私は歩く
私は歩く、本を読みながら。ながら歩く私は、わざと足取りを小刻みに
してみる。てくてく、よちよち、とことこ、いろんな表現が当てはまる。
様々な雰囲気、色々な音を身に纏い、意識するのは視界がぶれず乱れないこと。
体の軸を失わず、頭の天辺から足裏を経て地面へ一筋の気合が通り抜ける。
どたどたと歩かず首から上が上下に揺れない安定感のある歩み。安定した目線
だとひとたび前を向けば過ぎ行く景色をよりしっかり捉える事ができるし、
こうして視線を落とし歩みながら本を読んだりもできる。
「ながら歩きは良くない」
きっと言われる。私もそう思う。だからしっかりと前方から意識を外さない。
読書歩きとスマホ歩きとでは視界が大きく違う。
目線を保ちたいのは、横暴な自転車どもと戦うため。
悪しき二輪車どもとの戦いはまだ始まったばかりだ。
俺は西部のガンマン。
颯爽と馬を駆り、武器を扱う手捌きは目にも留まらぬ速さ。
子供やご婦人は守らねばならない。高齢者が困っているならば助ける。
守るべき人々を虐げる荒くれ者は許さない。
立ち向かうべきは、あの我が故郷の治安を乱す悪の一味、三田グロース。
一度全てを解決したはずなのに、何故か無罪放免となり、戻って来るらしい。
だが放ってはおけない。ここ出張先から我が故郷へ、街の安全を取り戻す闘い。
「マスター、スコッチをダブルでくれないか」
「めずらしいね」、「ああ、長旅になりそうなんだ」
スコッチのグラスのスライドパスを受け止めて軽く飲み干す。
それから俺は振り子のドアを押し開けて、行くべき場所へと歩み出す。
私の名前は、空下地歩。
響きは可愛いが、字を見ると大空に包まれながら大地をしっかり歩め、
という父母の思いが込められているようで、雄大さも感じ気持ちが大きくなる。
人は育つにつれ名前とは逆の方の性格へと振れる事も多いらしいけど、
私はその名に導かれるように、地に足をしっかりと根ざして歩みを進める。
一日に一度よほど忙しいとき以外は、足腰の柔軟をしてメンテナンスをする。
膝周りの筋肉が硬くならないように、弱くならないように、
膝に違和感や痛みを感じたりしないように。
機関車で、固体燃料を燃やし動力に変える場所を火室と言うが、
人も体内で炭を燃やして動力を得ている。
火室で燃やした石炭の熱を推進力に変え前に進む、その支え。
支えは常にしなやかにしておく。寝たきりの祖母を励ますためにも。
俺の名前は睨裏駆破。
自転車という愛馬の手入れは怠らない。自分を自在に運んでくれる大切な相棒だ。
馬の蹄に削蹄を施すのとは反対に、タイヤが擦り減り過ぎていれば
厚みのあるものに取り替える。車輪、大地を転がり、乗せているものを見たことも
ない景色へと運ぶ翼。疾きこと風の如く、大きな輪がぐるぐる回る。
車輪を回す部品はしなやかに。円滑に回ってくれるように、しっかりと油を差す。
よくコチコチに固まった組織は思考が止まるというが、
錆びついた部品は、折れやすく痛みやすく剥がれやすく壊れやすくなる。
チェーンの油は十分に潤っているか?。ブレーキのゴムの厚みは充分か?。
飛行機の部品は一つでも欠ければ大事故に繋がる。事故を起こさない責任は同じ。
愛馬の状態を確認するのは自転車を操るライダー、サイクラーに課せられた務めだ。
公園を包む緑は暑さ寒さを問わず、心に潤いとハリをもたらし、
落ち着きを与えてくれる。もし心が乾いてささくれ立っていたとしても。
大気が暑さに膨れ上がっていても、寒さに縮こまっていても。
今朝自宅の入り口を出る直前、右から高速で自転車が目の前を通り過ぎて行った。
地歩は少し焦る。そして妙に腹が立ってきた。
なんなんだこれ。気持ち良いか。無人の荒野を走っているつもりか。
歩行者をヒヤリとさせ、自分は安全なとこ走って。
次はぎりぎりぶつかるところまで行ってやろうか、と地歩は思う。
自宅を出て近所の公園のそばを通る。頭上の周りを覆う緑に
癒されながら進み、分かれ道に出くわす。どっちが良いかな。
距離に大差ない場合、ぱっと見て見通しの良い方、
ごちゃごちゃしていない方を選べば概ね大丈夫だ。
よし、こっちにしよう。
「さあこの先、今の選択が吉と出るか凶と出るか?」
どんな景色が迎えてくれるだろう?、どんな結末が待っているだろう?
少し進みかけたところで、横道からトラックの大きな頭が入って来る
のが目に入る。狭い道路にその顔をねじ込んでくるようだ。
背中に水色のクレーン付き。職務を遂行するために現場に赴く道のり。
どうやらもう一方の道へ進んだ方が良さそうだ。お仕事の邪魔はしないよ。
お互い通りづらい展開は避けておきたい。地歩は素早く回れ右する。
歩くときは基本としてまず中央のラインを行く地歩。
状況に合わせ当意即妙に進路を取れるようにするためだ。
向かい風のように迫り来る多数の向かい通行者には心を決めて真ん中を突っ切る。
左右どちらかに寄りたいところだが、大きく横に移動するそこまでのリスクを
取りたくない。寄った側から急に人が出てくることもある。
駅構内など混雑を想定し予め進行方向が指定されている場所には
敬意を示し、左側、右側、とその場で決められている通りにする。
ただし止むを得ず逆走する流れになる人もいるので、そこも臨機応変に。
自分の方が動けるならば、私は自分から動く。初めから決めてかからない。
相手に委ねた方が良いときは委ね、譲った方が良いときは譲る。
世間はお互い様なのだ。
過度の片側張り付き歩行という病。これは右か左かを問わない。
最初から端にぴったり寄って歩くのは、危ないこともしばしばありがちだ。
地歩は片側に張り付くように寄って歩いてみた。自分も周りもちょっと怖い。
車道側に張り付くのは自ら車に近づく選択で自転車との譲り合い次第。
だが、歩道内側に張り付くとなると話は変わる。
内側の建物から急に人が出てくることだってある。
子供、女性、お年寄り、安全なエリアを通っているべき存在を差し置くのも問題だ。
ぶつかりそうになったり、ヒヤッとさせるのは良くない。
車道では重量に個体差はあっても、速度に大き過ぎる差はない。
歩道だとどうだ。よろよろ歩く人、よちよち進む人、軽快に走る人、乳母車を押す
母親。そこに自転車も通り過ぎる。個体差、それぞれの状況であまりにも違う。
私はこちらを通ります、空けてください、左って言ったら左なんです、みたいに
自分の事だけ考えて弱者のことを想定していない。
私は守るべき存在を退かせる存在でいたくない。歩道はどっち側通行でもない。
だからほとんど無思考でただ寄って歩くのは避けるようにしている。
自転車が走り込んできた。急にブレーキを掛けたのか、後車輪が浮かび
体が持ち上がり、前方へずささっと倒れ込んだ。
結構な速さで、歩行者の多いところで、しかも歩行者天国にされていた場所で。
「気をつけなさいよ」。
「すまない」。
「自転車はあくまで歩道を走っても良い、というだけで、基本は車道なんですけど。」
「車道わきにあんなに車が停まっているのでね」。
「ヘルメットかぶらないんですか?」
「ヘルメットは努力義務じゃないかな」。
「努力してます?」
「そうだね、必要だよね」。
不本意にも女の子、それも中学か高校生くらいの女子を
ヒヤリとさせてしまったことに、駆破は動揺し、また自分が許せなかった。
自転車は車よりもずっとずっと軽く小さいとはいえ歩行者からは
ずっと速く走る存在に違いない。歩道の暴君などと言われて久しい。
一方で車道の弱者とも言われる。本来の通行場所は車道であるにも関わらず。
駐車違反の切符を切る仕事は世のため必要とはいえ心痛むときもあるけれど、
職務を遂行する事に迷いはない。軽やかに本日もノルマの2倍、やってやります。
車道わきを歩く地歩は、歩道を通り過ぎる自転車のライダーを正面から
睨みつける。平然と通行してんじゃないよ、歩行者を脅してんじゃねえよ、と。
そしてもう一つの仕事、スピード違反も取り締まる。
自転車の歩道走行という病。歩行者の安全を気にせず運転しているように思える
事も少なくない。歩行者を歩道の端に追いやる自転車って何なの?
一部の悪しきサイクラー達は、前方への意識が何か別物である気がする。
ベルを掻き鳴らして走り過ぎて行くおじいさま。
どけどけどけー、警鈴?、競輪?、競輪は競輪場でやってください。
進みゆく背後に見える背中からは、仕方なくと言うより
何かよく分からない信念や思い込みがうかがえる。
なんで君達は端に寄らないんだ。何故わしの道を邪魔するんだ、みたいな感じ。
きっと御存知ないのだから是非とも知ってもらいたい。
自転車は、歩道を通っても良い、ことになっているだけな事を。
またまた内側を通る自転車。
あ、電話なの。電話かかってきたの。それなら、どうぞどうぞ。
置かれた状況から仕方ない人もいる。その事は忘れないでいたい。
でもやはり歩行者を慮らない多くのライダーを目にする。
地歩はもう、そういう煩わしさから解放されるため、歩道から出て、
車道傍を歩いてみる。
快適だ。世界が広がる。
ただし自動車や、あるいは立派に道路脇を走る自転車の迷惑にならないようにする。
あくまで弱者の立場である事はしっかりわきまえて。
強敵なのがバスだったりする。掃除されそう。掃き集められそう。
そういえばバスを降りるとき、降りますよボタンを押すとあの大きな車体が
自分のためだけにでも停まってくれるのは、なんか嬉しい。
駅構内では轍を歩け。誰かの後ろにつけ。その方が安全で余計な危険を回避できる。
もし仮に自分が先頭になった時は、速度を少し控えめにして、向かい来る群衆の
なるべく近い空き部分へと狙いを定めて静かに慎ましく舵を取れ。
ここには自転車はいないが、どこでも安全な人の流れであってほしい、と地歩は思う。
「エスカレーターを歩くのは危険ですのでおやめください」。
少し前までは東部では右、西部では左を歩く、
なんてあるある話にもなっていたのが、最近はそんな事を言われる風潮だ。
エスカレーターを歩く人たちからすれば、「私はここを歩く、倍速だから」。
エスカレーターは駅でも百貨店でも劇場でも見られる。
エスカレーターに乗りながら目にする光景に駆破は思う、
片側が空いているエスカレーター、無駄にしか思えない。
何が昇降中の歩行は危険です、だ。最初からこんなスペースを空けて作るな。
空いていれば通りたくなるのが人の心ってもんだ。完全一列式のエスカレーターも
昨今よく目にする。新たに作り替えるには予算が掛かり簡単ではないだろう。
けれどもそんな試みが最近見られるようになってきた。
2列状態の3分の2くらいのの幅で作られ、空いた分を階段にする。
でもいざというとき、例えば車道で緊急車輌を通すため車が皆んな道路隅に寄るように、
昇降客が皆んな端に寄れば通る必要がある人は通れる。そうしておいて
普段はぎりぎり通れそうで通れない、こうすれば、呼びかけなくても
エスカレーターで歩く人はいなくなりそうだ。
駆破はこの頃、エスカレーターをなるべく使わず積極的に階段を使う。
ふぅーっ、少し息が乱れる。今日も75段を登りきった。
太ももに少しばかりの張りも感じるけれど、なんか爽快だ。
自分で速度を制御できる事の快適さ。速くできたり遅くできたりする喜び。
たまに体力を温存しておきたいときもある。
エスカレーターのお世話になるのは、そういう時だけでいい。
ここは駅。乗客が列車を待つ場所。
今から乗り込む列車は、地下も走り。地上も走る。
今日も様々な人たちが乗り込んでくる。それぞれの事情を抱えて。
電車を待つ際の並び、足元の表示では2列を推奨してはいるが、初めから2列に
なることはあまりなく、待ち人が物凄く増えてきて初めて二列になる。
エスカレーターで二列に並ぶ人をほとんど見かけないのと似ている。
皆知らない人の横に立つのは気が進まない。
やがて列車が到着した。列車から乗客が規則正しくどどどっと降り、
そして待っていた人々が規則正しく乗り込む。そして程なくして列車は発車する。
ぎりぎりで乗って車内を歩き移動する人は、もう乗ったという安心感の中歩く。
すいているなら良いが、そこそこ人が乗っている車内を歩く場合は、
他の乗客たちへの気配りを持ち合わせたいものだ。
7割がたの乗客たちの行き先は決まっている。懐宝迷邦の都。
だが、不穏な噂が。アパッチドローン。元々この地域で働いていたドローン達だ。
皆それぞれ活動範囲がある。彼らにとっての故郷だ。悲しいことに彼らに襲撃される
列車が後を絶たない。ただ列車は、道中にその影を感じつつも、進み続ける。
警備のドローン隊がこの先ついていてくれる。とても心強い。だが途中の駅まで。
他の任務のため別方向の街へと向かってしまう。そこから先は、次の警備ドローン隊
が到着するまで、何も起きないことを願うしかない。
優心は車内の端の席に座り、銀紙に包まれた十穀米のおにぎりを少しずつ
かじりながら、スマホでお気に入りの動画を眺めてくつろぐ。向かいの席にいる
座席に座りながら床に届かない両足をぶらぶらさせる子供がかわいい。
そしてのんびりした気分の中いつの間にかうとうとしていたところで目を覚ます。
優しい心と書いてゆうこ。
少し捻りを効かせた字選びと、そこに込められた愛情を感じる。
私、名前に負けないよ。心の奥底にある優しさは小さくないよ。
今日、乗車駅でこの列車に乗る列に並んでいるとき、老夫婦と思われる二人が
先頭の人の横にほんの少し間隔を空けて立って待ち始めた。優心は3番目。
優心は、きっとお出迎えか、この列の誰かを見送るつもりなのだろうと思った。
程なくして列車が到着。降車客が終わり、列に並ぶ人が動き出すと、なんとその
老夫婦は優心の目前から、2番目の人の後ろにつき乗り込んでいった。ただの
乗車客だった。優しい優心は溜め息を抑えて、真っ直ぐな視線で乗車した。
3日前。優心の目に映るおばあさん。
「座ります?」
言葉は発さず掌をこちらに向け少し左右に小さく弧を描き揺らすおばあさん。
「大丈夫」。
そっか、大丈夫なんだ。優心はいいんじゃない、と目を澄まし、座り続ける。
イケメンのように涼しい顔でいよう。
目的の駅に着いた、さあ降りよう。
おばあさんもここで降りるのかな。すぐ降りますからという意味だったのかな。
あれ、降りないんだ〜。そうなんだ、そうして降りてから振り向き窓越し見ると、
あ、なんと、私が降りきったのを確認してからおばあさん座ってくれたみたい。
うん、座ってもらえて良かった。そんな日だった。
昨日。カバンにトントン、と隣のおばあさんに。「座ります?」
ううん、すぐですから大丈夫です。爽やかに応えるおばあさん。
そして降り際に軽くお辞儀し、「ありがとうございます」と優心に告げた。
凛々しきお婆さん。実は優心も降りるところだったので微妙な気持ちだけど、
でもこうして人の世話にはならぬ、という気概は素敵だと思う。優心はこの日、
降りるおばあさんとは少し距離を置いてから、降車列の最後尾に付いて外へ出た。
今日はまた別のおばあさん。ここ数日で3回目の挑戦。
「どうぞ」。ほぼ同時に声が聴こえた。見れば中年の男性が優心と同じく、
席を譲ろうとしている。
「あ、あ、どうも、あー」、「いえ、こちらこそすみません。」
立派なおじさんだ。
優心は軽く苦笑いする。駆破は「どうぞお好きな方へ」と促した。
「じゃ、おじょうさんの方にするわね」。
年配女性は杖をつきながら、優心のいた席へゆっくりと腰を下ろす。
うんうん仕方ない、立派な心がけのお嬢さんだ、と駆破は感心した。
優心は安心させるようにおばあさんの方に軽く微笑みかけ、
余計な気を遣わせないように、そしてその場が落ち着くように、
何事もなかったように真っ直ぐ前を向き姿勢を正した。
何駅か過ぎた。少し多めの乗客がどどどっと降り、そして乗ってきた。
いよいよここから先、警備ドローン隊は別方向の街へと向かう。お別れだ。
道中ありがとう。
ここで、席が空いたので優心は再び座る。
駆破がふと見ると、どこかで出会ったことのある女子が右前方、すぐそこの席に
座っている。あちらは気づいていないようだ。
座席に座れた地歩の目はすぐに席を譲るべき人たちを捜す。
隣の車両から移動してきたおばあさん。揺れに足元が泳ぐ。
「どうぞ」。
ほぼ同時に声が聴こえた。中年の男性と、若い格好良い女の子。
あ、この人は横暴なライダーの一人だ。あのとき素直だったとはいえ、
むむっ、こんなのに負けたくない。
女の子はお腹を出す衣装でおへそにピアスをしている。
この街ではこうした今時の出で立ちをした女子も迷わず譲る相手を捜す。頼もしい。
黒いマスクが良く似合う。なんだか忍者のように思えた。
どうぞ。
こちらへどうぞ。
いえいえ、さあこちらへどうぞ。3人同時だった。
ここに、三者のゆずり合戦が勃発。
ここで優心は微笑みを讃えて二人に「ゆずる」を譲る。
先ほど譲ってくれたおじさまどうぞ頑張って、という気持ちもあった。
ここからは、地歩と駆破の意地の張り合い。
隅の席の若者が目を丸くしてこのやりとりを見ている。
優心もわくわくしながら、どうなるのかこの顛末を見守ろうと思う。
え、どっちにしよー。こういう場合ゆずられる方も大変だ。
「じゃ、おじょうさんの方にするわね」。
がーん、空振りに軽い衝撃を受ける駆破。なぜだー。
車内を見れば、座席からはみ出しているのを前にせり出して、隣の乗客に
迷惑を掛けないようにやり過ごそうと頑張る大きなおじさんもいる。
1.5人分のところを一人分になんとか収めている。
隣の女子も体格差に動じず、小さめに縮こまり続けて頑張る。隣を気遣って。
かの街でそんな気遣い皆無の悪魔が跋扈しているのを思い出す。なんと優しい人達だ。
次の駅に止まり、少なめの乗り降りがあった。目の前の席が空いたので地歩は
そこへ座る。乗ってきたのは杖をつくおじいさん。ここでまた二人が同時に動く。
「どうぞ」「どうぞ」
「孫(に言われている)みたいで嬉しいよ」。
おじいさんが選んだのはやはり地歩の席。がーん、そうなのかー。
座ってもらえて良かったと思いながらも駆破は内心少し悲しくなる。
旅行客と思われる人がスマホに触りながらそれに夢中で、背中に背負って
いるリュックが人をつつく。竜が尻尾を振り回すように辺りにぶつかる。
どーんドーン。地歩もよろめく。おっとっと。
すごい圧力だ、そのことに気付いてもらいたいものだ。
次の駅でもわずかに多少の乗り降りがあった。目の前の席が空き地歩は座る。
松葉杖をつく歩きづらそうな男性。地歩は車椅子で外を出歩く弟の事を思い出す。
駆破はめげずに声をかける。今回は武士の情け、と地歩は「ゆずる」のを譲った。
「いや、自分は大丈夫です座りません」。えー。
ここで最後の乗り降りがあった。乗ってきたのはお腹の大きい人。女性だ。
あ、マタニティマーク。ピンクのタグが印象的。妊婦の方に譲らねば。
ここで地歩は意地悪をしてやろうともう一度駆破の「ゆずる」に挑みかかる。
同時に掛かる声。「どうぞ」「どうぞ」。
「あ、はい、どうもありがとうございます」。選ばれたのは駆破の席。
やった!。思わず大きくガッツポーズをしようとした駆破は周りを気にして
思いとどまり、右太ももそばで小さくガッツポーズする。
ふふっ、どうだ、やっと一矢報いたぞ。
このとき地歩と優心は視線が合い、二人とも笑うのをこらえて目を丸くした。
風を切る音と共に、突然、車両の壁に鉄の矢が刺さる。
襲撃が!
アパッチドローンだ。
その空団の最前列には指揮を取るジェロニモドローンがいる。
だが、乗客たちはまだ何が起きているのか判らずにいる。
駆破はスプリングフィールドライフルを取り出し弾を込めだす。
地歩もいつでも抜けるよう今一度腰周りのホルダーを確かめる。
そして、なんと優心はウィンチェスターを取り出し弾を込め始める。
これに地歩は驚き、駆破も驚きながらもこれは頼もしいと苦笑いする。
ここに3人の共闘が成立した。
猛スピードでレールの上を滑るように進む列車は速度を落とさない。
捕まってはいけない。振り切る構えだ。
3人は一つ、また一つとドローンを撃ち落としてゆくが、
次々と襲い来るドローンの数はあまりにも多い。
こうなったら後ろのハシゴから天井伝いに前へ進んで迎え撃とう。
三人は少し距離を置き、先頭に駆破、後方に地歩、中央に優心という隊形を取る。
運転席に乗り込もうと着車するドローンが現れだした。
駆破はそれを二度目の狙いで撃ち落とした。
少し離れた右方から駆破を狙うドローンがいる。
危ない!
ズドーン。
優心のウィンチェスターが火を吹き、その鉄の塊ははらりと舞い落ちてゆく。
地歩は携えた小回りの効く銃の利点を活かし、
手の届く範囲の敵を駆破や優心の倍に近い早さで迎撃を続けるが、
何せ数が多い。このままでは弾が尽きるのも時間の問題だ。
優心も優しい心を鬼にして正確な狙撃を続けるが、
弾薬の残りを気にし始めていた。
すぐ横の壁に敵弾の作る穴が開く。どうやら反撃が間に合わず
それだけ近くに接近されているようだ。
地歩は、このままではまずい、と心の奥底で焦燥感を募らせる。
周りでは下を向き恐怖と諦めの様子を見せる乗客も少なくない。
もうだめか!
そのとき!
聴こえる、聴こえるぞ。小さくだが何処からか乗客の声がする。
突撃ラッパの音。かすかな希望が確信に変わる。
前方の右方左方から我らの周りを並走するドローンめがけて勇敢に突進してくる
味方ドローンたち。彼らが列車の周りに忍び寄るドローンたちを一掃してゆく。
途中で別方向へと別れた隊とはまた違う隊のようだった。
困難をくぐり抜け、なんとか目的の地へ到着した。
乗客それぞれがそれぞれの行くべきところへと散ってゆく。
駆破の狙い通り前日の夕方に着けた。だが安堵するのはまだ早い。戻ったら準備だ。
奴はまだ戻っていなくても、仲間の3人はすでに街に集まっている。
残されているのはおよそ16時間。明日の真昼に起こるであろう状況に備える。
武装を万全にし、できれば共に闘ってくれる仲間を副保安官、デピュティー
として雇っておきたい。駆破は危機を共にした戦友たちこそ相応しいと考えた。
列車を降りるなり、地歩と優心の姿を見つけて声をかける。
「すまない、ちょっと話を聞いてくれないか」。地歩も優心も駆破を振り向く。
「この街のことはある程度知っていると思うんだが」、
と前置きし、今この街に危険が迫っている事を話し出す。
昔この街を追い出された悪の一味が再び集結しつつあり、明日の正午、そのとき
自分が捕まえ永遠に戻れなくしたはずの男、その一味のリーダーが戻って来る事を。
説得する駆破。この街を守るため、一時的にデピュティーになってくれないか。
十分な腕を持つことは先ほど証明済みだ。駆破は藁にもすがる思いで思いを伝える。
だが、列車で共に身の危険を乗り越えなければならない事が皆んなを一つにしたが、
それぞれが自由な立場の今は簡単ではない。利害の一致もなく、
彼女たちにとってここは故郷ではない。手を貸して得する事もない。
地歩は路上で危険な思いを自分にさせた駆破も、今は信頼していた。
しかしこの街でまずしなければならないことがある。
優心も助けたいとは思うが、ここまで来た目的を果たす方が優先だ。
「ごめんなさい」。「今はなんとも言えない」。
地歩も優心もその依頼に簡単には応じられなかった。
地下鉄駅構内で規則正しく動くエスカレーターは、
乗る人が少ないときにはたから眺めるとその無駄のない動きに美しささえ感じる。
地歩はそれに乗り、運ばれながら上を見上げた。
天井は近未来を思わせる作りで、視界を動いて行く景色から、ディズニーランド
の乗り物に乗るまでの移動する過程を地歩は思い出していた。
やがて階段を登って出口の先には歩道とその向こうの道路が見える。
地歩は、その空気の変化は感じ取りながら、そして本の世界に入っているふりを
しながら、実はこの街に着いてからは、いつでも腰から銃を抜けるよう準備をしている。
そんな地歩の眼に、遠くで通路の壁に向けスマホをかざす優心の姿が映った。
ここは推し撮りの聖地。
優心は駅構内に貼られた推しキャラの広告にスマホのレンズを向ける。
行き交う人たちの通行動線の隙間を、上手く縫って。
海の荒波に飲まれないよう、大きな力に逆らわず波に乗るように。
この時ばかりは優しい心は抑える。邪魔になりたくはないが、
遠慮していては何も残せない。カシャリ、またカシャリ、もひとつカシャリ。
うん、いい写真が撮れた。優心はこの小さな達成感に喜びを感じる。
この聖地でも特に推し撮りが集う場所では、警備の人たちがプラカードを
手に持ち、推し撮りの皆さんに「通行者の妨げにならないようご撮影下さい」。
と静かに呼び掛ける。揉め事を未然に防ぎ、でも撮影は推奨する姿勢が有難い。
少し移動してまた見つけた駅構内の広く大きな通路の壁で展開する動く広告。
立ち止まってスマホのレンズを向ける。
行き交う人の通行をなるべく邪魔しないように気をつけながら。
これもいい写真。自宅に戻ったらインスタに上げよう。
楽しそうだな。優心の様子を遠目に見ながら地歩は微笑む。
誰にでも生き甲斐はあるものだ。このために。このときのために。
鳥が地面を歩くときのように大地を掴むように歩いてみる。重心がぶれないように
体幹を維持しながら、倒れてしまわないように軸を保ち歩く。翼は持っていないけど。
常に前方180度はちらりと視野に入れ、そうしながらも7割がたは本の世界に入り
込めている地歩は、地下鉄を降り、改札を出て、ホーム構内をエスカレーターで昇り、
昇りきると少し進んで右方向に旋回して、次のエスカレーターへと向かう。そのことは
体が覚えてくれている。まっすぐ行くと別の出口に出てしまい、あれっ、となるからだ。
アプリでの事前予約などできない頃、アトラクションを待つ長蛇の列が動き出し、
でも列が思うように進まず、一緒に来ている仲間達ととにかく話してやり過ごし、
やがてそのゆったりとした流れを乗り越えてから急に滑らかに進み出す、
近づいている、まもなく乗車口という段階で目にした頭の上を流れて行く景色。
エスカレーターを歩くべきか否か、は置いておく。ゆっくり動く景色は美しい。
ここは壊宝迷邦の都。日々の生き甲斐を感じられない街。
誰もが自分の利益のことばかり考え、国を惑わす街。
美しい景観や古き良き遺産も数多く残り、訪れるたくさんの人々を魅了している。
だが、表面の綺麗なとこるだけでは済ます事も片付ける事もできない。
駅から近い彷徨いの丘は危ない地域で暴動も多く、それに乗じた強盗もある。
自分たちを制御できない群衆による悲しい略奪もある。
郊外にある7〜80年代に建てられた建物が印象的な血迷いの街は。
移民の大量受け入れ。オイルショックなどで職喪失。治安悪化。犯罪に手を染める。
差別、犯罪に対する過剰な反応は人々を疑心暗鬼にする。警察もやたらと乱暴だ。
迷える羊の森は昼は憩いの場なのだが、夜は薬物中毒者や立ちんぼたち。
翌朝にはいかがわしい行為の痕跡が見受けられる。
中でも特に注目が集まるのは地下迷宮、数え切れないほどの廃棄ドローン、
増え過ぎた太陽光パネルの残骸とともに、きちんとした解体やリサイクルもせず
ただ埋めて自然分解を待つ。はっきり言えば隠すだけのため、自然の力が追いつかず
廃棄物が増えすぎ、自然に還らないゴミは鉄くずの遺骸として人体に悪影響のある
物質を生み出し、まるで疫病や感染症のごとく大地に残り続ける。
さらには時々落ちる雷でエネルギーが充填され、誤動作を起こし、つい先程くぐり
抜けた襲撃にもつながっている。全ては人が産み出した災厄なのだ。
人が想像する以上に広いこの場所は、地下鉄から通じる抜け道も見つかり、
日々の生活に行き詰まった者たちの拠り所ともなり、住み着く者が出てきている。
そんな中、数年前、街を震撼させ恐怖のどん底に落とし入れた悪党一味が、
一人の勇敢なマーシャル、保安官によって捕縛され、絞首台送りとなった。
だが時は流れ、その悪党は罪を許され、子飼いの手下を率いてこの街に帰還しようと
している。その運命の正午が近づく。
私は暗闇の道を歩く。看護士として勤務する病院までの道のりだ。
駅から川沿いを通り、ちょっとした大通りに沿って緩やかな坂道を進んで行く。
今は空気が澄む冬場。道端にススキ、歩道には団栗、松の針、松ぼっくりが
まとっていた鎧、ブルーベリーを思わせる濃い紫の小さな実。
やがて道沿いに左に大きく曲がって行くと、左に入る道に出た。
ここを曲がると、私の病院はすぐそこにある。
駅から職場へ向かう途中の若き女性。
彼女の名はこのみ、好きの一字を書いて、「好」という名だ。
好は人が動きを止めてしまう瞬間に日中日常遭遇している。
入院患者の方々の最期の時間はいつ訪れるかわからない。でもそれは意識せずに
たった一人の治療を受ける人として接する。
病と闘い血圧も測れなくなるほど下がって旅立った人、血液が少なくなっていても
移送車に乗せるとき、その体はこんなに重いのか、と痛感する。
部屋に戻り整頓をする時、置かれた入れ歯、眼鏡、などが目に入り、
なんとも言えない淋しい風が心を吹き過ぎて行く。
故郷の川の流れを音に残したモルダウという曲を聴いたとき、
最後の階段を駆け降りる、いや駆け登ると言ってあげたい、
自然の流れの力強さと荘厳さを感じ、それはあたかも人の命の力強さを伝えてくれ、
そしてさらにはその儚さ、少しずつ静かになって行く様子が音で耳に響いてきた。
そのときはいつも尊い、だが「その時」というほど明確なものでもない。
呼吸が止まったように見え、鼓動が感じられなくなったとしても、
亡くなったことを確定する「その時」は医師が診断を下した時だ。
その間が2時間かかる事は少なくない。だが変わらないのは、つらいという事。
こういうことに慣れるということはないけれど、衝撃を受ける事は少なくなる。
気にならなくなるということはない。ただ己のすべき仕事に専念する。
ロボットによる看護や介護も可能になってきた現在。機械への抵抗感は減り、
言葉や文化の違う人を現場に招き入れ起きるトラブルは殆ど聞かなくなり、
多くの知識を落とし込まれた機械に、治療を受ける人も介護を受ける人も、
期待と安心を感じている。だが私たち生身の人間にしかできない事もまだまだ
あると信じ、日々の業務に臨むのだ。
受付には面会に訪れた一人の女性がいる。自分が担当する97歳の女性の
お孫さんということだ。
地歩は部屋番号を伝えられて、慎重にその部屋に向かう。
祖母はつい数日前に一般室から個室へと移されたばかり、
その意味は、その時が近いということ。
空きができ次第ホスピスに移動し、穏やかに終末医療を受けられるはずだった。
静かで広くゆったりとした環境で、面会制限もなく、
好きなだけ一緒に居てあげられた。
この数年、廃棄ドローンが引き起こした謎の感染症のために、
面会を厳しく制限され、会えても30分、しかも周りを気にしながらの空間。
この病院に来る前は施設にいて、その施設の厳しい規則により、
面会はガラス越しでしかできない1〜2年。地歩はその状況に嫌気が差し、
つい最近、祖母の容体が悪化してこの病院へ移送されるまで、
祖母に会いに行くことを避けてきた。
祖母の傍に座る。安らかに眠っているが、呼吸はしているようで安心する。
穏やかに見える一方、今もうまさに枯れようとしている花のようにも思えた。
しばらくして、担当の看護師が点滴やベッドの状態などを確認するため来た。
見た目の雰囲気と落ち着いた仕事ぶりから察するに、きっと歳は自分と近い。
「お世話になっています」「ありがとうございます」
目を覚ました祖母に、
「ほら空下さんのお孫さん、来てくれとるよ」
点滴の状態を確認しながら祖母に気さくに話しかける。
祖母はもういつの間にか意思の疎通もままならなくなっていた。言葉を発しよう
としても声にならない。音にならない。
どれだけの掛け替えのない時間が過ぎ去ってしまったのだろう。
おばあちゃんごめんね。時間は戻らない。今できる事をする。
時々襁褓を替えなければならない。この時は二人掛かりで、
専任の取り替え担当の看護師たちが行ってくれる。
そしてそうした定期的に必要な管理作業のとき以外は、どうぞ水入らずの時間をと
祖母と私の二人だけにしてくれている思い遣りを感じた。
まだ危篤ではないことを確認した上で、一旦宿泊先に戻り、一夜明ける。
翌朝。大切な面会のとき以外に、できるだけの仕事も請け負った地歩。
出張という名目で、地元でもお馴染みの2つの取締り、駐車違反と速度違反、
そしてさらにもう一つのスキマバイトも請け負ってみた。
そのスキマバイトへ向かう道、地歩の眼に映る光景は印象的だった。
目線より上には美しい街並み、でも下に目を向ければ何かしらが落ちている。
犬も歩けば棒ならぬ糞に当たる。街並みを歩けばゴミに当たる。
この街で歩くときは歩道の内側に近づきすぎないほうが良い、とよく言う。
地歩も自分の目で見、実感した。このとき色々な言葉が地歩の頭を過ぎった。
色々なものが落ちている、そして置かれている、雨が降れば傍から濁ったしぶきが
飛んでくる、地歩は正視せず直に表現しない。色々と表現を誤魔化してなるべく
忘れる。物事には表と裏がある、世の中には知らないでいるほうが良い事もある、
故郷で生活していると、道にお弁当の容器が落ちていたり空き缶が転がっていたり
するだけで、ああ、マナー悪いな、と思ったりできる。ペットの糞が落ちていれば
意識の低すぎる飼い主さんだと思えたりできる。しかし、ひとたびこうして外の地に
足を踏み入れ感じる文化の違い、考え方の違い、土台が違う事に唖然とし、
故郷の清潔水準の基本値の高さに改めて驚き、そして、誇らしく思えた。
人の内面の光と影。表の顔が綺麗でも裏の顔は汚い。中に空洞を湛えた埴輪。
中身の空っぽな地下迷宮に犯罪者たちを住み着かせているのと似ている。
地歩が歩くその視線の先に人の一団が現れる。
街じゅうのゴミを拾って歩こうの会。一番に心を痛めているのは現地の人たち。
そうではいけないと、立ち向かう人々が出てきているのだ。
先頭になんと、昨日あの病院で会った看護師、好の姿がある。
地歩は駆け寄って声を掛ける。
「こんにちは。昨日はどうも」。「あ、どうもこんにちは。こんなところを」。
そして後ろの方に思わぬ顔を見つけた。
「あ、駆破さん」。「あ、こんなとこで会うなんてね」。
力を貸すかどうか、また聞かれるかもしれない。なんて答えようか。
「休みの日はこうやって父と共に有志の皆んなで一緒に街を掃除して歩くんです」。
ああ、駆破の娘さんなんだ。
地歩は好が、駆破からこれから起きる事について何も知らされていないことを悟る。
街の治安を大いに乱す危険な者たちからの復讐に立ち向かおうとしている事、
そしてこれは最早この街全ての人々の身に迫る危機なのかもしれないという事、
その事について、こちらから何か言うべきではない、地歩はそう感じた。
大切な用事があって故郷に戻ってきたという父と別れ、好は電車に乗っている。
好はこの街を何とかしたいといつも思う。なぜみんなお互いを大切にしないのか。
譲らない。自分が一番。自分が大切。他の人の事なんて知らない。
私は私が無事であればいい。そんな人ばかりに思えてならない。
優先席、「ゆうせんせき」なんて関係ねえ。列車の中には悪魔達がいる。
俺は俺の思い通りに座る。だって空いてたらもったいないじゃないか。
あ、気づいてないふりしよー。俺はスマホでの動画の検索に夢中さー。
お年寄り、妊婦さん、松葉杖の人、知るか。
座席に荷物を置く、ひと席を私物で占領する悪魔もいる。
私の隣に座らないでと言いたいのか、お荷物があなたのお連れと言うことか。
地歩は空いた座席に荷物は置かない。その場所は荷物にはふさわしくない。
そこは荷物のための場所ではないからだ。
実は地歩の母もよくやる。説得するのに時間がかかる。実際、説得できていない。
母さん考えて。乗客一人ひとりがそれを全員やれば、見事全席数は2分の1になる。
置きたいなら頭上の荷物置きに置けるよ。
聞く耳を持たない母。混んできたら、乗客の多い駅に着いたらどける。
私の荷物の特等席、爆弾が入っているのか。ただ、この街では本当に爆弾が入って
いることがある。だがその場合は警備ドローンに即座に感知され、爆発物は無効化
されて、被疑者は直ちに拘束される。
ここに優心が乗ってきた。微妙な思いをして。ひと月前、列車に乗る際に老夫婦に
割り込まれた事を覚えている。そんな事なさらなくても譲るんだけどなと。
そして今、好の目の前で黒マスクの女子の前に割って入ろうとするお年寄りがいた。
「あの、そちらに並んでもらえます?」。声を掛けたのは好だ。
言われれば素直に従うおじいさん。先頭に立っていた優心は驚きつつも感心した様子で
車内に乗り込む。いつもならここで悲しくなって他の車両へと移動するところだ。
優心は好の方をちらりと見て軽く頭をさげる。好もそれを見て右手を左右に振り
いえいえ気にしないでと返した。
優心が駅で降りると、ホーム内の椅子にも優先席があるのが目に入る。そこにまた
座っているのは悪魔たち。そんなの関係ねー。メッセージの返信に忙しそうだ。
目的地の料理店へと足を運ぶ優心。
毎月恒例のこの日のイベントに照準を合わせ、この街まで来た。
食事を楽しみながら、推しメンのヴォーカロイドがライブを提供してくれる。
昨今のヴァーチャルアイドルは、美しい映像と歌はもちろん、その場の一人一人に
気の利いた問い掛けをする。AIの進化もここまで来ている。
この街で食べる蛸の料理は美味しい。優心は蛸が大好きだ。足がいっぱいあって、
元気もくれる。
地元では蛸のようにたくさんの手を使ってそこらじゅうのゴミを拾うドローンを
よく目にする。この街ではゴミを拾うボランティアの人たちを見かけることがある
けど、この存在を教えてあげたい。
この街では幕間の休憩時間であっても、そばやラーメンは音を立てて啜っては
いけない。そのほうが美味しくても駄目。警備ドローンが近づいて来てしまう。
水やスープもズズズッと飲んでは駄目らしい。
優心は、色々タブーはあっても、麺を啜るな、にだけはどうしても従えない。
ちゅるちゅる吸い込むのは物足りないからだ。ちなみに鼻をすするのも
控えたほうがいい、警備ドローンが近づいて来て警鐘を鳴らされてしまう。
郷に入っては従え。優心はいつしか、センサーに届かない程度に音を抑えるコツを学ぶ。
やがて数時間が経ち、ライブは幕を閉じる。画像の推しメンが周りに向かって
この日のイベントの終わりを告げ、謝辞を述べている。優心は毎回、遠回しにその様子
をを見て、満足し帰路につく。だがなぜかこの日はタイミング良くいつもより近い位置
で推しメンを目にしていた。いつものようにただ眺めて通り過ぎようとしていたが、
ちょっと待て、もう少し様子を見よう。
あ、いつもの感じだ。こうして終わるんだ。聴衆から拍手が起こる。
自然とその場に溶け込み、優心も満面の笑みで拍手を送った。
最後の挨拶に居合わせた聴衆に近くから順番に声を掛ける様子。
そして優心のいる正面まで来た。自分の前の人たちがその場を空けてくれた時、
前方の視界がパッと開けた。
「お写真撮りますか?」そんな風に声を掛けてもらえた。
現在のバーチャルアイドルは映像と声に加え握手という形で触れることもできる。
目の前で会えただけで嬉しかった優心は、右手を左右に振りいいんですと伝え、
「頑張ってください」そう言葉を発し右手を差し出し、握手で応じてもらえた。
いつも元気をもらってます、という心からの気持ちを伝えるだけで満足だった。
「はい、ありがとうございます」、推しメンの声が優しく響く。
その場を去る優心は、手に残る温もりに幸せを感じつつ、店内へと戻った。
奴らは正午ちょうどの列車を待っている。
戻って来るのだ、一度絞首台へ送ったはずのあいつが。
残念な事にこの街の人たちは駆破に良からぬ思いを持つ人も少なくない。
悪の連鎖のおかげで潤っていた人々もいるからだ。
駆破は静かな故郷で円満に保安官のバッジを返上しようと思っていた。
上手く行かないものだ。旧き仲間に声を掛けてみたものの、みんな第一線を
退いていて難しそうだった。列車で共闘した二人にも協力はしてもらえなかった。
ひしひしと孤独を感じる駆破。やはり己で解決するしかなさそうだ。
誰もが勝ち目はない、と言うがやるしかない。
公園わきの落ち葉を眺める。焙じ茶色、玄米色。パパイヤ色、バナナ色。
美しい。どこかはっきりしない色合いのわずかな違いに心が落ち着く。
自然界の色の変化は、1か0かみたいな極端なものではない。
残念な事に0だ、0点だと言いたくなるものも紛れている。
カップ麺の器に割り箸、ピースの箱。
なんなのだろう、自分のゴミすら始末できないのか。責任を持てないのか。
いや、知らずに落としたり気付かずに忘れたのかもしれない。
まあ、器に割り箸はさすがに確信犯だろう。
缶やペットボトル回収箱の入り口に無理矢理詰められている、
大手コーヒーチェーンやハンバーガーチェーンの飲み物容器や手提げ紙袋。
今となってはそんな景色も愛おしくも感じる。何入れてるんだ。君らはもうさすがの
悪魔だ。ただ、このわが故郷でも最近、そんな状況を変えようとする人がいると聞き
駆破は心打たれ、そしてその中に我が娘がいる事を知ったのだった。
地歩は速度および駐車違反取締りの勤務時間を終えて、公園の傍を歩く。
青虫が地面に、アスファルトの上で寝転がっている。これはまずい。
彼は独力ではきっと木の上には戻れない。
こんなところにいたら踏んづけられてしまう。えいっ。知らんぷりはできない。
年配女性が、体をやや歩道内側に傾けて肩を少し入れる感じですれ違う
のが視界に入った。歩行者が二輪車を気遣って歩く様子。
祖母が路上で転び骨盤を折ってしまった事が、歩くことができなくなり、そこに
感染症の流行が重なり、それに伴う過剰な隔離処置と面会制限により今に至っている。
だから許せない。歩道の暴君ども。自転車、ながら歩き、無思考な片側ひっつき歩き。
歩道で速度を落としてくれるライダーもいる。それなら許す。その気配り忘れないで。
コガネムシ、黄金虫が地面に、飛ぼうとしない。その輝く羽根を動かそうとしない。
こんなところにいたら踏んづけられてしまう。とりゃっ。知らんぷりはできない。
またまた内側を通る自転車。だが速度を緩めて停まり懐からスマホを取り出した。
あ、電話なの。電話かかってきたの。それなら、どうぞどうぞ。
夜の歩道で見事な蝉の抜け殻を見つけた。透き通るその透明感のある美しい茶色は
次へのステップへと羽ばたいた証だ。
歩道を我が物顔で走っちゃだめなの。歩道だよ、歩く道だよ。
平気で歩道内側を走ってくる自転車、そうするなら歩行者の速さでお願いします。
「車道走れ」。備え付けの同伴ドローンが少し強めの言い方で自動音声を発する。
「後ろに子供を乗せているので」、「それを言うならもっと速度を落として下さい」
確かに危なっかしい。だがしかし自動車の路駐も多すぎる。これも考えものだ。
基本車道を走るように、歩道では速度を落とすように、この呼び掛けも、
イケメンの素敵な声で言えば、聴く側の耳にもより入りやすくなると地歩は思った。
その日は風の強い日だった。
急に突風の如く風が強まり、祖母の着けていた眼鏡が風に煽られ宙に舞い、
道路わきに舞い落ちた。その場に留まってはいるが、風はまだ弱まってはいない。
いつまた煽られて道路もっと中央奥へと飛ばされるかもしれない。
祖母は慌てながらもきちんと自動車が来ないか来る方向を目視してから、
急ぎめに眼鏡の留まっている道路わきへ小走りに駆け寄ろうとした。
その時である。自転車。歩く歩行者の速度の数倍もの速さで歩道を、しかも
内側を走行していたため祖母をかわすため外側へ進路を変更しようとした。
同時に祖母も内側から外側へ、そして道路に踏み出すところだった。
危ない!
強い風のためライダーもハンドルさばきが乱れていた。
だが何とかブレーキをかけ、祖母の進行方向と逆へ戻ろうと試みる。
キュキュィー。自転車のブレーキ独特の低い擦れ音が響く。
間に合った。自転車は上手くぶつからずに道路内側に停車した。
だが、これでは終わらなかった。
摩擦音に驚いた祖母は歩道の端を踏み外し転んで道路傍へつんのめった。
立ち上がれない祖母。
幸い、後から来る車は速度を落として通り過ぎてくれて、
眼鏡は無事に別の歩行者が拾い上げてくれていた。
ライダーも責任を感じ、救急車を呼び、警察へも連絡し、すべき事を果たした。
病院での検査の結果、祖母は骨盤を骨折していた。
ウィンカーランプを点けないまま、でも速度を抑え段々と少しずつ
片側に寄る気配の見える自動車。やはりそのようだ。
最近はドライバーさん色々と省略しすぎじゃありませんか?
二輪車という名の怪物が、歩行者を気にせず脅かしながら跋扈する街。
歩行者の事なんて関係ない。事故?、巻き込まれるやつが悪いんだよ。
お前たちこそ気をつけろ。たらたら歩いている方が邪魔なんだ。
「車が出ます、ご注意ください」。
ん、いつもと違う聞こえ方。イケメンの声で。なるほど、女子が喜びそうだな。
これがあのイケメンバーチャルアイドルなのか。
私の名前は蚯蚓みみず田。地下迷宮の事は誰よりも知っている。
特技は、人によってカメレオンのように色を変え話し方も変え人を欺く。
このみみず田により、街を救ったはずの駆破の信用は地に堕ちた。
だが要因はそれだけではない。世間は大体が形勢の良い方の味方をするのだ。
私の名前はいぬ田。私の仕事の邪魔はさせない。私がやると言ったらやる。
自分のことが何より大切。私なになにやります、これします。
何様って言われても、私は私の思うようにする。話は聞かない返事はしない。
助けは求めるが、感謝はしない、敬意ってなに。ワンワン、ガルルがるる
私の名前はベ田ベ田べとべと。お前らの権利が使えるのは夜だけだ。
14:30、この時間までにブツを持ってこい。挨拶なんかしてくんな。
彼らはこの街を裏で支配する、悪の三田グロース。
色々と無邪気で幼い。他人の事など考えない。人は下手に出ればつけあがる。
みみず田、いぬ田、ベ田ベ田。駆破は奴らの言う事を疑わず受け入れるように
なってしまったこの街の人々に対して、自分の力不足を省み、今出来る事をする。
ここは地歩の職場。今日も頑張ろう。
取り締まりの後で、夕方はコンビニのバイト。週に1〜2度こういう無茶をする。
祖母の入院費を賄うのは自分しかいない。
整えるところから始める。
万全な備えにしておくこと、円滑な仕事の土台。
カスタマイズすることもある。
仕事の基本はリスクヘッジである。
これが全てと言っても良いくらいだ。
温め品と一緒にしないほうがいいもの。
アイスクリーム、氷、チョコ、冷たい方が良いもの
商品はなるべくまとめて置く。見落とさないよう、取り忘れないよう、
コーヒーカップなど、落としやすいもの、倒しやすいもの、
ビン系など落とすと割れて悲しいもの、
は利用客から見て奥側、我々から見て手前側、になるべく寄せて置く。
背の高いもの、そしてそれ以外に、
落としがちなもの、落としそうなもの、落としたら困るもの、は
一番遠いところ、一番手前、一番奥、に置く。
軽くて意外に落っことしやすいコーヒーカップ、
落とすとあっさり割れる瓶、炭酸とくに衝撃で泡を吹くビール系。
利用客から見て背の低いものから少しずつ高さが上がって行くように商品を並べる。
奥に行くに従って段々と背が高くなるようにすれば、
見渡しやすく、見落としも防げる。
瓶ものはなるべく遠くに、利用客からも自分からも。
落としてみて初めてわかる恐ろしさ。
斜め置きを推奨。見た目に奥行きが出て良い感じだし、利用客もきっと取りやすい。
茶道では何かを持ったり置いたりするとき、余っている手を添える。両手を使う。
この意味、初めはわからなかったが、今はなんとなく解る。
細かなブレを防ぐ。誤って落とすのを防ぐ、とともに相手に丁寧な印象。
武器を持っていません、という安心感を与える、西洋の握手の習慣に重なる。
あなたを信頼してますの主張。隠し手を作らないことで示す全力の敬意。
テープスタンドは左に置きたい人だ。右手の指に傷を作りたくない。
これは本当にうっかりするとすぐ起きる。痛っ、て。一生懸命な時ほど。
止むを得ず右へ置く場合は、レシート排出機の陰とか箸スプーンを立てた箱とか、
何かしらの大きな壁で右側を塞ぐ。こうすれば、刃の右側からの通り道がなくなる。
これでかなり安全。
カゴはなるべく足もとに置かないようにしている。
足場を狭めてしまうため、動きに制限がかかるため、
避けたり引っ掛かったりと、地面がデコボコするような足枷になるため。
時間差のレンジアップ完了音。
ピーッ ピーッ ピーッ
ピーッ ピーッ ピーッ
まるで賑やかに歌っている。
正午の列車が着いた。待ち兼ねていた3人は親分の到着を今ここに。
「準備はできているか」「ええ、銃もちゃんと用意しています」
「よし、やるぞ」
クローズは手下達の手を借り手早く腰回りに銃と弾薬を身に付け、事前の
用意周到な準備のもと、一心不乱に到着した駅から街の中へと繰り出す。
ただ一人、駆破に狙いを定めて。
たった一人で闘いに臨む孤独を感じながら、街に繰り出す駆破。
助けてくれるものは誰もいない。
反対方向から向かってくる四人のクローズ一味。
途中でリーダー以外は誰のことも信用しないいぬ田は、
店頭に展示してある宝石に目がくらみ、ショーウィンドウを蹴破って、
そのネックレスを身につける。
「どう、もう私達のほしいまま(肆)よ。
「気が早いぞ」。クローズはいぬ田を諌めた。今度こそは借りを返すのだと。
間近でガラスが割れた音が聴こえた駆破は、危険を察知し、
建物に隠れて正面から来るであろう者たちから気配を消す。
四人の気配が真横まで来た時、「おいクローズ」。
満を持して声をかけた。
意表を突かれた4人は即座に発砲、と同時に正確な狙いを定めて駆破も発砲した。
駆破は無事だった。四人のうち一人がその場に崩れ落ちた。
「あら、優心さん、また会ったねー」、制服姿の地歩が声を掛ける。
帰り道にコンビニに立ち寄った優心は、店頭で地歩の姿を目にして驚く。
「それが見えてしまったので」。
優心が肌身離さず持ち歩くウィンチェスターの入った袋を指差して言う。
「あ、あー、うわー、恥ずかしい」。
「お疲れ様でーす。」
こういう再会は何気に嬉しい、と地歩は思う。
ガラス越しに外を見ると何だか外が慌ただしく、耳に入る音も騒がしい。
人の声というより、物が壊れる音が散発的にしている。
もしかしたら駆破?。副保安官を断った地歩だが、その事を思い出す。
優心も同じことを思い出していた。
外では悪の三田クローズとの銃撃が始まったようだ。
パシューン。パリーン。
やはり見捨ててはおけない。「歩道の弱者」の気持ちも理解してくれた駆破だ。
そしてこの絶望の土地にも、今を変えようと行動する好のような人たちがいる。
手早く身支度を済ませる地歩、優心も同様だ。
地歩が今着けているスタッフバッジが私のティンスターに思えてきた。
駆破が着けるバッジはティンスター、保安官としてこの街を守る者のあかし。
地歩が着けるバッジは、スタッフとしてこの店を守る者のあかし。
どちらも己の仕事に対するの誇りの塊である。
地歩はやはり警察官である。
駐車切符を切ることが多い日常でも、銃の扱いは鈍らない。
そしてなんとあの時共に戦った仲間が店内にいる。
優心も抜かりなく持ち合わせていた愛用のウィンチェスターを準備できた。
この人がやるなら私も立とう。戦おう。
推しメンキャラの平穏を乱す者は捨て置けない。
大好きなあの推しメンドローンが握手してくれた右手はまだ温かく感じる。
地歩は西から、優心は東から、駆破を援護しようと打ち合わせた。
全く反対側の街角にある病院で、好もこの騒ぎが耳に入ってきた。
駆けつけた好の目前に、すでに命を奪われた死体が転がっている。
横たわるその者の視線は遠くを見ていて、瞼は閉じていない。
自分が駆け抜けた人生に思いを馳せたのだろうか。
ああ、なんてこと。
命を救う立場の好も、現在の急を告げる状況に背筋に戦慄が走る。
私はできれば戦いに関わりたくない。好は思う。
幼少期に弟の死を目の当たりにしているから。できれば関わりたくない。
だが、街の意識を変えようとしている父の姿に心が動く。
これはこの街を変える好機なのではないか。この大きな危機に接した事で
人々の意識も変わるかもしれない。そう直感を得た好は、
今まさに一人で複数の相手に立ち向かおうとする初老の父の背後を目指す。
鋭い音と共にすぐそばの木の柱に亀裂が走り木の粉が舞う。
銃弾はどこから飛んでくるか分からない。数の上では圧倒的に不利だ。
駆破は四人を撹乱するために、コラールに収められた戦闘力を持たない
作業用のドローンをあえて解き放つ。
そういう場合どう行動をとるのかをプログラムされていないため、
なんのことか訳が分からない彼らは慌てて飛び出して行く、
決闘が進む舞台の中央に駆け出し、双方の視界を塞ぐ。
3人となったクローズ一味に一瞬動揺が走る。だがすぐに気を取り直す。
無駄な弾を使うのは避けたい。こんなものに気を取られまい、
目的はあいつだ。駆破に復讐するのだ。
数的優位を活かし、駆破を今いるコラルに閉じ込め追い詰める作戦に切り替えた。
駆破はそのうちの一体の背後にしがみつき、奴らから影になるようにして
囲みから抜け出すことに成功するも、雨のような銃撃で左肩を負傷していた。
上手くばらけた三方向から、駆破を助けんとする動きが見えた。
特に二方向から狙いを定めてくる射撃は、駆破を追い詰める3者を牽制し始めた。
明らかに優勢だったことに余裕すら見せていた一味だが、
この強力な後押しに今やそんな気配は微塵もなく消し飛んだ。
地歩は西側から回り込むようにして駆破と彼を取り囲まんとする一味の一人の
真横に近づきつつある。壁に張り付いて慎重に移動するゲリラ戦の得意なべ田を、
真横から急に飛び掛かり全身の体当たりを見舞った。べ田は解き放たれていた
ドローンの突進にぶつかりそうになり、慌てて避けようとしてつんのめる。
すかさず駆破の銃が二発、べ田の胸と腰を撃ち抜いた。地歩の胸に切なさが走る。
こんなことで祖母が元気になるわけではないが、無念を少し晴らせた気がした。
東から遠巻きに駆破とその周りを俯瞰できるような位置に移動した優心。
少ない弾薬を節約しながら、一味の残る三人を牽制すべく出鼻をくじく射撃を放つ。
先ほど地歩の活躍で一人また倒れ、残り二人だ。
優心はなるべく右手を使わないように、少なくとも右手の指先だけは使い、
掌、手のひらの部分は温もりを残しておきたいと願う。
右手は支えに使い、主に左手で銃口を向け照準を合わせ引き鉄を引く。
右手を負傷した射撃手もこうするのだろうか。
もちろん右の手や腕に走る痛みはないので全然違うけど。
うん、できないことはないぞ。左手が右手の役割を果たすだけなのだから。
慣れてくればそんなに難しくなくなってきた。
いつもと違う自分に楽しささえ感じる。
好は父の背後を遠くから見守るようについて行く。
自分は直接闘う力は無くても、治療もできるし、迫る危険を伝える事くらいできる。
父が視界に入ったとき、地下からの出口となる抜け穴から駆破を狙うみみず田の姿
を目にする。
「父さん!」
声がした方に目を向けると同時に自分を狙う射撃の気配を感じ取った駆破。
ガシューン!
弾の行く先には駆破はいなかった、咄嵯に左方に一回転して這いつくばり、
みみず田を撃ち抜いた。
声のした方向に気づいたのは駆破だけではなかった。残された親玉のクローズ。
形勢不利を悟ったクローズは、迷わず声を発した女子へ近づき腕を掴んだ。
「出てこい駆破。隠れているなら女の命はないぞ。」
好は盾として人質に囚われる。後ろから左腕を羽交い締めにされ、首元には銃口を
向けられている。手を出せない駆破。
地歩は横から駆破を支えられるまで近づいていたが、やはり親玉には手が出せない。
遠くから状況をしっかり見ていた優心。少し離れすぎていたかもしれない。
これだけ遠くから狙うのは簡単ではない。ここまで徹底的に右手を使わないでいた。
左肩にケガをしている駆破とはまた違う意味で片手を庇ってきた。手のひらは何にも
触れさせず、手に残るこの温もりを大切に感じながら、夜の眠りにつくつもりだ。
今回は相当な距離がある。そしてもちろん絶対に外せない。
ここだ。ここで使うのだ。ここしかない。特別な右手だ。
とっておきの右手を使うのだ。温もりが残る右手を。この思いの宿る手を。
撃て!ズドーン。
見事に撃ち抜いた。それは帽子だった。
しかしそれで充分だった。一瞬そちらに気を取られるクローズ。
腕の力が緩んだのを素早く感じ取った好は、
死亡診断を下す医師のする事を咄嗟に思い出した。
ポケットに入っていたペンライトを取り出し、クローズの両眼目がけて照らす。
「うわっ!」
生きているクローズの瞳孔は光を断つため狭くなり、眩しさに瞼を閉じた。
視界が奪われたクローズ。駆破はその隙を見逃さない。
好の体が離れた瞬間、クローズへ目がけすかさず二発撃ち込んだ。
愛馬を駆り公園のそばをゆっくりと進む道、公園の緑とよく馴染む
制服を身にまとった人たち。二人一組で行動しているように見える。
どなたかいらっしゃいますか。緑の監視人は違反車掃除に出かける。
空車とみられる車両のドアをノックして、ご年配の日本男性が多い中で、
少し浅黒く日焼けした地歩が声をかける。その一途な姿に駆破は目を細める。
駆破はここで思わぬ事に気づいた。
傘忘れた。何やってるんだ。傘なしで行ってしまうかな。
いや、この雲行きは間違いなく雨が降る。ほんの一瞬悩んだが、駆破は
一旦戻り、半身だけドア中に身体を挟み、手早く傘を手に取り、ドアを閉める。
再び一階まで降り外に出る。そして、しばらく進むと、
あ、スマホ忘れた。
なしで行くか。
これでは連絡もできない。
またまた戻り、今度は本格的にドアを開け、部屋に入りドアが背後で閉まる。
ああ、あんなところにスマホが。部屋で療養中とはいえ慣れないとこれだ。
苛立たしさを抑え、スマホをカバンにしまい、靴を履いてドアの外に出る。
ああ、自分に腹が立つ。
3度目のお出掛け。というか出掛け直し。今から病院での精密検査だ。
雨を待っている薄暗い空。薄暗い中にいくぶん明るさも湛えている。
駆破は降ってきた軽い雨に傘をさす。
そうだな、今日はもはや笑い話にした方がいい。するしかない。
駅に近づく道すがら、線路傍に植えられた花々が目と心を癒すのだった。
左手におにぎりを持ち、優心は公園の傍を歩く。周りを包む木々を目にしながら、
おにぎりは、まだ食べない。右目の端に緑の佇みを移り変わらせながらも。
少し進んでコンクリートの建物の佇みに変わった。まだ、食べない。
まもなく自宅という道に来て、まだ夕方だというのに前方に停まる車のハイビーム
がちょっとまぶしい。
地歩は仕事を終え、故郷へ戻る前にもう一度だけ祖母に会いに行く。
祖母にはあの勇敢な看護士がついてくれる。自宅で父駆破の看病もしながらという。
おばあちゃん、長くはなくても、残された時間は少しでも一緒にいてあげるよ。
こうして、まだしばらくは故郷との間を行き来することになりそうだ。
(24061字)
自分が日ごろ歩く、動く、移動する中で感じていることを
文章に集めたものです。
そこにストーリーを持たせました。初老の保安官の戦いに、三人の女子が加勢することになります。
映画作品をご存じの方には分かってしまうと思いますが、
前半と後半で、それぞれある西部劇作品へのオマージュとなっています。