テディベアにeはいらない
彼女は今、料理をしている。蒸気ナベがコトコト鳴って、ときおり白い湯気を吐いている。僕は彼女の後ろ姿を見ながら、この話を書いている。藍色のカーテンの向こうがわ、夕方から降り出した雨は、今ごろ雪に変わっているだろうかと思いながら。
おおむねは事実を書くつもりだ。おおむねと付け加えたのは、もし完全にありのままを書いてしまったら、彼女は大砲みたいな勢いで、手に持っているフライパンを、僕に投げ付けてくる可能性が極めて高いからだ。
彼女は文章や小説といったものを睡眠導入剤と同じものだと考えている人なので(ただし、アイドルのゴシップ記事と星座占いは除く)これが彼女の目に触れることはないと思うが、それでも用心するに越したことはないだろう。残念なことに、今はどこから、何が飛んでくるかわからない世の中なのだから。
僕には三つ年下の彼女がいる。彼女は小学五年生の時から親友だというテディベアを持っていた。クマのぬいぐるみは彼女の思春期をともに過ごし、実家を出た彼女が、家賃四万円のアパートで僕と二人暮らしをはじめたときも。そして、彼女が二十三歳の誕生日を間近に控えた今でも、テディベアは彼女の枕元に行儀よく座っている。
テディベアの名前は伊藤さんという。ある日のこと、いつものようにぬいぐるみをなでている彼女を見て、僕はそれをふと思い出し、名前の由来を彼女に尋ねてみたことがあったのだ。
「どうして伊藤さんなの?」
「どうしてって言われてもな。伊藤さんじゃダメなの?」
彼女の背中についている湯沸かし器のスイッチが、なぜかオンになったような気配を察知した僕は慌てて言った。
「いや、ダメなんて言ってないよ。良い名前だよ。ただ、女の子がクマのぬいぐるみに名前を付けるとしたらもっとこう、かわいいというか、おしゃれな名前を付けるんじゃないかなって思って」
「ふうむ。例えばどんな?」
僕は少しだけ考えたあと、リリとかルルとか、と言った。彼女はおなかを抱えて大笑いし、そのままカーペットの上を転げ回った。たしかに安直すぎたかもしれない。でも、僕はぬいぐるみに名前を付けた経験などないのだから、少しは情状酌量の余地があっても良いと思う。
「じゃあ、君ならどんな名前を付けるんだよ? 伊藤さん以外のクマぬいぐるみがいたとしたら」
彼女は床に寝転がったまま、悩むように細い眉を寄せた。
「うーん……。ララ、とか?」
こんな人物が、さっきまでカーペットをころころローラーみたいに転がりながら、僕のことを笑っていたのだ。そんなやり取りのあと、彼女はなぜテディベアに伊藤さんという名前を付けたのか、そのわけを話してくれた。
「私ね、小学五年生のころにスクーターに乗ってて、それで」
「ちょっと待って」
僕は思わず言ってしまった。彼女は話を途中で遮られたのが気に食わなかったのか、少しムッとした表情を浮かべたが、そんなことよりも、どうしても僕は先に確認しなくてはいけなかったのだ。
「なんでいきなりスクーターの話が出てくるの? というか、それ以前の話になるんだけど、小学五年生っていうと十一歳だよね? 道路交通法って知ってる?」
「当たり前じゃん。黄色い看板のことでしょ。動物の絵が描いてあるやつは、動物が飛び出してくるかもだから、注意しろってやつ」
手始めに動物注意の警戒標識を持ってくるあたりが、実に彼女らしいと思った。彼女はどんな動物も愛しているのだ。昆虫は例外だが。
「じゃあ、帽子をかぶった人が地面を掘ってる絵が描いてある標識はなんていう意味?」
「農作業してるおばあちゃんとかが、道路のわきの畑から飛び出してくるかもしれないから、気を付けろって意味だよ。春とか夏とかは特に注意が必要だよね」
うんうんと彼女はうなずきながら言った。もちろん僕が言ったのは工事注意の警戒標識のことなのだが、農作業をしているおばあちゃんに注意が必要なのも本当のことだし、大事なことだ。僕はあえて訂正はしなかった。
「スクーターは、お父さんに私も乗りたいって言ったら、乗らせてくれたんだよ。うちのお父さん、私のこと溺愛してたから。今でもしてるけど。それにほら、お父さん結構ファンキーなとこあるじゃない? そんな感じでね。スクーターには乗ってたけど、もちろん道路は走ってないよ。うちって田舎だからさ。家の前とか、田んぼの砂利道とかをスクーターで走ってたんだ。気持ちよかったなぁ、あれは」
そんな具合に、小学五年生のファンキーな彼女は、父の言いつけと、道路交通法をきちんと守り、タヌキやキツネや、田んぼから飛び出してくるおばあちゃんなどを跳ねることもなく当時を謳歌していたらしい。それはとても良いことだし、良い思い出だなとは僕も思う。
だが、いつまでたってもクマの伊藤さんの話にならないので、僕は記憶の中のあぜ道を、スクーターでぶいぶいといわせている彼女のことを軌道修正させる必要があった。
「私、そのスクーターにも名前を付けてたんだ、それが伊藤さん。だからこの子には斎藤さんって名前を付けたかったんだけど、お父さんが猛反対してね。会社の嫌なやつに、斎藤って人が居るからって。よくわかんないけど、じゃあしょうがないかってことで、この子も伊藤さんって名前になったの」
話を聞いても、今度はなぜ斎藤さんという名前を付けようとしたのかという新たな謎が生まれただけだった。それでも、彼女の父親の気持ちはわかる気がした。愛娘が毎晩ベッドの上で抱いて、頬ずりしているものを、斎藤などと呼ばれては気が狂うと思ったのだろう。
「でも、ものをここまで大切にするってすごいと思うよ、ほんと。伊藤さんは誕生日とかに買ってもらったものなんだね」
伊藤さんは年のせいか少しだけくたびれているものの、ほつれはもちろん、目立った汚れや傷もない。伊藤さんを手に入れた経緯も僕は知らなかったが、なんとなくそのあたりなのだろうと思っていた。しかし、彼女は首を横に振った。
「え? そうなんだ。じゃあ、クリスマスプレゼントとか?」
彼女はまた首を振った。
「伊藤さんは、お下がりなんだ。近所にお金持ちの女の子が住んでて、女の子っていっても私より二つ年上だったけど。その子はすんごいお金持ちだから、定期的にすんごい量のお古をくれるわけ。洋服とかおもちゃとか。伊藤さんは、ポリ袋に詰められて私の家に来たんだ。スカートとポケモンのぬいぐるみに混じってね。私、この子を見た瞬間、なんというかビビビッってきちゃって。うちは三姉妹だから、お古がくると争奪戦になるんだけど、私は絶対この子がほしかったから、もう必死で頑張ったんだよ。だから伊藤さんは私が勝ち取ったものなんだ」
彼女は誇らしそうな顔で言った。初めて知った伊藤さんの出自と命名の謎を知ったばかりというのもあいまって、訳もなく感銘を受けている僕に、じゃんけんでだけどね。と彼女は言った。
「その日から、私と伊藤さんは親友なんだ。ずっと一緒にいるし、これからもずっと一緒なの。ほら、ちゃんと書いてあるでしょ?」
彼女はそう言って、伊藤さんの首に巻かれている、赤いリボンの裏を見せてくれた。小学五年生の彼女が油性ペンで書いたものだ。
『彩×伊藤 Best Frind!』
僕は少し悩んだのだが、にこにこしながら伊藤さんをあやす彼女に伝えることにした。
「ベスト・フレンド。親友って意味だね」
「そうだよ。英和辞典なんて初めて使ったから、大変だったんだよ。ねー? 伊藤さん」
「うん、本当に良い言葉だよね。でも、これはベスト・フレンドじゃなくて、ベスト・フリンドになってる」
「え」
彼女は最初、僕の言うことをまるで信じようとしなかった。スマホを取り出して、Frindという文字を検索したときに初めて彼女は自分の間違いに気づいた。
「フリンド……ドイツ人のソプラノ声楽家」
彼女は抑揚を欠いた声で言った。僕もスマホの画面をのぞき込んだ。フリンド。人名。(ドイツ人のソプラノ声楽家、アンニ・フリンド)と書いてある。
「ドイツの人なんだね。声楽家だって」
「いや、誰じゃこいつ」
方言が出てしまうくらいには、彼女は動揺しているようだった。しばらく放心したのち、彼女は頭を抱え、伊藤さんに何度も謝ってから、夕飯を作ってくるとだけ言い残して部屋を出て行ってしまった。部屋を出る直前に、僕にはなぜか歯を剥き出しにした威嚇顔を見せてから。
その日の夕飯はサバの塩焼きだったのだが、僕の皿にだけ唐揚げがふたつ載っていた。唐揚げは僕の好物だった。
少し後日のこと。彼女が家に居ないとき、僕は何の気なしに伊藤さんのリボンの裏を見た。Frindのinの間には、かっこでeが付け加えられていた。
それをみたとき、僕はふいに、ひどく寂しい気持ちになった。乾き立ての真新しいeの文字は、僕の中に、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔を浮かび上がらせた。
フリンドだからなんだというのだろう。そんなもの、彼女と伊藤さんとの友情に、まったく、これっぽっちも影響など与えはしないというのに。
彼女は実家を出て、初めてこのアパートに入ったときも、嬉しそうに伊藤さんに間取りを案内していた。十数年ものあいだ、欠かすことなく一カ月に一回は伊藤さんを丁寧に手洗いしているし、実家に帰省するたびに伊藤さんをリュックに入れて連れて帰っている。
彼女の背中を新幹線のホームで見送るときにはいつも、リュックに入りきらない伊藤さんが、僕に顔向けてひょこひょこと彼女の足取りに合わせて揺れている。いってきますと言ってくれているみたいに。
大事なものはいつだって、目に見えないものなのだ。大切なのは、辞書のたぐいを鈍器の仲間としか認識しない彼女が、苦労しながら親友という文字を引き、消えない油性ペンでそれを書いた時に込めた、願いと決意の方なのだ。
正しいつづりなんかどうだっていい。美しいのは、それを今でもずっと守り続けている彼女の心なのだ。そのとき僕は、自分のしたことは賢しらに、ふたりに余計なものを押し売りしてしまっただけなのだと、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
彼女だけでなく、今では僕も伊藤さんのことが大好きだ。こっそり伊藤さんを抱きしめると、古い布の匂いに混じって、彼女の柔らかい香りがする。一度だけ、その現場を彼女に目撃されてしまったのだが、そのとき彼女は、昔、通信教育で習ったという空手の技を僕の頭に向けて披露してくれた。
彼女は今でも、眠るときは伊藤さんを抱きしめている。冬になると、一週間に三回くらいは伊藤さんではなく僕を抱きしめて眠ってくれる。暖を取っているだけだとしても、僕はそれが嬉しいのだ。
伊藤さんには少し申し訳ないけれど、伊藤さんが彼女を大好きなことと同じくらい、僕も彼女のことが大好きなのだ。たぶん、伊藤さんならわかってくれると思う。
これからも、隣でむにゃむにゃと眠る彼女を、ふたりで守っていこうと僕と伊藤さんは人知れず誓い合っている。
それは、僕と伊藤さんだけの秘密だ。