講師になること是非おすすめしたい。

 正直、三角関数がサーフィンでXとYのランデブービームだとか、国語はフィーリングで全て理解できるとか、そんな事を言い出すと訳がわからなかったけれど……。

 それにしても、密な勉強は頭を酷使するらしく、すぐに集中力が切れてしまい、初日にして心が折れそうだ。

 と、言うわけで昼休みを使った絶賛サボり中なのだが、大学の敷地内を高校の制服を着てうろついていると、目立ってしまうから、人の少なそうな学舎の屋上で昼食を取ることにした。

「あーきーとーんー?」

 春風が気持ちいいなぁ……

 購買のパンうめえなぁ……

「あーきーとーんー!」

 最後のんーの発音は難しいなぁ。

 うーむ、首が疲れて振り向けないなぁ。

 いや、ただの現実逃避中なのは解ってるけれども。

「さすがに無視されると傷つくのだけれど?」

「すみません、ちょっと現実逃避してるだけなんで、他意は無いですよ」

 意図せずとして敬語を使ってしまった。

「さて、午後からも勉強をはじめるからね。あきとん?」

「流石にその呼び名は止めてくれ」

「うー、かわいいのに」

「いや、それが嫌なんだよ」

「うむー、呼び方を変えるかなぁ」

「いや、普通に呼んでくれよ……」

「ふーむ、あきたん、あきとす、あっきー、うー」

 美空の頭には、普通に呼ぶと言う選択肢は存在していないらしい。

 そして、どれほど悩めど、俺にも、あの部室に帰るほか選択肢はなく、あの部室に帰らなければ未来は無いのだった。


「そういえば、美空はどうしてここに?」

「どうせなら、『みそらん』と呼んで欲しいなぁ。ほら『あきとん』と『みそらん』でかっこいいと思わない?」

「いや、その話は、今はものすごくどうでも良い」

「くふ、そうだね」

 そう微笑む横顔が、悪戯に失敗した子供のような笑みだった。


「空が、見たくてね。天気が良いから」

「そうか……」

 空を見上げる美空を横目で見て、そこにどんな思いが乗っているのかを俺は考えながら、残ったパンを口の中に放りこみ、立ち上がった。

「仕方ねえ、午後からも頑張りますか」

 大きく伸びをして、欠伸をひとつ。外の空気をたっぷりと吸い込んで午後からの試練に備えた。


 部室の扉を開けると、蓮池さんが机の上にノートパソコンを開いていた。

「あ…… おかりなさい」

「ただいまかえりました」

「ちょっと前に美空さんも出て行ったんですけど……」

「あ、美空なら会いましたよ、ほら」

 俺の影から、ひょっこりと美空が身を出した。

「たっだいまー。るのーの方はどう? 何とかなりそう?」

「あ、えっと、これ以上は枕子さんとも詳細を詰めないといけないんで、ちょっと厳しそうですけど、完成しているところまでのデバッグは終わりそうです。あ、あと部長は授業に行かれました」

 てきぱきと必要事項を美空に伝達していく。

「うん了解。僕は本田っちの所に行きたいんだけど、あきとんは自習できそうな分野はあるかい?」

「歴史とか地理は暗記主体だから何とかなるだろ」

 正直、これ以上考える科目はやりたくなかった。頭が回らない。

「本当は暗記じゃ勿体ないんだけどね。だけど、あきとんがそれで良いならいいっか……」

「まぁ、今は悠長なことは言っていられないだろうしな。また教えてくれ」

「わかったよ、じゃ僕は本田っちのところへ行ってくるね」

 そう言い残して美空は、勢いよく部室から飛び出していった。

 

 何もすることがなくなった。といつもなら表現するところであるが、しかし、俺には大事な勉強が残残されていた。

 蓮池さんの向かいに腰掛けて、教科書とノートを開く。蓮池さんがキーボードを叩く音がリズミカルに響き渡っている。

 二時間ほどが経ち、そろそろ小休止でもしようと顔を上げると、同じタイミングで作業を中断したらしい蓮池さんと目が合った。

「あ、えっと、コーヒー淹れるんですけど飲みますか?」

「あ、ありがとうございます。頂きます」

 ここは年下の俺が淹れるべきなのだろうと思ったが、始めて触るコーヒーメーカーで、なにかやらかしては余計に迷惑だと悟ったので、素直に頂くことにした。

『ふぅ……』

 蓮池さんからコーヒーと受け取って一口啜る。コーヒーの苦みと酸味が、口の中に広がる。プラシーボかも知れないけれど、頭の中がすっきりする気がした。

「コーヒー苦手でしたか?」

「いえ、少し考え事をしてただけですよ」

 流石にくだらない考え事の中身まで暴露することは自重した。

「ところで、蓮池さんは何をされているんですか?」

 机の上に広げられたノートパソコンと、資料の束に目をやりながら、俺は蓮池さんに尋ねた。

「えっと、ボクは機体の電子器機のソフトウェアを担当してるんです」

「と、いうと?」

 残念なことに、俺にはさっぱり理解出来なかった。鳥人類の機体って、アナログの塊みたいに思っていたから、こんな風にソフトウェア的な作業が必要なのだろうか?

「たとえば、高度とか速度、現在地を表示したり。風の影響を計算したり。あとは地上との交信用の機器を準備したり、ですかね……」

「結構なんでもやってるんですね」

「人がいないんでどうしてもやることは多くなるんですよ……」

 なるほど。確かにこの人数では、一つの作業に一人が掛かりきりでやっていても間に合わないのか。

「もしかして、俺も期待されてたりします?」

「もちろん。少なくともボクは期待してたりします」

 最初にあったときには、割と口数が少なめな人だな、と思っていたのだが、話し始めてみるとそうでも無いらしかった。


「蓮池さんは、どうしてこの航空部に?」

「美空さんにスカウトされたんですよ、去年の話ですね」

 去年、今二回生と言うことは、一回生の時の話か。俺も一年の時の話だ。

「いきなり目の前に現れて『鳥人類に出るから、私の手伝いをして欲しい』って言い出すんですよ。初対面でびっくりしましたよ」

 そう言う蓮池さんに、俺は苦笑を返した。それは、俺自身も身に覚えがあるような光景だったからだ。

「正直、夢とか、そういうことを言われても、いまいちピンとは来なかったですし。何回か断ったんですけどね」

 確かにいきなりそんなことを言われたら、断るのが賢明だろう。もっとも、美空がそれに屈するような人間でないのは、よく知っている。


「それでも、美空さんは、何故ボクを勧誘するのかを熱心に説明してくれたんですよ」

「ある意味、しつこいとも言えますけどね」

「あはは、確かに」

 そう言って、蓮池さんは困った風に、少し微笑んだ。


「でも、それを聞いているうちに、憧れたんです。自分に自信を持って、ただ前だけを見ている。そういう所に」

「確かに、眩しいぐらいに輝いてますね……」

 確かに、美空は後ろを振り返る暇も無いぐらいに、前しか見ていない。

 そんな美空のスタンスは、憧れを誘うものなのかもしれなかった。


「なにか、夢中になってやれば、その先になにか見えてくるのかな。ってそんな風に思ってしまったんです」

「見えると、良いですね」

 俺は、そんな風に声を掛けていた。

 残念なことに、俺には何も見えなかった。もしかしたら、見える前に止めてしまっているのかもしれなかったけれど。


「だから、結局、お手伝いさせてもらうことにしたんですよ。惚れた方の負け。って訳じゃないですけど、似てるかもしれません」 

 そう言って、蓮池さんは小さく笑った。

 俺が見えなかった物を、見て欲しいな。と素直に思った。

 俺の思いは、蓮池さんに届いただろうか。若干の沈黙が、部室の中を包み込んだ。


 ――


「たっだいまー」

 この少しの沈黙を待っていたかのように、美空と本田さんが帰ってきた。二人とも両手に抱えるようにしてダンボール箱を持っている。

「勉強は進んだかい。あきとん?」

 そう言いながら、美空は俺の教科書をのぞき込む。

「それなりに、やってたみたいだね。よしよし」

 もっと怒られるかと思ったが、そうでも無いらしい。

「おや、不思議そうな顔をしているね。安心していいよ、僕は今新しいパーツが出来たから上機嫌なんだよ」

 つまり、もうちょっと頑張って勉強しろ。ということなのだろうか。

「蒼子は下手に食い物や装飾品やるよりも、機体のパーツくれてやる方が喜ぶもんなあ」

「まったく、ホントに現金なやつですね……」

「それで助かったんだから文句言うな」

 本田さんの言うとおりである。

「にしても、随分とるのーと仲良くなったみたいだねえ。部員同士の仲が良いのは良いことだね」

 美空の発言を受けて、俺と蓮池さんが眼を見合わせる。さっきまでのやりとりを、話して聞かせるのも、小っ恥ずかしい。そう思った俺は、話を変えることにした。


「ところで、何を抱えてきたんですか?」

「ん、これかい? 機体に使う金属部品達だよ。流石に負担のかかる部分は金属でないと持たないからね」

「うちの大学って、工学部にちゃんとした工作機械が入ってるのよね。だから、学生のよしみで使わせてもらってんのよ」

 本田さんは、さっきまでその工作機械を使っていたらしい。比較的おしゃれな格好の上から作業着を着て、両手には軍手を装着している。美空も制服に軍手を装備して、まるで園芸部員のようだ。

「だんだんとパーツもそろってきたね」

 美空は、ダンボール箱の中から小さめのパーツを取りだして、照明にかざした。明かりが金属に反射して鈍色の光を放った。

「パーツだけじゃ、なんにもならないってのよ」

「ああ、そうだね。僕達は飛ばないとならないんだ。それだけが目標で目的なんだ」

 そういった美空の目は、ギラギラと輝いているように見えた。


「るのーは大丈夫そう?」

 取り出したパーツを箱の中に戻しながら、美空が話しかけた。

「あ、順調です。後で調整したいんですけど、打ち合わせ、いいですか?」

「あたしは大丈夫よー」

「僕も大丈夫だよ。むしろ、鳥人類の為の打ち合わせなら、大丈夫にしてみせるよ?」


 その後、ボロテーブルに向かい合って、三人による会議が始まった。俺はまだ参加しても仕方ないので、隅の方で勉強に講じることにした。


 その後もつつがなく、会議は進んでいたようで、時々がやがやとした話し声が聞こえてきた。

 もう、そろそろ日も傾いてこようというときに、三人会議はお開きになったらしく、蓮池さんがコーヒーを淹れるために立ち上がり、本田さんが部品を手に取り、そして美空が僕に話しかけた。

「いやいや、放置してすまないね、あきとん?」

「だから、その呼び方をすんなよ。まぁ、俺が会議に参加しても仕方ないしな」

 心の中で「そういうセリフは恋人にでもしようぜ」と思ったが、口には出さないでおいた。

「あきとんのほうはどうだい?」

「ま、悪くは無いな…… もっとも、美空を当てにしてたから美空次第って所もあるけど」

「うーん、僕ももうちょっと考えてみるねー」

「あと、一応トレーニングもしておいたほうが良いな」

「そうだね。よろしく頼んだよ?」

「ああ、わかった」


「みんな、だたいまー」

「おかえりなさい、おっさん」

 授業から帰ってきた旅谷部長に、いきなり辛辣な言葉を掛ける本田さんなのだった。

「おい、まだ二十代だぞ。おっさんってのは少なくとも三十代に入ってからだ」

「いやいや、中学生とかからみたら充分おっさんですから」

「うーん…… イメチェンでもするべきか?」

「今更だと思いますけどね……」

 この二人の掛け合いは見ていて面白いと思った。単に本田さんが旅谷さんをいじめているだけに見える事に目をつぶるとすれば、であるが。

 そんなやりとりを挟み、ちょっとした打ち合わせの後、今日はこれにて解散ということになった。

 日もとっぷり暮れ、まだ寒さの残る春風に吹かれながら、家路を歩く。

 大学の正門まで、全員で歩き。そこから、美空と共に歩き、駅前で別れた。

「じゃぁ、また明日。部室で」

「おう」

 そう言って美空は微笑み、俺は手を振った。


 美空と別れたあと、寮への道を自室へと歩く。最早通い慣れた道だ。

「うっし、ちょっと走ってみっか……」

 鞄を肩にかけ直し、軽く足踏みをする。

 傍から見れば、まるで、太陽に向かってなんとやら。の光景である。

 走り出すと、足に地面から軽い衝撃が返ってくる。

 俺は、そもそもランナーでは無いが、基礎練習などで、多少は走っていた。

 ノルマを決められ半ば強制的に走らされているときは、わからなかったが、こうして一人で、自分の意志で走ってみると、なかなか気持ちいいものだと気付いた。


「ぜーぜー……」


 途中から、だんだんと自分に大して意地が張ってきてしまい、結局寮まで走ってしまった。我ながら、ちょっとしたバカである。

 帰り着いて早々、制服から着替え、食堂に降りる。うちの寮は望めば朝食と夕食は用意されているシステムだ。もちろん家賃の中に食費が含まれているが、自炊する環境であるわけでもなく、外食にしてしまうよりはよっぽど安上がりで済むので、俺は愛用している。

「秋人、おつかれさまー」

「おぉ、俺をまともに呼んでくれるのはお前だけだ!」

 食卓に着くと、隣には豊田が座っていた。


「秋人、なんかあったの?」

「いや、俺の周りには俺のことをちゃんと呼んでくれる奴がいないんだ……」

「ところで、結局鳥人類はどうなったの?」

「ああ、それはだな……」

 豊田がそう聞くので、俺は、此処までのあらましをかいつまんで説明した。

 鳥人類を目指すパイロットになってしまったことや、勉強は美空が見てくれ、体育以外の授業は出席しなくても良いこと。果ては美空が俺のことを妙な渾名で呼び続けること。等々を粗方説明した。


「なんていうか、あきとんらしいね。最後でお人好しというか。なんというか」

「お前までその呼び方で呼ばないでくれ」

「ごめんごめん、冗談だよ」

「ついに、昴までもが俺の敵に回ったのかと思ったぜ」

 美空からのあの呼ばれ方は、俺の心に比較的重大なダメージを与えているらしい。

「しかし、あれだけ断るって言ってたのにね」

「最初にやれって言ったのは、お前だろうが」

「いや、でもここまで早く心変わりするとは思ってなくてさ」

「まあ、色々あったんだよ」

 美空との会話の一部始終を話して聞かせようかとも思ったが、どこまで人に話して良いのか解らなかったので、俺の心の中にとどめておくことにした。


「なにはともあれ、俺たちの勝負は、夏の終わり、鳥人類コンテストだそうな」

「ちゃんと写真は撮りに行くからね」

「おう」

 そんな会話を交わし、俺たちは自室へと戻った。


 ――


 翌日、朝っぱらから部室に顔を出すと、中にいたのは本田さんだけで、部室の掃除をしていた。


「やっほ、勉強は捗ってるかい? あきとん」

「本田さんだけなんですね。っていうか、止めて下さいよ、その呼び方は」

「あたしも蒼子に不本意な呼ばれ方してるしね。どっかで発散しないと。あと凄く綺麗にスルーしたけど勉強してないのね」

 そう言いながら、あはは。と大きく笑う姿は若干ワイルドさを含みつつ可愛いらしい。


 本田さんがちらり、と時計に目をやってから立ち上がった。

「……ねぇ、タバコ吸いにいくから、ちょっと話し相手になりなさい」

「は、はぁ……」

 それこそ勉強でもしようと思ったが、この際部員同士の親睦を深めておくことも大事だろう。きっとそうだと思うことにして、俺は本田さんに従うことにした。

「あと、制服だとアレだから、これでも羽織っておきなさいよー」

 そういって、本田さんは俺に、作業服を投げて寄越した。 

 二人して連れ立って喫煙所まで歩く。別に悪いことをしているわけでも無いのに若干の背徳感を覚えるのは何故だろうか。

「ねえ」

「なんですか」

「あんたも吸う?」

「心からご遠慮いたします」

 この人はいきなり何を言い出すんだろうか。一応こっちは未成年だと言うのに…… まぁ、最近のドタバタ具合から言えば、タバコのひとつでも吸いたい気分だ。もっとも、吸った事はないけども。

「ん。よろしい。体力も落ちるしね」

 そう言いつつ、タバコに火を付けて、一息吸い込み、はき出した後、本田さんが口を開いた。

「しっかし、この時期に蒼子がちゃんとパイロット候補連れてくとは思わなかったわ。あんたもよくこんな胡散臭い部活に入ったわね」

「それ、自分のことを胡散臭いって言ってるようなものですよ?」

「その通りよ。この人数で、経験があるわけでも無い素人集団が、いくら天才を抱えてるって言ったって、胡散臭い以外の何物でもないじゃない」

「そこまで開き直れたら幸せそうですね」

「いちいち茶化すな。で、本当の所はどうなのよ?」

 ちょっと苛ついた風に、本田さんが俺に詰め寄ってきた。タバコの匂いが少し濃くなった。

「別に、何かあった訳ではないですよ。ただちょっとした取引です」

「取引?」

「恥ずかしいことに、成績が赤点ぎりぎりでして。それを美空が何とかしてくれるというもので、まんまと……」

 本当の理由は、小っ恥ずかしくて言い出せなかった。言い出しても良いと、そう思ったときに改めて言えば良いだろう。

「だまされて来ちゃったわけだ」

「その通りです」

 別にだまされたわけでも無いけれど。

 と、いうか、美空はこの事を部員に伝えてなかったのだろうか。もっともこの人の性格なら、伝えたところで、自分にとって必要の無い情報はばっさり切り捨てそうではあるが。

「そういえば、蒼子もそんな事を言ってたような気がするわ。『完璧な物件では無いけど、パイロットが見つかりそうだよ』とか何とか言ってた記憶が片隅にある」

「あはは、そうですか」

 俺の予想は、あながち間違っていなかったらしい。

「ま、あたしも暇なときには、勉強教えてあげるから遠慮なく言いなさいよね」

「あ、ありがとうございます」

「鳥人類の為よ。ちなみに専門は理系。物理とかなら大丈夫かな。あたしもあんまり成績良いとは言えないけどさ」

「仲間ですね」

「赤点ぎりぎりのあんたと一緒にすんな!」

 怒られてしまった。想像にたやすい反応ではあったけど。


「俺も聞きますけど、本田さんはどうして航空部に?」

「なんだろうなー。蒼子を手伝ってやろうと思った、ってのが本当の所かしら」

 ちょっと昔のことを思い出すような、そんな感じで若干考えるような動作をした後に、本田さんはそう言った。

「実を言うとあたしはずっとバイク乗っててさ。時々サーキット行ったりしてる訳」

「そうなんですか」

 外見的にはちょっとスレた感じがしていたが、バイク乗りだったとは流石に気付かなかった。

「ま、それで、やっぱり周りから色々言われたりする訳よ。『女なのにそんなのに乗って』とかさ『野蛮な遊びして』みたいなね。家族はまだ分かってくれるんだけどさ……」

「ま、わからないではないですけどね」

 確かに、女性が乗るな、なんて俺は思わないけれど、女の人が乗っていたら珍しいな、と思ってしまう程度には、世間ではバイク=男の乗り物。みたいな認識が一般的なのだろう。


 そんな世間の認識を真っ向から否定する立場に、本田さんはいるのだった。


「そんなよく分からない理由で、認識を改めようともしない連中にあたしはむかつくって訳。別にあたしも生まれる性別とか選べるわけじゃ無いしね。ついでに、もしかしたら、バイクに乗りたいのにそんな人間達の目が怖くて乗れないなんて人が居たら、悲しいじゃない?」

 随分と男気に溢れている人だ。と俺は思った。自分のことだけに留まらずに、世間の女性ライダー予備軍のことまで考えているとは……

 自意識過剰とも言えるし、余計なお世話とも言えるし、立派な意識改革者だとも言えた。


「ま、それはあたしの考え方だけどさ。でも、だからこそ、どっかのアホが鳥人類に出るらしいって聞いたときに『手伝ってやろう』って思ったのよ。たぶん」

「それって、美空の事ですか」

「他に誰が居ると思ってるの?」

「ですよね……」

 そんな人間が、この世の中にたくさん居られても困る。

「それでさ、考えちゃったのよね。蒼子も色々言われたりしたのかな。とかさ」

「そうかもしれませんね」

 確かに、そんな風に考えることは想像に容易い。

「ま、それが本当かどうかはともかくとして、なんか、そんな風に生きてる蒼子を、応援したくなったっつーか。ま、そんな感じよ」

 どうやら、良い言葉が見つからない。と言った風に、本田さんは髪をわしゃわしゃとかき回して、適当に言葉を締めくくった。

「ニュアンスは分かりますよ。って、なんていうか、男前ですね」

「それって褒めてるの?」

「もちろんですよ」

 俺としては、割と良い感じの褒め言葉をチョイスしたつもりなのだが、本田さんとしては腑に落ちないらしい。


「蒼子にはさ、夢叶えて欲しいな。って、それだけよ」

「飛べると、良いですね」

「飛ぶのはあんただけどね」

 確かに、飛ぶのは俺だった。

 改めて目の前にあらわになったその事実に、まだ少し、実感が湧かなかった。


「でもま、良かったわよ」

「なにがですか?」

「こんなよく分からない部活に入ろうとした人間が、怪しい奴じゃ無くて」

「怪しいってなんなんですか、怪しいって」

 そもそも航空部に入って、何か利益でもあるというのだろうか。

「あれでも、一応天才だからね。もしかしたら、拉致られたりするかもしれないじゃない」

「あ、なるほど」

 そういえば、ああ見えても確かに天才なのだった。普通にやりとりしていると、むしろアホ子っぽい感じがしないでも無いけど。


「さて、っと」

 本田さんは、タバコを吸い終わったらしく、喫煙所から出て行こうとする。俺もその後ろについて歩いた。


「でもさ、ちょっと嫉妬するわね」

 本田さんが歩きながら、ぼそり、と呟いた。

「なんでですか?」

 残念なことに、俺には本田さんが美空に嫉妬する理由が分からなかった。

「だってさ、こんな風に前を見て突っ走れて、それを叶えるだけの、天から与えられた才能をちゃんと持っている。もし、あたしが天才だったら、どんな風に生きてやろうかなって、思う。叶わない話だけどさ」

「俺ならとりあえず、今すぐにテスト勉強を止めますね」

 どんな風に答えたら良いのか分からずに、俺はとりあえずそう言って、笑った。


 ――


「おかえり」

「おかえりー、本田っちー。あきとんー?」

『その呼び方をすんな!』

 二人の声が部室の中に木霊した。

「それでも、僕は。この呼び方を止めない!」

「「いや、止めろよ……」」

「仲良いなー。お前ら」

 俺たちが喫煙所から帰ると、美空と旅谷部長が来ていた。

 本田さんの掃除の影響なのか、部室の中は割と綺麗に見えた。相変わらずのボロテーブルとボロイスではあったが。

「まぁ、何はなくとも、部員同士の交流が深まったことは良いことだね。さて、あきとん、勉強といくよ?」

「へいへい」

「あたしは授業へ行ってくるわね」

 そう言い残して、本田さんは颯爽と大学のキャンパスへと消えていった。


「さて、まずは相変わらずの数学からいこうか」

「はーい」

 気分は個人指導の塾の生徒である。もっとも、そんなに甘えたことは言っていられないのだが。

「あきとん、まずこれをひっぱりだしてくれないかい?」

 そう言いつつ指さされた先には、大量の荷物の中に埋もれたエアロバイクが鎮座されていた。

「アレを発掘するのはいいけど、なにに使うんだ?」

「数学の勉強をしながら、エアロバイクを漕いで一石二鳥を目指そうじゃ無いか」

「なるほど」

 ある意味、切羽詰まっている俺たちにとっては、同時進行のひとつでもしないと時間が惜しいのだろう。


 なんとか荷物の山の中から発掘されたエアロバイクにまたがる。

「おお、一応ちゃんと動くな」

「ふふ、僕の買い物に無駄はなかったよ」

 お前の買い物か、と言う暇もなく俺はエアロバイクに跨がった。

「よし、勉強をはじめるよ、あきとん。その間に、旅谷部長はあきとんの身体測定よろしくっ!」

「あいよ」

 ホワイトボードの数学の問題を解きながら、エアロバイクを漕ぎ、その横からメジャーでもって身体測定される男子高校生が居るだろうか。居るのである。つまり俺のことだが。

 きっと、部外者がみればこの異様な光景に目を丸くすることだろう。

「ところでひとつ質問」

「ん、どうしたんだいあきとん?」

「どうして俺は身体測定されているんだ?」

「それはね……」

「それは……」

「僕が君の身体に興味津々からだよ!」

 ここは美空にツッコミを入れる所だろうか、それとも美空のボケに対してコケるところだろうか、それとも、ちょっとした貞操の危機を感じて今すぐ逃げ出すべきだっただろうか?

「というのは冗談でね。本当はコックピットの設計に必要なんだよ」

「コックピットの設計?」

「鳥人類の機体は徹底的に小型化、軽量化するべきなんだ。力学的に考えてね。だけれどその一方で可能か限りパイロットが操縦しやすいように設計することも求められる。だから、君の身体測定をしてぴったりなコックピットを作るんだよ?」

「なるほど」

 どうやら、単純な美空の趣味ではなかったらしい。


「おっし、大体計測終わったよ」

「よしよし、後でデータを僕に頂戴。本田っちと一緒に設計するから」

「了解」

 そして美空は、俺の目の前のホワイトボードに、なにやら数式を書き始めた。

「さて、あきとん。この方程式は解けるかな?」

 とんとん、と美空が指し示した部分を見て、俺は即答する。

「俺に解けると思っているのか?」

「残念だけれど否だよ」

「その通りさ」

 やりとりだけみれは非常に格好が良いのであるが、内容は割とアホらしい。ついでにシャコシャコという、エアロバイクを漕ぐ気の抜けるような音が部屋に響き渡っている。

「もっとも、これを自力で解けないようにならないと、テストは大問題だよ?」

「マジか……」

「マジだよ」

 一応、これでも授業にはちゃんと出席していたのだが、一体俺にとって授業とはなんだったのだろうか……

「もっとも、僕が教えるから大丈夫さ」


 その後も、数学の教えを請いながら、エアロバイクをシャコシャコ漕ぐという一見間抜けなアオコズブートキャンプは続き、一時解放されたのは昼前だった。


 ――


「解の公式…… XとYのスキージャンプ……」

「少年、大丈夫か?」

 美空は本田さんとの打ち合わせのために飛び出していき、部室には俺と旅谷部長が残った。

「そう声を掛けられるときは、大抵の場合大丈夫じゃないです」

「やっぱそうだよなぁ……」

「いや、なんかすみません」

 人間、肉体的に結構なピンチに陥っているときは、コミニュケーションに力が回らず、ついつい棘のある言い回しになってしまったりする。

「いや、かまわんよ。はい、これ。俺のおごり」

「あ、ありがとうございます」

 旅谷さんは、棘のある言い回しに動じずに、栄養ドリンクを俺に渡してくれた。できることならこんな風な温厚な精神力を手に入れたいものである。

「勉強は捗ってるか?」

「見ての通り、必死ですよ」

「はは、まぁ、美空のことだ最後にはなんとかしそうではあるな」

「俺もそれに期待して良いですかね」

「お前はちゃんと勉強しておけって」

「……」

 甘いことは言っていられないようだった。


「旅谷さんは、どうして鳥人類なんかに?」

 勉強の話題から離れたくて、旅谷さんにそんなことを尋ねてみた。

「俺は、蒼子が来る前から航空部に入っていたんだ。もっとも俺の代で新入部員は俺だけ。廃部寸前だったんだけどな」

「へぇ……」

「本当なら、廃部になってもおかしくは無かったんだけどな。きっと学校側も、この歴代のゴミが詰まった倉庫を片づけるのが、面倒くさかったんだろうと、勝手に思ってるさ」

 そう言いつつ、旅谷さんの話はまだ続きそうだ。


「俺は、三人兄弟の真ん中なんだけどな…… 兄も弟も優秀な奴らなんだ。兄貴は国立の医学部に行っちまったし、弟も同じ道を目指して、今名門の進学校に通っているよ」

「凄いですよね。そういうの」

 こんな状況でくすぶっている俺には、それしか言えなかった。

「それに対して俺は、こう言っちゃ他のみんなには悪いけどさ、正直それなりなこの大学が精一杯だった」

「それ、他で言ったら反感買いますよ。絶対」

 俺も正直、反感を覚えるところだった。旅谷部長の話を聞くために、心を落ち着けた。

「わかってるさ。だけどな、親にはいっつも兄貴や弟と比べられて『お前はダメな奴だ』って言われ続けててな。価値観の刷り込みっていうのか、俺自身もそう言われることに慣れきっててな、『あぁ、俺はダメな奴なんだ』って妙に納得してたんだよな」

「あー、何か劣等感を劣等感と感じないというか、それが当たり前なんだというか」

「そうなんだよな。それがちゃんと劣等感として認識できたのは、大学受験に真剣に取り組むようになってからだな。兄貴の通ってる学校なんて手が届かなくて、結局この大学に入ったんだ。浪人でもなんでもすれば、あるいは入れたかもしれないけど、俺にはそこまでして良い大学でやりたいこともなかったしな」

 そこまで一気に言い終わると、旅谷さんはボロテーブルから、コーヒーの注がれたマグカップを持ち上げて、一口啜った。

「で、なんとなく、やりたいことも見つからないまま、航空部に入ったんだよな。なんかかっこよさそう、とかそれぐらいの理由だったような気もする」

「へえ……」

「まぁ、そのときにはもう半分帰宅部状態だったんだけどな。まあ、そんな部活も嫌いじゃなかったよ。家も居づらかったし。で、ある日突然、一人の高校生がうちの部を尋ねてきて『鳥人類コンテストに出る』なんて言い出したんだ」

「美空のことですか」

 最早わかりきった答えを、俺は旅谷部長に提示した。

「おう。最初は酔狂な話だと思ったよ」

「そりゃまぁ、いきなり言われて肯定の返事をするのは、美空本人ぐらいのもんですよ。きっと」

「はは、そうかもな。で、話を聞いているうちに、これはどうやら本気だなと」

「美空に大まじめに語らせたら、妙な説得力があるんですよね」

「そうそう。で、どうせうちのうちの部活も暇だからって、協力してやることにしたんだ。もっともそのときには、比較的自由に動ける部員は俺だけだったけどな。そこから、本田とか蓮池が入ってきて、なんとか超少数精鋭で活躍中って訳だ」

「ちょっとした戦隊ものっぽいですね」

「似てるかもな。で本題はこんな昔話じゃ無かったな」

「そういえばそうでしたね」

 無駄な時間を使っている場合では無いような気もするが、時にはこういう話も良いだろう。

「最初はさ、暇だから手伝ってやろう。って、そんなもんだったんだよ」

 そういって、旅谷部長は一旦、言葉を句切った。

「でもさ、気がついたら、割と真剣になってやってたりしてたんだ。アホらしいな、とか思いながらだったけどさ」

「理性よりも先に、心が反応してる。って感じですか」

「確かに、そうかもな」

 人間が真剣になる時なんて、割とそんな物だと思う。理性で理解していても、心を御しきれない。

「俺の考え方が変わりだしたのは、それからだ。それまでは、やっぱり自分でも思ってたんだよ。俺は出来損ないの価値の無い人間だ、ってさ」

「そんなことって……」

 ないと思いますけど、と言おうとした俺の発言が旅谷部長の声によって遮られる。

「ないと思うよ。多分な。でもな、思っちまうんだよ、小さい頃からそう言われてきて、やっぱり自分でもそんな風に価値観が作られていってしまっているんだ」

 そう言われて、始めて「そうなのかもしれない」と思った。確かに、反復されて言われる効果は、思っている以上に大きい。


「でも、鳥人類の作業をしながら思ったんだよ。自分の価値は自分だけが決める物だって」

「価値観が変わったんですか?」

「どうだろうな、未だに俺は、自分が価値の無い人間だって思う時がある。この鳥人類だって、ただの意味の無い挑戦なのかも知れないって、思うときがある」

 そう言って、ちょっと悲しげに旅谷部長は笑った。俺は、無理して笑わなくても良いのにな、なんて思いながら、次の言葉を待った。

「だから、美空やお前に、飛んで欲しいって思うんだ。飛んでくれたら、きっと、俺の存在は無駄じゃなかったって、そう思えると思うからさ。だから、やってるんだよ」

「そう、ですか。飛びたいですね、鳥人類」

「おう」

 各々に、切実な願いが渦巻きながら、俺たちの鳥人類への挑戦は進んで行くようだった。


 ――


「うげー、またマラソンかよ……」

「ちゃんと走れよー」

 担当教師の声が響く。仕方なく、表面だけはちゃんと走っているような体裁をとることにした。しかし、身体の疲労だけで言えば、最大限まで運動した後のような感覚だ。

 昼休みの後、出席しなければならない体育に出るため、部室からほど遠い高校のグラウンドまで歩き、しかもその授業の内容がマラソンときた。これは俺にとっての、ちょっとした地獄絵図である。

 そのことを、昴に話して聞かせると「災難だったねえ」の一言で笑われてしまった。まったく人事だと思いやがって、暢気なものだ。

 疲労困憊になりながら、体育の授業を、文字通り駆け抜け、久しぶりの教室で着替える。つかの間の懐かしい教室ともすぐにおさらばし、すぐに部室へと戻る。

 部室へと帰りついた俺を待っていたのは、美空だった。

「ふふ、そのまま逃げられてしまったらどうしようかと思って待っていたよ?」

「そんなことしても美空からは逃げられんだろう?」

「ふふ、そうだねえ」

 こいつのしつこさは折り紙付きなのだ。むしろ、一度かみついたら離さないすっぽんと言ったところなのかもしれない。

 ふと、すっぽんのご尊顔を思い出し、それを美空の顔に重ねて見てしまい、俺は吹き出してしまった。

「人の顔を見ながらいきなり笑い出すのは随分と失礼な話だと思うよ?」

「いや、すまん…… ちょっとな」

 流石に全てを語るのはためらわれる。この世の中にすっぽんの顔を重ねられて喜ぶ奴がいるとも思えない。


 その後、美空のよく分かる理科教室が開催され、途中で授業が終わった本田さんも加わり、物理教室と相成った。美空の抽象的な説明が本田さんによって具体的に説明され、随分と捗ったように思う。

「今日の所はこの辺りにしておこうか」

「そうねー。あんまり詰め込みすぎても効率悪そうだし」

「ん、随分と勉強した気がする……」

 気がつけば、申し訳程度の窓から入り込んでくる光も、随分と暗くなった。

「ところで、雨宮はさ、鳥人類に向けてトレーニングとかしてるの?」

「うーん、一応部室においてあるエアロバイクは漕ぐ予定ですよ、あと部屋に帰ったら軽いトレーニングを再開するつもりですし」

 勉強ばっかりしていたが、鳥人類のパイロットとしてここに呼ばれた以上、その事について考えていなかったわけでは無い。むしろ、鳥人類のパイロットとしてはそちらの方が重要だろう。

「ちゃんと、考えてたのね。お姉さんはすっかり勉強モードになってたから心配しちゃったー」

「いつも通りの方が、可愛いと思いますよ」

「う…… なかなか生意気言うな……」


「では、帰ろうか? るのーも部長も、今日はもうこないだろうし」

「そうね」

「おう」

 三人で連れ立って、部室の外に出る。既に太陽は半分以上が、水平線の向こう側へ沈み、少し肌寒い風が通り抜けていった。

 美空達と別れてから、今日も今日とて、走って帰ることにする。一度走って帰ってからというもの、強制されない走りが、割と気持ちいい事に気付き、それ以来たびたび走って帰っている。もっとも、散々足を酷使した後なので、調子は良くなかったが。

「ぜぇぜぇ……」

 どうやら、エアロバイクと体育のマラソンが、きっちりと身体に効いてきているらしい。帰りついた自室、着替えしないうちにベッドへと倒れ込む。

 そして、気がつけば早朝だった。


 時々そんな事を繰り返し、俺の日常は過ぎていった。


 ――


「あきとん、今日は、ちょっと部室の外に飛び出すよ」

「はぁ……」

 いつも通りに部室に顔を出した途端に、部室を飛び出すと言われてしまった。

「飛び出すって、一体どこへ行くんだ?」

「ついてからのお楽しみだよ」

 そう言って美空はさっさと部室から出て行ってしまう。残された俺に、着いていく以外の選択肢が残っているわけでもなく、

「さて、着いたよ」

 たどり着いた先は、大学の研究室らしく、物理シミュレーション研究室と書いてあった。

「さて、入ろうか?」

「おう」

 中に入ると、本田さんと蓮池さん、その他研究室のメンバーと思しき人々が待っていた。

「あ、こんにちは」

「やっほ、部長は少し遅れるってさ」

「わかったよ、時間も惜しいし早速始めようか」

「ちょっとまて、俺が全然解ってない」

 全く美空の周りの奴らはこの早さについていけるというのか……

「今日はあきとんにグライダーの操縦方法を体験して貰おうと思ってね」

「この部屋でか?」

 置いてあるのは、ホームシアターでも出来そうなでっかい画面と、コントローラーらしきなにかだ。俺にゲームでもさせるつもりだろうか。

「いきなり実機に乗りたかったかい?」

「それは全力で遠慮させてもらおう」

 俺にいきなりそれをさせるのは、おそらく紐なしバンジーと同義だ。つまり飛び降り自殺と同義であり、ついでにいうとアホである。

「と、いうわけで今日はシミュレーターに乗って貰うよ」

「シミュレーター?」

「そう、フライトシミュレーター。実は旅谷部長が所属しているこの研究室が、その手の研究をしていてね、実験ついでに協力してくれているんだ。多分面白いと思うから、思いっきり楽しもうじゃないか」

「まったく……」

 軽く呆れながら、集まっている 面々に会釈をする。

「ようこそ、うちの研究室へ。君の話は聞いているよ。僕達の研究のデータにもなるからしっかり練習していってくれると嬉しいよ」

 そう言って、研究室の長らしい初老の教授は微笑んだ。

「さて、まずは、こっちきな、雨宮」

 そういう本田さんに促されるまま、示された席に座る。

「電源入れるわよ」

「ん、やっちゃって、本田っち?」

 本田さんが電源を入れると、椅子の前に広がるディスプレイに明かりが点った。そして、いきなり表示が空中のそれへと変わった。

「「「あ」」」

 三人と研究室のメンバーと思われるその他数名が、一斉に呟いた。

 雲が画面の上端に吸い込まれていき、めいっぱいの地表がそこに映し出される。これが実機ならばどういう状態なのかは想像するに容易いが、つまり、地面に向かって真っ逆さま。というところだった。

「……」

 がしゃん。というチープな音が響き、シミュレーターが動作を停止する。緑一面の地表が妙にもの悲しい。

「これは一体?」

 大体、見当はついていたが、俺は念の為に本田さんに、尋ねてみた。

「あー、ごめん」

「墜落したね。うん。紛うことなく完璧に」

「あー……」

 俺の予想は、ちゃんと当たっていたらしい。


「お、もう始めてるのか。ってなんなんだこの空気」


 微妙に最悪なタイミングで旅谷部長の登場だった。


「ものっすごい、幸先悪いスタートがものの見事に決まったところですよ……」

 俺の呆れた顔と、画面一杯に広がる地面を交互に見た後、旅谷部長は納得したように、苦笑いの顔を浮かべた。

「さて、今度こそ気を取り直そうか。みんな?」

「ちゃんと予習が必要だな」

「そうだね。きちんと操舵を理解しておかないと、またさっきのような事態になってしまうよ」

 そうして、俺は基本的な操縦方法を、美空から学んだ。どうやら、席の前に鎮座されているジョイスティックを使うらしい。割とゲームのような操縦方法だった。

「今度こそ、大丈夫だと思うわ。いや、さっきのは不幸なミスだって」

 そう言って本田さんがにかっ、と笑った。たったそれだけのことなのに、何でも許せてしまえそうになるのは、本田さんからにじみ出るオーラの賜物なのだろう。

「さて、始めるわよ」

 シミュレーターの設定を終えたらしい本田さんが声を上げる。

 地面に突き刺さっている筈の機体は、空へと舞い戻り、目線の先には白い雲が広がる。

「オッケー、大丈夫です」

 目の前のジョイスティックを握り、目配せをした。背中の後ろでは、旅谷部長と美空が見つめているのだろう。

「んじゃ、スタート」

 時計が動き出し、雲が画面外へと流れる。

「とりあえず、機体を思い通りに動かせるようになるまで、好きに動かしてみようか。ちなみに、本番までにこれと足こぎペダルを組み合わせた練習もするからね」

 そういえば、俺は鳥人類のパイロット兼エンジンなのだった。すっかり忘れていた。

 本田さんに画面を機外視点にしてもらい、ジョイスティックをぐりぐりと動かすと、それに合わせたようにして翼の可動部が動く。続いて、その動きにワンテンポ遅れるようにしてグライダー状態の機体が、向きを変える。

「いきなり反応するわけじゃ無いから気をつけるんだよ」

「ん、わかった」

「反応が遅れるから、思った量の半分程度の舵で様子を見てみるんだ」

「了解」

 比較的細かく、美空が後ろから的確な指示を出してくれるおかげで、割とすぐに操縦に慣れる事ができそうだ。


「ふむ、これは僕よりも適性がありそうだね……」

 しばらく、操縦した後に、ぼそり、と美空が呟いた。

「おい」

「ん?」

「そういえば、確か美空も乗るんだったよな…… 機体」

「その通りだけど?」

「だったらお前が操縦したらどうなんだ?」

「前に一回やってみたのだけれど散々でね。いくら天才でもそれは頭の中だけらしいよ」

 天才もどうやら万能では無いらしい。


「確かに、あんたの操縦は左右にばったんばったんなってたもんね」

 シミュレーターを操作しながら本田さんが言った。

「むぅ……」

 おそらく、我が部活で美空を不活性化出来るのはこの人だけだろう。

「さて、もう少し、基本を反復練習よ。もっとも、こういうのって、習うより慣れろな部分が多いとは思うけどね」

 それからも、しばらく基本の操縦練習は続き、随分と機体がおとなしく言うことを聞くようになったところで、休憩となった。


「そうそう、今年の研究費が結構もらえましてね、ちょっと新型を開発してみたんですが、ためしてみますか?」

「例の奴、ですか?」

 まるで、新作ゲームを楽しみにするような目で美空が言った。もっとも、航空部の面々は皆、似たような顔をしていただろうから、美空だけと言うわけでもないが。

「それでは皆さん、こちらへどうぞ」

 言われるがままに別の部屋へと着いていく。


「こちらが、うちの研究所の最新鋭のシミュレーターですよ」

 そう言いながら指を指した先には、ドーム状の部屋らしきものが部屋の中にあった。まるで矛盾のようだが部屋の中に部屋があったのだ、本当に。

「どうぞ中に。電源を入れますね」

「これは…… フルフライトシミュレーター?」

 入って美空が言う。

「ええ、若干動作がまだ不安定ですが。常用程度では大丈夫でしょう」

 そう言って、教授は少し笑った。

 ドーム状の内部に、外の景色が映し出される。そしてそのドームの中央部には、グライダーのコックピットを模したモックアップが設置されている。

「どうぞ、座ってください」

 促されるままに、模型のコックピットに収まる。ばしゃん。という音と共にキャノピーがしめられ、俺は部屋の中の部屋の中の部屋(マトリョシカのようであるが事実だ)にすっぽりと収まる。まるでゲームセンターにおいてある、戦闘機ゲームの豪華バーージョンのようだ。

 そして、俺以外の人は、そのドーム状の部屋から出て行ってしまった。

「では、スタート」

 装着したヘッドホンから、美空の声が聞こえてくる。

 またも空中からのスタート。流石にさっきの練習のおかげで、地面に真っ逆さまにはならない。俺も成長をしたものだ。将来の夢をパイロットにしても良いかもしれない。

「じゃあ、ちょっと今から横風が吹きますねー」

 言われたそばから風が吹いたらしく、機体は一気に、横風に押し流されるように進路を変える。俺は操縦桿を弄りながら、横風にあらがおうとする。二つの相反する力を受けて、機体はフラフラと暴れまくった。もう少しうまく操縦できると思ったのだが、パイロットを目指すのはやめておいた方がいいだろうか。

 そんな事を頭の片隅で思っていると、突然ガタガタっ、と部屋が揺れた。

「えっ、地震?」

 突然の揺れに、慌てながらも俺が呟き、後ろを振り向いたが、当然誰の姿も無く、ヘッドホンの向こう側から、本田さんの声が飛んできた。

「むしろ、その地震を起こしているのはアンタでしょうが!」

「え?」

 地震だから、みんな逃げないと危ないですよ。等と言おうとした矢先に、いきなり怒られてしまった。確かに言われてみれば、小刻みに上下左右へと揺れているのは、その殆どが俺の操縦桿への操作、即ち機体の挙動と連動しているようだ。

「このシミュレーターは機体に掛かるGの表現をするために、部屋ごと稼働するようになっているんですよ」

 全く、説明が無ければ、今頃俺はここから飛び出して、長い地震が来たと叫びながら全員を連れて避難しているところだった。

 そんなことを思いながら、横風に煽られた機体を、必死に押さえ込む。そのたびに部屋が上下左右へと揺れた。

「あきとん。そうじゃない」

「え?」

 ヘッドホンからの美空の声に気を取られ、操縦から気の抜けた一瞬で、機体は大きく横に流される。

「横風に逆らっちゃダメなんだよ」

「逆らうなって言ったって……」

「横風は受け流すように、君は風の中を飛んでいるんだ。横風にだって逆らっちゃいけない。機体と喧嘩をしないように上手に付き合うんだ」

 美空の言っていることは、抽象的すぎて、なかなか理解できない。しかし、アドバイスを聞いておいて、何もしないわけにはいかない。俺は、少し操縦桿から力を抜いてみた。

 機体は、横風に流されながらも、安定する。同時に連動しているらしい部屋の動きも、穏やかになった。

「僕達の機体はね、極限まで軽量化され、極限まで小型化されている。だから風にだってすぐに流される。しかも、その軽量化や小型化の結果、極限まで弱いんだ。だからね、今みたいに横風に逆らおうと必死に舵を切ってしまうと、最悪、空中分解してしまうよ?」

「空中分解……」

「基本的に無風状態での操縦は思ったほど難しくは無い。だけれど、現実においてそんな事はあり得ない。特に鳥人類の開催場所は、琵琶湖だよ。水の上は基本的に強い風が吹いている。だから、この鳥人類コンテストは、風のコントロールが重要になる。もしかしたら、エンジンとなる、君の脚力よりも重要かもしれないよ……」

「なるほど」

 言っていることは、至極まともなのだが、アカデミックな会話をこのレベルまで持ち上げると、言っていることが最早、中二病と寸分狂わなくなってきているのは気のせいだろうか。


 その後も、美空に茶々を入れられながらも、俺はシミュレーターを使った練習に勤しんだ。


「うん、これぐらいなら今度からはペダルも取り入れた訓練が出来そうだね」

「了解」

 見た目では、狭いコックピットの中に押し込まれて、ジョイスティックを振り回しているようにしか見えないのだろうが、なかなかこれがしんどいのだった。目に見えない風を相手に、自分の思い通りに機体を動かすことだけで、かなりの集中力を要するのだ。これに加えてペダルの足こぎ運動など、俺にできるのだろうか……

「だったら、次までにホークスウイングのコックピットモックアップここに入れとくよ」

「そうだね、そうしてくれると嬉しいよ。旅谷部長?」

「その代わり、美空も乗る羽目になるがな」

「僕にとっては願ったり叶ったりさ」

 そう言って、美空はふわりと微笑んだ。

「ホークスウイングって、なんなんだそれは?」

「あれ、あきとんに言ってなかったかな?」

「聞いてないぞ」

 そんな名前は、このスカイアライアンスに入ってから、一回も聞いていない。

「僕らの鳥人類参加用の機体の名前さ。さすがに名前を付けないと呼びにくかったからね」

「ホーク、って鷹か」

「うん、僕の父親が羽鷹という名前でね、そこから貰ったんだよ」

「なるほど、良い名前だな」

「そう言ってくれると嬉しいね」

 残念なことに、スカイアライアンスに入ってから、全員「機体」としか言っていなかったけど……


 そんな紆余曲折を経て、俺の初めてのシミュレータ練習は終わったのだった。


 ――


 そんな日常を送りながらのある休日の朝、寮の食堂で昴と鉢合わせた。

「最近、忙しそうにしているよね、秋人」

「あぁ、おかげさんでな」

「教室でも、ここでもあんまり顔を見ないのに、たまに見かけると楽しそうな顔をしているよね」

「楽しそうな顔、か……」

「うん、なんかまるで棒高跳びで飛んでた時みたいな。そんな感じがする」

 まるで忘れていたが、他から見れば俺は心底楽しそうに、棒高跳びをしていたのだろう。そして、思い返してみれば、事実、俺の中でも心底楽しかったのだ。

 全ては、過去形に変わってしまったが。

 飛べたはずのバーは今や、飛べなくなってしまい、持てたはずのポールでさえ、もしかしたら持てないのかもしれない。

 そんな、事実を、俺は忘れていたのか。

 むしろ、思い出して辛くならなければならない訳でもなく、もしかしたら、忘れたままでずっと生きていけるなら、それはそれで幸せなことだったのかもしれない。


 しかし、そんなに悪い気はしなかった。

 楽しそうとはつまり、楽しそうに見える。と言うことであり、本人の意識とは無関係に判断されるのであるが、理由もなくそう見える事も無いだろう。

 つまり、気がついていないだけで、自分でもこの日常を楽しみ始めているのでは無いか? そんな自問自答を始めると、なんと無く「そうなのかもしれない」と思い始めてしまう。

 バーは超えられないかもしれないけれど、もうポールを持てないかもしれないけれど、スカイアライアンスのメンバーが、俺たちを空に押し上げてくれようとしている。機体を作り、俺に勉強を施し、俺自身トレーニングに励んでいる。

 思い返してみれば「ああ、俺は楽しいのか」という、まるで痴呆老人のような、そんな当たり前の感情に気付き、少し呆然とした。

 どこまでも、飛ぶことが好きなのかも知れないのは、俺なのかもしれなかった。

「随分と考え込んでるよ、秋人?」

「ああ、すまん。すこし考え込んだだけだ」

 ここまでの思考、自分の中ではそんなに時間が経過していたとは思っていなかったのだが、心配そうに見てくる昴の顔から察する限り、それなりの時間が経過していたらしい。

「ちょっと、すっきりしたみたいだよ、秋人」

「よく分かるな」

「そりゃまぁ、秋人は顔に出やすいから」

 そうなのだろうか、確かに、割と俺は思考や行動を読まれやすいタイプであるような気がする。

「なにはともあれ、すっきりしたのなら、よかったよ」

「おう、サンキュ」

 そう言って、俺は昴と分かれた。

 

 ――


 翌朝、今日も元気に部室に登校(なんというか言い回しとして微妙だ)すると、一番乗りと言うわけでもなく、既に美空が来ていた。

「美空、ちゃんと飛ぼうな」

「部室に来て早々、何を言っているんだい? ついに君は痴呆老人になってしまったのかい?」

 朝っぱらからのこの辛辣な言い回し、ある意味これでこそ美空蒼子の通常営業と言えなくもない。むしろ、挨拶もそこそこに、そんなことを言い出した俺が悪いと言えばそうでもあるのだが、いざ面と向かって殆ど無表情でそんなこと言われた日には、どうしても心に傷を作らざるを得ない。だがしかし、そんな美空の洗礼には最早慣れきってしまっているのだ、ここは心を強く持って会話に挑もうでは無いか。

「痴呆老人じゃねえ。どっちかというと若年性健忘症だ」

 完璧に負けてるじゃねえか。むしろ、自分から墓穴掘ってどうすんだよ……

「僕の見立てでは、まだ君は正常に健康な青年の筈なんだけど」

「肘を壊して入院して、挙げ句に医者に部活を止められた人間は健康なのだろうか……」

 俺はこのスカイアライアンスに入るきっかけとなった、自分の不注意を思い出し苦笑しながら呟いた。

「いや、僕が言っているのは、鳥人類に対して支障のあるレベルでは無い、ということだよ?」

 健康(鳥人類に限る)ってまるで、運転免許みたいじゃないか。普通車(AT車に限る)みたいな。むしろ、それに比べたら随分とチープだけども。

 だがしかし、健康ほどに得がたいものも無いという。そういう意味では、未だにこうして、自分の足で立ち、こうして周りを認識することができ、ついでに鳥人類にまで挑戦しようとしているのは、結構な幸運なのだろう。これまでの人生のどこかのタイミングで、向こうの世界に行っていたかも解らないのだ。

「まぁ、何を思っていきなり、気合いを入れたような発言をしたのかは知らないけど、ちゃんと飛ぶよ? それしか目的ではないからね」

「全く、相変わらずだな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 是非とも、そうして頂けるとありがたい。それに、この言葉は美空相手の場合、褒め言葉にしかならないだろう。

「そういえばね、あきとん?」

「どうしたんですか?」

「二回目のシミュレーター練習も近々するよ、モックアップも完成しつつあるし、後はシミュレータ内で組み立てるだけぐらいだよ。ソフトウエアはほぼ完成しているからね」

「なるほど、わかった。俺も準備しておこう」

 主に心の準備だが。

 今度こそは地震だなどと騒がないようにしないと、さすがに本田さんあたりから実力行使のツッコミが飛んでくる気がする。

 どうやら、他の部員はシミュレーターの設営に忙しいらしく、全員出払っているらしい。美空も行かなくて良いのか、と尋ねたところ、「君は僕抜きで勉強が捗ると、本気で思っているのかい?」などと辛辣に言われてしまった。もっとも、美空と違う意味で鳥頭の俺でも、美空抜きの方が勉強が捗るなどとは思えなかった。ちなみに美空の鳥頭は「鳥人類のことしか頭にない」の略だ。


「ごめんください」

 唐突に、コンコンと、部室の扉が叩かれて、見知らぬ人の声が聞こえてきた。

「はいはい、今出るよ」

 美空が立ち上がって、部室のドアに手を掛けた。


「政成大学航空部、というのは、ここで良いのかしら?」

 扉の向こう側には、女性が立っていた。

 白色のワンピースに、軽くウェーブした髪。なんとなく、上品なオーラを醸し出している。


「ああ、それならここで大丈夫だよ?」

 突然の訪問者に、美空が対応した。

「美空蒼子さん。という天才が居ると聞き及んでいるのだけれど、いらっしゃるかしら?」

「その前に、君が名乗るべきじゃないかと思うんだけどね」

 少し警戒した風に、美空自身が言った。

「あ、済みません、私ったら、うっかりしておりましたわ。わたくし、大京大学、航空部の葉山響子と申します」

「なるほど、名門航空部だね。そんな所まで僕の名前が知れ渡っているとは、光栄だよ」

「でしたら、あなたが、美空蒼子さん?」

「ああ、その通りだよ」


「あの、とりあえず、座ったらどうですか? 立ち話もあれでしょうし」

 どうやら、彼女たちの会話は一筋縄では終わらないらしい。俺は、まるで来客が来た時の母親の様に、葉山に座ることを促して、二人分のコーヒーを入れて、テーブルへと戻った。


「どうぞ」

「ありがとう、あきとん」

「いただきます」

 他人の前でまで、その呼び方は止めて欲しいと思ったが、しかし、それこそ他人の前なので、口に出すこと無く、俺は自分の椅子へと腰を下ろした。


「かつての名門も、錆び付いたものですわね」

 部室の中をざっと見回した葉山が言った。若干攻撃的だな。と思いつつも

「随分とかみつくね、どうかしたかい?」

 葉山の言葉に、冷静に美空は返事を返す。普段よりも、落ち着いた雰囲気の美空に、俺は少し薄ら寒い心象を抱いていた。


「何故、あなたはこんなところにいるの?」

「ここに居たいから。だけれど、それだけでは満足な解答とは言えないかな?」

「言えないわね。天才と呼ばれるあなたなら、もっと満足に、その能力を使うことが出来る場所がある筈よ」

「例えば、大京大学のように?」

「……ええ」

 図星、といった風に葉山が肯定した。

 これで、大体の構図が見えてきた。この葉山という女は、どうやら美空を引き抜きに来ているらしい。


「うちの航空部なら、整った設備に、豊富なノウハウ。人的資源だって多いわ。それなのに、何故あなたは、過去の栄光だけを引きずった、こんな所にいるの?」

「求めた物が違うんだろうね。おそらく。説明する必要があるかい?」

 少し、感情が昂ぶってきたらしい葉山とは対照的に、美空の言葉は、どんどん、冷めていっている様に感じた。

 そして、それに安堵している自分が居た。

 美空自身の理由とは関係なく、スカイアライアンスの俺以外の全員が、それぞれに飛ぶ理由を抱え、その理由を暗に美空に託してしまっている中で、もしも美空が、引き抜かれるようなことがあっては、止めなければならないような、そんな使命感を感じていた。


「いえ、いいわ。だけれど、天才なら、その頭脳があるのなら、最高の記録を追い求めようと、全ての凡人にその能力を見せつけて、嫉妬させて、誰もたどり着くことの出来ない高みに、行こうとは思わないの?」

「思わないね。少なくとも今、この瞬間においてはね」

 ただ一言で、葉山の話は一蹴された。

「私がここに来たのは、見当違いだったという事ね……」

「そういうことになるのかな?」

 怒りの表情を浮かべながらも、結局、葉山は諦めたように彼女は椅子から立ち上がった。


「あなたみたいな、そんな、天才の義務を放棄した人間には負けないわ。待っていなさい」

 ドアを開けて、振り返ることもせずに、葉山は美空にそう告げた。


「僕も、楽しみにしておくよ」

 葉山の、少し挑発したような言葉にも、美空は動じることも無く、言葉を返していた。


 ――


「なんだったんだ、アレは」

「まぁ、スカウトしに来たんだろうけども、僕のスタンスに幻滅したんだろうね」

「そういえば、天才の義務。とか言ってたな」

 記録を追い求めて、凡人にその能力を見せつけて、嫉妬させて、誰もたどり着くことの出来ない高みに。なんて言ってた気がする。

 それはきっと天才たる、美空に対する言葉だったのだろうけども、俺は勝手に自分にも重ね合わせていた。

 高みを諦めてしまった俺は、凡人として嫉妬することだけしか出来ないのだろうか。

 そんな、頭の片隅に芽生えた小さな疑問を、俺は無理矢理考えないことにした。


「勝手な幻想を抱かれても、困るだけだけどね。僕は、確かに天才であるけれども、その前に一人の人間だからね?」

 普段の美空の姿を見ている限り、そんな風に勝手な幻想を抱くことは無いけれど、天才として誇張された話を聞いている人間にしてみたら、嫉妬して、葉山のように考えてしまう事も分からないではなかった。

「しかし、あやうく、引き抜かれるんじゃ無いかと思ったよ……」

「あいにく、僕はスカイアライアンスから鳥人類に出るまで、ここを離れるつもりは無いよ。ここは、僕にとって特別な場所だからね」

「特別な場所?」

 なんとなく、察しはついたが俺はあえて、美空に尋ねてみた。

「僕の追いかける父親もね、ここに居たんだよ。昔ね」

 そういって、美空は小さく微笑んだ。俺は「そっか」と一言告げて、カップの中のコーヒーを飲み干した。


「そういえば、あきとん二人っきりだね?」

「そういえば、って今の今まで気付いてなかったのか?」

「事実を認識してはいたけども、やっと理解した。そんな感じだよ」

「そうか」

 よく分からなかったけど、とりあえず肯定の返事をしておいた。


「では、こんなことをすると、君はどうなるのかな?」

 そう言いながら、美空は向かいに座る俺に向かって、顔を近づけてきた。大きめの瞳、乱雑にまとめられた髪(本人曰く、切るのが面倒だから伸ばしているらしいが、どちらかと言えば毎日括る方が面倒だと思う)、整った鼻筋、そんなパーツをちりばめた美空の顔が、目の前に迫る。

「おい、美空、何の真似だ」

「……」

 美空は、なにも言わずに、俺と目を合わせた。大きな瞳が俺の目の前に晒される。

「おい?」

「……」

「おーい?」

 普段なら疑問符を付けて喋るのは美空の方だろうに…… などと、どうでも良いことを考えながら、どうしたものかと考えていると、美空が頬を膨らませ、一言つぶやいた。俺としては、どうやったら頬を膨らませながら喋るのか、ということの方が気になったが。

「みそらん」

「え?」

「だから、みそらんって呼んでくれたら返事をしてあげよう」

 

 その目はまるで新しい悪戯を考えついた子供のような、きらきらした瞳だった。美空は天才でありながら、中身は比較的子供っぽい。ということは、このスカイアライアンスに顔を出すようになってから知った。

 そこから、しばらく沈黙が場を支配し、先にそれに耐えかねたのは俺の方だった。


「……みそらん?」

「ん、なんだい?」

「さすがに、この沈黙は辛い」

「仕方ないなぁ」

 そう言って、美空は近づけていた顔をすっと離し、満足げな顔になった。

「ふふっ」

「随分と嬉しそうだな」

「ふふ、君にみそらんと言ってもらえたからね?」

「そんな喜ぶような事かよ」

「人の価値観はわからないものだよ? ここに鳥人類こそ生きる目的。みたいな人間もいることだしね」

「それを言われると言葉の返しようもない……」

 事実、このスカイアライアンスにいるからこそ慣れきってしまっているが、一般人から見ればこの集まりも、只の酔狂な人間達の集まりにしか見えないだろう。そういう意味では俺も立派に変人の仲間入りを果たしていると言えなくもないが、その俺から見ても美空は変人だ。つまり、世間様からみれは随分と変な人間に見えるのだろう。

「さて、休憩は終わりだよ。勉強を始めようか」

「おい、今までのは休憩だったのか。ひとつも休まらなかったが?」

 単に美空が自分を渾名で呼ばせて面白がっていただけのような気がする。

「それは迷惑だったかな……?」

「いきなりそこでしゅんとするな。別に迷惑じゃねえ」

 微妙に悲しそうな顔で、そんなことを言われても困る。困っていませんよ? と言うしかない状況ではないか。

「だったらいいね、さて、教科書を開こうか?」

「……」

 結局まんまと、美空の手のひらの上で踊らされただけのような気がする。

 そのまま、美空に押し切られ、要求した休憩は得られないまま、美空の個人教室の再開と相成った。


「今日は、このあたりにしておこうか?」

「流石にもうこれ以上出来る気はしねえよ」

 上機嫌で調子に乗った美空との勉強は、次第にハードになっていき、終わった頃には俺がへとへとになっていた。別に身体を使っているわけでも無いのに、身体が疲れるとは、一体美空は、どんな魔法を使ったのだ。

「さて、帰ろうか」

「他は待たなくて良いのか?」

「シミュレータの準備が出来るまでは、僕も君も何も手出しはできないからね……」

「なるほど」

「僕は頭だけだから」

「そう来ると、さしずめ俺は身体だけになっちまう」

 身体目当て、なんて表現すると、ちょっとした昼のサスペンスのような展開が頭に浮かぶが、全くそんなことはない、健全そのものである。

「ふふ、それでいいんだよ。考えること、計算することは僕に全部投げてくれて構わない。むしろ、そのためだけにしか僕は役に立てないからね」

「おいおい、そこまで悲しいことを言うなよ……」

 天才、美空蒼子は、何でも一人でやってしまうような、そんな人間だと勝手にイメージしていたが、どうやらそうでも無いらしい。

「悲しくなどないよ? 僕の中には理想空間が広がっていて、理想の物体とエネルギーが働いているんだ。だけどね、そんな机上の空論をこの現実に産み落としてくれるのは、みんなしか居ないんだよ?」

「分業、みたいなもんか」

「近いかな。だから、何も出来ないことを嘆かなくても良い、僕達は僕達の仕事をしようじゃ無いか。そしてお互いに最高の仕事をしようと、そう思うだけだよ」

「おう」

 そう言って、俺と美空は帰路に付き、いつも通り駅で美空と分かれ、俺は相変わらず寮まで走って帰った。


 ――


 数日後、俺たちはいつぞやの研究室の前にいた。


「さて、行こうか、あきとん」

「おう」

 中に入ると、旅谷部長、本田さん、蓮池さんが俺たちのことを待ちながら、忙しそうに作業をしていた。

「ちょっと待ってな、いま最後のテストをしているから」

「あー、蓮池ー、そっちじゃないって!」

「すみませんっ!」

 久しぶりの賑やかなスカイアライアンスの全員集合だ。最近はこのシミュレータの準備のために、美空と俺以外は、つきっきりで作業をしていたらしい。


 しばらくして、全てのテストが終わったのか、全員集合して旅谷部長が確認を取った。

「よし、大丈夫かな…… よし、美空、雨宮、乗って良いぞ!」

 そのかけ声が掛かるや否や、美空は俺の横をすり抜けて機体へと向かっていった。俺も美空の動きに後れを取りつつ、機体へと向かう。

「あきとんは前だね。頼んだよ?」

「おう、任せろ。とはあんまり言えないけどな」

 コックピットは前回よりも大幅に変わっていた、先ず、二人で漕ぐタンデム自転車のようなフレームとペダルが備え付けられており、サドル代わりに椅子が付いている。(サドルよりも漕ぎやすいという配慮だそうだ)それを覆うように、涙滴型のキャノピーが覆っている。前席の前方には、ジョイスティックのような操縦桿が置かれ、その周辺には各種の計器が備え付けられている。

「実際に見るとこんな感じなのか」

 最初に写真と設計図で見たときには、ちんぷんかんぷんだったのだが、スカイアライアンスのチーム全員に、計器についても色々と教えられ、今では何とか全ての計器が把握できるようになっていた。

 先に乗り込んでいる美空の声が後ろから聞こえた。ドーム状の部屋全体を覆うスクリーンにはまだ映像は写っておらず、美空と二人、部屋の中で自転車を漕いでいるスタイルはなかなか滑稽なものだ。

「じゃ、始めるぞ? 事前の予定通り、鳥人類のプラットフォームから発進するからな。最初の一回目は慣れることも含めて、そんなに無理はするなよ」

「「了解」」

 旅谷さんの冗談を含まない声色が、俺たちの緊張感を高める。シミュレータのセッティングが完了し、スクリーンに映像が投影される。青い空に白い雲、そしてプラットフォームと、眼下に広がる太陽の反射する水色の湖面。

「シミュレーターだと解っていても興奮するね」

「おう」

 此処まで高精度に作り込まれたシミュレーターだと、最早自分がシミュレーターに乗っていることを忘れてしまうまでにリアルだ。


「よし、始め」


「いくぞ?」

「オーケー」

 そう言いつつ、ゆっくりとペダルを回していく、自転車を漕ぐよりも遙かに遅いペースからだんだんと回転数を上げていく。加速されていくプロペラに応えるかのように、機体も前に動きそうとする。

「よし、そろそろ離陸だよ?」

「了解」

 その数秒後、機体がプラットフォームの上から押し出される。機械によって作り出される擬似的な加速度が掛かり、背中が椅子の背もたれへと押しつけられる。

「プラットフォームから離れたら、機体は沈むから気をつけて」

「わかった」

 外の景色と計器を交互ににらみつけながら、機体が宙に浮かぶのを静かに(シャコシャコとペダルを回す音が響いているので言うほど静かでもないが)待つ。

 しばらくして、接地感が無くなり機体の頭が下を向こうとする。その動きに逆らわないように俺は操縦桿を引いて、機体を支えた。

「出足は上出来だね」

「おう……」

 美空も後ろでペダルを漕いでいるはずだが、流石にまだ疲れていないらしく、いつも通りの涼しい声だ。

「今回は風は再現されていないから、まだ難しくは無いはずだよ。ペース配分を考えてペダリングに気をつけて」

 美空の言う通り、操縦については何も気にしなくても機体は前へと進んだ。失速して高度が落ちない程度にペダルを回す。ここで無駄に体力を浪費するような事よりも、出来るだけ長く飛び続けることを考える。

 どうやら皆、心に秘めているだけで割と負けず嫌いらしく、鳥人類コンテストに出場する以上、出るだけで満足するのではなく、記録を狙っていこう。という方針が、スカイアライアンスのミーティングにて全会一致で決まった。

 その点においては、先日の葉山の見立ては若干的を外しているとも言える。ただ、美空がスカイアライアンスを選んだというだけだ。


「あきとんっ、高度、おちてきたよっ……」

「ん、おう」

 少し違う事を考えていただけだが、しばらく時間が経っていたようだ。美空の声で我に返って、もうすこしペダルを踏む速度を上げる、と同時に軽く機首を持ち上げて高度の低下を止める。

「少し、疲れてきたか?」

「ん、珍しく運動なんてしてるから、ね。流石に多少の練習ぐらいでは、付け焼き刃ぐらいにしか、ならないね?」

 美空の声が、だんだんと疲れた様子に変わってきた。それでも、そろそろ止めよう、とはどちらも言わず、ただ無言でペダルを回した。密室のビニールハウスのようなコックピットの中、美空と二人で、はぁはぁと息を荒げている、という情報だけ抜き出せば、その姿はまるで情事に及んでいる様であるが、そんなことは全くない。

「だんだんと、疲れてきたね……」

「お、おう」

 俺の方はまだ若干の余裕があるが、美空の方は大分切羽詰まってきたらしい、部長も一本目は無理するなと言っていた、そろそろこのあたりが潮時だろう。

「美空、そろそろ……」

「うん、構わないよ。落ちよう?」

 もう一度言っておくが、これは消して情事の最中ではなく、鳥人類コンテストへと向けた訓練なのである。

「落とします」

「ん、最初にしちゃ上出来だな…… 了解」

「美空、もういいぞ」

 部長から返答を貰って、美空にペダリングから力を抜くように伝える。推力を失った機体が機首を下げはじめ、高度を落とし出す。それを支えるように操縦桿を引くと、機首の低下は止まり、ふわふわと機体は滑空する。目の前いっぱいに人工的な湖面が広がり、ぱしゃん、という音と共に着水する。同時に着水の振動がガタガタと俺たち二人を襲った。

「大丈夫かー?」

 耳元から、旅谷部長のねぎらいの声が聞こえてくる。上がった息を整えてから、返事を返した。

「俺はまだなんとか」

「美空はー?」

「……」

 コックピットから這い出した美空が、無言で大の字で床に横たわっていた。残念、勇者は倒れてしまった…… という訳ではなさそうだが。


「ふふふふふははははは!」

 しばらくして、ぶっ倒れていた美空がいきなり奇声を上げた。

「おい、何事だ、メディカルチェックでも必要か?」

 俺以外もびっくりしたのか、スカイアライアンスの皆が、別室から、ぞろぞろと集まってきた。

「いや、大丈夫だよ。何にも問題ない」

「ついに狂ったかと思ったじゃない、全くアホ子なんだから」

「ホント…… びっくりしましたよ……」

 流石は本田さん、美空に対して容赦が無い。ついでに蓮池さんにまで心配される始末だ。

「で、いきなり笑い出した、その心はなんなんだ?」

「いや、ちょっと素晴らしいじゃないかと思ってね。少し感動しただけだよ?」

「つまり、美空は感動して、大笑いをかまして、みんなを招集しちまったのか」

「そういうことになるね。もっともみんなを招集してしまったのは僕も予想外だけどね?」

「本当に天才か?」

「一応ね」

 あながち、本田さんのアホ子発言は間違っていないような気がしてくる。そして、少しの休息で、俺たちは軽口が言えるまでに、回復してきたらしい。もう少ししたらもう一度練習できるだろう。

「さぁ、調子が戻ったら、今度は風のシミュレーションを入れてもう一度やるよ」

「へいへい」

 全く、鳥人類に関してだけは元気で真っ直ぐな奴だ。まぁ、もっとも俺も元は体育会系だから、そういう所は嫌いでは無いが。

 二回目の飛行は、風の要素も絡み、だんだんと飛行することが難しくなってきた。操縦に気を使えば、ペダルがおろそかになり、少し力を入れてペダルを漕げば、すぐに機体が風に煽られて暴れ出す。そのたびに後ろの美空から的確な指示が飛んでくる。俺が一人で乗っていたら今頃どうなっていたのだろうか。きっと、散々なことになっていたであろう事は想像に容易い。

 その後も何度も、色々な状況を想定した訓練を行った。最後には美空も俺も疲れ、くたくたになっていた。

「今日はこの辺にしておこうか? 僕も結構きているしね」

「さすがに、俺も、もう、無理だ」

「二人とも元気ねえ…… 若いっていいわねー」

 是非とも本田さんの発言は否定しておきたい、俺たちが元気なのではなく、美空の鳥人類への取り組み方が尋常では無いのだ。おかげで妙にテンションが上がってしまい、結果として、美空と同じテンションで突っ切ってしまうのだ。美空には、人を巻き込んでいくなにかの才能でもあるんじゃないだろうか。

 若干感覚のなくなってきている足を引きずりながら、シミュレーターを後にした。流石にいつものように走って帰るだけの体力は、俺には残されていない。

 その後、千鳥足のようになりつつ寮へと帰りつき、ベッドへと倒れ込んだ俺は、そのまま眠りについてしまった。目が覚めたのは翌日の朝で、朝食を食べながら夕食を食べ逃したことを思い出し、非常に悔しがりながら朝食をかき込むという、ある種貴重な体験をしてしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ