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短編

そして世界は平和になりました? (近未来SF短編)

作者: F


 平和のための第一案

 悟りを開いた賢者の精神を機械にコピーし、それを人々が体験できるようにする。

 実施結果

 体験の評価は上々。実施範囲を拡大。


 平和のための第二案

 悟りを開いた賢者の精神を被験者の精神にコピーして身につけられるようにする。

 実施結果

 被験者の個性の喪失を確認。趣味嗜好が希薄になるか賢者に寄る。活動力の低下。購買力の低下。

「これでは国の生産性が落ちる」「精神的クローンである」との反対意見が続出。クローン賢者となった当人には「満足しているので」と戻すのを拒否された。

 ――廃案。


 平和のための第三案

 嗜虐的、無神経、自己中心的過ぎるなど精神異常の見られる人間から、過ぎたる性質は取り除き、欠けている性質を付与する精神操作の実施。

 実施結果

 被験者すべてから、生活課題の改善の報告。実施範囲を拡大。好反応。

 精神操作という言葉では洗脳のようだとの指摘あり。思想調整と名を変える。技術が向上し微細な調整も可能になった。

 実施範囲拡大――。


   1


 夏休み。中学生になり一人で祖父母の家へ泊まりに来ていたメグは、この日も祖父母の家で午前を寝つぶした。母が居れば掃除機の音で起こされようが、祖母は掃除機ではなく箒を愛用しているし、孫に甘いので起きろとも言わない。胸いっぱいに睡眠をむさぼって、体の芯から末端まで細胞が元気! と叫ぶように目を覚ました。食卓に用意されていた朝食兼昼食を摂り、祖父母はどこかとうろうろすれば、昼下がりのぽかぽかした縁側に座っている祖母を見つけた。

「ばあちゃん! おはよー」

「まぁメグちゃん。おはようさん。よく寝たねぇ」

「寝るって最高の娯楽だと思う」

「あはは。若いね。歳取ると長く寝るのも難しくなるのよ」

「そうなの? つらいねそれ」

 隣に腰を下ろし「あつー」と言えば、祖母は廊下に置いて回していた扇風機をメグの近くに移動した。近くに来た扇風機に「ああああ」と声を当てて変わる音に笑っていると、祖母は新聞を広げた。

「あ、何か祭りあった?」

 祖母の手元をのぞき込む。

 新聞の紙面を飾るのは事件ではなく、どこそこで祭りがあるだとか、どこそこの天然記念物の雛が産まれただとかと平和な内容ばかりだ。事件が起きるのは新聞の片隅で連載される小説の中ばかり。

 平和で平和でやさしい世界。

 新聞が語る情報が、事件や政変のことであった時代を知る祖母が眉尻を下げて言った。

「このあたりでやる祭りは無いねぇ」

「そっかぁ」

「ねぇメグ、学校でいじめは起きてない?」

「いじめ? なにそれ?」

「そう。知らないならいいんだよ」

「ふうん?」

 首をかしげて目をそらせば、庭で家庭菜園にいそしんでいる祖父を見つけた。麦わら帽子をかぶり、葉を裏返したりしている。葉の裏に虫の卵が付いていないか調べているのだと昨日言っていた。

「じいちゃーん!」

 祖父が気づいて手を振り返してくれた。祖母も一緒に手を振って、うふふと二人で笑いあう。

「お隣のケンちゃんはどうしてる? サッカー今もがんばっているの?」

「ケンちゃん……ね。サッカー部には入らなかったよ。思想調整してから燃えなくなったんだって。性格もまるくなっちゃってさぁ。いいこと? なんだろうけど、なーんかさぁ思想調整って、良いことばかりじゃ無いのかもなぁって、ちょっと思った」

「そうだね……。ばあちゃんもね、最近は天才って言われる人が減っているのが気になるのよね」

「そうなんだ。でも昔は戦争とか事件とか、いっぱいあったんでしょう? だからしょうがないのかもしれないけどさぁ……」

「ケンちゃんサッカー上手だったのにね。もったいないね」

「でしょ? そうだよね! 私もそう思うんだけどなぁ。ケンちゃんは猪突猛進なのが面白かったのに」

「今は違うの?」

「ぜーんぜん違う。ケンちゃんのお母さんがね、勉強できる子にしてくださいって言って、そうしてもらったって自慢げに言ってた」

「それは、ケンちゃんも知ってて受けたの?」

「そうだって言ってるけど。どーだか。……授業もまじめに受けるようになって、塾も行って、テストも良い点とれるようになってるけど」

 小六でケンちゃんに五十メートル走のタイムを追い抜かれた。くやしかった。追い抜きかえしてやると燃え、メグは陸上部に入った。年頃ゆえ女性の体に変わり始めた体では思ったようにタイムは伸びなかったけれど、ケンちゃんはもっと遅くなった。体育の授業で見かけてもあまりやる気を感じられない。

 ――お前は誰だ。

 と思うのだ。

 うすら寒いものを感じる。メグは脚を三角に抱えて、ぎゅっと体を小さくした。ひざに頭を乗せてスカートにささやく。

「昔のケンちゃんが好きだった……」

 聞こえるか聞こえないかの声。祖母には聞こえなかったかもしれない。聞こえたかもしれない。祖母は何も言わず、メグの背中をぽんぽんしてくれた。

 ぐすっと鼻をすする。

「ケンちゃん、死んじゃったのかなぁ……」

 じーわじわじわ、と命短い蝉が鳴く。平和な、平和な日々。


   2 【ある男の独白】


 大好きだった人は、ある日突然別人になった。

 彼女は良いところのお嬢さんで、身なりの良い格好をしていたが、勝ち気でガキ大将のような人だった。地元の子である僕たちにまぎれて野山を駆けまわっていた。帰るころにはみんなのリーダーになっているようなそんな女の子。笑顔が太陽のようだった。

 田舎の綺麗な空気を吸いに来ていただけの彼女のご両親は、草まみれの彼女を見たときそれはそれは嫌な顔をして。

 彼女がいた夏休みが終わり、二年がたった。僕は昨年は会えなかったのがとても残念で、その年は別荘の前に見覚えのある車が止まったのを見るや、全力で走っていた。

「ごきげんよう。おひさしぶりです」

 にこりと微笑んで上品におじぎをする女の子。

 ――だれこれ?

 顔はあの子と同じだが。

 何を問いかけても楚々とした反応。遊びに連れ出しても化けの皮がはがれない。はつらつとした少女の面影はどこにもない。

 久しぶりに見た彼女はおしとやかなお嬢様になっていた。

 別人がなりすましていると思った。あの子は殺されたのか。なぜ、どうして、嘘だ。信じられない。

 家に帰って泣きながら親に言えば、そういう技術があるのだと言われた。いなくなったのは彼女という人間の体ではなく、勝ち気な精神だけなのだと。あの子はあの子のままで、あれもあの子なのだと。僕が残念でも、思考調整をした方が良いと親が判断するようなものがあったのだろうと、その子が生きやすくなり、世界が平和であるためにあるものなのだという。そういうものなんだ、なんて、苦笑して言う。

「ふざけるな!」

 いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ、許さない、認めない、そんなの人殺しと同じだ。ふざけるな!

 それを善とする世界など、他の誰が善いと言おうが悪である。


 このかりそめの平和を破壊するための第一案

 力業


 そもそもなぜ思想調整がここまで普及してしまったのか。

 思想調整は、脳をコンピューターに見立てて操作するものだ。人の脳に電気信号を送り反応を変える。それはもはや洗脳を超えた人造人間と呼ぶにふさわしいだろう。

 なぜ誰も止めなかった。

 そんなことができる能力があり、しかし反感を持たれるのが確実であると予想できたとき、責任者の前には一つの選択肢が現れたはずだ。良心と邪心の。

 すなわち思想調整をする対象に、思想調整に反感を抱かなくなる調整をこっそりと行うか、行わないかということだ。私はこれを「やったのだろう」と考える。

 しかし調整されない人も居る。そういった自由の徒がなぜ止めなかったのか。

 調整された人間が増えれば『思想調整に従うのが普通』という常識が現れるのは想像に難くない。猿の赤子にヘビを見せても恐れないが、ヘビを恐れる大人の猿を見たあとには恐れたという実験結果があった。生きるための学習機能だろう。人間が「当たり前」という言葉を使う以上はすべての人間もそうであると言えるはずだ。

 ならば。当たり前を変えれば良い。

 思想調整によって内側から変えられてしまった社会常識、それそのものを変えてしまえば個々人の調整に手を加えることが出来ない我が身でも、外側から世界を変えることが出来るはずだ。

 思想調整は脳をコンピューターに見立てて操作する。ならば、集合無意識を共有クラウドデータのように操作することも可能だろう。私も集合無意識に所属する者でありログイン可能なのだから。

 集合無意識、空気感、雰囲気、気配、そういったもの。言語化の難しいそれであるが、それと知覚できる以上はそこに化学反応は絶対にある。人の脳波も、大衆を動かす空気も、目には見えない物という意味では大差ない。人の心の反応をかつて人々は心と言ったが、解明してみれば脳の反応と呼ぶにふさわしい部分は多いのだ。その脳がコントロール可能ならば集合無意識とて同じこと。

 あとはそう、いかにして脳をコンピューターに見立てて操作できてしまったのか、それを知れば良い。

 やるべきことは決まった。なに、単純なことだ。

 一に集合無意識の観測。

 二に思想調整の仕組みの解明。

 三に、二を集合無意識の操作に応用すること。

 これを達成するには一つだけ不本意ながらやらねばならぬことがある。思想調整に肯定的なふりをして、あの関係会社に入りその秘技を知ることだ。実に不本意。不本意だが。

 まぁやろうか。


  3


 お父さまお母さま、そう呼ぶのはかわったことらしい。このあたりの子たちは、父ちゃん母ちゃん、お父さんお母さんと呼ぶそうだ。

 お父さま呼びなんてはじめて聞いた! と言われてなんだかほこらしかった。そうでしょ! すごいでしょ! んふふふふ。

 ダムから田んぼへ流れていく小川をはじめて見た。これがあの春の小川がさらさらいくあの小川! 夏だけど!

 きゃっきゃと楽しくあそんでお家にかえったら、ちょうど玄関をあけてお父さまとお母さまがむかえに出てきてくれた。うれしくてとびつこうとしたら、お父さまの大きい手にかたをつかまれて止められた。

 見あげればふきげん顔のお父さま。

「ひどい草まみれではないか。着替えてからお父さまたちのところに来なさい」

「さ、部屋にいくわよ」

「……うん」

 ひみつきちのこととか、ザリガニ釣りのこととか話したかったけど、きいてくれる空気じゃないや。

 次の年もまた行くのだとばかり思っていた。みんなにも「またね」ってお別れしたのに。

 次の夏のまえに言われたのはちがう話だった。

「大事な話がある。お前には思想調整というものを受けてもらいたい」

「しそうちょうせい? ってなに?」

「生きづらい気質を平して、生きやすくするものだ」

「生きづらい? そんなこと思ったこと無いけど」

「それは今は恵まれた環境に居るからだよ。これからは違ってくる」

「めぐまれた環境にずっといることはできないの?」

「めぐまれた環境にいられる生き方が、調整された世界なのだ」

「子供に楽させてあげたいと思う親心を分かってくれないかしら」

 親切な、やさしそうな、そんな顔で。わたしのままではぜったいに生きづらいと言いきられる。わたしのままではそんなにいけないの?

 わたしはそんなにいけないの?

 ふたりの顔はしんけんで、ゆるぎない。

 ああ……そうか。そっかぁ。

 わかっちゃった。

 お父さまもお母さまも、わたしのことが嫌いなのね。わたしのままでは、嫌いなのね。

「やってくれるか?」

「……はい」

 答えたときの二人のかお。きっと忘れない。

 しそうちょうせいしたら、お母さまもお父さまもわたしをぜんぶ好きになってくれる?


 *


 きのう、何をかんがえていたっけ。

 しそうちょうせいをしました。何が変わったのかよく分からないけれど。

 お父さまとお母さまがうれしそうで、わたしもうれしいです。

 学校へ行くとみんなにおどろかれました。

 かわったね。とよく言われます。わたしにはよく分かりません。


 夏休み。お父さまとお母さまといっしょに旅行へ行きました。あついから北へ行くそうです。北はすずしいと知っているお父さまはすごいと思いました。でもなにか忘れている気がします。なんだったっけ。たのしいからいっか。


 大学二年でお見合いをしました。

 父の会社と関わりがある会社の跡取り息子さんだそうです。人の良さそうな方なので、父が良いというなら私も良いかなと思いました。そういえば私、恋をしたことがないです。

 最近、なんでもない時間に心が泣きそうになります。「あああああ」と叫びだしたい気持ちにもなります。恥ずかしいのでやらないですが。


 結婚をしました。

 せっせと家事をし、子を産み育て、両親と夫を交えた食事をします。笑顔で。

 夫は優しい。私が大学生だった頃から浮気しているけど。お金をよく稼いでくれるので生活は楽です。感謝……するべきなのだと考えますが、心が動きません。

 苦しい。

 呼吸は出来ているのに息が出来ていないようなそんな苦しさがずっとあります。

 心が何かを考えようとするとその先へ思考が進めなくなります。締め付けが強すぎて動かなくて、そのうちなぜそちらへ行きたかったのかも分からなくなって。

 私は何なのだろう。

 幸せって何なのでしょう。生きているだけで幸せだといっていた人がいると聞きました。私は生きているのに幸せが分からないです。なにがちがうのでしょうか。

 浮気をつらいと感じるけれど、私とて夫に恋情も愛情も持ってはいないのだからお互い様かなとも思うのです。ああ、でも、夫が私を大切にしてくれたなら愛が芽生えることもあったのでしょうか。そんな感情が私にあるのでしょうか。

 子供には愛情がわきます。この愛しさは私に許された感情の残りカスのようで、幸せなほどに切なさもあるのです。

 さみしい。なにがさみしい?

 何も分からない。頭が痛い。行きたい思考の先へ向かえない。

 私は。

 私はこの先に私が居ると感じる。

 無理に考えれば、ぐらりと睡魔に襲われて眠りに落ちて、起きて忘れて。そんな日々を送っていたある年。

 七月七日。七夕。

 それは起こりました。


 *


 ざーざーと雨音が世界を支配しています。

 自宅のリビングの窓から曇天を見上げていたときです。頭を横から張り倒されたような感覚に襲われました。とっさに窓に手をつき、額もつけて体を支えます。

「痛っ……!」

 世界がゆがむ。

 立っていられずにずり落ちて、目を閉じました。ぐわんぐわん回転している感覚。少しずつおさまって目を開けば、景色は雨の中のまま。

「なにが……」

 頭が痛い。でも妙にスッキリしているような。

 似たものに覚えがあります。あれはそう、思想調整をされて脳の何かが変わった時。あのときはスッキリではなく固定された感じでしたが。その真逆の感覚。

「戻った……?」

 深く息を吸いました。いつもより肺に酸素が行き渡るような気がします。呼吸をするたび頭の不可侵だった場所に手が伸びていくような、血が巡るような、命が広がるような感覚。

「――たすかった」

 とっさにそんな言葉がこぼれました。涙が勝手にあふれてきます。ほろりほろり、とめどなく。

「生き返った……」

 私は殺されていたのだとも、気がつきました。


 この日、世界は枷から解放されました。


 あらゆる情報媒体でこの異常事態が語られています。どうやら思想調整をされていた人が特に強い頭痛や変調をきたしたらしいとのことで、政府や思想調整組織に問い合わせが殺到しているようです。

 大人が怒る場面を私は初めて目にしました。炎上という、祖母の昔話を思い出します。

 我々現代人には怒りという感覚がふしぎすぎて、困惑するばかり。

 ううーん?

 私は窓辺におかれた編みカゴの中で丸まる黒猫のそばへ行きました。

「みーちゃん」

「みゃ?」

 黒猫はしっぽを高く上げてのびをします。つい撫でればつやさらの毛並みのぬいぐるみ。

「怒り、とは何か調べてちょうだい」

「んみゃ~。しょうがないにゃぁ」

 みーちゃんが黒く長いしっぽをゆらゆらさせれば、壁に掛けられたPCウィンドウが起動します。そして検索画面が右半分に、左には検索結果のおおまかな総論と、ブログやSNS等の個人発信情報、企業の公式サイト記載情報、別年代の検索結果が四つに区切られて表示されました。

「ありがとみーちゃん」

「にゃ~」

 検索猫AIの個体ネーム『みーちゃん』と相談しつつ、自分も画面をタッチして調べましたが、しっくりくる情報が見つかりません。

 怒りとは、子供や思想調整を受けていない大人に見られる感情反応とあります。私の常識とも一致しますが、その常識を疑って調べているのです。

 五十年以上前の情報を指定して調べると、文字化けしているものや閉鎖しているところが多いですが、みーちゃんにダウンロード済みの解析ソフトにかけたら六割ほど読めました。


 怒りとは。

 腹を立てること。自分や何かを守ろうとするときに出てくるもの。自らを正しいと思っているときにより強く出てくるが、勘違いでの怒りも多く、争いの元になる。理不尽に抵抗し、よりよい環境へ変えていく場合に有用な力となる。活力がある人に現れ、怒る力すら出てこない時は心が疲れているので休息すべし。心の健康のバロメーターともいえる。悟りを開いた人は怒らないらしい。本来は悲しみなどの別の感情であったはずが、心を守ろうとした錯覚反応での怒りもある。


「……心の健康のバロメーター」

 現代からは考えられない話がたくさん、たくさん。

「なんてこと」

 思想調整って、なんだったのでしょう。

 私たちは心を守る力を奪われていたの?

 頼るよすがを求めるようにソファに腰を落とすと、テテレンと軽やかな音で両親から電話がきました。安否の確認のようです。

 夫からも連絡がありました。仕事中の出来事でしたので作業エラーが多発して大変だそうで、電話はすぐに切られました。忙しい中でも気にかけてくれる、優しいところもあるのですよね。

 空はどんよりと暗く、糸のように雨が垂れ落ちる。織姫と彦星はあの厚い雲の上で再会できたでしょうか。

 織姫様、人間は新しい時代に再会したかもしれません。

 私は、私たちは一体どうされていたのでしょうか。なにが起きているのでしょうか。

 今が正解なのか。過去が正解なのか。

 かつて私は何を考えていたでしょう。ここ最近の虚無感、これが正しいのだという安心感、本当にそうなの? と水に落とされた一滴の墨のようにじわり胸によぎるもの。

 考えようとすると頭が痛くなって、抵抗して、つらくなって、日常の雑事をこなしているうちに忘れて、忘れたことも忘れて。

 夫の浮気は心が痛かった。さみしかった。今は浮気に対して湧くのは、悲しみではなくふつふつと燃えるエネルギーです。きっとこれが怒り。

 怒りは自分や何かを守ろうとするときに出てくるものでしたか。

「思想調整ってひどいものだったの?」

 腹の底が煮えていくのを感じます。それが奇妙に心地よく、そう、力を取り戻すようで、正直、夫なんてどうでもよくなってきました。恩もありますし抵抗しなかった私の問題もあります。それよりも解放されていく感覚が嬉しい。

 ああ、生き返る喜びのなんと深いことか。

 夫は浮気をしているくらい自由に生きているのになぜ私はこんなに耐えていたのでしょう。夫も調整をされたのに。

 この個人差は何?

 調べました。

 思想調整には強度の違いがあると出てきました。電話で母に聞いてみましたが私のかけられた強度は弱だそうです。それでこれ?

 もっと調べると、先ほどの頭痛がひどかった人に共通点が見えてきました。それは昔の性格と調整後の性格が大きく違い、今は怒りが湧いているということです。私もそうですね。

 私が調整をしたのは小学校低学年のとき。あのとき私は「調整前は元気いっぱいだったのにおしとやかになっちゃったね」と友達に言われました。

 解放前後の気持ちの変化について調べれば、調整強度が強の人の変化は少なく、かつての私に似た状態になっているようです。違和感があるけれどそれ以上が分からない、あの感じですね。

 私は弱だからこそ以前から違和感に気がついて苦しかったということでしょうか。

 疲れたのか頭がぼうっとしてきました。

 少し、休みましょう。



 数日がたちました。気持ちの整理もついてきました。

 離婚します。

 未練はありません。ただ怒りと感謝が両方あるのです。感謝の気持ちを意識して残りの日々をやりすごしましょう。

 慰謝料は払うと夫から言われました。彼も思うところがあるようです。離婚の少ない現代では珍しい仕事のようで弁護士が手間取っておられます。

 子供は一人。引き取って育てていきます。しばらくは実家頼りの暮らしですが、私も何か仕事をしたいと思うのです。子供の頃にこれをしたいと思ったことがあった気がするのですが……思い出せません。

 まだぎりぎりと縛られたような苦しさがあります。これが思想調整の違和感というものなのでしょう。

 あの七夕以降、思想調整の関係各位は対応に追われているそうです。私もまたその忙しさの要員となるために【思想調整の解除】へと応募致しました。


 解除の日です。私を祝福するように太陽が輝く青空の下、電車を降りて調整会社へ歩いていきます。

 街行く人の笑顔が眩しい。

 逆に不安そうにしている人もそれなりの数おられますが、全体としての空気は明るいです。今なら分かります、かつての私の空虚な笑顔は私だけのものではなかったと、そういうことなのですね。


 公園にさしかかったときです。

「メグりん!」

 青々とした葉桜がある方から大きな声がしました。

 黒髪の男の子がダダダダッと走って、茶髪のショートカットの女の子をがしっと抱きしめます。

「わっ!」

「メグりん! 俺と結婚してくれ! 大好きなんだ!」

 まぁ! よかった。恋人同士ですね。違うなら女の子を助けに行こうかと思ってしまいました。事件ではなくて良かったです。

「け、けんちゃん?」

「うん!」

 あわあわしていた女の子の手が、そっと男の子の背に回ります。

「けん、ちゃん……けんちゃぁん。ケンちゃんだぁ」

 大きな体に包まれていて女の子の顔は見えませんが、泣いているのが声で分かります。

「昔、大きくなったら結婚しようなって言ってくれたのに。付き合ってくださいとか普通に普通な感じで言ってくるんだもん、覚えてないんだ、別人になっちゃったんだってすごく悲しかった。よかった。元に戻って本当によかったぁ!」

 わああんと泣く女の子。戸惑う周囲の私たち。

 二人から少し離れたところにいる人の声が聞こえます。

「そこかぁ。それは忘れちゃダメなやつだ賢太。嫌われてもしゃあなし。つか怖いな、忘れるのかそれ。思想が違うから思い至らなくなるのか?」

 耳触りのいい男性の声です。あの子たちのお知り合いのようですね。

「なるほど。忘れたままでも思想が戻ると同じ行動をとるのか。興味深いな。私には十分猪突猛進な男に見えていたけど、似て非なるだったんだな」

 今度は女性の声。先生や教授のような雰囲気があります。思想調整。なるほど。あの男の子は思想調整を今日戻した仲間でしたか。調整に引き裂かれていた恋人たちといったところでしょうか。

「純愛がまぶしいです」

「春だねぇ」

 素敵ですね。葉桜の下ですとロマンスより青春を感じます。さわやか。

 青春に背を向けて私も調整会社へ向かいます。


 似て非なるもの、ですか。微細な変化でも分かる人には分かるのですね。

 両親も意識が変わってから驚くほど私の味方に変わりました。

 思想調整をさせたことも、政略結婚が幸せだと思いすすめたことも謝罪していただきました。

 幼い頃のことでひとつハッキリ覚えていることがあります。私を見る両親の顔が、とても強い恐怖と困惑を含んだもので、私はそれで愛されていないと感じて、だから思想調整に「はい」と答えたのです。そうすれば両親に愛してもらえると思ったから。

 娘を寝かせつけたあとの夜更け。両親にその話をすれば母は「違う!」と叫びました。

「違う。違うわ。そんなことをしなくたってずっと愛していたわ。ただこの子はこのままではきっと苦労すると思って。だから愛していなかったなんてそんなことはない!」

 まっすぐな目で私を見てきます。

「ごめんなさい。そんなつもりで調整させたかったのではないの。あなたのためを思っていたつもりで、そんな、そんな気持ちにさせていたなんて……ごめんなさい」

 顔を覆って泣く母。父は両膝に手を置いて、私に頭を下げました。

「……すまん」

「お父様」

「我が子を守るどころか、世間に服従してお前を差し出していた。あの謎の目覚めがなければ今もそうだっただろう。屈辱的な事実だが、私は家族を守ると思いながら守れていなかった」

 真摯な。過去の父と同一人物だとは思えない柔軟な姿勢。

「すまなかった」

 ああ、世界が変わってきている。

 そう実感しました。

 

 思想調整により世界は平和を謳歌してきました。その成果は称賛に値すると云う人がかなりの数おられます。私もそこに異論はございません。ですが。

 ねぇそれは、誰のための平和なの?

 世界人口の半数以上の心を犠牲にしたそれは平和なの?


 事件がないのは望ましい。けれど心が死んでいるのは望ましいの?

 どこかのタイミングで改善していくべきだった。きっと怒りを封じてしまったせいで、歯止めがかかるべき時にかからなかったのだわ。

 犯罪がほとんど無い世界。今後、同じ平和を維持するのは難しい道なのかもしれません。かつて死刑があったように、自由にさせると悪いことをする人もいるでしょう。しかしそこまでの危険思想者は思想を戻すことを禁ずる方向で、各国は動いております。

 逆に言えば、私たちは死刑に相当する状態にされていたということでもありますね。

 今はもうかつてと違って未来の平和が確約されていません。この変化を怖がる人もかなりの数おられます。危険な世界になってしまったのかもしれません。

 ああ、けれど私は今とても楽しいのです。

 世界が明るく感じるのです。

 街に咲く花々の、その色ひとつひとつが鮮やかに心に響いてきます。果ての見えぬ空の高さに心がときめきます。

 私たちは死んでいました。

 死者の国は平和でしたか。

 私にとっては無味乾燥な世界でした。生者の国はどうなるでしょう。

 ひとつだけ言えるのは、すでに私は幸せだということです。


 *


 調整会社に着きました。冷房が涼しい。

「ほとんど自力で戻りかけていますね」

「あら」

 検査していただいたらそんなことを言われてしまいました。人の良さそうな調整員の方は狐みたいな目でにこりと笑って「努力家なんですね」とおっしゃいます。

「でもまだ制限はかかっているので戻しましょうか」

「はい。お願いします」

 調整機器は、昔のMRI検査機を縮小したような形で、ドーム部分に頭だけ入れて行われます。

 寝ている台の下から何かが出てきて頭の両脇をみちりと挟まれました。作動中は電気も消されます。

 真っ暗の中、ヴィーという音が頭上からしました。ピカッと青白い光が複数、蛍のように現れてうろうろと周囲を動き回ります。ああ、これ、覚えている。子供の頃に見たものです。なつかしい。

 じっとそれを見ているうちに意識が――。


「――さん、起きてください。終わりましたよ」

 いつのまにか寝ていたようです。部屋が明るくなっています。調整員の男性が不調はないかといろいろ質問してきます。

 不思議です。思想が変わると思い出すものも変わるのかしら。なんだか調整員の方の顔すらも、ずっと昔に見た覚えがあるような?

 面長で、目が細くて、狐っぽくて。にこりと笑む顔がかわいらしい男の子……この記憶は。

「……ひさしぶりですね。タイショー」

「その呼び方……」

 記憶の男の子と彼の顔が重なります。

「ああ! 思い出したわ!」

 少し痩せたかな? 可愛らしさが消えて精悍になっている。

 再会の約束をしたあの子たちの笑顔も思い出せる。あのころの楽しさが、蓋を開けたようにあふれてくる。

「そう、昔、夏休み、小学校の夏休みに、母の病に良いという空気の綺麗なところへ遊びに行って、そこでたくさんの子供達と仲良くなったのよね。そのときに私が大将と呼ばれていたのよ。ああ! どうして思い出せなかったのかしら。覚えてはいたはずなのに。あの中にあなたもいたわね?」

「ええ。また会いたかったです。タイショー。お嬢様ではないタイショーに、やっと会えましたね」

「あはは、お嬢様ではないって思われていたのね」

 そうよね、着るものは綺麗でも草にまみれていたものね。

 昔の私の方に会いたかったなんて嬉しいけれど、そんなことを言う人がなぜこの会社にいるのでしょう。

 あらためて周囲を見ても彼以外に社員はいません。私と二人きりの今だから言えることを言ったのかしら?

 なぜ?

「……原因不明のあの目覚めは、もしかしてあなたと関係があったりするの?」

「どうでしょう。なんともお答えしかねます」

「そう。そうよね」

 違うとは言わないのね。なにかしら、薄ら寒くなってきたわ。怖いけど追求したい。先日までの私では考えられない冒険心です。ああ、これが私なのね。

「今はここで思想を戻す再調整の責任者をしていると、あいさつで言っていましたね」

「ええ。いつかこのような日が来るのではと思い、戻す仕組みを考えておりましたから。はは、実はこうしてあなたに会えるのを夢見てがんばっていたんですよ。今だいぶ努力して冷静に話しています」

「まぁ。うれしい。まさか私のためにここに入ったの? なんて」

「そうですよ」

 低い声につられて顔を上げれば、強い眼差しに胸がきゅんっとしてしまいました。

「正直に言えばあなたのためでした。あのころ私はあなたのことが大好きでしたから」

 顔が熱いわ! 照れるわ。

「そ、そうなの。今は? 好きと言ってはくれないの?」

「好きか嫌いかで言えば、もちろん好きですが。私は今のあなたを知らない。そして私も昔の僕ではありません。あなたも私もこれまでの人生で経験をし成長し変わってきています。あのころの心のまま好きと告げるには時間がたちすぎました。もちろん、心惹かれていますけどね」

「ふふふ。正直な人ね。それならねぇ、またお友達になってくれる? 今度は、来年も会いましょう」

 彼が笑いました。雪解けの最中に咲く花が、太陽を眩しそうに見上げるようなそんな目で。

「はい。あなたと話したいことが、たくさんあるんです」

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