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  作者: 橘アオイ
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第七章~第一〇章

 第七章


 12月に入って更に昼間の時間は短くなり、このままどんどん陽の光が削られていって、終には暗闇だけがこの世の中を支配するのじゃないかしら。と、袋井誠は地上トレインの窓から外の、ほとんど暮れかかった景色を眺めながら思っていた。

 黒い鏡になった窓には自分の斜めになった横顔と、その隣で首を少し上に向けて口を開いて眠っている瀬戸マリアの姿が映っている。

 何年ぶり、いや、何十年ぶりだろう。こんなに遠くまで旅をするのは。

 地上トレインに3時間近く搭乗してから時間が経っていることに気が付いて、誠は思った。

 窓に映る黒鏡に自分史が投影される。真っ黒な自分の年表のはずが、なぜか黒鏡に浮き上がってそれらは見える。

 父親からの籏町悦夫からの手紙の束を、春間佐文司が保管していたアルミ缶に入れたそのままの状態でリュックに入れ、太腿の上でそのリュックを抱え、誠はそれを離さなかった。

 瀬戸マリアから「誠の父親らしい人物がだいぶ離れた、ある病院に入院している」と聴かされたのは、つい一週間ほど前のことで、次の日マリアはすぐ連絡してきて「自分も一緒に行くから、その父親らしい人物に逢いに行こう!」と一方的に告げた。そしてまたその次の日に「先方は誠に逢えるか分からない。と言っているが、自分だけには逢ってもいいと言っている。だから誠も連れて行くので、管理事務局に誠の遠方への移動許可と仕事の有給使用許可を申請して取得しておくように」と。

 誠はそれまでマリアにはとりたてて説明していなかったが、瀬戸マリアはとうの昔に誠の素性や過去について知っていたようだった。

 おそらく、特別保護居住地区で働く人間には予め必要な情報のひとつとして知らされるのだろう。

 もし万が一。その者たちが何かを、また(たが)を外してしまいそうになった時には住民たちに危険が及ばないように“然るべき処置をしてもいい”と、ひとつの任務を与えられてもいるからだ。


 誠には、本当のところ何ひとつ準備は出来ていなかった。

 どんな表情で、どんな瞳で、どんな声で父親の前に立てばいいのか・・・。

 どうしていいのか分からずに結局、服装はいつもの仕事着の濃いグレーのスーツだし、足元も履きなれた黒いスニーカーのままだ。

 いいや、そんなことはどうでも良かった。

結局、その人物は自分の父親ではないかもしれないし、元々マリアだけが面会の約束をしているのだから・・それ以前の問題だ。

 誠はこの地上トレインがこのまま暗闇に溶けて自分がこの世から消えればいいと願った。

 月の光のない曇り空の暗闇の中に、ポツリポツリと家庭の光が灯っている。

 誰かが待っている光の中にその人々を待っている場所がある。

 今日あった嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと。をそれぞれ話すのだろうか?

 今の自分には長い間届くことのない、家庭の光。

 でも、あの頃はその光さえもほの暗く、締め付けられるほどの痛みでしかなかった・・・。

 黒鏡に映るマリアの口を半開きにしたままの寝顔を見ながら、一人じゃなくて、マリアが居てくれて良かった。と誠は心底感謝した。

一人だったら、一人じゃ過去に向かって走っていること時間の重圧に耐えられない。

以前の自分だったら、マリアの話には乗らずに逃げていたはずだ。

何だかんだと理由を付けて「申請したけれど許可されなかった」とか嘘を吐いていたと思う。

 いつの間にか窓の黒鏡は薄れ、その替わりに久しぶりに見る、昼間と変わらず明るいままの真珠のような街並みが窓の外に広がった。

「うわー」

あまりにもキラキラとした輝きにマリアを起こそうとして隣を見たのだけれど、熟睡しているマリアはちょっと体を揺すったくらいでは起きそうにない。

 そうこうしているうちに地上トレインは次のエリアへと移動し、また暗闇の分量が多くなる。

 自分がどれだけ止めたいと思っても、自分では止めているつもりでも、時は流れて行くのだ。

 自分と父親に残された時間はもう多くはない。元々生きている内に逢えるとも、逢いたいとも、考えてみたこともなかった。

 自分は自分の手で家族の存在を、この世から塗りつぶして葬ったのだからーーー。


 翌朝、たぶん7時少し過ぎだろうか、同じフロアの別々の部屋に寝ていると思っていた瀬戸マリアが、けたたましく誠の部屋のドアを叩く。

当然、あまり眠れなかった誠は起きている。

しかしだからと言って何をしてもよいわけではない。

「ちょ、ちょっと。うるさいですよマリアさん。少しは他の部屋の人たちの迷惑も考えて下さいよ。まだ他の部屋の人たち寝ていますよ」

誠が部屋のドアを少しだけ開け、マリアが無理矢理部屋の中に入って来ないように、両手でしっかりとドアを引っ張りながらトーンを抑えて言った。

「そんなこと言って、やっぱり誠ちゃん起きてんじゃないの。そうと決まったら行くわよ」

「行く?行くってどこへ。それに何がどう決まったって言うんですかぁ」

誠はドアを引っ張るちからをより強めて腕の筋肉を引きつらせながら小声で叫ぶ。

「そりゃあ決まっているじゃない。朝のランニングよ。ウォーミングアップよぉ。こういう時は体力がものをいうのよ。途中でへばっちゃ意味がないわ。ほらっカモン!ついてきて!」

よく見たらマリアはオレンジ色のジャージに着替えている。

「カモン!」と当時にマリアが部屋のドアから手を離したので、その反動で誠はバランスを崩して床に転がった。

「ちょっと何やってんの!そんな浴衣みたいなのはだけていないで早く準備して頂戴。ぼやぼやしていると置いて行くよ。じゅう、きゅう、はち、なな・・」

「わかった。わかったから、着替えますから。

少し待って」

 誠はいったん部屋のドアを閉めてライトグレーのジャージに着替えた。二日前なぜかマリアが必ずジャージを持参するように、とうるさく言っていた理由が今になって理解できた。

「・・どう?気持ちいいでしょう」

 朝陽が登り始めた海岸線を眺めながらマリアが言う。

「マリアさんて、いつもこんな感じなんですか?体育会系っていうか、エネルギッシュで」

「エネルギッシュ?私が?」

きょとんとして誠の方をじっと見て、マリアは笑い出した。

「ハハハハハハッ。こりゃあいいわ。私がエネルギッシュって。ハハハハハハッ」

「だって、本当にそうじゃないですか。マリアさんはいつだって行動的で」

「だから違うの。違うのよ。私だってね、人並みに悩むの。ぐじぐじしてるの。特にね、自分のことなんてからっきしよ。誰でもね、自分のことだと出来ないの。他人事だからサラッと出来るの」

 正面を見ていたマリアが誠の方に向き直って、誠の左手をそっと両手の掌で優しく包んだ。

「人って、誰にだっていろいろな過去があると思う。どんなにキレイごと言ったってそれだけじゃ片付けられないことの方が多い。誠ちゃんには誠ちゃんの過去があって、それは変えられない。でもね、私の知っている誠ちゃんは今の誠ちゃんで、過去の誠ちゃんじゃない。たぶん一生、苦しみは続くよ。だから私たちは少しでも、一瞬でも誠ちゃんの今を生きる力になりたい。だから、お願いだから人生の全てをこの腕の中に閉じ込めないで」

 マリアは誠の左腕に埋められている監視用のリングを腕ごとつかみながら言った。

 光を強くして昇ってきた朝陽がマリアの横顔に当たる。

 今まで気が付かなかったけれど、近くで見てみるとマリアは綺麗な顔立ちをしている。

 それでもなぜ恋に落ちないのか不思議に思いながら、夕べの地上トレインでの口を半開きにしたマリアの寝顔を思い出して誠は腑に落ちた。

 そういえばたぶん、垂らしていたなヨダレ。

思い出し笑いしている誠を見てマリアが噛みつく、

「そこ、笑う所じゃあないでしょうが!人が真顔でいい事言ってんのに、まったく。・・でも仕方がないか、それが誠ちゃんだから。ホラッこんな機会そうそう無い無い、もう少し走るよ。レッツゴー」

マリアはそう言いながら誠の後ろに廻って、誠の背中を押しながら走り出した。

「・・・がとう」

「ん?なに。何だって?」

「マリアさん・・ありがとう」

「・・・・・・」

自分の背中を押しているマリアの両の手のひらが少しだけ熱くなったように誠は感じていたーーー。




 第八章


「ねえ、ヨシくんさあ。何でヨシくんここに来てんの」

「そりゃあきまってるよ。ひかるのためにピーナッツのからをわるためだよ。こうやってね」

 ヨシ少年は小さな手でガラスのテーブルの上に等間隔で並べられているピーナッツを、整った列を乱さないように一粒ずつそっと手の中に招き入れ、おぼつかない指先で硬い殻でおおわれているピーナッツを何度もとんでもない方向へ指ではじき飛ばしながら、何とか中身を取り出そうとピーナッツたちと格闘している。

「ウソを吐け。おまえさっきから全然ピーナッツの殻割れてないだろ!っていうか、そもそもおまえピアノのレッスンするって言って俺の所に来ているくせに、ちっともレッスンになってないだろ。まったくどうするんだ、何か弾けって親御さんに言われたら。俺の教え方が悪いから上達しないってなって、それで・・」

「どうもしないよ。べつに」

 ヨシはやっとの思いで割れた殻からピーナッツをひと粒指でつまんで、そのままひかるに差し出しながら言った。

「ボクがすきなのは、ひかるのピアノなんだ。ピアノをひくのがすきなんじゃないよ」

「じゃあヨシはこうやって俺のところに来て、ピーナッツの殻を割って、それで満足?」

「・・・・・」

 ヨシは殻に入ったままのピーナッツを指先でもてあましながら、

「そうだよ。ボクいいもん、これが。ひかるのやくにたちたいんだ。ピーナッツのせいでひかるのゆびがケガしたらダメなんだ。だからボクいいんだ」

と言って、ガラステーブルの上で押しつぶしたせいでボロボロになったピーナッツの欠けて離れた一片を、ひかるの手を開いて、その上に乗せた。

ピーナッツの欠片を乗せられた手のひらを一度見つめ、その欠片を口の中へ運んでから、ひかるはヨシの近くにしゃがみ込んでヨシの瞳を見つめた。

「ありがとうな、ヨシ。俺すっごくうれしい。だからな、コレは受け取れないんだ。ヨシのお父さんとお母さんにそう言って、コレを返してくれ」

 今度はひかるがそう言ってヨシの小さな手の」ひらを開いてその中に先日、ヨシの母親が持ってきた封筒に入った紙幣をそのままの状態でヨシ少年の手の中に握らせた。

「いいかヨシ。家に帰ったらそのままそれをお母さんに渡すんだ。俺から・・ひかるからだって。ちゃんと言うんだぞ。いいな」

 宇都宮ひかるがヨシから手を離すと、ヨシは泣き出した。

「ひかるもボクがいらないの?ボクがきらいなの?ボクをすてるの?」

「すて・・バカなこと言うな!俺がいつそんなこと言った」

「だって、もうここにきちゃダメなんでしょう・・・」

ヨシが嗚咽しながらこぼす。

「あーっ、だから違うって!ヨシは俺の大事なともだちなんだ。ともだちの家に遊びに来るのにいちいちこんなものがあったらジャマなんだ。そんなのおかしいだろ?」

 ひかるはヨシの腕をつかんで、ヨシの目の前で紙幣入りの封筒が握られたヨシの右手を掲げて見せた。

「それともヨシは俺のともだちじゃ、イヤか?こうやってお金でつながっていた方がいいのか?こんなおじさん、つきあってらんないか?」

 ひかるがゆっくりと立ち上がりながら言うと、途中でヨシはかがんで宙ぶらりんなひかるのシャツを引っ張った。

「ひかるはおじさんじゃないよ。ひかるはヒーローだもん。おじさんじゃないよ!」

 ヨシの、涙をいっぱいに溜めた瞳を上から見下ろしながらあまりにも澄んだその美しさに少しの間、ひかるは見とれた。

 きらきらとした光の粒に自分の全身が包まれた気がして、ひかるはその光の中にずっと身を任せてしまいたかった・・。

「当たり前だ。俺はおじさんにはならない。誰よりも美しいからな。ヨシに言われるまでもない。・・だけど、ありがとうな。俺のともだちでいてくれて。ヨシは俺の一番のともだちだ」

 ひかるはヨシの瞳に吸い込まれるように、ヨシの小さな身体を抱きしめていた。

「じ・・じゃあ、これからもひかるにあえる?」

「そんなの決まっているだろ、一番のともだちなんだからな。約束だ。ゆびきりげんまんしよう」

「ゆびを・・きるの?」

「なんだ、ゆびきりげんまんも知らないのか。これだから最近の親の教育は困る。ホラ、こうやるんだ」

ひかるはヨシの右手の小指と自分の右手の小指をからめ、

「ゆびきりげんま~ん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきったぁーー」

と唱えた後、ヨシの指と自分の指を勢いよく離した。

「わかった?これが“ゆびきり”大切な約束をするときにだけする“しるし”だ」

「しるし?」

 きょとんとしているヨシの「?」マークは言葉を足せば足すほど増えてゆき、永遠に終わりが見えないに違いない。ひかるはもう一度ヨシを抱きしめて形の良い頭のつやつやとした髪を撫でる。

「とにかく、ヨシは俺の大事な一番のともだちってことだ。いいね」


 ヨシ少年が家に帰り、ヨシが散らかしていったピーナッツの細かい殻のひとつひとつを、ひかるが見失わないように注意深くピンセットで捕まえていると、インターホンが鳴った。誰だよ、こんな時間に。忙しいのに、まったく。

「ウチは全部間に合っている。必要なものは無い。以上」

一方的に告げて、またピンセットを片手に背中を丸めて絨毯に向き合っていると、またインターホンが鳴る。

「ちょっとお、私よ私。マリアよ!どうせたいして忙しくもないんでしょう。早くロックを解除しなさいよ!」

「アレ、聖母マリア。何してんの?」

「それやめてって言ってるでしょ、瀬戸マリアよ。もう二度とそれ言わないで」

 ひかるが笑いながらロックを解除すると、ホールを抜けて四階のひかるの部屋までマリアが着くのに時間はそうかからなかった。

 ドアロックを開けてマリアを扉の向こうの真ん中に見つけると「マリアってもしかしてくノ一」と言おうとしていた口をひかるは両手で押さえた。

「どうしたんだ。まるでこの世の終わりでも見てきたような表情(かお)してるぞ、お前」

 用意していたものとは別のセリフが自分の口から出たのでひかる自身も驚いて声が裏返る。

 ひかるの言葉が終わるか終わらないかの間に、マリアはひかるの顔の頬を遠慮なく両手で押さえこみながら言った。

「どうしよう私。誠ちゃんにこの世の終わりを見せちゃったよ。もう、傷口に塩をすり込むような・・。ああーー、どうしよう。どうしよう私。もうダメだあーーー」

「わかった。わかったから、とにかくこの手を俺の顔から離せ、俺の顔を解放しろ。美し顔が崩れたら困る」

 ひかるのいつもと変わらない本気とも、ギャグとも判別できないセリフを耳にして、マリアの正気が戻って来た。

「ごめん、お腹すいちゃった・・」


 トントントン。トトトトトトトン・・。

キッチンから均整のとれたリズミカルな野菜を包丁で刻む音が心地よくマリアの耳に入ってくる。

湯が沸いて、水分を多めに含んだ空気がリギングにも漂う。

誰かが自分のために料理をする時間を待つことが、こんなにも穏やかな気分になれるのだと、マリアは不思議な安堵感に包まれていた。

ものすごく昔の、擦れた記憶の中で母親の後ろ姿が浮かんだ気がしたけれど、マリアの中でそれはすぐに消えた。

 目の前のガラスの皿に盛られたピーナッツの山をマリアはちびりちびりと攻略して。ピーナッツの割られた殻の残骸が、隣の別のガラスの皿へと積まれて行く。

「おい、お前。そのピーナッツは一体誰が食べるんだ?俺はもう食えん。自分で食べる気がないならそれ以上は殻を剥くな」

 ひかるに上から右手を押さえられてマリアはハッとした。

白くて指の長いひかるの手は近くで見ると思っていた以上に美しく、マリアは思わず見とれた。すぐに離れたひかるの手が自分のそれと比べて大きく、やはり男性の手のひらなのだと気づいた。

「俺、料理はしないようにしているから、こんなモノしか用意しないぞ」

コンソメスープの中にキャベツ、ニンジン、玉ねぎ、ブロッコリーの野菜が色どり良く並び、その下に細い麺のようなモノが漂う。

目の前に置かれた深めの洋風ボウル皿の中身を見て、意外そうな顔を向けたマリアに、

「固形スープと野菜炒め、あと夏場の貰い物のあまりのそうめん。それを何となく合わせただけだ。そんなマジマジと見るようなモンでもない。腹減ってるんだろ、いいから早く食えよ」

と早口でまくしたてた。

「う、うん。じゃあ、いただきます」

マリアは一人、黙々と口に運んだ。濃すぎない、野菜の優しい甘みがゆっくりと体の中に流れる。この人はもしかしたら、他人が思うよりもずっと繊細で優しく。もしかしたら、ずっと傷つきやすいのかもしれない・・。

マリアは野菜の甘みのエキスをたっぷりと含んだブロッコリーを口の中で味わいながら感じていた。

 少し前までのザラザラとした心が落ち着いて、いつもの自分の芯をマリアは自身の中に取り戻し始め、そうめんをすすり終わる頃には、何かしら言いようのない恥ずかしさがこみあげてきていた。

「ついさっき、ヨシが帰ったところなんだ」

何かを察したようにひかるが口を開く。

「例の家出少年の?あれからよくここに来ているの?」

「ああ、まあな。ヨシは俺のともだちだからな」

「そっか。そうなんだ・・」

マリアはグラスの中のミネラルウォーターを一気に飲み干して息を吐く。

「さっきの、さっきの続きだけど」

「ああ、おっさんがどうの・・って話」

「私、誠ちゃんにとどめを刺したのよ・・・」

マリアは誠の父親に逢いに行った経緯を手短に説明した。

「・・それで。結局は逢えなかったんだ父親に」

マリアは言葉なく小さく頷いた。

「マリアは逢って話せたの?」

今度は首を横に何度か強く振ってから、

「面会希望で事前に伝えて、その時は逢って下さる話になったの。でも当日、お父様の具合が悪くなったからって。ハッキリしないのだけど・・結果として断られたのよ」

叫ぶようにマリアは言ってから、ひかるのリビングのガラステーブルの上に突っ伏した。

「私が勝手に。勝手に先廻りして暴走して、誠ちゃんを引っ掻き回して、傷付けたのよ。もう・・本当に。私ってバカ⁉どんな顔して誠ちゃんに会えっていうの?もう、どうしよう~~」

テーブルに突っ伏したままのマリアに触れようとして、ひかるはすんでのところで手を止めた。

 マリアは突っ伏しながら、ほんのわずか、ひかるの手が自分に触れた気がしたのに、急に周りの空気が冷たくなって泣きそうになる。

顔を上げたいけれど、恐くて上げられない。

 泣きそうで、ぐちゃぐちゃで、自分の身体のことなんてどうでもいい状況なのに、眼を閉じている間にまぶたが重くなってきた。

 どうしてなのだろう。寝ている場合じゃないのに。・・そうだきっと野菜そうめん食べたせいだ。それでお腹がいっぱいになって。アレおかしいな何か聴こえるなぁ・・。ピアノ、ピアノだ。ひかるのきっと、ピアノだ。何だか、温かいなぁ・・・。

 マリアはひかるのピアノの調べに漂いながら、眠りの中へと消えた。



 第九章


 12月の師走。半ばを過ぎているのにここ特別保護居住地区では365日いつも変わらない。

 袋井誠はいつも通りにAエリアにある噴水の前のベンチに腰を下ろした。

 一週間前に瀬戸マリアと父親に面会に行き、逢えなかったことに、今となっては安心している自分がどこかで微笑む。

 仕事中にいつも背負っている黒いリュックサックから最近いつも持ち歩いている水筒を取り出す。温かいほうじ茶を朝淹れて、自分で水筒に移してくるのだ。

 春間佐文司に出されるようになってから、ほうじ茶が誠の生活の中に浸透したようで、誠はいつもほうじ茶一杯で気分が良くなる。

 一日に十数件ある訪問リストをめくりながら、面会セッティングが増えていることに気付く。

 年末に近づくと何故か特別保護居住地区の住人への面会が多くなり、本人の部屋か場合によっては共用スペースか面会室を使用することになる。

 家族同士が会うのにわざわざ面会室を使うのはおかしいように思えるが、何となく誠には腑に落ちた。

 元々、特別保護居住地区の人たちは何かしらの事情で一人、もしくは70歳以上の二人暮らしの夫婦らが住人になれるという地域になっている。70歳以上でも子供や、別の責任をもって面倒を見られる家族や同居人がいれば、この特別保護居住地区になど来る必要はない。

“血の繋がり”というものだけで個人の人生を縛る考え方は今やもう消滅しつつあった。

 赤ん坊を産んでも育てられない親は公共の教育システムに子供を託す。そうすることで親側に費用の負担があるものの育児放棄や虐待、親が自ら子供を殺めてしまうという最悪の事件も、このシステムのおかげで随分と減少したという。

 子供たちも親に振り廻されることなくある一定の教育を受ける事が出来、そこにはもはや差別はなく、子供たちが劣等感を抱く必要もどこにもない。

 それどころか、この教育システムによって育てられた子供たちは医療や福祉などの方面に進みたいと考えている子供が多いという・・。

 誠はたまに、自分が幼いころにこういった社会教育システムがあったなら、自分の人生や、自分自身の考え方は今現在とは違っていたのかもしれないと、思ってしまう。

 それはほんの一瞬ですぐに消えてしまうのだけれど、ごくたまに朝の光を浴びたりすると差し込んでくる。

 誠はそんな時、両手で強い光を遮って、とにかく自分の手のひらを見つめる。

今、生きている自分の手のひら。血が通っている自分の手のひら。そこにある指紋を、多くの線からできているその不思議な模様を、ただ見つめる。

「フラフラするな。今の自分を見ろ!」



「緑川さん、緑川由紀子さんどうぞ。面会のお時間です」

誠は面会室のドアを開けてひとりの初老の婦人を面会室に促した。確かBエリアの8020号室の住人だ。

 初老といっても婦人はとても70才には見えず、他の住人たちとはどことなく雰囲気が違って周りに迎合しない、一切の妥協を許さない。というような強烈なオーラを放っている。

「緑川さんどうしました?中へどうぞ」

 誠はもう一度そう言って面会室の手前にある柔らかそうとは言えそうもないソファーから動こうとしない緑川由紀子に近づき、再び入室を促した。

 黒く艶のあるカシミアのコートを脱ごうともせずに両腕を組んだまま、

「誰、私に面会なんて。一体誰なのよ!」

と婦人が面会者リストを手に立ったままの誠に訊ねた。

「だっ誰。えーっと・・」

誠は慌ててタブレットをスクロールした。

「あなた係員なんでしょう⁉そのくらい頭に入れておきなさいよ!これだから役人の仕事っていうのは嫌なのよ。詰めが甘くって」

誠が困っていると、面会室から当の本人が顔を出した。

「ああやっぱり。貴女が緑川さんでしたか」

紺色のジャケットにデニムに近い白いパンツ姿の若い男性が呆れるくらいトーンの高い声で割って入ってくる。

 ポカンとする緑川婦人と誠の両者に手際よく名刺を配りながら、

「ああ、申し遅れましたが、僕はこういう者です。大手芸能事務所のマネージャーと言いますか、主に知的芸術家たちのサポート業務を担当しております。・・で、今回もその一環として弊社所属のアーティスト宇都宮ひかるからの招待状を緑川様にお持ちしました」

と挨拶すると、更に続けた。

「どうしても、何度送っても送り返される。と宇都宮本人も大変に嘆いておりまして、自分が行ってもどうせダメだろうから。と、今回事務所を代表として直接こうして伺いました次第で。それではひとつ、宜しくお願い致しますね」

 事務所の代表の使いだというマネージャーらしい男は緑川由紀子をソファーから立たせると、その手の中にチケットらしき物を握らせることにいつの間にか成功していた。

「おっといけない。時間が少々押しておりますので、僕はこれで失礼します」

 最後にもう一度、緑川由紀子のチケットが握られた両手に自らの手を添えると、ニッコリと微笑んでから、一瞬強い瞳を婦人に向けて、宇都宮ひかるのマネージャーだという男は二人の前から姿を消した。

 先ほどまでの刺刺しいオーラは失せ、緑川由紀子は意外にも優しく懐かしそうな瞳で両手の中のチケットを広げて見つめている。

 誠はつい、宇都宮ひかると知り合いであることを婦人に言いたくなったが、すんでのところで言葉を飲み込む。

 特別保護居住地区の住人たちにとって、自分は一人の業務をこなす係員でしかない。自分のプライベートなことを話す必要も、住人たちのプライバシーに関わる必要もないのだ。

 冷静になって考えてみると、誠はひかるのことは何ひとつ、知らないことだらけではないか。自分の中では数少ない親しい関係の中の一人になっていたのに、ひかるのことを驚くほど知らなかった・・。でもそれは、誠だって同じだ。それどころか、誠の秘密の方が重大の度合いがまるで違う。

 心を許せる相手がほとんどいないことを、また噛み締める。

 特別保護居住地区の住人たちと自分はほんのわずかに似た臭いがする。でもそれに甘えてはいけないんだ。

 誠の耳にどこかから、ひかるの弾くピアノの音色が届く。

何かしら?まるで子守歌みたいな優しい音色。

 空耳でもいい。その音を掴もうと誠が必死になっている間に緑川婦人の姿は消え、ただ婦人が座っていた証に、ソファーのシワがうっすらと残されているように誠には見えた。



「ああ、解った。それじゃあ間違いなくあの人はそれを受け取ったんだな。お前はそれを・・受け取ったのを間違いなく確認したんだな。ああ、解っているそのかわり、年明けからリサイタルを長期で組む。約束したからな。俺は約束したことは実行する主義だ、安心しろ。ああ、社長にも折を見て言っておく。悪いが今取り込み中だ切るぞ」

 宇都宮ひかるは事務所のマネージャー川崎からの電話を切った。

 まったく、いろいろと細かい奴だ。この前の俺のささいな注文をさも手柄をあげたように、いちいち言ってくる始末だ。

ひかるはピアノに向かいながら目の前の楽譜をパラパラと適当にめくった。本当は楽譜なんてどうでもいい。

“純一郎の足元にも及ばない”

あの日以来、ひかるの中で緑川婦人から言われた言葉が消えることはない。それどころかますます増殖している。

 父親が、父親のピアノの音色が、その身が朽ちてもなお、自分を蝕む。

 最初は見よう見まねで、ただ鍵盤の白いところと黒いところを押して音を出していただけだった。小さい頃から父親は家にいてただ、だらしなくゴロゴロとして、何をしている人なのかひかるには、よくわからなかった。

 けれど時々気まぐれに、黒い箱の蓋を開けてその人が指を動かすと魔法がかかったみたいに、その箱の中から美しい音が流れ出してその場の全部を変えた。

 その時、ひかるは天使が家に遊びに来てくれた。と思い、その人の背中に大きな白い羽が生えているように見えていた。

けれど天使の訪問は長くは続かない。途中でプツリと電池切れになってしまう。

その人はまた再び座ぶとんを二つに折りたたみ枕にして、卓袱台の近くにゴロリと横になる。

 ずっとひかるはあの時の天使の、父親の音色を追いかけてきた。

 父親がひかるが五才のころ近所で交通事故で亡くなっても、その後もなお、ずっと父親のピアノを追って弾いて・・。

アルコール臭の漂うあの部屋で聴いた音色が忘れられない。優しく、強く、儚く、気高い。

 あと一年と少しで自分は父親が亡くなった年齢を超えてしまう。

 まだ自分には父親の横顔が見えてこない。

いつも目の前には背中が、父親の大きな背中が広がるだけ。

『父親の宇都宮純一郎氏は間違いなく天才でしたが、息子だからといって、宇都宮ひかるのピアノに期待を掛け過ぎた私もまったく、バカでしたな。はっはっは』

 以前テレビで何とかいう評論家が得意気に話していたのを目にしたことをまた思い出しながら、ひかるはチャイコフスキーの舟歌を弾いていた。

 ピアノなんて誰が弾いてもある程度練習した人間が弾けば同じだとか、それこそAIが弾けば完璧なのだから、わざわざ人間が弾く必要などないじゃないか。という意見もひかるは知っている。だけれども、どうだい。アーティスティックな職業はAIに取って代わられることはなかったじゃないか。

 そこにはやはり何らかの感情があるからじゃないか。怒りや憎しみや悲しみや喜びや、機械ではコントロールできない感情が、人間にはあるからじゃないか。

 どこからともなく怒りが湧いてきて、ひかるは次にムソングスキーのバーバ・ヤーガの小屋を弾いた。

 止めようのない感情をぶつける手段のひとつとして、自分にはピアノと言う楽器があって本当に良かったとひかるは思う。

自分のように感情を抑えるのが苦手な人間にはピアノの存在が無ければその辺で誰かにケンカでも売って歩いて、その果てに、もうとっくに命を落としていてもおかしくはない。

 ふっと気持ちが落ち着いてからドヴォルザークのユーモレスクを弾いていると、来客の合図の照明が点滅した。

 防音システムが働くこのマンションには他の部屋にも音楽関係者やアーティスト達が住人で、部屋に居るほとんどの時間も音を出している為に、多少の音が鳴っても気が付く訳がない。そこで照明の色が変化してチャイム音の代わりになるシステムが備え付けてある。

「チッ誰だよ、こんな時間に」

 冬になって日が短くなってひかるは気が付かなかったが、辺りはすっかり暗くなって19時30分になろうとしていた。

「はいはい、誰?」

「・・・・・・・」

返事は無い。ひかるが仕方なしに映したモニターの向こうには袋井誠の姿があった。

「あれ、おっさんどうしたの。久しぶり。ちょっと待ってな」

ひかるはシステムキーを解除して誠を部屋へと促した。


「・・・それで?何かあんだろ、頼み事が。おっさんがわざわざ俺に会いに来るなんて、よほどのことなんだろう?」

誠は目の前のひかるが淹れた珈琲には手も付けず、湯気を見つめていたかと思うと、遠慮気味に掛けていたソファーから身を降ろし、白く長い毛足の絨毯の上にいきなり土下座した。

「ごめん、頼みがある。キミのコンサートにある人を・・父親を招待したい。チケットを一枚何とかして欲しい。でっ出来ればキミに近い席の方が。びっ病気なんだ。たぶん身体は楽じゃないと思う。来ないかもしれない!そ、それでも招待したいんだ。都合を付けて欲しい」

 ひかるはポカンとしてそれを見ていたが、すぐに立ち上がって仕事用のリュックを背負ったままの誠の背中からそれを剥ぎ取って、誠を再びソファーに座らせた。

「まず、いいからそれを飲んで落ち着け」

 誠は素直に少しぬるくなった珈琲で乾いた喉を潤す。砂糖は入っていないのに珈琲はほんのりと甘く感じる。

「そうか、了解した。マネージャーにすぐに手配させる」

「実は、逢えなかったんだ。この前。だからまた・・・」

 ひかるは誠が続けようとする言葉を、大きな手のひらで誠の口を塞いで遮った。

「もういいんだ。もういいからそれは。だから誠は、何も言わなくていい」

もしかしたら瀬戸マリアから話を聴いているのかもしれない。と誠は感じたが、それはそれで気が楽になった・・。

 しかし自分には、もっと大事な言わなければいけない事があるんだ。

 誠は冷めた残りの珈琲を一気に飲み干すと、またソファーから降りて土下座した。

「ごめん、僕はキミに隠していることがあるんだ。僕は恐ろしい生き物なんだ。いつ、近くの人を傷付けるのかも解らない。恐ろしい生き物なんだ。人を、クラスメイトを殺したんだ。とんでもない人間だ。殺人犯だ。だからこうして今だって、一生涯、僕は監視されている!」

 誠は左腕に埋め込まれている監視用のリングをひかるの方に向けて見せた。時間がちょうど20時になり、青白く点滅を始めている。

「恐ろしいだろう⁉こんな人間。本当は僕なんかが調子に乗っちゃいけないんだ。人並みなんて考えちゃ・・。だけど心の底の何処かが止められなくて。どうしても言えなくて・・」

 目の前で静かに誠の話を聴いていたひかるがスッとその場を離れ、すぐにまた戻って来た。

「誠が恐ろしい殺人鬼なら、それを見てどうする。俺を殺す?」

誠はひかるがキッチンから持ってきた真新しい自分の方に持ち手が、ひかるの方に刃先が向けて置かれた包丁を見つめる。

「俺を刺すならどうぞ。すきにやってくれ。ああ、そのかわり一度で頼む。あと顔はやめてくれ、美しく散りたい。あとそれから指を切り落とすとかも困るな、後で手型とか記念に造るかもしれないし。あとそういえばヒゲも伸びているし、服だって部屋着だし、下着だって新しいのに着替えないとダメだな。あと最期に美味いメシも食っていないし、最期だったらやっぱり美人と一緒だ」

 そう言うとひかるは自分で置いた誠の前の包丁をサッと自身の後ろへ引っ込めた。

「やっぱゴメン俺まだ無理だわ。さっきのは忘れろ。もう少しやりたいこともあるし、だな。ここで誠とふたりっていうのも・・。俺にはもっと相 応しい華のある運命があるってものだ」

そそくさと自身の後ろに隠した包丁をキッチンに戻そうとひかるが立ち上がると、誠がひかるに抱き付く。

「ごめん、本当にごめん。本当にごめん、本当にごめん」

「バカッ。おっさん急にそういうことするなよ。俺は今、包丁という一般家庭における最大危険器具のひとつを持っているんだぞ!危ないから離れろ。すぐに俺から離れろ!」

 誠はひかるの優しさが心底嬉しくて、泣きながら、何かを叫びながらひかるの身体にしがみついた。いい大人が、年下の知り合って間もない青年の胸で泣く。

 みっともない。こんなみっともない自分を人前にさらけ出して・・。以前の自分だったら、こんなことはできなかった。

 誠の涙と鼻水と諸々はひかるのスウェットをベシャベシャにしたーー。



第一〇章


 12月26日、今年もあと僅かで終わろうとしているクリスマスの翌日。宇都宮ひかるの特別保護居住地区でのウィンターリサイタルが施設内のホールで行われる当日。

 朝から空はどんよりして重く、目頭に溜まった涙が溢れそうな誰かの顔のようだ。と、袋井誠は朝九時三十分の曇り空を見ながら思った。

乾いた冬の空気を深く吸い込むとその冷たさに鼻の奥がツンとする。出てきた鼻水を吸いながら誠はいつも通りに出勤し、特別保護居住地区の住人たちの巡回業務リストをチェックする。

「バカか⁉おっさん!俺が、この俺がこうしてチケットを二枚手配したのに。どうしておっさんが行かないんだ⁉誠が行かなきゃ意味ないだろうがっ!そんな、年寄りたちの世話なんかいつでもまた出来るだろ?365日、いつだって同じ業務が出来るだろうが、このスカタンが!」

「ちょっと、ひかる言い過ぎよ。違うのよ誠ちゃんはお父さんの意志を尊重して、直接逢うことはしない。って言っているのよ」

「わかっているよ俺だって。誠がそんな勝手なことしたくないっていうのは。だけど悔しいんだよ、俺は。お互いまだ生きて逢えるんだぞ。悔しいんだよ・・・俺は」

 数日前のひかるとマリアのやり取りを誠は思い出していた。

結局、チケットを無駄にするのも良くないという理由と、誠の父親が来場した際に急に具合が悪くなった場合、少しは役に立つだろう。という理由で瀬戸マリアがひかるが手配した残り一枚分の席でひかるのリサイタルを鑑賞する。という流れにこの騒ぎは落ち着いたのだった。

 誠に後悔は無かった。

自分の父親は“自分には死ぬまで会わない”選択をあの時に下したのだ。その決意を相手を騙すようなやり方で自分が捻じ曲げることなど、出来るわけがない。

 自分にはそんな権利も資格も、持ち合わせていないのだから。

 父さんは歩けるだろうか?病院に入院しているくらいなのだから、そもそも歩けないのかもしれない・・。

 もくもくと今日の空よりも黒い雲が誠の頭の中に浮かんできたが、誠はそこでその雲をぶった切る。

 何もかもが自分が勝手にやったこと。何かを期待するなんて間違っているじゃないか。

 仕事用のいつものリュックを軽く背負い直して、誠はC棟の今日の訪問先へと足を蹴った。


 ひかるのリサイタルは18時開場、18時30分開演。客席が200人ほどの会場は早い時間から席が埋まって行く。

「元々、特別保護居住地区の住人は孤独な人ばかりなのだから、来場しやすいように少しでも敷居は低い方がいいだろう」という、ひかる自身の意向で大きすぎない会場と12月26日の日程が選ばれた。

 クリスマスの翌日、世間では年末に向けて慌ただしい時間が刻まれているだろうが、特別保護居住地区の住人たちにはあまり当てはまらない。

 自分のテリトリーから出なくても、大概のことは解決できてしまう。具合が悪くなってもAIの医療システムが遠隔操作によって診断し、特定のスタッフがすぐに駆け付ける。

瀬戸マリアもそういったスタッフの一員だ。

 自分の殻に閉じこもりがちな人たちに、見知らぬ人間同士が肩を並べ、ひとつの空間の中で目には見えない旋律の間を縫い、自由に浮遊して、同じ空間を人と人とが楽しむ喜びを感じて欲しいーーー。

宇都宮ひかるは、いつもそう願いながらリサイタルに臨む。表現者として選ばれた者の責任がひかるにはある。中にはそういったプレッシャーを感じすぎるあまりに、演奏家として自滅してゆく者もいる。

 しかしひかるは違っていた。父親である純一郎の背中を追いかけ、追いつけない自分がいる。だからといって父親のピアノをコピーしたい訳ではなかった。

 以前、緑川由紀子に言われた通り、自分のピアノは父親の足元にも及ばないから・・。

いわゆる“天才”という種類の人間たちは、人として生きて行くのがあまり得意ではないらしい。幼いころひかるは父親を見ていて、そのことに気付いていた。

才能が無くとも、みっともなくもがいている自分を、いつも何処かから父親に見ていて欲しいと、願った。

「傲慢で、いつも自分に自信があるように見える。どうしたらそんな風に強気でいられるのか?」と、インタビュアーに問われたことがあった。

「ああ、それはどうも」

ひかるは一言で片づけ、それを叩く人間も多かったが、ひかるにはどうでも良く、ただ空いたスケジュールをピアノを弾く時間に当てられてちょうどいい。とすら思っていた・・。


「ひかるさん時間です」

マネージャー川崎が声をかける。別段返事をするわけでもなく、グローブで手を温めたままひかるは椅子から立ち上がる。

「お父さん、行ってきます」

いつものように心の中で呼びかけて、ひかるはリサイタル会場へと向かった。



 辺りはすっかり陽が落ちて、外灯が無ければとても手元の文字など追う事はできない。

誠は夏場と違い最盛期の勢いを失いつつも、何とか上へ上へと伸びようとしている頼りのない噴水の水音を聴きながら手前にあるベンチに落ち着いた。

 時刻は19時20分。ひかるのリサイタルが開演し、ちょうど盛り上がっているところだろう。

 外灯のぼんやりとした明かりを探りながらプログラムに目を通す。予定だと「バッハのメヌエット」という曲を演奏しているらしい。

曲名を見たところでクラシック音楽など誠はまるで違いが判らない。いつも背負っている黒いリュックから仕事用ではない私物のタブレットを取り出してひかるのリサイタルの様子を観る。イヤホンの細い空間を通り抜け、ひかるの奏でるピアノの音が誠の心の中心にゆっくりと浸透する。

 不思議と、昔から聴き慣れてきた音のように自然と身体が受け入れている。過去の事も何もかも忘れて、全てが許されて、演奏の渦の中に身を委ね、会場の人たちと一体となり何も考えずにただ、漂う。

 何十年も忘れていた感覚が誠の中心から起き上がってくる。

 今僕は、誰かと同じように喜び、感じ、理屈ではない感動を共有しているんだ。

 ひとつのラインから引き下がる選択を、しなくていいんだ。

 今は、今だけは僕にもまだ人として感動することが与えられているんだ。

 辺りには誰もいない初冬の公園の暗がりで、カサカサと風に引きずられながら通り過ぎる枯れ葉たちの前で、誠は遠慮なく泣いた。

 ひかるから送られていた、父親と近い席のチケットを辞退し、今この瞬間に会場内に自分が居ないことを本当に良かったと誠は改めて感じていた。

 わざとらしく父さんに逢ったところで僕は嬉しくもないし、第一に今更。これ以上父さんを傷付けたくない。

この世からいついなくなってもおかしくないと理解している人に、この期に及んでなお失望させることをしたくない。

 誠の席には今頃瀬戸マリアが身代わりに座ってひかるの演奏を父さんと同じように聴き、その姿を同じように見つめているはずだ。

 泣いた後の誠の顔は今度はふにゃっとニヤけだしている。

ステージの上でひかるの姿を見たらきっと、キレイすぎて自分たちが「天国にでもいるんじゃないか」と思うのじゃないかしら・・。



 ステージの上で宇都宮ひかるはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」の第一楽章を弾いていた。

 ひかるの視界に薄っすらと、袋井誠の父親らしい人物が入った。他には緑川婦人、そして誠の席にいる瀬戸マリア。

 どうしてだ⁉どうしてなんだ。折角、この俺がわざわざ手配して。・・父親も来ているというのに。何で誠が、お前が来ない!

どこまでバカなんだ。

演奏と同時に気持ちが高ぶりそうになるが、長年の訓練のたまもの、身体は至って冷静のようである。

・・父さん。聴こえているんだろう?俺はずっと父さんを追いかけて、追いかけてピアノを弾いてきたんだ。緑川夫人の知っている父さんを俺は全部を知らないよ。だけどそんなことはどうでもいいんだ。誰も知らない父さんが、俺だけの父さんが俺にピアノを教えてくれて、同じ鍵盤をゆっくりと同じ指の運びで弾いてくれていた父さんが居るんだ。

・・そして明るい時間から酒をむさぼるように探して、酒を狂ったように飲んで、そんな時でもピアノに向かおうと父さんはしていて、短い時間なのに父さんの指は魔法のように美しい音を造りだしたね。手の震えが止まらなくて思うように鍵盤に指が溶けてゆかない時でも、父さんは何度もその向こう側にある父さんの音をもう一度掴もうと、ピアノに向かっていただろ?だから父さん、もういいんだよ俺に謝らなくても。父さんいいんだ。もういいんだよ・・・。

 ひかるのピアノはハイドンのピアノ・ソナタ第23番、第二章を奏でている。

暗くてはっきりとは見えない降り出した雪のように静かに、人々の心に降ってはそっと気付かぬうちに消えてゆく。消えながら深い余韻を刻んで、心の忘れた傷を癒そうとしている。

 誠が座るはずの席を間借りしている瀬戸マリアは、どうしようもなくただ涙を流しているしかなかった。

ひかるのピアノは近くで何度も聴いてきたのに、今夜のピアノは何かが違っていて、いつもより温かい体温みたいなものをマリアは感じて、誠が今ここに居ないことを呪い、同時に感謝もしていた。

 嗚呼、どうして誠ちゃんが今この演奏をここで聴いていないの?お父様だって来ているのに!私がここに居たってお父様には何の意味も無いじゃないのよ。ああ、でもごめんね誠ちゃん私、図々しくて悪いんだけど今夜の彼の、ひかるの演奏をこの場所で聴くことができてとても感謝しているの。だって本当だったら私の今頃は昨日と同じように特別保護居住地区の住人たちの部屋を廻ったり、世話をしてくたくたになって、でも少しだけ笑って自分で自分を慰めて・・そんな風にして月を見上げている時間なの。

でも今夜は違っていて、仕事も定時で上がって、化粧もしていて、黒いドレスなんて着ちゃって、ひかるのピアノを聴けて、ステージの彼を見つめて・・違う自分を発見できたの。

 だからきっと、誠ちゃんのお父様にも誠ちゃんの気持ちが伝わっていると思う。だって絶対にこのピアノを聴いて何も感じないなんてありえないじゃない。

 だからちゃんと、誠ちゃんの想いをお父様は受け取っているはずよ。

マリアは両手を握り合わせて強く目をつむり祈った。

 ステージ上でひかるはほとんど話をしない。

一度弾き始めたら、曲の合間のわずかな時間は止まらない。

ショパンのエチュード嬰ハ単調・作品14番。

スピード感のある曲だが、ひかるは表情ひとつ変えない。

まるでソリの先頭でひかるが鞭をしならせ、

聴衆がただそれに導かれている。ひかるの鞭でたたかれているのは、聴衆たちの方かもしれない。ステージ上の彼の存在が神々しいまでに光を放ち、彼の音の支配からもう誰も逃れることは出来ない。

 ショパンの二十四の前奏曲の内の何曲かを弾き、第14番、そして第15番「雨だれ」をひかるは奏でる。

 いつもの噴水の前のベンチで誠はイヤホンからひかるのメッセージを拾っていた。

言葉が無くとも、より深く響いてくる。

リサイタルホールの中で他の人々と一心に聴くのも良いかもしれないけれど、誠にはやはり後ろめたさと、気恥ずかしさと・・全てが綯い交ぜになってホールに行くのは無理だった。

 あの日から僕は、人であって人ではなく、居るけれど居ちゃいけない存在なんだ。

だからこそこうして、仕事を終えた誰もいないこの場所こそが僕が居ても許される、ちょうどいい場所なんだ。

 誠もまた、ひかるのピアノを受け取りながら大粒の涙を流していた。

 久しぶりだな・・こんな風に泣くのは。悲しいでもない嬉しいような、でもやっぱり悲しいような。

僕にさえ泣くことを許してくれる。

 冬のかすれた空気の中に、いつの間にか白い綿毛がふわふわと浮遊している。

「わあぁ」

誠は白い息を一度吐いてから、左手の手のひらを上に向けて綿毛の正体をつかまえてみる。

微妙に形の違うそれらの綿毛は少しずつ一緒に結び付き、誠の手のひらの上に一瞬だけ留まり、スーッと誠の体内に滲んだ。


ーーお父さん、あなたもきっと今同じピアノの旋律を、調べの奥深さを心と体で感じて、生命を感じていますか?

 僕は、ここでこうして居るだけでいっぱいになるんです。充分な人です。

だからお父さんも過去でも、あの時でもなく、今を。今を感じて幸せでいて下さい。自分自身に今夜だけは許しを与えて下さい。

 僕がこうして今、自分を許しているように。

お父さんも、どうか。ーーー


 誠は鼻先を赤くしながら、両手を強く握り合わせて祈った。


 ステージ上でひかるはリストのラ・カンパネラを演奏し、次のショパンの即興曲第4番、作品66「幻想即興曲」を奏でている。

 あと少しでリサイタルが終わる。それまでに・・もうおそらく一生逢えないだろう親子なのに、なぜふたりとも交わろうとしない?

過去や世間体などどうでもいいことじゃないか。ふたりの人生に誰も、暇つぶしのタネにはしても責任など取ったりはしないのだぞ。

 ショパンのポロネーズ第六番、作品53「英雄」を弾いている最中にピアノの向こう側のステージ袖に待機しているマネージャー川崎にひかるは目で合図をすると、川崎は迷うことなくステージ袖を後にして客席近くのテーブルの影に移動した。

 最後の曲、ショパンのエチュード作品10ー3「別れの曲」をひかるが演奏し終えると、マネージャー川崎がそっと最前列の籏町悦夫の座る席に近づき囁いた。

「籏町悦夫さまですね。あと少しだけ、宇都宮ひかるに付き合って頂いても宜しいでしょうか・・」


 ホール内の観客が全て退出して、ひかる達と観客が籏町悦夫ひとりだけになると、ひかるはステージから降り、籏町悦夫の座る椅子の前で挨拶しようと声を掛けた。

「籏町悦夫さんですね。今夜は来ていただいて有難うござ・・・」

籏町悦夫に近づくと、ひかるは言葉をいったん止めて、息を飲んだ。

リサイタル中は客席が暗くて全く気が付かなかったが、その男性は盲目か、ほとんど視力が低下して、物を見る能力が備わっていないようであった。

「こっ今夜は本当に有難うございます。本当に感謝します」

ひかるは気持ちを強く持って言葉をもう一度繋げ、籏町悦夫の前で深々と頭を下げた。

「いや、こちらこそお礼を申し上げたい。後にも先にも、もう私には今夜のように素晴らしいピアノを目の前で聴くなどという機会は、二度と来ないでしょうから」

籏町悦夫は少し乾いた、通り行くそうに喉元をようやくすり抜けてきたような声で言った。

ひかるは目頭が熱くなって、

「もう一曲だけ、私の友人が大好きな曲をあなたに贈りたいのでどうか聴いて下さい。後何か聴きたい曲はありませんか?私に弾ける曲でしたらそちらも是非とも弾かせて下さい」

ひかるは涙が出ないように悦夫に向かって一気に言葉を発した。

「クラシック音楽などにはあまり縁のない生活をしてまいりましたので、ほとんど知っている曲はありませんが『エリーゼのために』をお願いできますかな?遠い昔に大事な女性と聴いた覚えがあります」

「エリーゼのために、ですね。わかりました。その前に友人の好きな曲、ショパンのバラード第一番、作品23をお贈りします。ところで長丁場ですが、お身体は大丈夫ですか?」

「ええ、今日は調子がマシな方です」

籏町悦夫はそう答えてから、また口を開いた。

「あと、もうひとつだけ私の、私の弔いの曲を一曲。葬送曲をお頼みしても・・」

「葬送曲、ですか」

目の前にいる籏町悦夫はほとんど盲目であるのに、ひかるは全てを見抜かれてしまいそうでなるべく表情を変えずに返した。

「・・それでは葬送曲といいますか、葬送行進曲ではありませんが、ラヴェルという音楽家の『亡き王女のためのパヴァーヌ』という曲はどうでしょう。とても気品のある籏町さんにお似合いの曲ですよ」

「・・気品が。私に?」

「ええ、とても気品がおありです」

「まあそれは別として、最期くらいは良いのかもしれません。あなたにお任せしたい」

「光栄です。確かに承知しました」

宇都宮ひかるは再びステージに上がり、ひとりだけの誠の父親である籏町悦夫の為だけに、一曲目、二曲目、そして三曲目の『亡き王女のためのパヴァーヌ』を彼の為の葬送曲として、籏町悦夫の人生に、そして袋井誠に、この親と子に。そしてどこか、ひかる自身とひかるの父である宇都宮純一郎に向けて想いを込めて送ったーーー。



「・・・お父さん。どうしたのだろう?僕は今とても温かいところにいて、どこか清々しいんだ。もう誰の目も気にしなくていいみたいだ。そしてここに居ればお父さんに逢えるきがするんだ・・・」



 『12月27日、朝8時の情報番組で、特別保護居住地区で勤務していた男性職員が、一人の住人らしき人物に殺害された。というニュースが流れた。加害者とみられる男性は、かつて自分の親族をこの男性職員に殺害され、犯行に及んだと証言しており、犯行動機などの詳細は現在調査中である』




                             完





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