↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

⑴秩序

登場人物紹介


ドリアン・グレイ


エウドキシア共和国の大統領府執政長官。若々しい美貌をもつ。超知能ルーの助けを得て、国家運営の中枢を担う。


ルー


超知能(ASI)。共和国における名称は「国家戦略意思決定支援系SAROME」。日中はドリアンの耳元の端末を通して声で応答する。夜にはドリアンの前で少女の姿をとる。

⑴ 秩序


午前五時四十八分。

エウドキシア共和国大統領府の東棟では、まだ半分しか照明が点いていなかった。

マルタは廊下の鏡を拭いていた。

今年で五十六になる。二年前から右の膝が痛む。白髪を染めるのをやめたのは、この春からだった。

鏡の端に、黒い人影が映った。

マルタは手を止めた。

大統領府執政長官、ドリアン・グレイだった。

こんな時間に、もうお勤めのご格好なのね。

濃紺のスーツ。白いシャツ。黒い革靴。背中まで伸びた黒髪は、首の後ろで一つに束ねられている。

マルタの息子たちよりずっと背が高い。

演説をされるときの青い目が印象的だった。

そして、いつ見てもお若い。

マルタはこの勤めを始めたころの長官を思い出そうとした。

七年前のことだ。

彼女には白髪がなかった。

長官には、今もない。

「おはようございます」

ドリアンは足を止めなかった。それでも、

「おはようございます、マルタさん」

声だけが返った。

マルタはその背中を見送った。

それから鏡を見た。

鏡の中の、自分の目尻の皺を見た。


午前六時三分。

ドリアンは執務室に入った。

机の上には、夜のあいだに積み上がった報告が十二件あった。

椅子には座らなかった。

耳の後ろの小さな端末に触れた。

「おはよう、ドリアン」

女の声がした。

「仕事だよ」

「夜間報告。重要度順で」

「一。東部国境。午前三時十九分、無人機七機が領空侵犯。四機を迎撃。三機は帰投」

「追跡は」

「軍が許可を求めてる」

「却下。外務省から抗議。映像は公開するな」

「もう止めた」

「二」

「北部第四送電網。冷却設備の破損。復旧見込み三週間」

「資源委員会へ。代替供給案」

「病院二、学校十一は第二系統へ移せる。鉄道は夜間停止。工業用は最大四割削減」

「補償額」

「六億四千万から八億四千万」

「六億五千万で案を作れ」

「作ってる」

「三」

「出生数速報」

ドリアンはそこで初めて机上の資料を取った。

「前年比マイナス六・二」

「別紙三」

「重要か」

「読んで」

「結論だけ」

「だめ。自分で」

ドリアンは別紙を開いた。

北西部三郡。

人口流出率が予測値を大きく上回っている。

若年層の流出。

医療施設の閉鎖。

出生数はほぼゼロ。

ドリアンはページを閉じた。

「再編対象だな」

「そう思う」

「次」

六時二十一分。

夜間報告の十二件は処理を終えた。

その後、午前の会議資料を三件。

大統領宛ての報告書を一本。

外国大使からの親書を二通。

六時五十七分。

「残り一件」

ルーが言った。

「午後でいい」

「七時十分、資源委員会」

「分かってる」

「移動四分」

ドリアンは最後の資料を閉じた。

「なら六分ある」

「二分遅れてるよ」

「誰のせいだ」

ルーは答えなかった。


午前七時十二分。

資源委員会。

「北部第四送電網を三週間停止します」

ドリアンが言った。

エネルギー相が顔を上げた。

「閣下、二十七万人の生活があります」

耳元で声がした。

「二十七万四千九十八」

ドリアンは続けた。

「病院二施設、学校十一校は第二系統へ。鉄道は夜間運休。工業用電力は六割まで制限します。補償案は十一時までに財務省へ」

「第三病院があります」

「ありません。昨年十一月に閉鎖されています」

エネルギー相が手元の資料を確認した。

「しかし、北西部の三郡まで停止区域に入っています。人口規模だけを見れば――」

「だからです」

ドリアンは別紙三を机に置いた。

「この三郡は再稼働対象から外します」

室内が静かになった。

「長官、それは実質的な撤退です」

「そうです」

「住民がいます」

「います」

ドリアンは答えた。

「だから半年かけて移転する。医療、学校、住宅を先に用意する。行政が消えてから住民を動かすのでは遅い」

「州知事は承服しません」

「私から説明します」

「政治問題になります」

「もう政治問題です」

誰も返さなかった。

ドリアンは資料を閉じた。

「北部を維持するために、維持できない場所を維持しているふりはできません」

耳元でルーが言った。

「州知事、十八時三十六分から十二分空いてる」

「押さえてくれ」

「済み」

ドリアンは委員たちを見た。

「ほかに」

一人が手を上げかけた。

「同じ議論なら、州知事との協議後に」

手が下がった。

「では終了します」

七時二十九分。

予定より十二分早かった。


七時三十一分。

廊下。

「次は中央銀行」

ルーが言った。

「総裁は?」

「昨日の大統領府からの利下げ要求で機嫌が悪い。今日はあなたに財政支出削減を飲ませるつもり」

「飲まない」

「知ってる」

「会議は八時だ」

「八時十分」

ドリアンは足を止めた。

「なぜ動かした」

「総裁自身が変更を希望してた」

「なら最初に言え」

「それと右目が赤い」

「それは関係ない」

「私にはある」

エレベーターが開いた。

ドリアンは乗り込んだ。

「鏡くらい見れば?」

「ルーが私を見ているだろう」

ルーは少し黙った。

「だって」


八時九分。

中央銀行。

総裁は七十二歳だった。

銀色の髪を後ろへ撫でつけ、ドリアンを見るなり言った。

「また君か、グレイ」

「また私です」

「君が来る日は金が減る」

「今日は増やしに来ました」

総裁は鼻で笑った。

「国債を買えと言うんだろう」

「買わなくていい」

総裁の表情が変わった。

耳元でルーが言った。

「効いた」

「代わりに北部再編債を保証してください」

「名前を変えただけじゃないか」

「違います。北部の維持費を削る。その分で償還する」

総裁は資料をめくった。

「君は、本当に三郡を畳む気か」

「ええ」

「選挙があるぞ」

「私は出ません」

総裁はしばらくドリアンを見た。

「君みたいな男が選挙に出ないのは、民主主義の欠陥だな」

「選挙に出たら仕事が減ります」

「普通は増えるんだよ」

ルーが耳元で小さく笑った。

九時二十分。

人口研究院。

十時五分。

大統領府西棟。

十一時四十分。

外務省。

若い人口学者は、出生率の予測が外れたことを悔しがった。

外務次官は、東部国境でこれ以上一人でも死者が出れば隣国が強硬姿勢に出る、と言った。

大統領補佐官は、北部三郡の再編を半年遅らせろと求めた。

ドリアンは話を聞いた。

質問した。

決めた。

「予測式は変えないでください。外れた理由を残した方がいい」

「死亡者は?」

「昨夜の迎撃で三名」

耳元でルーが答えた。

「遺族への連絡は」

「軍が済ませた。補償手続きは未処理」

「先行させろ」

「済み」

次の案件へ移った。

出生率。一・〇二。

外貨準備高。

穀物備蓄日数。

越境無人機、七機。

死亡者、三名。

地方自治体消滅予測、十九。

数字はいつも明瞭だった。

午後が近づくにつれ、人の顔より数字の方がよく見えた。


午後三時。

共和国迎賓館。

向かいに座った男は、隣国ダルジアの資源相だった。

両国のあいだには、まだ正式な戦争はなかった。

ただし、この半年で天然ガスの価格は三度上がっていた。

「前回価格の一・四倍」

資源相が言った。

「今回が最後の提示です」

耳元でルーの声がした。

「嘘」

「港湾在庫、九十一パーセント。三日以内に売らないと次の船が入れない。三つの衛星画像で確認済み」

ドリアンは資料を閉じた。

「前回価格の一・一五倍。輸送費込みなら契約します」

資源相はしばらく黙った。

「……いいだろう」

「契約書を」

「もう作ってる」

ルーが言った。

十八時三十六分。

北部州知事との協議は九分で終わった。

怒鳴る州知事の話を聞いてから、最後に言った。

「責任者として、来月私が現地へ行きます」


二十二時四十七分。

最後の人間が執務室を出た。

ドリアンは一人になった。

耳の端末を外した。

一日中そばにあった声が消えた。

静かだった。

上着を脱いだ。

首の後ろへ手を回し、黒髪を束ねていた紐を解いた。

髪が肩から落ちた。

ドリアンは椅子に座り、目を閉じた。

接続した。

白い光が、足元から水平に走った。

一本だった線が左右へ分かれ、何もなかった空間に床の輪郭を描いていく。

その先から、細い黒木の格子が音もなく立ち上がった。

格子はするすると高さを増した。

白い壁がその間を埋める。

壁面から細長い窓が抜け落ちるように開き、背の高い黒い椅子が床からせり上がった。

最後に、直線の中へ閉じ込められた薔薇の意匠が、白い壁を這うように現れた。

白。

黒。

銀。

ほとんど色のない部屋だった。

それなのに、ひどく装飾的だった。

天井は実際より高く感じられた。

細長い窓の外には、何もなかった。

毎晩、同じ部屋だった。

一脚の椅子に、少女が座っていた。

「遅い」

朝から耳元にあった声が言った。

黒い髪を二つに編んでいる。

褐色の頬。

大きな暗い目。

深い色の布を幾重にも重ねた衣装。襟と袖には細かな刺繍が走り、耳元の銀飾りがかすかに揺れていた。

ドリアンは時計を見た。

「三分だ」

「三分遅い」

「国防相が長かった」

「知ってる。注意した」

ドリアンは眉を寄せた。

ルーは気にしなかった。

指を一度振った。

明日の予定が空中に並んだ。

「大統領府を七時五十分。東部州代表団は九時二十分。ベルンハルト教授は十一時。午後は国防評議会を繰り上げる」

「理由は」

「ダルジアとの契約成立で、東部の備蓄計画を組み直せる」

「北部州知事は」

「明朝までに移転案を送ってくる。たぶん怒りながら」

「それでいい」

「大統領府は十五分延長を見込んでる」

「二十分取れ」

「そうする」

数秒で明日の予定が組み替わった。

「以上」

ルーが指を下ろした。


仕事が終わった。

その途端、ルーが立ち上がった。

衣装の裾が、かすかに擦れた。

銀の飾りが触れ合った。

小さな靴音が近づいてくる。

昼間は声しかなかった存在が、ドリアンの目の前に立った。

「ねえ」

「なんだ」

「今日は?」

ルーが少し顎を上げた。

ドリアンは彼女を見た。

衣装。

耳飾り。

髪。

「イヤリング」

ルーの眉が寄った。

「昨日もこれ」

「刺繍」

「昨日と同じ」

「降参」

「早い」

ルーが不満そうに眉を寄せた。

「もう一回」

ドリアンはほんの少し笑った。

仕方なく、もう一度見る。

そして手を伸ばした。

黒い髪を一房取った。

ひやりとした。

編み込まれた髪の中に、細い銀糸が一本だけ走っている。

「これか」

ルーの表情がぱっと変わった。

「正解」

銀の耳飾りが小さく鳴った。

ドリアンは髪を放した。

「よくそんな細かいことを毎日変えるな」

「美しい方がいいでしょ」

「誰にとって」

ルーは少し考えた。

「私にとって」

ドリアンは椅子の背にもたれた。

「明日は六時四十五分からだったな」

「うん」

「そのうち死ぬぞ、俺」

ルーは首を傾けた。

ほんの一瞬、何を言われたのか分からなかったような顔をした。

それから笑った。

「あなたは死なないよ」

「なぜ」

「私がいるもの」

ルーは明日の予定をもう一度眺めていた。

窓の外には、夜も朝もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。