14 談話室に響く声(2)
「まあ、アスール殿下!」
歩いて来るアスールの姿を視界に捉えたようで、イレーナ・ハイレンの声が一段と高くなった。
東寮の管理人のマルコ・ガイスが、イレーナの座るソファーの後ろに立ち、アスールにさっさとこの茶番劇を終わらせてくれとでもいうような、意味あり気な視線を送って寄越している。
「何か問題でも?」
「お聞き下さいませ、アスール殿下! こちらのお嬢さんが私のドレスに紅茶を……」
イレーナ・ハイレンは待ってましたと言わんばかりの勢いでソファーから立ち上がると、お茶のかかった部分を摘み上げてアスールににじり寄って行く。
「ああ、この程度でしたら全く問題ありませんよ。先程カタリナ嬢が言っていた通り、水魔法ですぐに落とせますから」
お茶がかかって付いてしまったというドレスのシミは、これほどまでに大騒ぎをする程酷い汚れだとはアスールには思えなかった。
「魔法で汚れを落とすだなんて!」
「ご存知ありませんか? 授業でも習っていると思うのですが。卒業されたお孫さん……。グスタフ先輩も確か、水属性の持ち主でしたよね?」
第三学年終了後の長期休暇の時にアレン先生から出された課題だった。水魔法を応用して、生地についてしまった汚れやシミを落とすというものだ。
「グスタフ? ええ、そうね。確かにグスタフは水属性よ。でも、水魔法で汚れを落とすだなんて……私は聞いたことはありませんわね、そんな話」
「そうですか? 昨年の長期休暇中の課題でも出ていたので、てっきり毎年習うのかと思っていました」
魔導実技演習のクラス分けは魔力量別になっている。もしかすると、グスタフ・ハイレンが魔力量の一番多いクラスに席を置いていなければ、この課題に取り組んでいなかった可能性もあるかもしれない。
これ以上言及するのは、止めた方が良さそうだ。
「私も母のシルクのハンカチや、妹のドレスの汚れ落としをしましたよ」
確かあの時は、違う種類の生地と違う種類の汚れの組み合わせで、少なくとも二度は試してみるようにとの課題だった覚えがある。
アスールはローザに何か課題に使えるような、ちょっとしたシミか汚れがついた物はないかと聞いてみた。するとローザは、袖口に絵の具をつけてしまったというお気に入りのドレスを持って来たのだ。
布切れ程度で試すつもりでいたのに、いきなりの大物が持ち込まれた。失敗は許されない!恐る恐る試してみたところ、思いの外綺麗に絵の具の汚れが落ちていくではないか。
その様子を興味深気に見ていたパトリシアが面白がって、その後、アスールはパトリシアが持って来た何枚ものレースのハンカチの汚れ落としをさせられたのだ。
「王妃様のハンカチのシミ抜きを? 殿下が?」
「ええ。とても綺麗になりますよ」
「まあ、そうなのですか? ああ、でも、私が申し上げたいのは、そういうことではなく……」
イレーナ・ハイレンは、まだ怒りが収まっていないようだ。
「おっと、そうでした! 綺麗にシミを抜くには、なるべく汚れてから時間をおかない方が良いらしいですよ。急いだ方が良いですよ! カタリナさん、後のことは貴女にお願いしても差し支えないですか?」
「もちろんですわ。さあ、イレーナ様。殿下もああ仰ってますし、すぐに着替えをされた方がよろしいですわ。このままお部屋へ戻りましょう。イレーナ様のドレスは一旦私がお預かりして、後でヴァネッサ様のお部屋の方へお持ちします。そこで綺麗にして、ドレスは今日中にお戻し致しますのでどうぞご安心下さい」
カタリナはそう早口で捲し立てると、答えを待たずに、イレーナ・ハイレンの手を取って談話室の出口の方へと歩み出した。
「あの、カタリナ様……」
心配そうなヴァネッサの声がカタリナを追いかける。
「ヴァネッサ様、後は私にお任せ下さい。後程、ドレスを持ってお部屋に伺いますから!」
カタリナは安心させるようにヴァネッサに向かって優しく微笑んだ。
「ああ、そうだ!」
アスールが談話室を出ようとしていたイレーナ・ハイレンの背中に向かって声をかけた。
「この寮の談話室ですが、基本的には学生のためのスペースです。今後こちらでお茶を飲まれるのでしたら、学生たちが学院本館で授業を受けている時間帯にして下さい。そうして頂ければ、今後はこのような余計なトラブルは回避できますので!」
ー * ー * ー * ー
アスールが寮の玄関ホールでルシオを待っていると、ローザとカレラの二人が仲良く並んで階段を下りて来た。
「おはようございます、アス兄様!」
「おはよう、ローザ。カレラさんもおはよう!」
「おはようございます、アスール殿下。もしかして、兄をお待ちなのですか?」
「そうだよ。忘れ物をしたらしくて、今部屋に取りに行ってるところ」
「まあ!それは申し訳ございません。兄のことなど、置いて行ってしまって宜しいのに……」
そこへ、なんとも絶妙なタイミングでルシオが下りて来た。
「アスール、お待たせ! って、あれ? なんでカレラが一緒なの?」
学院へと向かう石畳の道を、二組の兄妹が並んで歩いている。
そんな彼らの少し前を歩くマティアスとレイフの二人は、おそらく剣術の話でもしているのだろう。時々、マティアスが剣を打ち込む時に似た足捌きをしてみせ、それをレイフが真剣な眼差しで見入っている姿が見える。
「それって、昨夜の話なのですか?」
ルシオは昨日談話室で起きた出来事を、身振り手振りを交え少し大袈裟なくらいに、面白おかしく二人に語って聞かせていた。
「そうだよ! 取れたてほやほや、鮮度抜群。とっておきの話題だよ」
ローザとカレラの二人は、ルシオの口から流れ出てくる話に時々目を丸くして驚きながらも、真剣に耳を傾けている。
「そんなことが夕食後の談話室で起きていたなんて、ちっとも知りませんでしたわ」
「そうなんだよ、ローザちゃん! 僕にはまるでカタリナさんが救世主のように見えたよ」
「まあ! それで? ドレスにかかってしまったお茶のシミは綺麗に落ちたのですか?」
「もちろん!」
そう言ってから、ルシオは昨夜のことを思い出したようでケラケラと笑い始めた。
「ルシオ様?」
「ごめん、ごめん。だってさ、思い出したら可笑しくて! 紅茶のシミはね、ヴァネッサさんが見事なまでに、本当に綺麗に抜いてみせたらしいんだ。水魔法って便利だよね!」
カタリナ・サカイエラがイレーナ・ハイレンを着替えのために談話室から連れ出すとすぐに、ヴァネッサ・ノーチはシミ抜きの準備をするために自室へと戻って行った。
自分の過失でイレーナ・ハイレンのドレスについてしまった紅茶のシミを抜こうと、ヴァネッサは、かなり頑張って水魔法を使ったらしい。
「そしたらね。紅茶のシミだけじゃなくて、ついでに余計な汚れも全部落としちゃったみたいで……。ヴァネッサさんが水魔法を使った部分だけが、他の部分よりも明らかに綺麗になっちゃったんだよ」
そう言うと、ルシオは今度はお腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。
「まあ、それは大変!」
「そうなんだよ!」
「それで? その後、どうされましたの?」
水魔法で綺麗に落としてしまった汚れを、元(ぼんやりと汚れた状態)に戻すなんてことは不可能だ。
「慌てたヴァネッサさんが、その後すぐに談話室に駆け込んで来たんだよ」
「それで?」
「アスール。その後どうなったのか、君の口からローザちゃんに教えてあげなよ」
ルシオがニヤニヤしながら言った。
「その後? 水属性の僕とレイフも手伝って、残りの紅茶がかかっていない部分のドレス全部に、三人がかりで水魔法をかけたよ……」
「「まあ!」」
「まるで新品のように綺麗になったよね!」
「まあね」
「届けられたドレスを受け取ったハイレン夫人のあの驚いた顔を、カレラとローザちゃんにも見せたかったよ!」
そう言ってルシオがまた笑い出した。
「笑い事じゃないよ! ルシオは見ていただけだから良いけど、レイフとヴァネッサさんと僕の三人は、本当に凄く大変だったんだからね!」
「そうだと思うよ! 分かるよ!」
自分の名前が聞こえたのだろう、レイフが振り返って、大笑いしているルシオを不思議そうに見ていた。
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