第107話 マスターは、凄いんです
「はぁ……」
深くため息をつくのは、奴隷ちゃんであった。
しかし、常時着用していたメイド服を、今は着ていない。
二つのお団子にまとめてあった灰色の髪も下ろしているため、今までとは雰囲気がまるで異なっている。
物憂げな雰囲気は、深窓の令嬢のようだ。
この姿を理人が見たら、唖然とすることだろう。
ワンピースのような薄いドレスを着ているため、起伏に富んだスタイルがはっきりと浮かび上がっていた。
無論、理人以外の男が見たら目をえぐられるため、誰もそういった目で彼女を見ることはない。
冗談ではなく、本気でやる女である。
そんな、ある意味では禍津會よりも危険人物である奴隷ちゃんに近づくのは、非常に限られている。
一応とはいえ面識のある勇者望月、冒険者ルーダ。
そして、王女ベアトリーチェである。
「……相変わらずずっとため息をついていますね。こちらまで気が滅入ってしまいそうです」
「皆さんの気分なんて私の考慮の外なので」
「本当にご自分のご主人様以外のことはどうでもいいんですね」
「まあ、そうですね。マスターは私のすべてですので」
それは、本当にそのままの意味だろう。
奴隷ちゃんにとって、自分よりも優先順位が高く、何人たりとも近寄らせないのが理人という存在だ。
それは、ベアトリーチェにも伝わってくる。
だからこそ、彼女が理人の元に行かず、こちら側にいるということが理解できなかった。
ありがちな悩みだが、彼女がスパイで、理人に情報を流しているのではないかというもの。
「それは、傍から見ていてもそうなのだろうなとは思いました。だから、今あなたの立ち位置がこちら側にあるというのが、なかなか信じられません。無論、非常に助かることは間違いないのですが」
「私の最優先はマスターですので」
「だとしたら、なおさらあちら側に着くのでは?」
あの時、奴隷ちゃんが空から突撃してこなければ、どうなっていたことか。
理人は戦うつもりはなかったようだが、禍津會の誰かがベアトリーチェくらいは殺そうとしていたかもしれない。
しかし、奴隷ちゃんが現れたことでそれは起こらず、理人と少し会話をして、その場を終わらせた。
どちらも攻撃することなく。
……理人は全力で逃げていたような気がしなくもないが、この二人は気づいていない。
「マスターのことをただただ盲目的に信じて従うことは、真の奴隷とは言えません」
「奴隷……奴隷……?」
それは忠臣の心得では? とベアトリーチェは訝しんだ。
そもそも、人前で勝手に話をするだけでも危険な立場の奴隷が、主人にどのような考えがあれ意見するということは許されないことだし、奴隷ちゃん以外にそれを実践しようとする者は誰もいないだろう。
「ともかく、早くマスターに迎えに来てほしいものです。ずっと待っているのですが……どうして王国に来ないのでしょうか? 今、戦力はほとんどないですよね?」
「(……あなたがいるからでは?)」
ベアトリーチェは口に出さなかった。
確かに、弱っている隙に敵を一気に攻撃するというのが常道だ。
おそらく、禍津會もそのつもりだったのだろう。
奴隷ちゃんという、勇者すら超える特級戦力が存在しなければ。
「禍津會はかなり動きを活発にしています。情報によると、最後にリヒト様が観測されたのは、ここです」
ベアトリーチェは備え付けられている大きな地図の一点を指す。
禍津會は、もはや世界全体の敵である。
情報共有はかなり密接に行われていた。
タイムラグはあるが、理人が最後に目撃された場所は、王国から離れた場所だった。
「……随分と王国から離れていますね。はあ……」
「おそらく、次は近隣の国に攻めていくことでしょう。とすると、おそらくはアリアトでしょうね」
「最北の国ですか」
雪に包まれた国、アリアト。
理人たち……禍津會が滅ぼしている場所をつないでいくと、次の目的地はそこだった。
「しかし、ここを攻撃するのであれば、そう簡単にはいかないでしょう。時間がかかるでしょうから、その間に戦力を再編成して……」
「どうして時間がかかるのですか? 軍事大国とか?」
ベアトリーチェの前提としていることに、奴隷ちゃんが首をかしげる。
精鋭が全滅させられた王国よりも、兵力はそろっているのだろうか?
理人のこと以外大して興味がないので、奴隷ちゃんの知識にはなかった。
しかし、ベアトリーチェは首を横に振る。
「いいえ。とくに突出した軍隊を保有していることはありません。魔法の研究も進んでいることはないようです」
「……どうやってマスターを足止めできるんですか?」
「あそこには、【怪物】がいますから」
「怪物?」
首をかしげる奴隷ちゃん。
「それほど詳しくは分かりませんが、いくつもの街を滅ぼして回っていたそうです。さすがに無視できず、国軍を動かして討伐隊が、たった一人のために組織されました。その数、一万」
あまりにも膨大な数だ。
たった一人を殺すために、一万の軍隊が動いた。
到底信じられることではない。
だが、奴隷ちゃんは動じなかった。
正直、自分ならその倍いても余裕で返り討ちにできる自信があるからだ。
「その怪物がまだ生きているってことは、失敗したんでしょうね」
「いえ、一応成功したようですよ。ただ、殺すことは難しいため、投獄されているとのことですが」
しかも、怪物とやらは取っ捕まっているそうである。
奴隷ちゃんの中で興味が大幅にそがれた。
「ただ、彼を捕まえるために派遣された一万の軍隊は、一人残らず皆殺しにされていたそうです」
「一万を、ですか」
じゃあどうやって捕まえたんだよ、と奴隷ちゃんは思ったが、ふと考え直す。
おそらく、一万を壊滅させて疲弊しきったところを、後詰に捕らえられたのだろう。
しかし、なるほど。たった一人で一万の鍛えられた軍人を皆殺しにできるのであれば、そこそこ力はあるかもしれない。
しかし……。
「……私もできますが?」
片手だけを使うハンデがあっても余裕である。
「普通はできないんですよ」
そんな奴隷ちゃんを、ベアトリーチェは呆れたように見た。
一人で数人を同時に相手にするのもかなりしんどいことであるのに、一万なんて、もはや想像することもできない。
世の中、化け物みたいな力を持つ者は、目の前にいる者も含めて存在するものだと実感させられる。
「さすがにその怪物が相手となれば、リヒト様も……禍津會も、苦戦を強いられることでしょう。ですが、彼らが勝つというのは推測できます。今のうちにこちらの準備を……」
「そううまくいけばいいですね」
「できないと?」
ベアトリーチェの言葉を遮る奴隷ちゃん。
怒りなんて抱いていないが、意見を聞きたくて尋ねる。
尋ねられた奴隷ちゃんは、無表情のまま、至極当然だと言う雰囲気で答えた。
「マスターは、凄いんです」
◆
「はあ……」
深くため息をつく理人。
くしくも遠く離れた場所にいる奴隷ちゃんと同じことをしていた。
絆である。
そんな彼を、愛梨が怪訝そうに見ていた。
「なんでため息なんかついているのよ」
「いや、めちゃくちゃ怖かったと思って……」
「……こんなことをしておいて、よくもまあ言えるわね」
呆れたようにため息をつきながら、ちらりと愛梨は振り返る。
そこは、とてつもない戦争があったように、荒れに荒れていた。
吹雪と言っていいほど荒れていた天候だったが、戦いの余波で雲がかき消されたからか、今はパラパラと雪が降る程度である。
そして、真っ白な雪がじわじわと赤く染まっていく場所があった。
その中心であおむけに横たわるのは、血だらけのブレヒト。
【怪物】と称され、果敢にも理人に挑み、戦った男の末路であった。
「まあ、これで障害はなくなった。さっさと潰そうか」
理人はブレヒトを省みることなく、アリアトに向かって歩き出す。
ブレヒトの身体の上に、雪が積もっていく。