18 アーニー先生
「アルノルド・マイヤーです。アーニーとお呼び下さい」
絵画のレッスンは火の日と土の日の午後に決まった。
アルノルド・マイヤーと名乗るその画家は、画家と言う割には非常に上品な物腰と立居振る舞いで、およそ職人といった雰囲気は感じられない。それに、芸術家と言うには動きに隙が無さ過ぎるように思う。
アスールは悪漢と戦うアーニー先生を直接その目で見ていることもあって、この男に対する評価を決めかねていた。
「殿下。私が収穫祭の折に剣やナイフを振り回していたことは、どうか姫様には内緒にしておいて下さい。怖がられてしまっては授業に差し障りがありますので」
そう言って優雅な笑顔でもって軽くウィンクなどしてみせる。益々もって理解不能である。
ー * ー * ー * ー
週に二回の絵画レッスンも三週目に入ると、バルマー伯爵は「多忙につき」と参加を見送る旨の言伝をアーニー先生に寄越したらしい。
大方、先生に対する人物評価で伯爵からの『合格』が出たのだろうとアスールは想像していた。
「今日は陽射しも暖かいので、中庭に出て描いてみましょうか」
中庭の花壇は城の庭師の手によって常に最高の状態を保たれている。
スイセンの黄色、スノードロップの白、色とりどりのアネモネ。
もうすぐやって来るだろう春を待ち侘びるかのように競って咲く花々の間を抜けて奥へ進み、ピンクの花が少しさけ咲きはじめた大きなアーモンドの樹の下にあるベンチへ向かう。
「この辺りで気に入ったものを一つ見つけて下さい。それをよく観察して、出来るだけ描きたいものを精密に写し取ることを今日の課題にしましょう」
「気に入ったもの? 何でも良いのですか?」
「はい。花でも、石でも、虫でも、なんでも結構です。ああ、でも虫は動くので、ちょっと難しいかもしれませんね」
ローザはスケッチブックと鉛筆だけを手に取ると、思いついたものがあるようで、あっという間に駆けて行く。その場にはアスールとアーニー先生が残された。
「先生は、絵描きが本当の職業ですか?」
アスールはずっと気になって仕方なかったことを思い切って直接本人に尋ねてみることにした。
先生はアスールの問いに驚いたようにほんの一瞬だけ視線をアスールに向けた後、少し離れた場所で座り込んで絵を描き出したローザの方を黙ったまま見つめている。
時折吹く風が二人の髪をふわりと揺らす。
「本当の職業ですか……」
アーニー先生は慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「画家が私の現在の職業なのは本当です。事実それで糧を得てもいます。ですがそれが全てではありません。正直にお話しするとすれば……私はある目的を持って祖国を出ました。その目的を果たすために、画家であるということは私にとっては非常に都合が良かった。……まあ、そんな感じです」
「目的を果たすことは出来たのですか?」
「いいえ」
短い否定の言葉を言い終えると、もうこれ以上は話を続ける気が無いらしく、先生は立ち上がってローザの方へとゆっくりと歩き出した。
アスールも今日の絵の題材を探すことにした。
ー * ー * ー * ー
次のレッスンもバルマー伯爵は欠席の連絡を寄越したみたいだ。
今回も引き続き外に出る。
「前回は一つのものを細かく観察しましたが、今回はそれとは逆に、大きなものを描いてみましょう。建物でも良いですし、庭でも構いません。細かく描く必要はありません。ざっくりと捉えて紙の上に鉛筆で下絵を描いてください。次回色付けをしてみましょう」
アスールは城の離れを描くことにした。ハンカチを取り出し、芝生の上にひいてそこに胡座をかいて座る。ローザはしばらく芝生の上をうろうろと歩き回っていたが、流石に芝生の上に座るのは諦めたようで、アスールから少し離れたところにあるベンチに腰を降ろした。
(はあ、今日も暖かいな……)
鉛筆がコロコロとスケッチブックの上を転がる音で目が覚めた。少し離れたところで喋っているローザとアーニー先生の声が聞こえてくる。アスールはそっと二人を盗み見た。
(良かった。居眠りはバレてなさそうだ)
その時、アスールはただならない気配を感じて再度二人の方を振り返った。アーニー先生が一点を見つめ凍りついているのが目に入った。
先生の視線の先には離宮からこちらに向かって歩いて来る集団がいる。五人。それも女性ばかりだ。
「姫様、あの女性、離宮の前の道を歩いている方はどなたかご存知ですか?」
「えっ? どの女性ですか?」
「ほら。前から二番目の。薄緑色のドレスの女性です」
「薄緑の……。ああ、あの方はディールス侯爵の奥方で、アンナ様ですよ」
「アンナ様? ディールス侯爵の……」
「お知り合いですか?」
「……いいえ。人違いのようです。失礼いたしました。……ああ、姫様。この辺りに花壇を描き加えてみてはどうでしょう。ええ、そうです。その辺に。色を入れますので細かく描く必要はありませんよ。そうそう。お上手です」
先生は何事も無かったかのようにローザの絵の指導を続けている。だが先生の視線は、その姿が完全に見えなくなるまで薄緑色の背中を追っていた。
今日は離宮のサロンで王妃主催のお茶会があったはずだ。
丁度今そのお茶会が終わったのだろう、着飾った御婦人方が数人ずつおしゃべりをしながら歩いている姿が見える。アスールとローザに気付き、お辞儀をしたり、手を振ったりしていく者もいた。だが先生が明らかに気に掛けたのはたった一人、薄緑色のドレスの御婦人だけだった。
ー * ー * ー * ー
週が開け、この日は室内で前回描いた風景画に色を入れる。
アーニー先生は大量の絵の具を持ち込んでいた。小さな瓶に入れられた色とりどりの粉は、どれも水に溶かしてから使うらしい。城の使用人が粉を溶かすための小さな皿や、たっぷりと水の入った水差しを運び入れている。
「今日はなんだか楽しいことをするようですね」
そう言いながらバルマー伯爵が部屋に入ってきた。伯爵は机の上に並べられつつある道具を興味深そうに一つ一つ眺めている。
「伯爵は最近さぼってばかりで、下絵も描かれてらっしゃらないでしょう。今日の参加は駄目ですよ!」
ローザがぷうっと膨れて、伯爵を部屋から追い出そうとする。
「おやおや、姫様はいつも私にだけなんだか冷たいですね。仰る通り下絵はありませんが色付けだけでも参加させて下さい。面白そうじゃないですか」
「冷たくなどありません! きちんと毎回参加なされば良いのです」
そう言いながらもローザは、使用人に自分の隣に伯爵用の椅子を並べるようにと言っている。なんだかんだ言っても伯爵はローザのお気に入りなのだ。
バルマー伯爵もしっかりローザの隣の席に腰を下ろしている。
(今日はなんだって急に伯爵は参加する気になったんだろう?)
アスールは気になって伯爵を観察するが、特に普段と変わった様子は無い。とは言え、バルマー伯爵がアスール若きにその意図を見抜かせるはずも無いのだが。
アーニー先生の方はと言えば、彼もまた普段通りだった。
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