明日、死のうと思っています。
人間は、誰しも孤独だと思うのです。それは生活かもしれない。心かもしれない。はたまた、孤独ではないのかもしれない。しかし、私は間違いなく、孤独であります。
街を歩く時も、食事をする時も、床に伏す時も、私は孤独である。無論、心も孤独であります。
一人で街を歩いていると、あることが目に映りました。ぬいぐるみが、地面を歩いているのです。私は元気なぬいぐるみだなと感じました。こんな、現実的に見てあり得ないような情景が目に映ったところで不思議に思わないぐらい心が冷めてしまっているのです。
よく見ると、ぬいぐるみは歩いてなどいませんでした。そのぬいぐるみの進行方向には子供が、キャリーケースのようなものを引っ張っていました。幼く、無邪気な、穢れを知らない顔でありました。
もしかしたら、私のような孤独な社会不適合者にも、このような時期があったかもしれません。いや、ありました。あったはずです。人間は、最初は誰しも無邪気で、純粋で、優しくて、おかしい。それが無垢であります。子供であります。綺麗さであります。
他に、何がいるのでしょう。知恵なんて、学なんて、必要なのでしょうか。知識が役に立つ場面なんて、学が役に立ったと感じる時なんて、短い人生の中ではありませんでした。なぜなら、学校で習うことを、社会でやっている会社なんてないのです。下線部を日本語に訳す会社なんてないのです。
本当に、社会で大事だったのは成績表の左側ではなかったのです。数学が四であったり国語が一であったりというのは、ある意味で言えば挽回できますし、学をつけるというのは簡単です。ですが、本当に大事なのは成績表の右側にあったはずの、
「協調性がある」
「リーダーシップがある」
「優しい」
と言った、人間の本質的な要素が大事だったのです。頭を良くするなんて簡単です。頭のいい人が言うように本を読んで、演習して、骨を折る努力をすれば、頭が良くなるのです。利口になるのです。しかし、この本質は、頑張っても、骨を折る気で努力したところで、人間の本質は変えられないのです。そして、無垢であれば無垢であるほど、よく磨かれているものなのです。いや、磨かれているのではなく、削られていないのかもしれません。穢れていないのかもしれません。
小さい子供を見ると、私は自分が惨めに思えます。子供は、なんの穢れも知らないのです。言わば、禁断の果実を齧らなかったアダムとイブを見ているようなのです。
恥を、穢れを知らない綺麗な人間を見ると、自分が穢れている気がしてならないのです。おそらくは、こんなことを考えてしまう時点で、私は綺麗な、穢れを知らない人間ではないのでしょう。
ぬいぐるみなんて、もう買わなくなりました。私が男だからかもしれませんが、歳をとるにつれて絹の塊に価値を見出せなくなったのです。本も同じです。久しぶりに、子供の頃好きだった本を読んだ時にこう思ってしまいました。
「この本はこれほどまでに退屈で、単調で眠たくなるものだっただろうか」
おそらく、つまらなくなったのは私のほうでしょう。書籍の内容が、時間が経つにつれてつまらなく変化するわけがないのですから。皮肉にも、鮮やかな世界を描いた物語の世界というと言うものは私を傷つける刃に姿を変えました。
自分が惨めに思えて仕方がなくなった私は、自分の家に帰ることにしました。
家に帰るという行動でも、私は劣等感というものを感じてしまいます。同い年の人間は、いいマンションに住んでいたり、家を建てたりしています。たいして私は、ボロアパートに住んでいます。もちろん一人暮らしです。孤独であります。
家に帰る途中、その子供と同じ進行方向でした。ずっとその子はぬいぐるみを引っ張り、心が弾んでいるようでした。反対に、大人の私は、そんな子供を見て心が沈み、憂鬱になっていきました。
帰りながら、こう思いました。
「この子供も自分のように暗い人間になるのか」
大人とは、世界に裏切られ続けた子供の姿ではあります。子供にとって世界とは、本当に狭いのです。大人が、先生が、親が、神様に見えているのです。そして、その神の愛を受けながら育つのです。ですが、その人たちは神様なんかではありませんから、子供は世界から不条理という洗礼を浴びるわけです。そんな、裏切りが続いてしまうと子供は穢れていき、大人になるのです。
しばらく歩くと、家につきました。皮肉にも、その子供の目的地は、私の家の目の前にある大きい公園でした。そうなると、辿る道が同じなのも納得です。
公園には、その子と同じぐらいの年齢の小学一年生ぐらいの子達が集まっていました。みんな、ぬいぐるみを持っていて、お飯事をして遊んでいるようでした。
その子が公園に入り、その輪に入ると小学生の集まりは、わっと明るくなりました。他の人たちは、この子を待っていたのです。その様はまさしく主人公のようでした。たいして私は、その子の近くを歩き、ボロアパートに住む住民Aでしょうか。
家に入り、手を洗いベッドに向かいます。生憎、この家はボロアパートですからワンルームなので寝室や、リビングといった概念はありません。
ワンルームには、私が死のうとした形跡がぶら下がっています。死ぬ勇気もなかったのです。
死にたくはありません。ですが、生きられないのです。死ぬ勇気も、生きる勇気も、私には、住民Aには備わっていないのです。
人の世が怖いのです。なんで人間が何食わぬ顔をして生きていけるのか分からないのです。人を蹴落としながら、人の上に立ち、その癖そのことを認識もしないで幸せだという顔をできる理由が、私には見当もつかないのです。
自分の生きてきた証明である後悔や、記憶、同級生、両親などが、いつしか、私に牙を剥いて
「悔い改めろ!」
なんて糾弾される日が怖いのです。そんな不安要素が存在しているこの世の中が怖いのです。そして、その不安要素を感じていることを感じさせない人間という生き物が怖いのです。私はもう、自分自身が化け物のような、毒虫になっている気分でした。
やはり、世の中のはぐれものである私は、不要な要素なのかもしれません。私のような人間は、間違って生まれてきたのでしょう。はたまた、神様とやらが悪ふざけで
「こんな弱者男性がいたら面白いだろう」
なんて思って作った、世界のとってのバグなのかもしれません。
公園の目の前のボロアパートというものは劣等感を刺激するのにはうってつけの場所でして、子供の声が嫌でも耳に入ってきます。
子供が嫌いなわけではありません。なぜなら、彼らに罪はないのですから。自己嫌悪に陥ってしまったり、劣等感を感じる原因が子供なだけなのです。
その子供の声が聞こえてきます。私は劣等感を刺激されることをわかっていながら、そのまま耳を塞ぐこともしないで、子供達の声を聞いていました。
本当に楽しそうな声が聞こえてきます。人生を悲観的に捉えるということをせず、人を疑うということをせず、ただ、ただ純粋で、無垢で、守るべきだと、改めて強く感じさせられます。
もしも、命を天秤にかけることがあるとしましょう。もちろん、天秤に乗る命は、私の命と、子供の命です。
「命は、平等で儚く、重さはない」
そう教わってきましたが、果たして本当なのでしょうか。子供、希望に満ちた未来と、私の空虚が、寂寥のどこが、平等なのでしょうか。
間違いなく、子供の命が下側に傾きます。
子供達ですから、まだ、何かを成し遂げているとは考えにくいですが、誰かを愛していたり、はたまた、誰かに愛されていたり、期待や、未来があったり。私にはない物を、もう、いや、まだ持っていたり。
全部、なくなった。いや、全部零してしまった私は生きているのでしょうか。命の重さを測るなら、私はたかが知れている。いや、何よりも軽い物なのかもしれません。
やはり、私には必殺技しか残されていないのでしょう。ヒーローのような、きらきらした、誰かを救う必殺技ではありません。自分を、私を救う、たった一つの刃です。
悪者を倒すことが必殺技なのであれば、自殺なんて、悪である、自分自身を殺すなんて、最終回で披露されるような大技ではではないですか。
そう思っていても、住民Aはこうして生きているのです。そんな、負け犬の私が、あの子供達にたった一つ言えることは
「傷ついた分だけ強くなれるなんて嘘だから、自分で苦労を選ぶんだよ」
ということぐらいです。社会の謳い文句なんて、都合のいい洗脳に過ぎない。子供たちは誰しも無垢なのだから、その無垢こそが、人間の本当に持つべき何よりも尊い物なのです。
子供のことを思ったり、声が聞こえると、私は毎回劣等感に襲われます。今、こうして、子供たちのことを思ったような発言をしているのは私の保身のためです。子供達のことを思っていません。自分を憐んでいるだけなのです。
将来、彼らが大人になって私よりも遥かに価値のある人間になってしまった時に、私に後ろ指を刺されるのが怖いから。それを、予防するために優しくするのです。
子供を無垢だと思っているのだって、私が逸れものなのを自分自身で誤魔化しているだけです。私が間違えて生まれてきてしまったにせよ、子供の頃は、と。過去を美化している節があります。今の私を、生まれながらに欠落していたことを自分自身で否定して、蔑んで、やっとの思いで自我を保っています。
また、涙が込み上げてきて、また、死にたいが込み上げてきて、昨日死ねばよかった。なんて思って、死んでしまった両親の顔が浮かんで、明日死のう。などと、懲りずにまた淡い決意をして、今日もふて寝を、惰眠を貪ることにしました。
子供達の声の代わりに、ご婦人たちの世間話が、烏の喧騒が耳に入って私は目を覚ましました。視界はこの街の全てを焼き尽くせそうなほどの赤い夕日が目に入るのですが、登る気力がないのか、沈んでいっていました。このまま赤い夕日が全てを、この世界を焼き尽くせばいい。はたまた、沈み切った後に、闇がこの世界を飲み込んで、全て無くして仕舞えばいい。なんて、思ってしまいました。
このまま、日は沈んで、また暗闇が全てを飲み干して、飽きもしないで太陽は登って、僕は死に損なって、また明日死のう。などと、同じ日を繰り返すのでしょうか。
そう考えた時には、私はもう、耐えきれないと思いました。
過去に縋って、それなのに、過去の鮮やかさに傷ついて、未来の暗さに絶望して。本もつまらなく感じて、未来に希望もないのだから。
そう思うと、絞首台へと足は進んでいきました。自前の絞首台です。私自身の必殺技です。最初で最後の住民Aが主人公になれる瞬間です。椅子を絞首台の下に置き、それに上り、首をかけました。
死ねませんでした。いや、殺せませんでした。主人主人公になれなかったのです。やはり私は、住民Aでした。モブキャラであり、必殺技なんて打てませんでした。死ぬ勇気が出ずに、椅子を蹴っ飛ばせなかったのです。
所詮、私は死のうとしていることを盾にして、自分の現実世界の無力さに納得のいく理由が欲しいだけでありました。
昨日も思っていた
「明日死のう」
という意思は、どうやら明日も思うようになりそうです。
その次の日も、またその次の日もそう思いながら私は、息を続けていくのでしょう。
これを地獄と呼ばないでなんと呼ぶのでしょう。この地獄から、いち早く抜け出すために、私を主人公に昇華するために、明日こそ死のうと思っている。