そして出会い
バードマン!
第一章そして出会い
昼下がりの授業中、俺は開け放たれた窓から吹き込んでくる風に身を任せながら、春眠を貪っていた。
仕方ないじゃ無いか、眠たかったのだから。春眠暁を覚えず、とも言うわけだし。
授業中に寝たところで、そのしっぺ返しを食らうのは、他ならぬ俺なのだからこれぐらいのことは多めに見て欲しいものである。
「…… きて、く…… かな?」
「んー?」
その絶賛就寝中の俺の耳に、誰かの声が聞こえて来た。
「起きてくれないかな? 雨宮秋人君?」
女性の声の中に、俺の名前が混じっていたことに気がついて、どうやらこの声は俺に語りかけているらしいという事に気付いた。
教師か? いや、この授業の教師は男だったはずだ。つまり、この声は教師の物では無い。
仕方ない。
そんな風に心の中で呟いて、顔を上げた俺の目の前に、不思議な光景が広がっていた。
俺の前に仁王立ちになっている、一人の女。
そして、それに注がれているクラス全員分と、教師の視線。
その真ん中で、一番事態を把握していないのは、俺だった。まるで、俺を含めた教室全体の時間が、目の前の女を除いて止まっているようだ。だが、そんなことが起こっていないことは、俺が一番よく分かっていた。
「睡眠を邪魔して済まないね、二年三組の、雨宮秋人くん、だね?」
止まっている空間の中で、目の前の女が言葉を発した。語尾に一応の疑問符はついているものの、その言葉はまるで断定しているような口調だ。
まあ、大正解なのだが。
「沈黙は肯定と見なすよ。うん、一回言ってみたかったんだこのセリフ」
目の前の女は、勝手に一人で話を進めていった。俺が雨宮秋人だから良いようなものの、これで別人だったら、相当に恥ずかしいことだろう。
「私は、美空蒼子という」
その名前には聞き覚えがあった。
この学校の三年生で、学校始まって以来の天才。風の噂に寄れば、大学の附属高校であるところのこの高校に入学した時点で、大学へのエスカレーター式進学が認められているらしい。日本では飛び級が認められていないのが悔やまれる。なんて話もまことしやかに囁かれているのを聞いたことがある。
しかし、その天才が俺に一体何の用事だろうか、しかも、授業中めがけて尋ねてくるとはよっぽど大事な用事なのだろうか……
「そろそろ、何か喋ってくれても良いと思うのだけれど?」
「あ、ああ、済みません…… えっと、用事、ですか?」
美空先輩の発言で、俺がまだ大して発言をしていないことを自覚した。たどたどしい日本語を口から吐き出して、何とか対応する。そもそも、授業中に突然押しかけてきた天才上級生に対する対応など、俺の脳味噌にはインプットされていない。
「ちゃんとした話は後で」
そういって、美空先輩は俺から視線を外して、教壇の方へと向き直った。
俺に発言しろと言っておいてからのこの仕打ちはどうなのだろうか? などと思わなくもなかったが、ここで俺まで発言してしまうと場の収集がつかなくなりそうで、やめておいた。
「と言うわけで、彼を借りても大丈夫ですか?」
美空先輩は俺を指さしながら、教壇の教師に向かってそう言い放った。
「授業中に寝てるような生徒など、居ても居なくても一緒だ、勝手にすると良い。どうせ成績はテストでとるんだ。ただし、次の授業の保証はしないからな」
春眠を貪っている間に、俺への評価は地に失墜していたらしい。まあ、今更どうだという話だ。それよりもこの話がスムーズに解決したことに対して、喜んでおくべきだろうか。
「ありがとうございます」
美空先輩は、一言そう告げて、俺の方に視線を動かした。どうやら、ついてこい、ということらしい。
クラスメイトの視線を背中に受けながら、先輩の背中を追いかけて教室から出た。
リノリウム張りの廊下が足音を響かせ、誰も居ない廊下に、俺は一方的な被害者の筈なのに妙な罪悪感を抱きつつ、気まずい無言の中、階段を上り、たどり着いた先は屋上へ繋がるドアだった。
一般の生徒は立ち入り禁止だったのではないかと思っていると、先輩はどこからか取り出した鍵を、手の中でくるりと回し、鍵穴へ差し込んだ。
開け放たれたドアから、心地よい春風が流れ込んでくる。その風が先輩の長い髪を流し、シャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。
終わりかけの春風に誘われるように屋上に出て、先輩はフェンスにもたれかかって空を仰ぎ、俺は眼下で行われている体育の授業をぼんやりと眺めた。
「さて、やっと落ち着いて話ができるね」
「そうですね……」
いきなり人の惰眠を奪って、問答無用でここまで連れて来ておいて、一体どの口が言うのだろうか。
「……ずっと続けていた部活を止めたらしいね?」
「正確には止めざるを得なかった。ですけどね」
何故、いきなりそんな話をするんだ。
確かに俺は、練習中の不注意で肘を壊してしまい、中学からずっと続けてきた棒高跳びを止めてしまった。
だが、今更そんな話をしなくても良いだろうに。
何故いきなりそんな話をされたのか解らず、少しの沈黙の後、視線を合わせずに先輩が口を開いた。
「空を飛びたいと、思ったことはないかい?」
「そりゃ人類の夢ですから、ないと言えば嘘になりますよ」
比較的一般的な答えで、お茶を濁すことにした。
「そういうことじゃないよ。まぁ、どうでもいい話と言えばそうなのだけれど」
自分から話を振っておいて勝手に終わらせるとは、割と自分勝手な人なのだろうか。
しかし、よく考えてみれば、授業中の教室から生徒を半ば拉致していく人間が自分勝手で無いはずがなかった。
「さて、無駄話はこのあたりにしておいて、本題に入ろうかな」
「そうしてくれると助かります」
過去を掘り返すことも、訳の分からない人類の夢について、長々と語られるのも御免だ。授業中の眠り以上に、重要な話をして貰わなければ割が合わないというものだ。
「では、単刀直入に言おう」
こほん。と咳払いをして、まるで重大発表のように溜めてから、先輩は声を発した。
「君に鳥人類コンテストに出て欲しいんだ」
真剣な顔でとんでもなく酔狂なことを言い出した彼女に対して、俺はとりあえずツッコミを入れておくことにした。
「おい」
「ん、なんだい?」
「そんなことで、俺を授業中の教室から拉致したのか?」
「そうだよ?」
「そんなもん、放課後でも休み時間でも良いだろうが!」
まったく、天才というのは、ここまで変人なんだろうか。こりゃまともにつきあえている友人がいるのか? とりあえず、頭の中に浮かんだ言葉を心の中に押しとどめておく。最早敬語も使えていないが、その程度の気を遣うのさえ面倒になってきた。
「思い立ったが、即行動と言うじゃ無いか?」
即行動しすぎだ。むしろ、行動してから思い立ってるんじゃねえのか。
一通り、心の中でツッコミを入れた後、俺の決まった回答を彼女に寄越してやることにする。
「まぁ、そんなことはどうでもいいよ」
「出る気になってくれたのかい?」
「逆だ、断る」
「おや、そこは二つ返事で出てくれると思っていたのだけれど……」
どれだけお気楽思考なんだろうか、それともすべて自分の思い通りに事が進むとでも思っているのかもしれない。
「そもそも、まずいきなり教室から拉致した挙げ句『鳥人類に出ろ』ってな、流石に飛躍しうぎだ」
「それはアレかい? 鳥人類と飛躍を掛けているんだね」
「いや、それはどうでもいい。じゃなくてだな、そもそも、俺に何を頼もうとして、それがなぜ俺なのかをちゃんと説明しろよ」
この女と話していると、こっちが喋っているのに相手のペースに巻き込まれそうだ。しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら言葉を選んだ。
「そういえば、ちゃんと説明してなかったね。話すのが下手なのは自覚しているのだけれど、なかなか直せなくてね」
「そうかい」
「僕はこの学園で鳥人類コンテストに出ようと思っている。機体もちゃんと準備してある。だけどね、肝心のパイロットが居ないんだ」
彼女の話を聞きながら、たまにテレビでやっている鳥人類コンテストの番組を思い出していた。
「だから、そのパイロットを俺にやれと? パイロットってのはアレだろ、自転車のペダルみたいな奴を必死でこぐんだろ。そういうのなら、マラソンランナーにでも頼めば良いじゃ無いか」
「だから、君に頼んでいるんじゃ無いか」
「それこそ、どういうことだよ」
「一応、数ある部活にも話は掛けてみたんだけどね『そんな酔狂な事に協力できるか』って門前払いを喰らってしまってね」
「そりゃそうか」
「それでも、話を聞いていたら、肘を壊して部活を止めてしまった棒高跳びの選手が居ると聞いてね、それでこうして勧誘に来たというわけだよ」
勧誘と言うよりも、ほぼ拉致に近かったが。
「そうか、そういうことか。だけどな、それだったらその話はここで終わりだよ。肘をこわしてから運動らしい運動もしてない、それに棒高跳びの脚力ってのは瞬発力だ、マラソンみたいな持久力は俺にはねえよ」
自分で言いながら『断るために理由を探しているみたいだ』などと思わなくは無いが、しかし言っていることは事実だ。俺は鳥人類には向いていない。それについては酷く自覚的だった。
彼女の話だけを聞けば、俺の出る幕などない。そもそも出るつもりさえなかったが。
「むぅ、どうしてもやってくれないというのかい?」
「ああ」
「止めたいなら、それを引き留めはしないよ。このまま教室に帰って『変人の酔狂な話に巻き込まれただけです』と言えば良い。この学校の人間ならそれだけで納得してくれるさ。そしてもう一度惰眠を貪れば、良い感じに赤点を取ることが出来ると思うよ」
酷い言われようだった。これに何も思わずに教室に帰ることが出来るなら、それはそれで良いのかもしれないが、俺のプライドがそれを阻止してしまった。狙って言ったのだったら流石に天才だ。
「おいおい、止めると言った瞬間にすげえ手のひらの返しようだな」
「だけど、これもまた事実だよ?」
そう言われると反論できない。おそらく、教室に帰った俺は彼女の言ったとおりに過ごすだろう。それでも今となっては怠惰になれきってしまった俺にとっては、よっぽどの見返りがない限り動くことは無い。
「だけどな、あんたの話に乗れば薔薇色の生活が待ってるって訳でもないんだろう?」
「薔薇色の生活……か。流石にそれは僕でも保証できないね」
「それでも、君を赤点の地獄から救い出すことぐらいは、出来るかもしれないよ」
「おいおい、どういうことだよ」
「そのままの意味だよ? 君が僕の鳥人類に協力してくれたら、君の赤点回避に協力をしようじゃ無いか。ギブアンドテイク、いい交換条件だとは思うのだけれど?」
そういえば教室から拉致されたときに、そんな会話をしていたような気もする。
一瞬、心が揺れる。
高校一年の中盤、そんな最悪のタイミングで部活を止め、スポーツ推薦で入った俺は、何とか進級できたものの授業について行けないままだ。今年、留年なんかになろうものなら、親になんて言われるかわからない。
それでも「まあ、いいか」と思ってしまうのは、俺が未来のこと全てを考えるのを止めてしまっている所為なんだろう。
「今日の所は解散ということにして、ゆっくり考えるかい?」
「人をいきなり拉致しておいて、そんなので良いのか?」
「押してダメなら引いてみな。とはよく言うじゃ無いか」
流石に勝手すぎるだろ。とも思ったが、俺としてはこの場から解放されるのであれば、なんでも良い。
結局、俺はそのまま屋上を立ち去ることにした。別れ際に「私は大抵ここに居るから」と渡された紙切れには、この高校と同じ敷地内にある大学の場所が書かれていた。
――
その晩、俺は自宅であるところの、高校からほど近い学生寮の一室で、友人と話をしていた。
「で、秋人はどうするのさ」
「それをお前に相談しようと思ったんだがな」
俺の前にいるのは友人で、同じ寮の一階下に住んでいる豊田昴だ。これで日産車にでも乗っていよう物ならカオスなのだが、残念なことに車は持っていない。だが、期待は裏切らない、ホンダのバイクに乗っている! だからといってどうと言うことは無いが。
ちなみに出会ったのはこの高校に入学してからで、俺が棒高跳びをしているところを写真部の昴に撮られたのがきっかけだった。
「やってみても良いんじゃない? 赤点回避だけでも充分メリットあると思うけどなあ」
しまった。コイツが結構な楽観主義だったことを忘れていた。
「まぁ、そう言ってしまえばそうなんだけどな。赤点回避も絶対って訳じゃないだろうし、いまいち実感沸かねえんだよな」
「僕としては、理由を後回しにして行動を決めると、可能性を狭めちゃうような気がするんだよね」
「おっしゃるとおりで」
完敗だった。
「そういえば、鳥人類コンテストの日取りが解ったら教えてくれないかな? 写真を撮りに行きたいんだ」
「ったく、お前ってば相変わらずだな」
「それが良いのか悪いのか、って話だけどね」
「なにはともあれ、何か出来るってのはいいんじゃねえの」
コイツは写真が昔から写真が好きらしく、高校に入ってすぐに写真部に入部して毎日を楽しんでいるらしい。時々、どこかへ撮影に行ったなどという話を聞く。将来は出来れば、そんな関係の仕事がしたいらしい。
「そっくりそのまま君に返すよ。夢なんて持つ事自体は簡単だよ、出来るかどうかは別としてさ」
「おいおい、部活も追われた身には堪えるな」
「でも今、美空さんに必要とされてるじゃないか」
「そうはいうけどな……」
確かにそうかもしれないけどな……
その後、少し談笑した後、もう夜も遅いので昴は自室へと帰っていった。
自室のベッドに寝っ転がって、目を閉じた。
真っ青な空、天高く渡されたバー。手には棒。
棒高跳びの光景が、そこには広がっていた。
棒を方の上に抱えて、助走を始める。遠くに見えていたバーがどんどん近くに、そして高く見える。
肩に抱えた棒を地面に突き、一気に踏み切る。
「あっ……」
とんだ瞬間に感じた、いつもと違う手応え。
折れるっ……
明らかにしなりに対してポールの強度が不足している感じが、手先に伝わってくる。そこからの行方がどうなるのかが脳内に描かれていくが、それにあらがう術を、その時の俺は持ち合わせていなかった。
限界にしなる直前。ぱきり、とウインナーが裂けるような音と共に、グラスファイバーが折れ、キラキラとした破片と共に、俺は重力に逆らうこと無く、下へと落下する。
そこからの俺の動きがまずかった。
何とか受け身を取るものの、最後の最後で手を真っ先についてしまうような恰好で、俺は地面へと着地した。
ごきり、と聞き慣れない嫌な音と共に、手と腕に激痛が走った。立ち上がることを諦めて、俺はその場に寝転がるようにして倒れた。
「嫌なこと思い出しちゃったな……」
眼を開くと、見慣れた自室の天井が目に飛び込んでくる。
「夢、ねえ」
そう独りごちて布団から上体を起こした。右手を握りしめてから、ゆっくりと開く。ついでに間接をぐるぐると回してみたり。思い通りに手先は動いた。
だけれど、この手がもう一度、あのグラスファイバー製の棒を持つことはない。
「骨折ですね。回復すれば、日常生活は問題なく行えます。ですが、棒高跳びについてはこれまで通り、というわけには……」
「そうですか……」
怪我の後、連れていかれた病院で、窮屈なギプスをはめながら、聞かされた医者の言葉に、俺は比較的冷静に反応したように思う。だがそれは、冷静に対応できたのでは無く、ただ現実が自分で認識できていないだけだった。
そして、それが、俺が夢を諦めた、瞬間だった。
もしかしたら、その後のリハビリ次第では、平凡な選手として、棒高跳びが出来るような体に戻っていたかもしれない。だけれど、俺はその可能性を自ら潰した。
それは、思春期によくある、必死で頑張ることが格好悪いとか、そういうこともあったけれど、平凡な選手として、もう一度棒高跳びの世界で生き続けていくことに、興味を見いだせなかったからだった。
どこまで練習しても、自己ベストを塗り替えられない。医者に言われずとも、自分で感じていたその感覚が、俺の夢の終着駅を決定づけていた。
「寝よう」
夢、などという美空蒼子の言葉にあてられて、ついつい自らの過去の話を思い出してしまった。
夢を諦めたのだ。目標も、なにもかも捨てた自分に、期待されるところなど、何一つとしてない。だから、俺を選んだのは美空の見当違いなのだ。
自分に言い聞かせるようにそう言って、俺はもう一度布団へと潜り込み、瞼を閉じた。
――
翌日。
教室にたどり着いた俺を待ち構えていたのは、俺の机の上に座った、自由の女神だった。女神と言うよりも、自由奔放そのもののような人物。そんなことを思いながら、仕方なく俺は自分の机へと向かった。それは必然的に彼女の方へと近づくことになる。
「やあ、おはよう?」
「おはようございます」
無視したい感満点、ではあったが、自分の机の上に鎮座されている以上、流石に言葉を交わさないという選択は出来ない。
「さて、丸一日。いや、正確には二十時間ほどあった訳なのだけれど、君は解答を用意できたかな?」
とりあえず、挨拶を含めて開口一番の発言が、それだった点については、昨日の経験からしても予想に容易かった。
しかし、それを予想して、今日一日、美空蒼子に出会わなければ、何とか平穏無事に彼女への返答を考える時間として使える、と思っていたのだったが、そんな希望的観測は見事に打ち破られてしまった。本人が「押してダメなら引いてみな」などと言っていたので、今日はゴリ押しでは来ないだろうと思っていたのが最大の間違いだった。
「してやられた、と言う顔をしてるのかな? ああ言った手前、露骨に勧誘するのは流石に憚られたんだけどね、暇な時間があるとついつい君のことを考えてしまってね」
そう言って、彼女は顔を少し傾けて、こちらに目線を合わせてきた。
透き通るような瞳が、その視線でもって、俺を貫こうとする。
俺は、それから逃げるようにして、視線を逸らした。
「とりあえず、放課後にしませんか? 逃げませんから」
続々と登校してきたクラスメイト達の視線が増えすぎる前に、手を打つことにした。
「構わないよ、授業が終わったら押しかけることにしよう」
待ってました、と言わんばかりに微笑み、彼女は俺の机から腰を上げた。
今日も今日とて憂鬱な授業が終わり、放課後を迎える。教室の引き戸の方へと、眼を向けた俺の視界は、ドアの向こう側でホームルームが終わるのを待ち構えている、美空の姿を捉えていた。
「心配しなくても逃げませんよ」
教室から出て、俺を待ち構えている美空に、若干皮肉を込めながら、そう言った。
「いやいや、善は急げという奴だよ」
皮肉が通じていないのか、それとも全く気にしていないのか、美空はにこりと微笑んで、それから歩き出した。
彼女の後ろについて、学校の廊下を歩いて行く。校庭を横断して、普段は足を踏み入れない大学の敷地内へと入っていく。
プレハブの倉庫が並んでいるような、一見すると体育倉庫に見間違えそうなそこに「航空部」と看板が掲げられていた。おそらく、昨日の別れ際にもらった紙に書いてあった、部室なのだろう。
「まあ、入ってくれたまえよ?」
「失礼します」
そう言われ、彼女の手によって開かれたドアの内側、その世界は、混沌に満ちていた。
八畳ほどの空間のど真ん中に置かれた長テーブルとパイプ椅子、そして正面に掲げられているホワイトボード。その他一面が白かった。部屋の端には大きめの発泡スチロールらしき何か、そして床には何に使うか解らないような工具など。外は晴天だったはずなのに、一つしか無い窓のせいで、部屋の中に届いているのはわずかで、それがまたこの部屋の雑多な感じに拍車を掛けていた。
「座ってくれて構わないよ、細かい物が落ちているから、踏まないように気をつけてね?」
「だったら先にこの部屋を片付けろと言いたいのですが」
「残念だね、どうやら僕は片付けられない女らしいよ?」
「見たらわかる」
呆れてしまって、敬語も忘れてしまった。とりあえず混沌の中から、指し示された椅子を見つけ出して腰を下ろした。
「うん、やっぱり敬語じゃない方がいいね。気楽にしゃべれる」
「いや、あんたなら、誰とでも気軽にしゃべりそうだ。しゃべるところは見てないけど」
「くふ、どうだろうね?」
そう言って微笑んだ美空は、黙っていればかわいいと思う。それから、彼女の意向に合わせて、以後敬語はやめておくことにしよう。
「さて、前置きはどうでもいいとして、君の話を聞こうじゃ無いか」
こういうことを、少し挑戦的な表情で言わない限り。
「別に、昨日言ったことと大して変わらないよ。俺にはやる気は無いよ。そもそも赤点を免れる保証だって無いんだ」
自分の本心自体は偽っておくことにした。それは俺だけが理解していれば良いだけの話だ。わざわざ俺の与太話を聞くほど彼女の暇では無いだろうし、俺もただ断ると、それが伝われば良いだけだった。
「その点については心配いらないよ。まだ、本決まりでは無いけれど、君が出てくれるなら、僕の天才性でもって君を指導しよう」
「おいおい、それで大丈夫なのかよ」
「あとね、僕には君の赤点をどうしても回避しなければならない、理由があるんだ」
昨日まで顔も知らなかった人間に対して随分と義理堅いものだ。
「赤点をクリアできないと、補講か課されるのだけどね、それが夏休みにあるんだよ?」
「ほう」
随分と、学生の夏休みに精通しているな。彼女自身も学生と言えばそうなのだから、それを把握していても不思議ではないけれど。
「そんなのに君を駆り出されてしまったら、鳥人類コンテストにでられないじゃないか!」
前言撤回。相変わらずの自分勝手だった。むしろ目的のためには手段を選ばないと言ったところだろうか。
「ま、何が言いたいかというと、僕の鳥人類スピリットに掛けて君の赤点は回避して見せるよ」
美空蒼子はドヤ顔で言い切った。俺が美空に協力しない理由は別の所にあるのだが、彼女に言っていない以上、彼女の発言には、とりえあずツッコミを入れておくべきだろう。
「とりあえず、鳥人類スピリットって何だよ。ついでにそれに掛けてどうなるんだよ」
「鳥人類への飽くなき想い、それは君のテストの点数を上げる効果がある! 個人的には結構いいセリフだと思ったんだけどね?」
やっぱり天才の感性って奴はよくわからん。
「止めといた方が良いと思う、割と寒いから」
「大丈夫だよ、君以外に言うつもりなんて無いから」
そういって、美空はにこり、と微笑んだ。わざとなのか、絶対わざとだろ。そんな笑顔を見せられよう物なら俺に気があるんじゃ無いかと、疑ってしまうじゃないか。
いや、俺に気があるのか、鳥人類のパイロットとして。
「で、君はやってくれるのかい?」
「やらねぇって言ってるだろうが」
それでも、俺の決意は揺るがない。
「どうしても?」
「うっ……」
首を傾げて上目遣いってのは此処まで効果があるものなのか、と若干たじろきながら思う。今まで誰にもされたことがなかったからわからなかった、というのが何というか、悲しいとか思ってはいないぞ。たぶん。
「ちなみに参考までに聞いておきたいのだが、俺が毎日断り続けた場合、どうなるんだ」
「君が『毎日』なんていっている時点である意味あきらめているように見えるのだけどね?」
確かに俺は、美空の解答を予想していた。俺以外に鳥人類に出られそうな人間が居ないというのなら、彼女は俺を見逃しはしないだろう。
「予想通りか……」
「毎日僕の熱い求愛に遭遇することになるよ?」
「鳥人類へのな」
「その通りだよ?」
いちいち鼻につく言い回しをする奴だ。ついでにきっちりと自分のペースに巻き込んでいきやがる。手強い。前だけしか見てないような奴はこういうときに強い。
「俺に求愛するのは結構なんだがな、その求愛が失敗したらどうするんだ」
「そのときは、飛ぶしかないね、一人で」
少しでも話題を逸らそうとした俺の努力が功を奏したらしい。若干顔を曇らせながら、彼女はそう言った。
「誰が?」
「僕に決まってるじゃないか」
「お前が、その足でか」
俺の目の前には女性らしい、鳥人類コンテストの機体のペダルを踏むには、到底細すぎる美脚があった。
「決まっているだろう、他に人はいない。もっともほかにパイロットがいても、僕は同乗するつもりなのだけれど」
「同乗?」
「そうだよ。僕はね、鳥人類コンテストに勝ちたい訳じゃない。飛びたいんだ」
茶化す風でもなく、かといって、特段力がこもっているわけでもないような言い方だったが、なぜかそれが、とても切実に聞こえて、俺は何も言えないでいた。
「何でそこまで、鳥人類に固執するんだ? なにか理由でもあるのか?」
場を支配していた沈黙に、先に耐えかねたのは俺の方だった。
そう言った俺の問いに、若干の空白を置いて、天井を仰ぎながら美空が話し始めた。
「ちゃんと、明確に、鳥人類に出たいと思ったのはいつだったかな……」
「うちの父親は、パイロットでね。しかも、それだけでは飽き足らず、休日にはパラグライダーで飛びに行くようなそんな、空が大好きな人だったんだ……」
「……」
だった。という言い方にひっかかり覚えつつも、口を出せないまま美空の次の言葉を待った。
ふと美空が視線を俺にしっかりと合わせてきた。逸らすことも出来ずに、俺も美空の瞳を魅入ることになる。その瞳は、ガラス玉のように透き通った輝きの中に、黒々とした黒目が収まっている。その瞳に飲み込まれるんじゃないかと思いながら、時間が止まったような錯覚に囚われていた。
「君は、疑問があるような、そんな顔をしているね」
「解るのかよ」
「ふふ」
悲しげに、目をそらしながら美空が微笑んだ。時間は止まっていないのだと、そのときに気がついた。
「話を、先に進めようか」
そういって、美空は、自分から話を進め始めた。
「死んだんだ、僕が小さい頃にね。パラグライダーに乗っているときに、運悪く風に煽られて地面に落ちた。なにぶん小さい頃の話だから、あまり詳しくは知らないのだけれどね」
「っ……」
衝撃的な事実を、さらりと言ってのけた美空の顔は、天井を仰いで懐かしそうな顔を思い浮かべたかと思うと、すこし険しそうな表情で目をつぶった。それは、まるで遠くに居る父親のことを悼んでいるようにも見えた。
何を言うべきなのか悩みながら、単純な疑問を彼女に投げかけた。
「あんたは、親父の影を追ってるのか?」
「そうとも言えるし、そうでは無いとも言えるかな」
「結局、どういう意味なんだ?」
「僕の行動原理は単純さ、解らないことを解明したいというだけなんだ。天才の性だよ」
そう言って微笑みかけた美空に、なにか言おうと思ったが、俺は言葉に詰まった。
「何故、父親がそこまで空を好きだったのか。それが知りたいんだ。空を飛び終えた後の父親は凄く笑顔でね、印象に残っているから。なぜ、あそこまで空に魅せられたのか。僕は知りたい」
美空は、今度こそ屈託の無い笑顔を俺に向けた。
「だから、あんたは飛ぶのか?」
「そうだよ。うちの父親も、昔、鳥人類パイロットだったらしいからね。出てみれば、何かわかるかもしれないと思ってるよ。だから、僕は記録は目指さない、たとえ僕が乗らない事が記録に繋がるとしても、それでも僕は乗るんだよ。そうでないと僕にとって鳥人類に挑戦する意味は無いから。僕にとって目の前の謎を解き明かすことは、それ自体が夢みたいな物だから」
美空はまるで、聞き分けのない子供をあやすような困った顔を俺に向けながら言った。
「それでも出る以上は、出来るだけ良い記録を出したいとは思うけどね。そこで君の出番というわけだよ」
それでもその眼は、この埃の舞う部屋の中でも、キラキラとしていた。
「夢を追っかけても、叶えてくれる神様なんぞいない。それどころか、足を引っ張りに来る悪魔ばっかりなんだよ……」
気がつけば、俺はそんな風に口に出していた。目を閉じて、額に手を当てる。溜息を一つ吐き、自分の感情を整理する。
美空といい、昴といい、夢なんてくそ食らえだ。
そんな風に考える程度には、内心いらだっていた。
夢を追いかける純粋な彼らに対して、嫉妬し、
死んだように毎日を繰り返す自分自身に対して、憤りを覚えた。
「知っているよ」
「え?」
美空の口から出てきた言葉に、俺は若干驚きを隠せなかった。そんなことは関係ないとか、そういう事を言い出すんじゃないかと思っていたからだった。
「だから、そんなことは、知っている。それでもなお、僕はやると言っているんだよ。だから、君に頼んでいるんだ」
きっ、と力の宿った瞳と俺の目線が正対した。
「なんだよ……」
なんなんだよ、本当に。
「どいつもこいつも、キラキラした事言いやがって……」
心の叫びを絞り出すようにしてに、声を出した。
それでも俺は、絞り出した言葉の最後に残った、くすぶる思いに気付いてしまっていた。
「赤点は回避できるんだな?」
美空に確認するように、俺は声を出した。
「出来なければ君を勧誘する意味が無い。補習なんかに駆り出されたら、それこそ鳥人類に出られなくなるからね」
俺の存在意義って一体何なんだろうな、なんて思わなくも無いけれど、そうか、鳥人類のパイロットか。
本当に、それしか考えてないんだな。
それはまるで、昨日の自分よりも高い場所まで飛ぶことしか考えてなかった、いつかの自分みたいだった。
「夢を叶えるんだな?」
「ああ、必ず」
俺の問いかけに、美空はオーバーアクションといった風に、大きく頷いた。
「だったら、出るよ、鳥人類」
「本当かい?」
なんでこの期に及んで、また飛ぶことに挑戦してしまうんだろうか。とか、自分でも苦笑してしまうぐらいに、おかしいのだけれど、それでも、俺の心は言うことを聞いてくれないらしかった。
「本当だ」
こんな場面で嘘を吐くのは、よっぽど趣味の悪い人間ぐらいだろう。と、そんな風に思いながら俺は美空に、声を掛けた。
「いいのかい?」
まるで、俺の心を探りに来るような眼で、美空が俺に問いかけた。
「いいんだよ」
本当は自分でもよく分かっていない。
それでも、この、飛ぶことへの昂ぶってしまう気持ちに、抗うことはしたくなかった。
「ありがとう」
美空が、まん丸な笑顔で微笑んだ。
「それは、まだ早いんじゃ無いのか?」
まだ俺がちゃんと飛べると決まったわけでも無いのに、気の早いことに、美空は感謝の言葉を述べていた。
「では、前払いと言うことにしようか」
そう言いながら差し出された美空の手を、俺は握り返した。