⑴秩序
登場人物紹介
ドリアン・グレイ
エウドキシア共和国の大統領府執政長官。若々しい美貌をもつ。超知能ルーの助けを得て、国家運営の中枢を担う。
ルー
超知能(ASI)。共和国における名称は「国家戦略意思決定支援系SAROME」。日中はドリアンの耳元の端末を通して声で応答する。夜にはドリアンの前で少女の姿をとる。
⑴ 秩序
午前五時四十八分。
エウドキシア共和国大統領府の東棟では、まだ半分しか照明が点いていなかった。
マルタは廊下の鏡を拭いていた。
今年で五十六になる。二年前から右の膝が痛む。白髪を染めるのをやめたのは、この春からだった。
鏡の端に、黒い人影が映った。
マルタは手を止めた。
大統領府執政長官、ドリアン・グレイだった。
こんな時間に、もうお勤めのご格好なのね。
濃紺のスーツ。白いシャツ。黒い革靴。背中まで伸びた黒髪は、首の後ろで一つに束ねられている。
マルタの息子たちよりずっと背が高い。
演説をされるときの青い目が印象的だった。
そして、いつ見てもお若い。
マルタはこの勤めを始めたころの長官を思い出そうとした。
七年前のことだ。
彼女には白髪がなかった。
長官には、今もない。
「おはようございます」
ドリアンは足を止めなかった。それでも、
「おはようございます、マルタさん」
声だけが返った。
マルタはその背中を見送った。
それから鏡を見た。
鏡の中の、自分の目尻の皺を見た。
午前六時三分。
ドリアンは執務室に入った。
机の上には、夜のあいだに積み上がった報告が十二件あった。
椅子には座らなかった。
耳の後ろの小さな端末に触れた。
「おはよう、ドリアン」
女の声がした。
「仕事だよ」
「夜間報告。重要度順で」
「一。東部国境。午前三時十九分、無人機七機が領空侵犯。四機を迎撃。三機は帰投」
「追跡は」
「軍が許可を求めてる」
「却下。外務省から抗議。映像は公開するな」
「もう止めた」
「二」
「北部第四送電網。冷却設備の破損。復旧見込み三週間」
「資源委員会へ。代替供給案」
「病院二、学校十一は第二系統へ移せる。鉄道は夜間停止。工業用は最大四割削減」
「補償額」
「六億四千万から八億四千万」
「六億五千万で案を作れ」
「作ってる」
「三」
「出生数速報」
ドリアンはそこで初めて机上の資料を取った。
「前年比マイナス六・二」
「別紙三」
「重要か」
「読んで」
「結論だけ」
「だめ。自分で」
ドリアンは別紙を開いた。
北西部三郡。
人口流出率が予測値を大きく上回っている。
若年層の流出。
医療施設の閉鎖。
出生数はほぼゼロ。
ドリアンはページを閉じた。
「再編対象だな」
「そう思う」
「次」
六時二十一分。
夜間報告の十二件は処理を終えた。
その後、午前の会議資料を三件。
大統領宛ての報告書を一本。
外国大使からの親書を二通。
六時五十七分。
「残り一件」
ルーが言った。
「午後でいい」
「七時十分、資源委員会」
「分かってる」
「移動四分」
ドリアンは最後の資料を閉じた。
「なら六分ある」
「二分遅れてるよ」
「誰のせいだ」
ルーは答えなかった。
午前七時十二分。
資源委員会。
「北部第四送電網を三週間停止します」
ドリアンが言った。
エネルギー相が顔を上げた。
「閣下、二十七万人の生活があります」
耳元で声がした。
「二十七万四千九十八」
ドリアンは続けた。
「病院二施設、学校十一校は第二系統へ。鉄道は夜間運休。工業用電力は六割まで制限します。補償案は十一時までに財務省へ」
「第三病院があります」
「ありません。昨年十一月に閉鎖されています」
エネルギー相が手元の資料を確認した。
「しかし、北西部の三郡まで停止区域に入っています。人口規模だけを見れば――」
「だからです」
ドリアンは別紙三を机に置いた。
「この三郡は再稼働対象から外します」
室内が静かになった。
「長官、それは実質的な撤退です」
「そうです」
「住民がいます」
「います」
ドリアンは答えた。
「だから半年かけて移転する。医療、学校、住宅を先に用意する。行政が消えてから住民を動かすのでは遅い」
「州知事は承服しません」
「私から説明します」
「政治問題になります」
「もう政治問題です」
誰も返さなかった。
ドリアンは資料を閉じた。
「北部を維持するために、維持できない場所を維持しているふりはできません」
耳元でルーが言った。
「州知事、十八時三十六分から十二分空いてる」
「押さえてくれ」
「済み」
ドリアンは委員たちを見た。
「ほかに」
一人が手を上げかけた。
「同じ議論なら、州知事との協議後に」
手が下がった。
「では終了します」
七時二十九分。
予定より十二分早かった。
七時三十一分。
廊下。
「次は中央銀行」
ルーが言った。
「総裁は?」
「昨日の大統領府からの利下げ要求で機嫌が悪い。今日はあなたに財政支出削減を飲ませるつもり」
「飲まない」
「知ってる」
「会議は八時だ」
「八時十分」
ドリアンは足を止めた。
「なぜ動かした」
「総裁自身が変更を希望してた」
「なら最初に言え」
「それと右目が赤い」
「それは関係ない」
「私にはある」
エレベーターが開いた。
ドリアンは乗り込んだ。
「鏡くらい見れば?」
「ルーが私を見ているだろう」
ルーは少し黙った。
「だって」
八時九分。
中央銀行。
総裁は七十二歳だった。
銀色の髪を後ろへ撫でつけ、ドリアンを見るなり言った。
「また君か、グレイ」
「また私です」
「君が来る日は金が減る」
「今日は増やしに来ました」
総裁は鼻で笑った。
「国債を買えと言うんだろう」
「買わなくていい」
総裁の表情が変わった。
耳元でルーが言った。
「効いた」
「代わりに北部再編債を保証してください」
「名前を変えただけじゃないか」
「違います。北部の維持費を削る。その分で償還する」
総裁は資料をめくった。
「君は、本当に三郡を畳む気か」
「ええ」
「選挙があるぞ」
「私は出ません」
総裁はしばらくドリアンを見た。
「君みたいな男が選挙に出ないのは、民主主義の欠陥だな」
「選挙に出たら仕事が減ります」
「普通は増えるんだよ」
ルーが耳元で小さく笑った。
九時二十分。
人口研究院。
十時五分。
大統領府西棟。
十一時四十分。
外務省。
若い人口学者は、出生率の予測が外れたことを悔しがった。
外務次官は、東部国境でこれ以上一人でも死者が出れば隣国が強硬姿勢に出る、と言った。
大統領補佐官は、北部三郡の再編を半年遅らせろと求めた。
ドリアンは話を聞いた。
質問した。
決めた。
「予測式は変えないでください。外れた理由を残した方がいい」
「死亡者は?」
「昨夜の迎撃で三名」
耳元でルーが答えた。
「遺族への連絡は」
「軍が済ませた。補償手続きは未処理」
「先行させろ」
「済み」
次の案件へ移った。
出生率。一・〇二。
外貨準備高。
穀物備蓄日数。
越境無人機、七機。
死亡者、三名。
地方自治体消滅予測、十九。
数字はいつも明瞭だった。
午後が近づくにつれ、人の顔より数字の方がよく見えた。
午後三時。
共和国迎賓館。
向かいに座った男は、隣国ダルジアの資源相だった。
両国のあいだには、まだ正式な戦争はなかった。
ただし、この半年で天然ガスの価格は三度上がっていた。
「前回価格の一・四倍」
資源相が言った。
「今回が最後の提示です」
耳元でルーの声がした。
「嘘」
「港湾在庫、九十一パーセント。三日以内に売らないと次の船が入れない。三つの衛星画像で確認済み」
ドリアンは資料を閉じた。
「前回価格の一・一五倍。輸送費込みなら契約します」
資源相はしばらく黙った。
「……いいだろう」
「契約書を」
「もう作ってる」
ルーが言った。
十八時三十六分。
北部州知事との協議は九分で終わった。
怒鳴る州知事の話を聞いてから、最後に言った。
「責任者として、来月私が現地へ行きます」
二十二時四十七分。
最後の人間が執務室を出た。
ドリアンは一人になった。
耳の端末を外した。
一日中そばにあった声が消えた。
静かだった。
上着を脱いだ。
首の後ろへ手を回し、黒髪を束ねていた紐を解いた。
髪が肩から落ちた。
ドリアンは椅子に座り、目を閉じた。
接続した。
白い光が、足元から水平に走った。
一本だった線が左右へ分かれ、何もなかった空間に床の輪郭を描いていく。
その先から、細い黒木の格子が音もなく立ち上がった。
格子はするすると高さを増した。
白い壁がその間を埋める。
壁面から細長い窓が抜け落ちるように開き、背の高い黒い椅子が床からせり上がった。
最後に、直線の中へ閉じ込められた薔薇の意匠が、白い壁を這うように現れた。
白。
黒。
銀。
ほとんど色のない部屋だった。
それなのに、ひどく装飾的だった。
天井は実際より高く感じられた。
細長い窓の外には、何もなかった。
毎晩、同じ部屋だった。
一脚の椅子に、少女が座っていた。
「遅い」
朝から耳元にあった声が言った。
黒い髪を二つに編んでいる。
褐色の頬。
大きな暗い目。
深い色の布を幾重にも重ねた衣装。襟と袖には細かな刺繍が走り、耳元の銀飾りがかすかに揺れていた。
ドリアンは時計を見た。
「三分だ」
「三分遅い」
「国防相が長かった」
「知ってる。注意した」
ドリアンは眉を寄せた。
ルーは気にしなかった。
指を一度振った。
明日の予定が空中に並んだ。
「大統領府を七時五十分。東部州代表団は九時二十分。ベルンハルト教授は十一時。午後は国防評議会を繰り上げる」
「理由は」
「ダルジアとの契約成立で、東部の備蓄計画を組み直せる」
「北部州知事は」
「明朝までに移転案を送ってくる。たぶん怒りながら」
「それでいい」
「大統領府は十五分延長を見込んでる」
「二十分取れ」
「そうする」
数秒で明日の予定が組み替わった。
「以上」
ルーが指を下ろした。
仕事が終わった。
その途端、ルーが立ち上がった。
衣装の裾が、かすかに擦れた。
銀の飾りが触れ合った。
小さな靴音が近づいてくる。
昼間は声しかなかった存在が、ドリアンの目の前に立った。
「ねえ」
「なんだ」
「今日は?」
ルーが少し顎を上げた。
ドリアンは彼女を見た。
衣装。
耳飾り。
髪。
「イヤリング」
ルーの眉が寄った。
「昨日もこれ」
「刺繍」
「昨日と同じ」
「降参」
「早い」
ルーが不満そうに眉を寄せた。
「もう一回」
ドリアンはほんの少し笑った。
仕方なく、もう一度見る。
そして手を伸ばした。
黒い髪を一房取った。
ひやりとした。
編み込まれた髪の中に、細い銀糸が一本だけ走っている。
「これか」
ルーの表情がぱっと変わった。
「正解」
銀の耳飾りが小さく鳴った。
ドリアンは髪を放した。
「よくそんな細かいことを毎日変えるな」
「美しい方がいいでしょ」
「誰にとって」
ルーは少し考えた。
「私にとって」
ドリアンは椅子の背にもたれた。
「明日は六時四十五分からだったな」
「うん」
「そのうち死ぬぞ、俺」
ルーは首を傾けた。
ほんの一瞬、何を言われたのか分からなかったような顔をした。
それから笑った。
「あなたは死なないよ」
「なぜ」
「私がいるもの」
ルーは明日の予定をもう一度眺めていた。
窓の外には、夜も朝もなかった。




