9 ベアトリスの新しい側仕え
カルロから聞かされていた本来の着任予定日よりも一週間も遅れて、ベアトリスの新しい側仕えとなるご夫人が王立学院へとやって来た。
「ねえ、あの人誰かしら?」
「さあ、私は知らないわ。それにしても、随分と派手なお方ね……」
「ベアトリス様の新しい側仕えの方がもうすぐいらっしゃると伺ったけど、まさか違うわよね?」
「それはないでしょ。あり得ないわ!」
「ふふふ。そうよね」
「誰かのお祖母様でしょ。ご用事があっていらしているのよ、きっと」
授業を終えて東寮へと戻って来れば必ず寮生たちが通り抜ける玄関ホールに置かれたソファーに座り、その夫人は周りの視線など全く気にする風もなく、一人優雅にお茶を飲んでいる。
東寮の管理人のマルコ・ガイスが少し苛々しているように見えるのは、その夫人のお茶を用意したのがおそらく彼だからだろう。マルコ・ガイスは東寮の管理人ではあるが、使用人ではないのだ。
そこへベアトリスが戻って来た。
「あそこに座ってお茶を飲んでいるご婦人が、どうやら貴女の新しい側仕えらしいですね」
部屋の鍵を受け取るためにカウンターへと立ち寄ったベアトリスに、マルコ・ガイスがぼそりと小声で囁いた。
「あの方が、ですか?……本当に?」
「そう名乗っていらっしゃいましたから、間違いなくそうでしょうね」
「……そうですか」
ソファーに座る新しい側仕えだという夫人を確認した途端、驚愕の表情を浮かべたベアトリスに対して、マルコ・ガイスは気の毒そうに言った。
仕える主人となるベアトリスが寮に帰って来たことにも気付かず、優雅にお茶を飲み続けるそのご婦人は、およそ側仕えとは思えない外見だ。ゴテゴテと装飾の多いドレス、大きくて派手な髪飾り。ベアトリスの口から小さな溜息が漏れる。
「これ以上問題は起こされませんように。呉々もお願いしますよ」
ー * ー * ー * ー
新しくベアトリスの側仕えとして東寮へとやってきたのは、イレーナ・ハイレン。アニタに怪我を負わせたシャロン・ハイレンの祖母だ。
アニタが怪我を負ったあの日、東寮の管理人のマルコ・ガイスの采配でアニタは応急処置を受け、すぐに学院から王都の自宅へと戻ることができた。
その後、マルコ・ガイスは学院を通して関係各所へ連絡を入れたそうだ。
連絡を受け取った各所の中には、王宮も、当事者となるハイレン侯爵家も、それからバルマー侯爵家も含まれていた。
怪我を負ったアニタは男爵家の三女。
身分的には下級貴族だ。嫁ぎ先(こちらも男爵)の夫を流行り病で亡くしてからは、王宮に住み込み、ベアトリスが生まれてすぐの頃から側仕えとしてずっとベアトリスの世話をしている。
ベアトリスにとっては、気持ち的には祖母にも近い大切な存在でもあるのだ。
だが、ハイレン侯爵家の当主のダリル・ハイレンにとっては、男爵家の未亡人など取るに足りない存在という認識のようで、侯爵家の使用人がアニタの元へ一応見舞い金を届けには来たらしいが、その時もそれ以降もきちんとした謝罪はないらしい。
それどころか「怪我をして学院に戻れないアニタの代わりに、王家がベアトリスの側仕えを急ぎ探している」という話をどこからか聞きつけてきたようで、ダリル・ハイレンは自分の母親を推薦する書類を持って意気揚々と登城してきた。
「聞くところによると、陛下がお探しの側仕えは、ベアトリス様が学院に在学している間だけの短期の契約になるとか。それでしたら私の母がお役に立てると思われます」
ダリルは、自分の娘の失態がそもそもことの始まりであることなど、すっかり忘れているようだ。もしくは、自分の娘に非があるとは思ってすらいないのかもしれない。
「其方の母親は、どう考えても側仕えに世話をしてもらう側に思えるが。側仕えとして誰かの世話などできるのか? 儂には彼女にベアトリスの側仕えが務まるとは到底思えんがの……」
フェルナンドは『あり得ない!』と、ダリルに退出を促すように手をヒラヒラと振って見せた。
「いえいえ、フェルナンド様。そんなことはございません。母はああ見えて、子どもが好きですし、貴族社会にも非常に詳しいです。僭越ながら、ベアトリス様にとって今後王女としての振る舞い等、必要なことをいろいろとアドバイスすることも可能だと思われます」
ダリル・ハイレンは引き下がる気は全くないようだ。
ベアトリスの今回の側仕え選定に関しては、先程ダリルが言ったように、ベアトリスが学院に在学している間だけの短期間だけの雇用になる。
というのも、ベアトリスの卒業後に側仕えとなる人材は既に決定しているからだ。
ならば、その人物が早めに側仕えになって貰えば良い話なのだが……。
「卒業後にベアトリス様の側仕えとなる予定のベルゲン夫人は、マルテーラ国からしばらくの間は戻ってこられないのでしょう? でしたら、尚更、私の母親に任せて頂きたい!」
ベルゲン夫人というのは、アニタとの交代が決まっている次期側仕えユーリア・ベルゲン。ベルゲン前伯爵夫人のことだ。
彼女は現在、マルテーラ国に嫁いだ三女の初めての出産に立ち会うために、マルテーラ国に滞在しているため留守なのだ。
「確かに、今ベルゲン夫人をマルテーラ国から呼び戻すこともできんしな……」
「他にどなたか候補に上がっているご婦人が?」
「いや、居らん」
結局ダリル・ハイレンが言うように、アニタの代わりに今すぐに学院へと向かえる人材が居ないのは確かなのだ。
「其方がそれだけ推すのであれば……まあ、今回はイレーナ殿に任せてみるか。カルロ、それで良いか?」
「父上がそう仰るのであれば」
「おお、ありがとうございます。母は必ず陛下のご期待にお応えできる筈です。どうかお任せ下さい」
「それで? イレーナ殿はすぐに学院へ向かえるのか?」
「もちろんでございます」
ダリル・ハイレンは、すぐに帰って母親にこの件を伝えると約束すると、いそいそと王宮を後にした。
「はぁ……。あの者の言葉を間に受けて、本当に大丈夫なのでしょうか? 自分の娘がアニタに怪我を負わせた件に関しては、謝罪どころか、触れもしませんでしたよ」
カルロは立ち去るダリル・ハイレンの背中を見送りながら、先が思いやられるといった表情で溜息を吐いた。
「ああ、そうじゃな。だが、事実、他にすぐに学院へ向かえる者も居ないのだから、この際任せてみる他あるまい。いつまでもエマに二人分の世話をさせてもおけんからな」
「そうですね。エマとダリオには、様子を見るように伝えましょう」
「それが良い。多少の不具合程度だとベアトリスは何も言って来んだろうから、ローザとアスールにも気になることがあれば連絡をするように伝えておくんだな」
「そうですね。そのように計らいます」
ー * ー * ー * ー
王家とダリル・ハイレンとの間でそんなやり取りがあったにも関わらず、イレーナ・ハイレンは着任の予定日を一日一日とずるずると後ろに伸ばし、今日になってああしてやっと到着したというわけだ。
「まあ! ベアトリス様! 学院からお戻りになられましたのね!」
ベアトリスとマルコ・ガイスからの視線に漸く気付いたイレーナ・ハイレンはティーカップをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がると、大仰なドレスの裾を軽く持ち上げ、満面の笑みを浮かべてベアトリスの方へ歩み寄って来た。
「ごきげんよう。カルロ陛下のたってのご希望とのことで、本日よりベアトリス様の教育係をお引き受け致しました、イレーナ・ハイレンですわ」
「……今、教育係と仰いましたか?」
「ええ」
「私は父から、怪我を負ったエマの代わりの側仕えが来ると聞いておりましたが、これは何かの手違いでしょうか?」
「まあ、そうですの? ベアトリス様がそう仰るのであれば、そういう認識でも私は構いませんことよ」
ベアトリスの耳に、反対側を向いているマルコ・ガイスが漏らした溜息の音が確かに聞こえた。
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