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前編

帝都で最も華やかな大劇場。

その熱狂の裏側にあるプリマドンナ専用の個室楽屋は、異様な静寂と死の匂いに包まれていた。

分厚い防音扉は内側から施錠され、窓もない完全な密室。


その中央で、帝都中を魅了した美しき歌姫・セリアは、無惨な姿に成り果てていた。


「おお……なんという事だ。私の、私の最高の芸術ミューズが……! 誰だ、私の神聖な舞台をこんな三流の呪いで汚したのは!」


両手で顔を覆い、芝居がかった大仰な身振りで嘆いているのは、劇場の総責任者である舞台監督のヴェインだ。


彼の視線の先には、信じがたい光景が広がっていた。

床には首から下だけのセリアの遺体が横たわり。

そして異常なことに、切断された彼女の美しい『生首』が、床からちょうど一メートルほどの高さを、プカプカと何もない空中に浮遊していたのだ。


「小隊長! 部屋のどこにも、首を吊るすような細い糸や魔法陣はありません!」

「馬鹿な……。どれほど高位の魔法でも、術者が密室の外に出れば効果は切れるはずだ。なぜ、首だけが浮き続けているんだ……!」

現場に駆けつけた王都騎士団の小隊長が、冷や汗を流しながら後ずさる。

魔法の法則を教練で叩き込まれている彼らにとって、これは絶対不可能な事象だった。


「ああ、恐ろしい呪いだわ……! 彼女、最近は平民の男にうつつを抜かして劇団の規律を乱してばかりいたから、罰が当たったのよ」


わざとらしく震えてみせながらも、その口元に暗い歓喜の嘲笑を隠しきれていないのは、万年二番手のライバル女優、ライラ。


「ええい、不愉快だ! 騎士団、さっさとその薄気味悪い首を下ろして事件を終わりにしろ! 私がせっかく与えた特等室を汚しおって……これだから平民の泥棒猫は!」


顔を真っ赤にして騎士たちを怒鳴りつけているのは、セリアの最大のパトロンである恰幅の良いバルド伯爵だ。

彼はセリアに求婚し、「引退する」と袖にされたばかりだった。


怨霊の呪いか、罰か、それとも悪魔の仕業か。

魔法の理すら無視した不可解な光景に、小隊長が「怨霊による事件(捜査の打ち切り)」を宣言しかけた、その時だった。


「ほう。密室の宙に浮く生首。なるほど、三流の演劇としては悪くない見栄えだ。……だが、物理学の点数をつけるなら赤点ですね」

唐突に背後から響いた、冷たく静かな声。

開け放たれた楽屋の入り口に、一人の青年が立っていた。

喪服のように黒い外套と、銀の装飾が施されたステッキ。

探偵、シャルル・キョースである。


「き、貴様はいつぞやの探偵! なぜここにいる!」

「いやいや、ファンとして、歌姫の最期に花を添えに来たのですよ」

小隊長の怒声を無視し、シャルルはカツカツとステッキを鳴らして密室へと足を踏み入れた。


そして、空中に浮かぶセリアの生首の周囲をぐるりと歩き、おもむろにその美しい頬を、指先でツンと弾いた。


ポスッ、と。

肉体とは思えない、異様に軽くて空虚な音が響く。

「……なるほど。美しいが、中は『空っぽ』だ」

「き、貴様! 死体を弄ぶな!」

「死体? いえいえ、よく見てごらんなさい」


シャルルの視線が、空中の生首からダラリと床まで垂れ下がり、血を吸っている『セリアの長い髪の毛』へと向けられる。

彼はその髪の毛の先端を、ステッキでそっと押さえつけた。


すると、フワフワと揺れていた生首は、それ以上浮き上がることも沈むこともなく、一メートルの高さで完全に静止した。


「……見事な重量計算バランスだ。これなら、誰が触っても結び目など見つからない」

「な、何をブツブツと言っている! 早く出て行け!」

パトロンの貴族が喚き散らす。

シャルルは三人の容疑者――ヴェイン監督、女優ライラ、パトロンの伯爵――をぐるりと見渡し、冷酷な三日月型の笑みを浮かべた。


「呪い? 怨念? 馬鹿げている。……ふふ、実に醜悪で人間臭い動機が透けて見える現場だ」

シャルルの漆黒の瞳が、一人ひとりの顔をゆっくりと射抜いていく。


「彼女を一人の人間ではなく、己の支配下にある『舞台小道具』だと信じて疑わない演出家」

「……不愉快だぞ、探偵」

ヴェイン監督が低い声で唸る。


「万年二番手の屈辱から逃れ、彼女の美貌を汚したかった女」

「ヒッ……!」

ライラが息を呑む。


「そして、求婚を断られた己のプライドを許せず、彼女を『狩りの獲物』としか見ていないパトロン」

「き、貴様、私を疑うのか!」

伯爵の顔が怒りで歪む。


シャルルは空中に浮かぶ生首を背にして、静かに言い放った。


「これは魔法ではない。彼女の美しい『本物の頭蓋骨』を、自分の手元にコレクションとして持ち去るために作られた、物理的で極めて悪趣味な皮の風船ダミーですよ。……この中に、その猟奇的な細工を施した殺人鬼がいる」


その言葉に、容疑者たちの顔色が同時に青ざめ、次いで激昂に変わった。

「た、探偵とやら、いい加減にしろ! この神聖な劇場でこれ以上デタラメを吐くなら、騎士団に捕縛させるぞ!」


三人からの無言の圧力に、真面目な小隊長は悔しげに唇を噛みながら剣の柄に手をかけた。

しかし、シャルルは全く動じず、肩をすくめて入り口へと歩き出す。


「ええ、これ以上は言いませんよ。どうせ、ここでタネ明かしをして犯人の名を挙げたところで、あなた方に、真実が握りつぶされるのは目に見えている」


シャルルは扉の敷居を跨ぐ直前。

肩越しに振り返り、恐怖と怒りに染まる三人の顔をねっとりと見据えた。


「だから、こんな薄汚い人殺しには、私なりのやり方で、直々に答え合わせをしてあげよう。」

シャルルはそれだけを言い残し、ヒッと息を呑む容疑者たちを置いて、劇場の暗がりへと消えていった。


誰が、生首を宙に浮かせたのか。

恐怖と疑心暗鬼に包まれた密室に、ただセリアの首だけが、静かに浮かび続けていた。

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