後編
――あの猟奇的な密室事件から、数日が経過した。
王都騎士団は、術者不在で永続する浮遊などという現象を前に、「悪魔の怨霊による呪い」と公式に断定。
早々に捜査を打ち切り、事件は迷宮入りとなった。
夜の帳が下りた帝都の一等地に建つ、豪奢な貴族の館。
その最奥にある、分厚い扉で閉ざされた隠し部屋には、むせ返るような死の匂いと、悪趣味な狂気が充満していた。
壁一面を埋め尽くすように飾られているのは、巨大な熊や希少な飛竜、そして亜人種の真新しい「頭骨」の数々。
生粋の狩猟家であり、希少な獲物の剥製コレクターでもあるバルド伯爵は、部屋の中央に置かれたベルベットの台座を、陶酔しきった熱い吐息で見つめていた。
「美しい……。やはり君の骨格は最高だよ、私のセリア」
台座の上に鎮座しているのは、血の気一つない、純白の『人間の頭蓋骨』だった。
バルド伯爵は極上のワインを喉に流し込みながら、愛おしげにその滑らかな骨の表面を絹の布で磨く。
平民の男などと結婚し、自分の庇護下から逃げようとする生意気な泥棒猫。
だから伯爵は、彼女の顔の皮だけを剥ぎ取り、精巧な風船を作り上げてあの猟奇的な密室を演出した。
あの脳筋の騎士団は、見事に「悪魔の呪い」だと怯えてくれた。
当然だ。あの皮袋の中に詰め込まれていたのは、ただの舞台用ガスではない。
純度百パーセントの『飛竜のガス』である。
帝都最大の劇団といえど、民間人には絶対に手に入らない代物。
軍上層部に太いパイプを持つ大貴族、バルド伯爵にしか用意できない『権力の証』だった。
「あの探偵の小僧が余計な真似をしたが……まあいい。首の皮ひとつで、永遠に私だけの芸術が手に入ったのだからな」
バルドが下劣な笑い声を上げた、その時だった。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、分厚い扉の向こうから響いた。
「旦那様。夜分遅くに申し訳ありません。劇場の件で、どうしても旦那様にお尋ねしたい事があるという者が……」
怯えたような執事の声に続き、カツ、と銀のステッキが床を叩く音がした。
「夜分に失礼しますよ、バルド伯爵。少しばかり、面白い『ガス』の流通経路についてお話を伺いたくてね」
扉の向こうにいるのは、探偵シャルル・キョース。
バルドはひどく舌打ちをし、頭蓋骨に布を被せると、扉の鍵を開けて僅かに隙間を作った。
「……何の用だ、無礼者。私の屋敷に勝手に入り込むとは」
「いえいえ、ただの世間話です。あの楽屋の皮袋に詰められていた『飛竜のガス』。あれは極めて高価なだけでなく、軍事機密の戦略資源だ」
シャルルの漆黒の瞳が、扉の隙間からバルドの奥底を見透かすように細められる。
「どんなに資金があろうと、民間の劇団には絶対に下りてこない。……権力と軍へのパイプを持つあなたにしか、持ち込めない代物だ」
バルドは一瞬だけ冷や汗を流したが、すぐに傲慢な貴族の笑みを貼り付けた。
「知らんな。私が用意したという証拠がどこにある? 見えないガスなどという妄言で私を疑うなら、今すぐ不敬罪で貴様の首を物理的に刎ねてやるぞ」
バルドは扉の隙間から、シャルルを威圧するように睨み下ろした。
ここで怯んではいけない。証拠など何一つないのだ。
権力で押し通せば、平民の探偵などただの虫ケラに過ぎない。
長い沈黙が落ちた。
やがて――シャルルは「ふぅ」と大袈裟な溜息をつき、ステッキを引いた。
「……おっしゃる通りです。私には、あなたが密室を作ったという物理的な証拠は何一つ提示できない。それに、あの頭蓋骨がこの屋敷にあるという証拠もない。私の完全な負けです」
「ふん。分かればいい。二度と私の前にその薄汚い顔を見せるな」
「ええ。人間の法では、決してあなたを裁けない。……どうぞ、ご安心を。今夜はゆっくりお休みください」
シャルルは恭しく一礼すると、背を向けて足音と共に去っていった。
バルドは扉を乱暴に閉め、幾重にも鍵と閂をかけ直す。
「……あっはっはっは! 馬鹿めが! 推理など金と権力の前では無力なのだよ!」
バルドは扉に背を預け、腹を抱えて高笑いした。
最大の脅威であった探偵は、自らの敗北を認めて数日越しに尻尾を巻いて逃げたのだ。
これで完全犯罪は成立した。
窓もない。扉の鍵も完璧だ。ここは絶対安全な、誰にも侵されない密室。
バルドが上機嫌で台座へと振り返り、再びワイングラスを手にした、その瞬間。
コロン、と。
背後にある暖炉の奥、真っ暗な煙突の中から『黒い石』が転がり落ちてきた。
「……あ?」
バルドが眉をひそめた直後。
その黒い石は空気に触れた途端、シューッ! と激しい音を立てて、猛烈な勢いで『無色透明なガス』を噴き出し始めた。
それは古物商であるシャルルが調達した、大気に触れると一気に昇華する特殊な魔法鉱石。
「な、なんだこのガスは……!? どこから……!」
バルドが叫び、護身用の風魔法を練り上げようとした時。
彼は己の足元――すねの辺りまで、ひどく冷たくてねっとりとした『重い気体』が満ちていることに気がついた。
水ではない。だが、明らかに空気より重い『不可視の海』だ。
「誰だ! 誰かいるのか!」
バルドが、石が落ちてきた暖炉の煙突を見上げた時。
彼の心臓は、恐怖で完全に凍りついた。
直径わずか数十センチしかない、大人の人間など絶対に通り抜けられないはずの狭い煙突の暗がり。
そこから、全身の関節を完全に外し、肉体を数メートルにも引き伸ばした『巨大な軟体動物のような異形』が、ズルリ、ズルリと這い下りてきたのだ。
『おやすみなさいと言ったでしょう、伯爵。……扉の鍵など、煙突から這い入るバケモノには何の意味もありませんよ』
「ひっ……! ば、化け物……ッ!」
ズチャァッ! と、暖炉から這い出たシャルルが跳躍し、バルドの巨体を床へと押し倒した。
ドサリと仰向けに倒れ込んだバルドの顔が、床から数十センチの「不可視の海」へと沈み込む。
「がっ……!? あ、がっ……!」
バルドが息を吸い込んだ瞬間、肺の中に流れ込んできたのは酸素ではなく、氷のように冷たく重いガスだった。
吐き出そうとしても、重いガスは肺の底にヘドロのように沈み込み、気管から出ていかない。
本物の水に溺れるよりもタチが悪い、完全な『陸上の溺死』である。
『……あなたは、歌姫の顔の皮に空より軽い《飛竜のガス》を詰め込み、死者を空中に浮かべて弄んだ』
その顔だけが、先ほどまで探偵だった青年の「三日月型の笑み」を貼り付けている。
『だから私は、あなたのために別のガスを用意しました。』
「ふ、ざける……な! 虫ケラめ、私の風魔法で……!」
バルドは窒息の苦しみの中、両手から暴風の魔法を放った。
しかし――突風が部屋の下半分を薙ぎ払っても、重い気体の海は波立つだけで、決して吹き飛ばされることはなかった。比重が重すぎる気体は、そよ風程度では散らないのだ。
『無駄ですよ、バルド伯爵。物理の理は、あなたの特権階級の魔法より重い』
怪物は、口から泡を吹いて痙攣するバルドの胸ぐらを掴み、その耳元で冷酷に囁いた。
『飛竜のガスは上へ。私のガスは下へ。……あなたは死者の顔を浮かせるための重量計算には長けていたようですが、ご自身の命の重さは随分と軽く見積もっていたようだ』
「ひゅ、ぐっ……ごぼぉっ……!」
『たっぷり息を呑んで、自慢のコレクションの前で無様に溺れなさい。特権階級のクズ』
バルド伯爵は白目を剥き、首を掻きむしりながら、見えない深海の底で絶命した。
その顔は、彼が皮を剥いだセリアの生首よりも、遥かに醜く歪んでいた。
――翌朝。
内側から施錠された完璧な密室で、外傷が一切ないにも関わらず、肺を未知の重いガスで満たされて「溺死」しているバルド伯爵の死体が発見された。
騎士団は再び「悪魔の呪い」だとパニックに陥り、事件は永遠の迷宮入りとなる。
その混乱をよそに。
帝都の裏路地で古物商のシャッターを開ける、一人の青白い青年がいた。
彼は新聞の一面を飾る「バルド伯爵、密室での怪死」の文字を一瞥し、ふっと、三日月のように笑った。




