第2話 うるせえ
ゆさゆさと優しく身体を揺らされる。
少し昔、勢いに押し負けて買ってしまった奴隷ちゃんが起こしに来てくれたのだろう。
不要だと言っているのに、毎日来てくれる。
正直、誰かが部屋の中に入ってきたら自然と目が覚めてしまうので、こういったモーニングコールはまったく必要ないのだ。
しかし、好意でしてくれていることを強く拒絶することもできず、同じ状況を繰り返しているということになる。
「マスター、朝です。起きてください。マスター」
「ん、ああ、もう起きるよ……」
さて、今日もこのクソみたいな世界での一日が始まる。
腹の下にグッと力を入れて、頑張ろうとして……。
「……なかなか目覚めが悪いご様子。承知しました。ここは、よくあるおとぎ話になぞり、僭越ながら私の熱いキッスでお目覚めさせて差し上げます」
ん?
今なんだかおかしなことを言っていないか、この奴隷?
「とりあえず、ベロは入れますね。んー」
「起きたからやめようか」
「ちっ」
今、奴隷なのに舌打ちしなかったか、こいつ?
目を開ければ、至近距離に奴隷ちゃんの顔があった。
……マジでやる気だったな、こいつ。
止めろと言っていることを平然とやろうとする奴隷ちゃんに、俺は戦慄を禁じ得ない。
「おはようございます、マスター」
「おはよう、奴隷ちゃん」
ペコリと綺麗にお辞儀をしてくる奴隷ちゃん。
それに、俺もにこやかに挨拶を返し……一瞬で表情を曇らせる。
そうだ。この会話で、明らかにおかしいところがある。
それは、俺が彼女を読んでいる名前だ。
「……自分で言っておいてなんだけど、この呼び名は何とかならないか? 俺、とてつもなく悪い奴みたいなんだけど」
そう、俺は彼女を買ってからというものの、ずっと奴隷ちゃんと呼び続けている。
いやぁ、マズイ。本当にマズイ。
奴隷を買って非人道的な取り扱いをしている奴らも多いが、ちゃんと名前で呼びはするだろう。
一方で、俺は奴隷ちゃんである。
めちゃくちゃ下に見ている感じがする……!
これは、もちろん俺の意志というか、希望でこうなっているわけではない。
むしろ、奴隷ちゃんの方の希望なのである。
「悪い奴は悪い奴では?」
「えぇ……?」
心外だ。
推しに負けたとはいえ、奴隷ちゃんを買ったというのに……。
「このエロエロボディの私にいまだに手を出していないのはおかしいです。悪い奴です。私はいつでもウェルカムですのに。昨日も夜這いが来ると思っていて、ずっと起きていました」
「寝ろよ」
夜這いなんてするわけないだろ。
メイド服越しに自分の胸をタプタプと揺らす奴隷ちゃんに、白い眼を向ける。
確かに胸は大きいが……。
別に、潔癖症とか女嫌いだとかではない。
性欲だってある。
でもなあ。奴隷ちゃんに手を出したら、もうやばいところまで引きずり込まれそうな気がするんだよなあ。
それに、できれば巻き込みたくないし。
「そもそも、奴隷に個室なんて与えないでください。私はそんな手厚く扱ってもらうような存在ではないんですから……」
「奴隷ちゃんが寝込みを襲ってこなかったら、それでもよかったんだけどな」
「温めて差し上げようと思っただけですのに……」
全裸で覆いかぶさられた時の恐怖が分かるかな?
ただただ恐ろしかったんだよ。
そもそも、誰かが傍にいるとなかなか眠れないから、どちらにせよ個室は与えていたと思うが。
「ともかく、私は特に名前もないので、奴隷ちゃんでいいです。マスターの奴隷であることを、名前を呼ばれるたびに再認識できるので、むしろ好都合です」
「俺の風評被害って知ってる?」
奴隷ちゃんがよくとも、俺はまったくよくない。
こうして二人しかいない家の中だけならまだしも、外でも平気で奴隷ちゃんと呼ばせようとするし。
代替案として、「君」とか「ちょっと」とかで呼ぼうとすると、まったく反応しないんだもんな。
辛い。
「朝ごはんの準備ができています。行きましょう」
「あ、都合悪いことは無視ね?」
◆
「どうぞ、ごはんです」
「…………」
俺はテーブルの上に並べられた食事を見て、天井を仰いだ。
それは、決して料理が不出来からの絶望ではない。
むしろ、立派だ。
とても美味しいし、俺は奴隷ちゃんのそういうところは信頼している。
問題は、テーブルを埋め尽くさんばかりの量である。
なにこれ? 誰かのお誕生日?
「……いつも思うけど、朝からめちゃくちゃ多くない? というか、多いから少なくしてくれって言っているよね?」
「マスターは食が細すぎます。このままだとミイラ一直線ですよ。今でも痩せ気味ですのに」
グッと言葉に詰まる。
奴隷ちゃんの言う通り、俺は確かに痩せている。
あまり食欲もわかないので、食事だって奴隷ちゃんが来るまでは一日食べない時もあったくらいだ。
「ちゃんと食事はとっているじゃないか。正直、一日一食でもいいくらいだ」
「いいわけないですよ、マスター。バカですか?」
「馬鹿にバカって言われたくない」
憮然として俺は言う。
一日一食でも全然問題ないと思うんだけどなあ。
というか、今の俺にはそれくらいが一番合っている。
そんなことを考えながら、たくさん朝から料理を作ってくれた奴隷ちゃんには悪いけど、小さなお皿に少しずつ料理を取っていった。
随分とこじんまりとした取り分になってしまったが、これでも精一杯である。
「今日もこれくらいでいいから……」
「仕方ないですね。じゃあ、全部私が食べますか」
がつがつと食べ始める奴隷ちゃん。
彼女は恐ろしいほどの健啖家である。
俺の十倍近い食事を平気でこなす。
凄い。どんどん料理が消えていく。
呆然と目の前の光景を見ていると、ふとあることを思い出した。
「……そう言えば、最初にお前を買った時、食事が不要とか言っていなかったか?」
初めて奴隷ちゃんと会った時、猛烈な売り込み文句を言ってくれていたわけだが、確かその時に食事が不要だとか言っていた……気がする。
正直、あまりにも情報量が多すぎて、ほとんど右から左だったので自信はない。
これが事実だとして、俺が彼女に食事をとらないように言うことはない。
必要でなかったとしても、一種の娯楽として楽しんでもらうのは、全然かまわない。
しかし、どうしても毎日のこの食事量を見ていると、思ってしまう。
毎朝奴隷ちゃんが食べている食事量って、俺の二週間分くらいない?
「不要ですよ。だから、娯楽です」
「いや、いいんだけどな? 娯楽として食事を楽しんでもらうのは。ただ、楽しみすぎじゃない? 俺の財布事情のこと、考えてくれてないよね?」
毎朝毎日、食事だけでどれだけの金銭が消費されていることだろう。
困窮しているわけではないが、これのおかげで、危険な依頼を受ける頻度が上がってしまう。
入るたびに一瞬で消えていく。
貯金したいです……。
「大丈夫です。私も稼ぎますから。身体で」
「もうツッコまないぞ」
厭らしく自分の身体を撫でまわす奴隷ちゃん。
露出がほとんどないメイド服なのに、やけに色気がある。
俺がこの世界に来た当初なら、何も考えずに手を出そうとしていたんだろうなあ。
そう考えると、この世界の荒波にもまれたのは、ちょっとはよかったのかもしれない。
まあ、もう二度と味わいたくないが。
「……今日は久しぶりに依頼でも受けに行くかぁ」
まだ多少蓄えはあるが、そろそろお金を稼がないとマズイ。
深くため息をつきながら言うと、瞬く間に大量の食事をとった奴隷ちゃんは、キリッとした表情で恭しくお辞儀した。
「かしこまりました、マスター」
「食べかすついているから決まっていないぞ」
口元ベタベタだぞ。
教育の行き届いたメイドぶってもダメだぞ。
すると、奴隷ちゃんは無防備に顔を突き出してきた。
「舐めとってください」
「うるせえ」