32 エルンストとルアンナ
「あの、アーニー先生。お聞きしたいことがあるのですが……」
「私の婚約者について、ですか?」
「えっと、……はい。そうです」
出掛けにアスールはギルベルトたちから「ヴィスマイヤー卿の婚約者の詳細情報を聞き出して来るように!」との厳命を受けていた。
「バルマー侯爵に探って来るよう頼まれましたか?」
「侯爵? いいえ、兄上です」
「おや。ギルベルト殿下でしたか」
思い返してみれば、ギルベルトとアスールが朝食を食べながらこの話をしている時、そういえばフレドがなんだかやけに楽しそうな表情を浮かべてアスールたちを見ていた。
「別に内緒にするつもりは無いですよ。聞かれればいくらでも答えるのに、何故かどなたも直接聞いてこないので、大して興味も無いのかと思っていました」
そう言ってエルンストは微笑んだ。
「私がハクブルム国で描いたスケッチの中に、シーンの王城を描いたものがあったのですが……ご記憶にありますか?」
「もちろんです。花畑の向こうに王城が描かれていたスケッチですよね?」
「ええ、それです。あの絵を描いている時に、初めて出会ったのです。彼女と」
エルンストは当時を思い出したのだろう、話しながらクスリと笑った。
「あの日ふと思い立って、久しぶりにスケッチブックを持って散歩に出たのです。ハクブルム国へ入って以降何かと忙しなくて、絵を描く余裕なんて全くありませんでした。ですが、あの日は、なんだか無性に絵が描きたくなって……」
城下でスケッチを数枚描いた後で、食堂に入り昼食を食べていると、そこの食堂の主人が「丘の上の公園の花畑がとても見事だから、折角だから描きに行ってみたらどうか」と言ってくれたそうだ。
確かに食堂の主人が言うように花畑はとても見事だったが、エルンストは奥に見えるシーンの王城を描いて、クリスタリア国に居るアスールたちに届けたいと思ったと言った。
「一瞬、時間が巻き戻ったのかと錯覚しました。ローザ様と初めてお会いした日と、状況がとても似通っていたので」
「ローザと?」
「ええ。絵に没頭していた私に、ローザ様と同じように彼女も声をかけてきたのです」
声をかけられて顔を上げると、若い女性がニコニコ微笑みながら目の前に立っていた。服装から、裕福な家庭の娘だろうとエルンストは思ったと言う。
その女性は隣に座り込み、エルンストが王城のスケッチを全て描き終え鉛筆を置くまで、ずっと黙って真剣に絵を眺めていたそうだ。
それから、エルンストはその日にシーンの街を歩いて描いた数枚のスケッチを見せた。
その女性も絵を描くらしく、彼女からこの丘以外でスケッチをするのに適した場所を何ヵ所か教えて貰ったり、画材を扱っているお勧めの店を聞いた。
しばらくそうして話し込んでいると、彼女の家から迎えの者がやって来て、お互いに名前も名乗らず別れたと、エルンストはアスールに言った。
「まさか、それからひと月もしないうちに再会するとは、思ってもみませんでしたよ」
アリシアとクラウス皇太子の結婚式の後に開かれた舞踏会で二人は再会を果たしたそうだ。
「最初は、あの日丘の上で出会った女性と同一人物だとは全く気付きませんでした。皇太子に “友人の家族” だと紹介された一家の中から、余りにもじっとこちらを見ている不躾な視線に気付いたのです。よくよく見てみれば、あの時丘の上で出会った女性ではないですか!」
それがルアンナ・ミュルリルだったそうだ。
ルアンナはミュルリル侯爵家の長女で、父親はハクブルム国の宰相を務めている。つまり、ミュルリル侯爵家はハクブルム国ではかなりの名門だ。
クラウス皇太子の側近であるオスカー・ミュルリルは彼女の弟で、クリスタリア王立学院へ皇太子と一緒に留学経験もあり、アリシアとクラウスの婚約式の際にはクリスタリア国へも皇太子と共に来ていたらしいとエルンストは言った。
「ああ、その人のことならローザから名前を聞いたことがあります。一度お茶会で同席したとローザが言っていました。どうも、どこかで聞き覚えのある家名だと思った!」
シーンの王城でアリシアを補佐するためにアリシアの近くに居ることの多いエルンストは、舞踏会以降アリシアの友人となったルアンナとしばしば顔を合わせたそうだ。
ルアンナは他の貴族のご令嬢方とは違い、エルンストに擦り寄って来るようなことは全く無く、逆に距離を取られていると感じたとエルンストは言った。
(アーニー先生はこの容姿だし、ロートス王国に帰ればそれこそ将来を嘱望される次期侯爵だ。きっとハクブルム国の社交界でも独身女性に大人気に違いない!)
「理由はしばらくしてから分かりました。彼女は王弟の子息の元婚約者だったのです」
「元婚約者ですか?」
「ええ。数年前に彼女の方から国王陛下に婚約破棄を願い出たそうです」
「そんなことが許されるのですか?」
「まあ、許されたから婚約は破棄されたのでしょうね。詳しくは私も聞いていませんが……」
ルアンナ本人だけで無く、ミュルリル侯爵家としても婚約破棄をした以上、今後ルアンナが他の誰かと結婚することは無いだろうと思っていたようだ。
何せ、破棄したお相手が王弟の子息なのだから。例え婚約破棄の理由がどうであろうとハクブルム国の貴族であれば二の足を踏む。
だが、エルンストはハクブルム国の貴族では無い。ルアンナに対しても腫れ物を扱うような態度を取ることなど全く無く、当然のように普通に接した。
その後は、エルンストのハクブルム国での後ろ盾となっているチェトリ侯爵家がミュルリル侯爵家と元々親しくしている関係で、両家が主催する晩餐会やお茶会で顔を合わせる機会も増え、王宮で顔を合わせれば絵の話をしたりしているうちに段々とお互い意識するようになっていったそうだ。
「ですが、私はいずれロートス王国へ戻らねばなりません。私たちが既に親密な関係だと他人に誤解されて、彼女の令嬢としての立場を危うくするわけには行かないとも考えていました」
実際、アリシアがハクブルム国での生活に馴染み、そろそろエルンストが補佐役として側に居る必要も無くなってきていた。
「そんな時、彼女から問われたのです『私と結婚する気は無いですか?』と」
「えっ!」
アスールの余りのも驚いた顔を見て、エルンストは声をたてて笑った。
「まあ、そういう反応をしますよね。私もそうでした」
まさか貴族のご令嬢が自分の方から結婚しないかと切り出して来るとは、流石のエルンストも夢にも思わなかったそうだ。
それでも、そんなルアンナだからこんなにも惹かれるのだろう。
「それで? 先生は何と答えたのですか?」
「喜んで、と」
その答えを聞いて、思わずアスールは笑い出した。それから、一生懸命笑いを堪えて、真面目な顔を作ってから言った。
「改めて、ご婚約おめでとうございます!」
エルンストも極上の笑顔で応える。
「ありがとうございます」
エルンストとルアンナの結婚式は一年後に先ずハクブルム国で行い、その後二人はロートス王国へと生活基盤を移して、改めてロートス王国でお披露目を行うそうだ。
その頃にはエルンストも、正式にヴィスマイヤー侯爵を名乗っていることだろう。
「殿下。そろそろ昼食を食べに行きませんか?」
「そうですね。でも、昼食と言うには随分と遅い時間になってしまいましたね」
そう言って、二人は顔を見合わせて笑った。
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