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ミスト

作者: あい太郎

 その町は、霧で知られていた。山と川に囲まれた谷間で、季節の変わり目になると白い霧が一帯を覆い、昼でも数メートル先が見えなくなる。人々は慣れたもので「この町じゃ、霧は日常だ」と笑っていたが、私にとっては不気味な光景だった。


 私はフリーの記者として、地方の怪異や伝承を取材していた。雲ヶ崎町に霧の怪談があると耳にしたのは、ある居酒屋での雑談だった。飲んでいた地元の男が酔った拍子に漏らした言葉が気になったのだ。


 ――霧の向こうに、黒い影が立ってるんだよ。


 単なる見間違いとも思えたが、彼は続けてこう言った。


 「そいつを見た奴はな、みんな数日以内に消えるんだ。行方不明になったり、突然死んだり。町の連中は知らんふりしてるが、昔からそうだ」


 私は好奇心に駆られ、町へ数日間滞在してみることにした。




 初日は、何も起きなかった。町役場で話を聞いても、公式には失踪事件は少なく、人口減少は都市部への流出が原因だと言う。地元の古老も「霧はただの霧だ」とはぐらかした。


 だが、宿の女将だけは妙に落ち着かない様子だった。


 「……見ない方がいいんですよ。霧の中に立ってるものを」


 問い詰めると、女将は震える声でこう言った。


 「影を見ると、連れていかれるんです。霧が晴れても、戻ってこない」


 彼女はそれ以上語らなかったが、その怯えようは演技には見えなかった。




 三日目の朝、町は深い霧に包まれた。宿の窓を開けると、真っ白な壁が立ち塞がり、すぐ近くの電柱すら見えない。私はカメラを持ち、外に出た。


 霧の中を歩くと、すべての音が吸い取られたように静まり返っていた。遠くで犬が吠えているのかと思えば、すぐ近くで響いたり、距離感が失われている。


 私は川沿いの小道を進んだ。白い帳の向こうから、確かに「人影」が見えた気がした。


 背筋が粟立った。

 それは、人間よりも少し大きく、全身が墨を塗ったように黒く沈んでいた。輪郭は霧に溶け込み、顔も手も判然としない。ただ「こちらを見ている」と、理屈抜きに分かった。


 私はシャッターを切った。だが、次の瞬間には影は消えていた。霧の奥には何もいない。ただ白い世界が広がっている。




 その夜、宿に戻って映像を確認した。だが、どのコマにも黒い影は映っていなかった。代わりに、画面いっぱいに霧が滲むように広がり、レンズの奥から黒い斑点がじわじわ大きくなっていくのが見えた。


 女将に映像を見せると、顔を蒼白にし「もう帰った方がいい」と懇願された。


 「町の人はね、みんな影を見てるんです。でも口にすると呼ばれるから、誰も言わないんです」


 「呼ばれる?」


 「霧が深い夜に、窓を覗くんです。黒い顔で」


 彼女の声は震えていた。




 四日目の夜、私は眠れずにいた。窓の外は霧が濃く、街灯がぼんやりと滲んでいる。女将の言葉を思い出しながらカメラを構えていたとき、窓硝子の向こうに何かが映った。


 黒い影。


 硝子越しに、のっぺりとした輪郭の顔が張り付いていた。目鼻はなく、ただ真っ暗な空洞が二つ、こちらを覗いている。


 私は叫び声を上げて飛び退いた。カメラは床に落ち、レンズが砕けた。窓を見返すと、そこにはもう何もなかった。ただ外の霧が渦を巻くように流れているだけだった。




 翌朝、私は町を出ようと決めた。だが、駅へ向かう道も濃霧に覆われていた。バス停に並ぶ人影を見つけ、安堵したが、それはすぐに異様だと気づいた。


 誰も動かない。

 白い霧の中に、黒い影が十数体、静止して立ち並んでいたのだ。


 私は息を呑み、後ずさった。すると一体が、ぎしりと音を立てて首をこちらに向けた。空洞のような顔が、一斉に私を凝視した。


 足が動かなくなる。霧が濃くなり、影がにじり寄ってくる。冷たい湿気が肺に流れ込み、意識が遠のいた。




 気づくと、私は駅のベンチで目を覚ましていた。時刻表は錆びつき、ホームには誰もいなかった。時計を見ると、日付は三日も進んでいた。


 どうやってここまで来たのか、記憶が抜け落ちている。カメラも荷物も消えていた。


 霧はまだ駅構内を満たしていた。私は立ち上がり、出口へ向かおうとした。だがガラス戸に映った自分の姿に凍りついた。


 そこに映っていたのは、白い霧の中に立つ「黒い影」だった。

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