37 裏山の女神さま(3)
頬を何か冷たいもので突かれた気がしてアスールは目を覚ました。目の前に突き出た鼻がある。
「ああ、そうか。ごめんね、重かった?」
大きな生き物はアスールからアーニー先生へと視線を移した。先生はずっと大樹の側でアスールを見守っていてくれていたようだ。
「そろそろ霧が晴れそうですよ」
「僕……どのくらい眠ってたの?」
「三十分ほど」
「……そう」
大きな生き物はまるでアスールが立ち上がるのを促すかのように、鼻先でアスールの背中をグッと押してきた。アスールは押された勢いでそのまま立ち上がると、両手を高く上げて大きく伸びをした。大きな生き物も前脚と背をグーっと伸ばしてからゆっくりと立ち上がった。
いつの間にかリスも鹿たちも周りから居なくなっている。
大きな生き物が再びアスールの背中を押す。
「あっちの方向へ行けってことかな?」
「そのようですね」
「そうか。お陰で助かったよ、ありがとう」
アスールは大きな生き物の太い首に両手を回すと、ぎゅっと抱きついた。アスールが手を離すと大きな生き物はまたアスールの背中を今度はもっと力強く押す。アスールは押された勢いで数歩前に出た。
「分かった。もう行くよ。さようなら、元気で」
アスールとアーニー先生はその生き物が示した方へ向かって歩き出した。見る間に霧が晴れ、前方の視界がはっきりとする。アスールの目がずっと探していた四人の姿を捉えた。ルシオが笑いながらアスールに手を振っている。
「遅かったね、アスール」
「良かった。また会えて! もう二度と皆に会えないかと思ったよ」
「何言ってるのさ。大袈裟だなあ」
「だって、ずっとあの霧の中に閉じ込められて、呼んでも全然君たちは答えてくれないし」
ルシオは訳が分からないと言った表情で、アスールとアスールの後ろに立っているアーニー先生を見ている。アーニー先生が前に進み出てきてルシオに尋ねた。
「私たちは深い霧の中に閉じ込められましたよね?」
「深い霧? 深いってほど大袈裟なものだった? あんなのほんの一瞬だったじゃないですか」
「一瞬? そんなはずは……」
言いかけたアスールの腕をアーニー先生が掴む。アスールが先生の顔をを見上げると、先生は首を小さく横に振っていた。
「今からここで休憩ですか?」
「そうだよ。取っておいたクッキーを皆で食べよう」
ー * ー * ー * ー
「どう言うこと? 僕と先生は霧の中で迷って、大きな生き物に出会った。でも、ルシオはそんなに時間が経っていないみたいに言っていた。他の人も特に僕たちが居なかったことを気にして無いみたいだったし……」
ハイキングを終えて屋敷に戻り着替えを済ますと、部屋で少し休憩をすると言うルシオを部屋に残し、アスールは話をしたくてアーニー先生を捕まえた。
「そうですね。あの四人と私たちで過ごした時間が明らかに食い違っています」
「僕たちが夢でも見てたってこと?」
「そんな筈はありません。確かに殿下は眠っておられたが、私はその間もずっと起きていました。それに、二人揃って同じ夢を見るなどあり得ないでしょう?」
「そうだよね。だったらなんだったの?」
「あのオオカミのような生き物」
「うん。異様に大きかったけど、確かにオオカミっぽいね」
「あんな大きなオオカミ、冷静に考えれば、あれは実在する生き物とは思えませんよ」
「やっぱり夢だったってこと?」
「夢と言うか、あれこそが “女神さまの悪戯” だとしたら?」
「“女神さまの気まぐれ” じゃなかった?」
「まあ、それはどっちでも良いのですが……」
「良くは無いでしょ」
「そうですか? では、“女神さまの気まぐれ” だったと考える以外、我々が経験したあの状況を説明することが出来ますか? それこそ永遠に深い霧の中ですよ」
「……。あのオオカミは温かかったし、僕は押された感覚をはっきりと覚えているよ」
「ええ。実は私も殿下が眠っている間に触らせてもらいましたから知っています」
真面目な顔でアーニー先生がそんなことを白状するので、アスールは思わず吹き出してしまった。
「時々常識では決して理解できないような不思議な出来事に遭遇した話を聞くことはありますが、どれも眉唾物の話だと思っていました。まさかこうして自分の身に起こるとは」
「眉唾物かあ。つまり、他人はやっぱりそう思うってことだね」
「まあ、そうでしょうね。人は自分の信じたいことしか信じませんからね」
「オオカミに出会ったのが僕一人だけじゃなくて良かったって思うよ」
「そう言えば、私の祖国には有名なおとぎ話があって、その中に出てくる “パンテーヴァ” という生き物がやはり巨大な雪豹でしたね」
「ロートス王国のおとぎ話?」
「そうです。でも、もしかするとロートス国だけでなくノルドリンガー帝国やあの辺りの寒い国々で広く語られている可能性はありますね。私も詳しくはないのですが」
「そうなんだ……」
アスールはこの話の流れで突然 “ノルドリンガー帝国” という国の名前が出たことに動揺した。先生もすぐにそのことに気付いたようで、困ったような笑顔を浮かべた。
「クルスタリア国にはそういった感じのおとぎ話は無いですか?」
「どうだろう。そういうのは僕より断然ローザの方が詳しいよ」
二人だけの非現実的な共通体験を通して、アスールはアーニー先生を今までよりもずっと身近な存在と感じるようになっていた。
先生に対してどこか他所他所しかった口調はすっかり消えている。
「先生はこの後どうするの?」
「この後とは?」
「僕とルシオは夏の離宮に行くけど、先生とダリオも離宮に残るのかなと思って」
「私は離宮まで護衛任務がありますが、その後は数日以内に王都へ戻ります。ダリオ翁がどうされるかは本人に確認してみないと……」
「休暇は必要だものね」
「まあ、そうですね。それに肖像画もありますし」
「ああ! それもあった!」
アスールはアーニー先生が肖像画を描いていることをすっかり忘れていた。
国王である父カルロからの依頼で、先生は近く婚約を発表する姉のアリシアのものを一枚。それから王妃である母パトリシアからの依頼で、家族七人が揃った集合画を更にもう一枚制作中のはずだから、きっと相当に大変だろうと少し気の毒に思う。
「両方とも特に急ぎのご依頼ではありませんし、のんびり描かせて頂いています」
先生はやはり人の心情を読み取るのが上手いとアスールは思った。が、そう思っていることを今度は読まれないように、一応は無表情を試みた。
何故だかアーニー先生はそんなアスールを見て笑っている。
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