11 アンナ・ディールスという女
「完全に僕たちの負けって感じだね……。アスール」
「別に、勝負はしていないけどね」
アンナ・ディールスは、そのおっとりとした見た目とは裏腹に、かなり芯の通った女性だということはアスールも知っている。
あのエルンスト・フォン・ヴィスマイヤーの姉でもあるし、あの最悪の状況から命懸けでロートス王家の双子を守り抜き、生き抜いた女でもあるのだから。
「ナディア。お兄ちゃまたちからお菓子を頂いたのよ。ルーラと向こうのお部屋で食べていらっしゃい。きっと凄く美味しいと思うわよ」
「そうなの? ありがとう、お兄ちゃまたち」
「「「どういたしまして」」」
ナディアは美味しい菓子と聞いて、極上の笑顔を浮かべてソファーから飛び降りた。
ルーラと呼ばれた侍女がアンナに向かって小さく頷くと、ナディアの手を取り、二人はサロンを後にした。
ただ気になるのは、アスールたちがディールス邸訪問に際して手土産にと持ってきたのは菓子ではなく、花束と紅茶の茶葉だったのだが……。
「お気遣い感謝します。ですが僕たちが今日持ってきたのは……」
「大丈夫。ちゃんと分かっておりますから。それで、お話とは何でしょうか?」
ナディアに聞かせたくは無い話もあるかもしれないとの、アンナの配慮だったようだ。
アンナはすぐに本題に入る。
アスールたちが学院に戻らなければならないため時間があまり無いことも、アンナはちゃんと理解しているのだ。
「ディエゴ・ガランという人を知っていますか?」
「ディエゴ・ガラン?……ガラン男爵のことでしょうか? その方のことでしたら、存じ上げております」
「そうです。では、そのガラン男爵の、奥方についてはどうですか?」
「ギーゼラ様のことかしら?」
「……名前は分かりません」
「こうしてわざわざ私に話を聞きにいらしたということは……。アスール殿下は、ロートス王国の話を私から聞きたい、ということでよろしいのかしら?」
「その通りです」
しばらく沈黙があった。
「先に確認しておきたいのですが、殿下と一緒にいらっしゃるそちらのお二人は、既にいろいろと詳細をご存知なのだと考えて良い、ということでしょうか?」
「「はい」」
アンナの問いかけに答えたのは、マティアスとルシオだった。
「……そうでしたか」
「わけあって、僕から二人に過去に起きたことを伝えたいと、父上に許可を得たのです。ここには来ていませんが、もう一人、レイフ・スアレスも僕の真実を知る人物です」
「レイフ・スアレス様?」
「はい」
「今ここに、そのレイフ様だけがいらしていないのは、ガラン男爵がレイフ様の従者となっているからですね?」
「アンナ様は、そのこともご存じでしたか……」
「ええ。レイフ様が公爵家にお入りになられた経緯については、私も詳しくは存じ上げません。ギーゼラ様から、ご夫君が公爵家に新しく入られたご子息の従者として、王立学院に行かれたということだけは聞いています」
アンナは、やはりディエゴの妻とも知り合いなのだ。
「それで、殿下は結局何をお知りになりたいのです?」
「僕は、ディエゴ・ガランという人物が信頼に足るかどうかを見極めたいのです」
「つまり、今はまだ信頼していないと?」
「……そうかもしれません」
「そうですか……」
アンナはしばらく考え込んでから再び話し始めた。とても慎重に言葉を選んでいるように感じる。
「私自身は、ガラン男爵の人柄について語れる程の面識は無いに等しいのです。ただ、奥方のギーゼラ様とは、とても親しくお付き合いさせて頂いています」
身分的なことを言えば、明らかにアンナの方がギーゼラよりも上だ。アンナは侯爵夫人で、ギーゼラは男爵夫人なのだから。
なのにアンナはギーゼラに対して敬語を使っている。
「その奥方は、やはりロートス王国の出身なのですね?」
「ええ。シュミット侯爵家のご令嬢です。幸いにも、あの事件よりもずっと前にクリスタリア国にお渡りになられておりますが、ギーゼラ様も以前はキールの王宮に勤めておいででした。私の先輩とでも言えば良いかしらね」
「と言うことは、スサーナ王妃に仕えていたと?」
ルシオが身を乗り出す。
「いいえ。その頃はまだ。スサーナ様の輿入れ前の話です。ギーゼラ様はアスール殿下のお祖母様、ヒルデグンデ王太后様のお側近くにお勤めでした」
「……お祖母様?」
アスールにとっては想像もしていなかった人物が出てきた。
「はい。もちろんヒルデグンデ様は今でもご健在の筈ですよ」
アスールの父親であるヴィルヘルムが先王の死後に、王位を継承している話は聞いて知っていたが、王の母親に関しては考えたことが無かった。
まさか自分の祖母が生きているとは、アスールは夢にも思っていなかったのだ。
「……そうですか」
何と表現したら良いのか分からない。確かに祖母が健在だと聞いて嬉しいのだが、少しふわふわした不思議な気分でもある。
「ギーゼラ様は信頼に値する方だと私は自信を持って殿下お伝えできますわ。きっとガラン男爵も。……私は、そう願っています」
アンナはしっかりとアスールを見つめながら言った。
「分かりました。いろいろとお聞かせ頂き、感謝します」
ー * ー * ー * ー
学院へと戻る馬車の中で、ルシオが黙ったままのアスールの肩を叩いた。
「心配要らないと思うよ。少なくともフェルナンド様がアスールを害する可能性のある人物を近付ける筈は無いだろう?」
「そうだな。それに関しては全面的にルシオの意見に賛同する」
「ちょ、ちょっと、マティアス。今のは聞き捨てならないね。それに関してはって何なの? 僕はいつだって真っ当な意見を述べてるつもりだけど?」
「ああ、そうだったか?」
「もう! 酷いよ!」
まるで緊張の糸が切れたかのように、三人はお腹を抱えて笑った。
「そうだね。お祖父様にしても、伯父上にしても、レイフの今後を気遣っての人選だったってことだよね。ちょっと癖のある人だとは思うけど……悪い人間である筈は無いよね」
「ああ。ディエゴ殿の腕は確かだしな!」
「マティアスの判断基準は、剣の腕前と、フェルナンド様だよね」
「何か問題でもあるか?」
「まあ、人それぞれで良いんだけどさ」
レイフの周りが落ち着きを取り戻すまでは当面、ディエゴ・ガランがレイフの側を離れることはないだろう。
今は男爵という身分だが、ディエゴは元はターデン侯爵家の子息だ。
ニコラスとしては、ディエゴに対して、学院に居る二年間でレイフに公爵家の一員としての振る舞い方を教育して欲しい、との思いもあるのだろう。
それはレイフにとっては非常に有難いことに違いない。アスールがその人選に口を挟むのはお門違いだ。
「それにしても、本当はアレ、何だったんだろう? 気になるな……」
ルシオが真剣な顔で考え込んでいる。
「なんだ? どうした、ルシオ、急に。何がそんなに気になるんだ?」
マティアスが真面目な顔でルシオの顔を覗き込み、話しの続きを促した。
「ああ。僕たちがディールス邸に持って行ったことになっているお菓子のことだよ。アンナ様がナディアちゃんに『美味しい』って言ってたアレ! いったいどんなお菓子だったんだろう?」
「……菓子か」
マティアスが呆れ顔で大きな溜息を吐いた。
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