36 裏山の女神さま(2)
一度の休憩の後はそのまま山頂を目指す。
山の標高は然程高くないと聞いていたが、ここまで登って来ると、少し気温も下がってきたような気がする。周りの木々の背がいつの間にか低くなっていて、ゴツゴツとした山肌が露出しているのが目につくようになってきた。
「後少しで山頂みたいですね」
後ろからアーニー先生の声が聞こえる。アスールは両手を使って岩場を必死に登った。
「凄い!」
それ以外の言葉が出てこない程に、山頂からの景色は素晴らしかった。
「島が一望出来る! って、こういうことを言うんだね」
ルシオがアスールの隣に立った。すぐにレイフもやって来た。
レイフにとっては珍しくも無い景色のようで、横で大きな欠伸をしている。
「岩のギリギリまで行けば下を覗くことも出来るよ。やってみる?」
「下を覗くって、ここから下を? 危なくないの?」
「立ったまま覗いたら危ないに決まってるよ。這いつくばって覗くんだよ。どうする?」
レイフがニヤニヤしながらアスールとルシオの顔を覗き込んだ。
「遠慮するよ。ここからだってぐるっと全部とはいかないけど、島の海岸線と水平線と両方見られる。これで充分だよ。ルシオは?」
「えっと……僕も無理かな」
見てみたい気持ちは少しはあったが、これ以上前に進んで、這いつくばってまで岩場の下を覗く勇気は二人には無かった。
「少し早めですが、ここでお昼にしましょう」
ダリオの声に振り向くと、既に粗方の用意が整っていた。おそらく大人三人で手分けしたのだろうが、これだけの量をよく運んだと感心するほど充実した内容の食事に目を奪われる。
「温かい御茶は流石に用意出来ませんが、先程汲んだ美味しい清水がありますし、食後に焼き菓子も御座いますよ」
サンドイッチの中身には昨日の晩、皆で作ったシーディンのオイル漬けが入っているのもある。
他にも、たっぷりのハムやチーズ、胡瓜にトマト。何種類ものサンドイッチが、こんなに食べ切れるのだろうかと思うほど沢山並べられている。
程良い運動の域を軽く超えた山登りの後の、絶景を楽しみながらの食事は格別に美味しく感じられた。
次から次へとのばされる五人の手によって、サンドイッチはあっという間に姿を消し、すぐに焼き菓子が用意された。今日のはナッツがたっぷり入ったクッキーだ。
「これ、帰り道に歩きながら食べても良い?」
「歩きながら食べるのは危ないからやめた方が良い。折角だから下りは別のルートで帰ろう。途中で小さな泉を通るから、一度そこで休憩をしよう。食べたいんだったらそこで食べたら良い」
ジルの提案にルシオは素直に従った。
ジルはお預けになったクッキーの代わりに、リュックサックから小さなリンゴを取り出すと、それを皆に投げて寄越した。そのリンゴは普段アスールが見慣れたものよりもずっと小振りだった。
レイフがそのままかじりついていたので、アスールも真似をして丸いリンゴをかじってみた。予想以上に甘酸っぱい果汁が口の中に溢れる。
「あはは。なんだかこの島に来てから、毎日新しい発見ばかりだよ」
「僕もそう思う」
ルシオは綺麗に芯だけ残して、あっという間にリンゴを平らげている。アスールも慌ててまたリンゴにかじりついた。
帰り道、気を付けて周りを見てみると、森の奥に親子連れの鹿や、猿の小さな群れを見ることが出来た。
こちらも動物たちを観察しているが、どうやら動物たちの方も一定の距離を保ち、こちらをじっくりと観察しているように見える。
そうしてしばらく歩いていると、急に霧が出てきて、どんどん視界が悪くなり始めた。
「後ちょっとで泉に着く。そのままゆっくり進むぞ!」
そう叫ぶジルの声が前方からはっきりと聞こえたので、アスールは踏み固められた足元の道を注意深く確認しながら一歩ずつ足を前に進めた。
しばらく歩いても「後ちょっと」とジルが言っていた泉に着かない。それどころか前を歩いているはずのレイフにいつまで経っても追いつかない。
「レイフ。そこに居るよね? まだ泉に着かないのかな?」
心配になったアスールはレイフに呼びかけた。
レイフからの返事は返って来ずに、代わりに後ろを歩いているアーニー先生の声がする。
「殿下。ちょっとそこで止まって下さい」
アスールが足を止めるとすぐに、アーニー先生がアスールのすぐ後ろで足を止めたのが分かる。
「おかしいですね。道は間違っていない筈。なのにこれだけ歩いても泉に辿り着かないどころか、他の四人がどこにも居ないなんて……」
「僕が道を間違えたってことは無いかな?」
「それは無いと思います。私も充分に確認しながら歩いていましたし」
「そうだよね。でも……」
「ええ。恐らく私たちは皆とはぐれましたね。これ以上は動くのをやめて、霧が晴れるのを待ちましょう」
そうしている間にも霧は濃くなり、更に視界は悪くなった。アーニー先生が何度か大声で叫んだが、声は厚い霧に吸い込まれてしまうのか、全く返事は返って来ない。無意味な時間だけがただ過ぎて行く。
その時、前方から何かが近付いて来る気配を感じて、二人に緊張が走った。明らかにそれは人間の気配とは違う。
アーニー先生がアスールの前に出た。手には短いがナイフを構えている。下草を踏む音が徐々に近付いて来る。
「オオカミ?」
生き物の大きな影は、既にアーニー先生からほんの数メートル程の距離まで近付いていた。
「襲って来る気配は無さそうですね」
あれだけの大きさだ、先生の手にした小さなナイフではどう考えても太刀打ちは出来ないだろう。それでも先生はナイフを下ろさない。そんな先生の背後から、アスールはそっとその生き物に目をやった。
オオカミにしては大き過ぎるその生き物は、ただじっとこちらを静かに見つめている。
普通のオオカミの五倍はあろうかと思われるそれは、少し青っぽくも見える銀灰色の美しい毛並みをしている。
驚いたことにアスールはその生き物としっかりと目が合った。生き物はアスールにまるで「ついて来い」とでも言うように首を振るとアスールたちに背を向けてゆっくりと歩き出す。
「ついて行ってみませんか?」
「そうですね。一向に霧が晴れる気配も無いし」
大きな生き物は二人がちゃんとついてきているか確認するかのように時々足を止めて振り返った。濃い霧の中を歩いている筈なのに、アスールにはその生き物の位置がはっきりと分かる。霧の中に閉じ込められてからずっと感じていた恐怖感が不思議と薄れていった。
少し歩くと目の前に巨木が現れた。大きな生き物はその木の根元まで行くと、体を丸めてその場に座り込んだ。アスールも恐る恐るその巨木に近付いてみる。
アスールが木にそっと手を伸ばすと、木の上から何かが下りてきて、アスールのすぐ横をすり抜けて大きな生き物の上に飛び降りた。
「リス?」
小さなリスは大きな生き物の上を慣れた様子で歩き回っている。大きな生き物は一瞬頭を上げたが、すぐにまた自分の前足の上に頭を乗せて目を閉じた。驚いて見ているアスールを気にする風でもなく、リスは大きな生き物の首元あたりに潜り込んでしまった。
アスールの右手が無意識に伸びて、その指先が大きな生き物にそっと触れる。アーニー先生が息を飲むのが分かった。
「あはは。思っていたよりずっと柔らかいよ」
「殿下、危険です。お下がり下さい」
「大丈夫みたいだよ」
伸ばした右腕をつたってリスがアスールの肩まで上がって来る。
「こんにちは。君たちは仲が良いんだね」
リスはアスールの肩の上でしばらくアスールとアーニー先生を交互に観察するように眺めてから、またアスールの腕を通って大きな生き物の毛皮の中に戻って行った。
大きな生き物が少し後ろ足を動かしたので、お腹近くに丁度人が一人入れるくらいのスペースが出来た。アスールは思い切ってそこに座り込む。
「殿下……」
先生は心底呆れたような溜息を一つ漏らしたが、アスールを引き戻したりはしなかった。
「あたたかい」
目が慣れて来ると、周りには数頭の鹿たちも座って休んでいるのが分かった。大きな生き物の毛皮は、その見た目よりもずっと柔らかく陽だまりの匂いが……。
「眠ってしまわれたか? 全く大胆にも程があるだろうに……」
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