41 さあ、国へ帰ろう!
「随分と実りのある外遊だったようですね?」
段々と遠ざかっていくジェガの街をデッキから一人眺めていたアスールは、不意に耳元で囁かれた声にハッとして振りかえった。
アスールのすぐ後ろに満面の笑みを浮かべたジルが立っているではないか。ここまで寄られて気付かない自分自身の不甲斐なさにアスールは思わず苦笑した。
「そう見えますか?」
「そうですね。この二週間で……随分と色艶が良くなって男前度が上がりましたよ」
「それって、ただ単に日に焼けたってことじゃないですか!」
「まあ、それもある! でも、それだけでは無いでしょう? 少し顔付きが変わったように見えますよ」
「……そうですか?」
よくは分からないが、なんとなく褒められていると解釈しても良いのだろうか?アスールは少し顏を赤らめた。
「そうだ! ジルさん。この国に滞在している間にアーニー先生とは会えましたか?」
「もちろん!」
やはりエルンストとジルは、何らかの手段でお互いちゃんと連絡を取り合っているようだ。
「殿下たちがタチェ市に向かうよりも前にね。時間が空いていたらしくて、一度だけ一緒にジェガの街に酒を飲みに繰り出しましたよ」
「そうだったんですね。飲みに?……知りませんでしした」
「ははは。まさか未成人のアスール殿下を、街の酒場に誘うのは不味いでしょ?」
アスールの落胆振りに気付いたのか、ジルは戯けてみせた。
二年前のテレジアへの旅で知り合って以来、エルンストとジルは身分差を気にすること無く良好な友人関係を続けているようだ。
「じゃあ、あの件は聞きましたか?」
「あの件? 何の話です?」
「婚約者の話です」
「誰の?」
「アーニー先生ですよ」
「本当に? えええっ。聞いてないですけど!」
アスールはジルの答えを聞いて、我ながら少し子どもじみているとは思うが、ちょっとだけジルに対して優越感を味わった。
「なんだよ、いつの間に! それで? 相手は? 何処の誰ですか? 殿下も知っている女性です?」
「いいえ。ハクブルム国の侯爵家のご令嬢だと聞きました。結婚式は一年後くらいになるようです」
「マジか!」
ジルは悔しそうでもあり、嬉しそうでもある。
「なんだよ。言ってくれれば、祝いにもっと浴びる程飲ませたのに!」
「そうならないように言わなかったとか?」
「……成る程。確かに自分ならそうしますね!」
アスールとジルは顏を見合わせ、声を上げて笑った。商船の広いデッキ上を心地良い海風が吹き抜けていった。
「まあ、随分と楽しそうね!」
「なんだ、ヒルダか。お前、いつも言っているだろう、気配を殺して俺の背後に立つなよ!」
この二人、やっぱり似たもの兄妹だとアスールは思う。
「楽しそう? ああ、そうさ! 友人の “めでたい話” をこの殿下から、たった今、聞かせて貰っていたところだからな」
ジルはすこぶる機嫌が良い。
「それに、今俺たちは国へと戻る船の上なんだぞ。心が踊らない奴なんて、この船には誰一人居ないだろ?」
「そうね。私もクリスタリアに戻るのは久しぶりだわ」
「そうなのですか?」
「ええ。冬になる前だったから……もうすぐ十ヶ月くらいになるかしら」
「もうそんなになるのか?」
「そうよ、兄さん! なかなか誰も迎えに来てくれないんだもの。あのままサスランに忘れ置かれるのかと、気が気じゃなかったわ!」
確かジルはヒルダのことを “諜報員” って言っていた。きっとオルカ海賊団の中には、アスールの想像も及ばないような役割分担もあるのだろう。
「触れない方が良いこともあるよね……」
「えっ、何です? 殿下。今、私に何か仰いましたか?」
「いえ、別に。なんだかさっきよりも風が強くなって来ましたね」
「そうですね。これなら、予定よりも早くクリスタリアに戻れるかもしれませんよ」
ー * ー * ー * ー
「おかえり、アスール!」
「殿下、お邪魔しています」
船室に戻ると、船室にはギルベルトの他に、ラモス・バルマーと、アスールの側仕えのダリオの姿もあった。ギルベルトとラモスの前に置かれたティーカップからはふわりと湯気が上がっている。
「悪いね、アスールが居ない間にダリオを借りちゃったよ」
ダリオは既にアスールのお茶をカップに注ぎはじめている。アスールが空いている席に腰を下ろすと、目の前にティーカップが静かに置かれた。紅茶の良い香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとう。ダリオもここに座ったら?」
カップを手に取り、ダリオの淹れてくれる大好きな紅茶の香りをアスールは存分に楽しむ。
「いいえ。折角の御誘いですが、私は出来の悪い孫に、美味しいお茶の淹れ方を早急に指導しなければなりませんので、これで部屋へと戻らせて頂きます」
ダリオはここが揺れる船室であることなど感じさせない位、至って普段通りに茶器を手早く片付け始めた。
「美味しいお茶をありがとう。ダリオ、あまりフーゴを責めないであげてね」
「そのような御心遣いは不要で御座いますよ、ギルベルト殿下。甘やかしてばかり居ては、いつまで経っても人間は進歩致しませんからね。では、皆様失礼致します」
ダリオが船室の扉を閉めて出て行き、足音が遠ざかるのを確認すると、ずっと笑うのを我慢していたらしいラモスが、ぷはっと吹き出した。ギルベルトが横からラモスを睨みつけている。
「あれは相当厳しい指導が入るね! 間違いないよ!」
「ラモス、笑い事じゃ無いよ! 責任の一端は君にもあるからね」
ラモスがギルベルトの部屋に遊びに来たので、ギルベルトはお茶を用意して貰おうと、フーゴの部屋を訪ねたそうだ。フーゴの船室は祖父であるダリオと二人部屋だ。
「船室の扉を開けて出て来たダリオの顏を見て、ラモスが『やった!』って嬉しそうな声を上げたんだよ、僕の背後から」
「だってさ、明らかに同じ茶葉なのにダリオさんの淹れてくれるお茶の方が美味しいんだよ。思わず心の声が漏れたって……仕方ないだろう?」
ギルベルトが小さく溜息を吐いた。このラモスの意見に対しては、例えフーゴの主人であるギルベルトであっても反論する気は無いようだ。
「一応、アスールは船室に居ないからとは伝えたんだけど、ダリオがこの部屋に来てくれたんだよね。風が出て来たから、すぐにアスールも船室に戻って来るだろうからって言って」
流石はダリオだ! 完全にアスールの行動パターンを読んでいる。
「はあ。やっぱり美味しいな! ここが海の上で無かったら、ここにダリオさん手作りの焼き菓子も並ぶんだろう? いつもルシオが凄く自慢するんだよね、自分の側仕えってわけでも無いのにさ」
ラモスがテーブルに並ぶ、おそらくはダリオがジェガの街で買い求めたであろう焼き菓子を口に運びながら言った。
「まあ、これも美味しいんだけどね!」
何だかんだ言いながらも、ラモスはまた焼き菓子の皿に手を伸ばしている。
「あはは。やっぱり兄弟って、似ていないようでも似てるんですね!」
突然アスールが笑い出したので、ラモスは焼き菓子を加えたままキョトンとした顔でアスールの方を見ている。
「似てるって、僕がルシオと? それは無いでしょう!」
「いやいや、そういうところだよ! だよね、アスール?」
「そうですね、兄上。思った以上に二人が似ていて……僕も早くルシオに会いたくなりましたよ」
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