59 さあ、学院へ戻ろう!
夏期休暇の最終日。アスールとローザは学院へと向かう馬車に揺られていた。
二人の側仕えのダリオ・モンテスとエマ・ジスリムも一緒だ。もちろんローザの足元に置かれた籠の中には、小さな姿のレガリアがもうすっかり慣れた様子で寝そべっている。
この日の午前中。昨晩アスールがローザから聞いた話の通りであれば、ベアトリスの側仕えをしているイレーナ・ハイレンが、カルロからの呼び出しを受けて王宮に来ていたと思われる。
実際に目撃したわけではないが、イリーナの性格からして、国王からの呼び出しとなれば、嬉々として登城してきたに違いない。まさかその呼び出しの理由が、側仕えの解任を告げられるものだとは、イレーナ・ハイレンも流石に予想はしていなかっただろうから。
「アス兄様。ベアトリスお姉様は大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だと思うよ。もし夕食までに帰寮が間に合わなかったとしても、父上からのこの手紙を管理人さんに渡しておけば、特に問題になることはないよ」
「そうでしょうか? 本当にそうであれば良いのですが……」
約束の時間が過ぎても、どういうわけだかベアトリスはなかなか馬車寄せに姿を見せなかった。
いつでも出発できる状態でアスールとローザがベアトリスを待っていると、王宮府の事務官が慌てた様子で二人の乗っている馬車まで駆け寄って来た。
事務官の話によれば、ベアトリスは急な所用ができたため、今すぐ学院に戻ることができなくなっってしまったと言うのだ。
事務官は「ベアトリスは後から別の馬車で学院に戻ることになっているので、余計な心配はせずに先に出発するように」とのカルロからの言伝を二人に伝えると、東寮の管理人のマルコ・ガイスへ届けて欲しいと言って、カルロからの手紙をアスールに手渡した。
「お姉様の “所用” というのは、やはり、ハイレン夫人絡みなのでしょうか?」
「どうかな。その可能性は大いにあるとは思うけど……」
「やっとシャロン様が落ち着いて学院生活を送れるようになって来たところでしたのに、これでまた以前のように彼女がお部屋に篭ってしまわれることにならなければ良いですが……」
シャロンというのは、イレーナ・ハイレンの孫娘のことだ。今学期早々、元々ベアトリスの側仕えをしていたマイラが階段から転落して怪我を負ってしまったのだが、その原因を作った人物だ。
いろいろな要因が重なり、シャロンは一時寮の自室に引き篭もって授業も休みがちになっていたのだが、ローザたちの働きかけもあって、今は普通の生活を取り戻せている。
「そうだね。姉上が側仕えを解任すれば、一時的にはまた噂話の種になってしまうかもしれないね。でも、イレーナ・ハイレンが今後学院に姿を見せることはなくなるだろうから、すぐに誰も思い出さなくなると思うよ」
「そうだと良いのですが……」
「そうならないとローザは思っているんだね?」
「だって……。お姉様がこの馬車で一緒に学院にお戻りになられないってことが、そういうことなのではないですか?」
「えっ? 解任されることに納得しないってこと? そんなことあるかなぁ……」
「あの方でしたら、あり得ると私は思うのですが……」
ー * ー * ー * ー
結局、その日の夕食の時間に、アスールがベアトリスの姿を寮の食堂で見かけることはなかった。
男子と女子とでは寮の階が違うので、その日、アスールはベアトリスが無事に学院に戻って来られたのかを確認できていないのだ。
「アスール。ベアトリス様のことも心配だろうけど、あっちはいったいどうなったと思う?」
「あっちって?」
「アレン先生の家に行ったサスティーだよ!」
「ああ!」
“温泉” の調査から王都へ戻ると、サスティーはアスールと共に王宮へは帰らずに、そのままアレン・ジルダニアの家へ行ってしまったのだ。
「神獣って、本当に気儘な生き物だよね。今後、どうするつもりなんだろう? 本当にあの島まで自力で戻れるのかな?」
わざわざ送り届けてもらわなくとも、島の住処に戻ることはそれ程難しいことではないとサスティーは言っていた。
「ねえ、そんなことより、ルシオ。君は自分の心配をした方が良いよ!」
「ん? それはさ、まあ、なんとかなるって!」
夕食後。ルシオ・バルマーに、全く手をつけていなかった課題が残っていることが発覚したのだ。
明日から後期の授業は始まってしまう。当然だが、夏期休暇中に出されている全ての課題の提出日は明日なのだ。
ルシオに課題を今日中にどうにか仕上げさせなくてはと、ルシオ本人よりも、何故か友人のレイフ・スアレスの方が焦っているように見える。
「それよりも、二人はあの話を知ってる? 留学生の」
だが、当の本人はレイフの心配を余所に、お構いなしで話を続けている。まあ、一応ペンを持つルシオの右手は動いてはいるが。
「留学生って……。ゲオルグとウェルナーのこと? 何かあったの?」
急に変わった話題にアスールは戸惑った。
アスールたちは、ゲオルグ・フォン・ギルデンとウェルナー・ルールダウの二人と、夏期休暇が始まってすぐの数日間をテレジアで一緒に過ごしているのだ。だが、ひと月以上前にテレジアの港で別れて以降、アスールには彼らの消息を知る術がない。
二人は、特に目的地は定めず、クリスタリア国内を気ままに旅して歩くつもりだと言っていた。
クリスタリア国は安全な国ではあるが、ゲオルグとウェルナーは留学生なのだ。何かトラブルに巻き込まれている可能性は大いにあり得る。
「ああ、違うよ。ゲオルグたちのことじゃない! 騎士クラスにいる方。ほら、ジング王国の何番目かの王子と、その従者のことだよ」
「なんだ。そっちか」
レイフもアスールと同じ心配をしていたようで、明らかにほっとした表情を浮かべている。
「彼らがどうかしたの?」
「ホルク飼育室の手伝いをしている北寮の子から聞いたんだけど、あの二人、夏期休暇中に国に帰ったらしいよ」
ルシオのいう “北寮の子” というのは、おそらく雇傭システムに登録している学生のことだろう。夏期休暇中も家に戻らずに、ホルクや植物の世話をしている学生たちが数名いる。
「そうなの? ジング王国はそれ程遠くはないし……。折角留学しているのだから勿体ない気はするけど、帰れないことはないよね?」
「そうじゃないんだ。留学を取り止めて国に帰国したみたいなんだよ」
「「えっ。なんで?」」
「詳しいことは分からない。北寮の子の話だと、夏期休暇が始まって一週間後くらいに、留学生用の離れから荷物も全部運び出していたらしい」
随分と前になるが、アスールは兄のギルベルトから、ジング王国の第四王子の留学の本当の目的はクリスタリア国の王女との婚約を取り付けることなのだという、驚くべき話を聞かされたことがあった。
クリスタリア国としてはそんな荒唐無稽な話を受け入れる気は全くない。ジング王国の王子が携えて来た書簡を読んだカルロが、怒り心頭で挨拶に来た二人を追い返したというような話だったと記憶している。
「目的が絶対に達成できないことが分かっている以上、留学を続行しても利はないとでも思ったのかな?」
「目的って……。アスール何か知っているの?」
噂好きのルシオが目を輝かせながらアスールを見つめている。
「ああ、いや。別に何か知っているわけじゃないよ」
「ふうぅん。そうなの? まあ、良いけど」
ジング王国の王子の件は、言わない方が良いだろう。
それよりも、アスールは昨日の夜にローザが言っていた話を思い出していた。
「ベアトリス姉上がルーレン殿下に会いに行った、か」
お読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になると思って頂けましたら、是非ブックマークや評価をお願いします。
評価はこのページの下側にある【☆☆☆☆☆】をタップすれば出来ます。