第108話 終わるのは
時は少しさかのぼる。
アリアトの辺境で、理人たちとブレヒトが向かい合っている。
理人の傍には、氷漬けにされた響の姿があった。
中に人がいるということさえ除けば、氷の中に生命が閉じ込められているという、ある種幻想的なものだった。
そんな氷をゲシゲシと蹴りながら、愛梨がぼやく。
「さっさと起きなさい。いつまで寝ているつもりかしら?」
氷漬けにされていれば、明らかに人体に致命的なダメージが入るだろう。
だが、愛梨の言動に響のことを心配する様子は微塵もなかった。
それは、彼女が薄情だからだとか、響との関係が良好なものでなかったからだとか、そういう理由ではない。
この程度で響が死ぬようなタマではないということを、十分に理解しているからだった。
ビシビシと氷にひびが入る。
その光景を、ブレヒトは驚いたように目を丸くして見ていた。
そして、ドロリと氷が溶けた。
破壊されたのではなく、液体に溶けたのである。
絶賛凍らされていた響は、まったくダメージを負っている様子を見せず、いつもの柔らかい声音で話す。
「ひどい言い草だわぁ。あなたの大好きで大好きでたまらない人を、身を挺して助けたというのにぃ」
「そんな奴、どこにいるのかしら?」
愛梨がギロリと睨みつければ、響はスッと目をそらす。
今更何言ってんだこいつ、と思っていたのは内緒である。
「ありがとう、助かったよ」
「いいのよぉ」
身を挺して庇われた理人が礼を言うと、響はにこやかに答えた。
彼女からすれば、自分の命よりも理人を優先するのは当然だった。
禍津會のリーダー。この世界に対する報復の象徴。
彼が報復を望んでいなかったとしても、過程で行われることはそれが行われることと同義である。
そして、何より自分を救い出し、この醜くなってしまった身体も同情など一切なく受け入れてくれる。
そんな人物を、命を懸けて守らないはずがなかった。
「俺の氷から抜け出して平然としているとはな。さすがは恐ろしき禍津會というべきか。俺を無理やり牢獄から引きずり出した理由も分かる」
「私の能力があってこそよぉ。普通なら出てこられないしぃ、死んでいるわぁ」
「そうか。じゃあ、何度でも殺してやるさ」
それが、禍津會と怪物との戦闘の発端となった。
「……逃げたい」
ポツリと一人呟く理人を差し置いて。
◆
ゴウッとうなりを上げて理人たちに襲い掛かったのは、巨大な氷の礫であった。
人の頭部くらいの大きさはあるだろう。
それが、恐ろしいほどの速度で放たれる。
強固なそれにぶつかれば、骨折以上の重傷になることは間違いない。
人が動くうえで骨折というのはとても重たい怪我だ。
激痛も走るし、絶対に経験したくない理人であった。
まあ、某食人鬼に捕らえられていた時は、それ以上の激痛に襲われていたのだが。
「そんな攻撃が当たると思っているのかしらぁ?」
「ぶへっ」
響と愛梨が華麗に避けながら、ブレヒトを煽る。
まともに腹に攻撃を受けてのたうち回っている理人は見ないふりをした。
恥ずかしいからである。
「いや、お前らのリーダーがもろに喰らっているが……」
「……あなたを油断させるための演技よぉ?」
「そう言われたら何にも言えねえけどよ……」
響は顔を包帯で巻いているから分からないが、愛梨は心底恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
一刻も早くこの状況から抜け出すために、攻撃を仕掛ける。
「えい」
随分と軽い調子で愛梨から放たれたのは、電撃の魔法だった。
稲光が走り、ブレヒトに迫る。
生物にとって、電気というのはとてつもない破壊力を齎す。
静電気のような小さなものでも、痛みと恐怖を与える。
愛梨が放ったそれは、間違いなく人体に深刻なダメージを与えるものだった。
勇者パーティーとして幾度も過酷な依頼を受けてきた彼女。
鍛えられた攻撃は、ほとんどの者を捉え、再起不能にするだろう。
「あぶねっ」
同じくおどけたような声を上げるブレヒト。
ガン! と即座にそそり立つ巨大な氷壁。
愛梨の電撃も通さない。
分厚い氷は、巨大な岩石よりも強固である。
それをこの一瞬で作り上げたことで、ブレヒトの実力を推し量ることができる。
「いや、ちょっとしか時間がなかったし、ろくに聞いていなかった俺が悪いんだが……。とんでもない化け物ぞろいなんだな、禍津會ってのは。そりゃ、世界もやられたい放題になるわ」
はあっとため息をつくブレヒト。
怪物だと言われて恐れられているが、彼だって人間だ。
恐ろしいと感じることはある。
しかし、それを聞いた愛梨は不機嫌そうに顔を歪めた。
「とか言って余裕そうね。むかつくわ。その顔を焦りと恐怖に歪ませたい」
「なんで魔王みたいなことを言うの?」
理人、ドン引き。
猫を被っていたとはいえ、どうしてこの女が勇者パーティーの一員になれていたのだろうか。
節穴しかいなかったのかな?
「あー……俺をそんな顔にさせたいんだったら、お前じゃ不十分だな。お前の攻撃だと、俺の氷壁はいつまで経っても崩せねえよ」
ブレヒトは驕ることなく、当然のように言い放った。
特段愛梨を見下した雰囲気もない。
純然たる事実を語っているだけだった。
今にも素手で殴りかかりそうな愛梨を必死に止める理人。
インファイトを仕掛けるのはマズイ!
「雑魚ってわけじゃねえ。相性の問題だな」
「そうねぇ。なら、相性バッチリの私と遊びましょぉ?」
直後、分厚い壁に巨大な炎の奔流が襲い掛かった。
当然のように氷壁が受け止める。
ごうごうとうなる炎は、ブレヒトには届いていない。
「ああ。俺の氷は普通の氷じゃねえ。相性とかねえんだよ。たとえ、火を向けられても、溶けることはない」
相性的には悪いはずだが、それでもブレヒトの余裕は崩れなかった。
炎で溶かされるような氷しか扱えないなら、怪物と呼ばれ恐れられてなんていない。
……はずだったのだが。
「…………んん?」
彼は異変を感じ取る。
その強固な氷壁が、みるみるうちに溶かされて始めていた。
雪が降り注ぐほどの寒冷地帯で、環境はむしろブレヒトの味方。
それでも、その炎は氷壁を溶かす。
ついには、耐え切れなくなった壁が崩れ落ちてしまった。
「……お前、何者だよ!?」
「私の炎って、割と熱いのよぉ」
「くっ……!」
迫る炎から何とか逃げるブレヒト。
地面を無様に転がるが、そのおかげでダメージはない。
響の業火は、一度焼かれたら決して消えることはない。
膝をつくブレヒトに、響はゆっくりと近づいていく。
包帯でその表情を伺うことはできないが、声は喜悦に満ちていた。
「さぁて、殺しちゃいましょぉ。見逃したら面倒そうだわぁ」
「……終わりか」
「ええ、そうねぇ。あなたの負けよぉ?」
ポツリと呟くブレヒトに、物分かりがいいじゃないかと気分がよくなる響。
異世界人が諦めたり絶望したりするのは、とても気分がいい。
自分がそのような顔をしていた時、彼らはとても楽しそうにしていた。
一緒だと思うと反吐が出るが、それでも楽しい。
顔だけでなく、全身を生きたまま焼かれた復讐だ。
今にもブレヒトを殺そうとした瞬間、彼は顔を上げる。
そこには、恐怖ではなく、笑顔が張り付いていた。
「いや、終わるのはお前らだよ」
「は?」
ドクン、と異変が起こった。