31 ある晴れた日に
ジェガを出発したギルベルト一行が、タチェ市に入ってから数日が経過していた。
条約締結に向けた協議の下準備は、先にタチェ市へと乗り込んでいた王宮府職員たちによって滞りなく進んでおり、ギルベルトたち到着後は合意文書を確認して調印式に臨むだけというところまで済んでいる。
アスールも(ルシオ・バルマーとして)兄のラモスの補佐役という立場ではあったが、幾度かタチェ自治共和国との会議に参加した。
最後の会議が終わると直ぐに、フレド・バルマー侯爵がアスールの部屋を訪ねて来た。
「明日の調印式なのですが、未成人の学生は式典への列席を認められないそうです」
フレドは申し訳なさそうにアスールに向かってそう告げた。
おそらくアスール・クリスタリアとしてなら例え未成人の学生であったとしても、クリスタリア国の第三王子という立場で調印式への列席も許されたのだろう。
だが今アスールは、バルマー侯爵家の次男のルシオ・バルマーとしてこの国に滞在しているのだ。
普通に考えれば、未成人の学生ごときが国と国との重要な条約を結ぶ調印式へ列席を許される筈は無い。そんなことはアスールも充分に理解している。
「構いませんよ。もう会議の雰囲気は味わえましたし、勉強にもなりました」
「そうですか」
「明日はこの部屋で本でも読んでいますので、どうかお気遣いなく」
「ああ。それでしたら、殿下! 明日はエルンストと二人で、タチェの街へ出掛けてみては如何ですか?」
「アーニー先生とですか?」
「ええ、そうです」
「でも、アーニー先生は通訳として今回は同行しているのですよね? 明日の調印式にも当然列席するのでは?」
「……それなのですが、エルンストはクリスタリア国民でなくロートス王国の貴族だということで、今日になって急に列席の許可が取り下げられたのです」
フレドはこの決定を不愉快に思っているという表情を隠さなかった。
エルンストがロートス国の貴族だということはタチェ側にも最初から伝えてあったし、今まで散々会議にも通訳として参加していた。今更調印式への列席を拒否する理由が分からないと不満をこぼした。
アスールにしてみたら、部屋で一日中本を読んでいるよりも、街をぶらぶらする方が余程良いに決まっている。ましてエルンストと一緒なら言葉に不自由することも無い。
「だったら、お土産を買いに行きたいです」
「ローザ様へですか?」
「はい。母上やルシオたちにも」
翌日、アスールはエルンストと並んで、この街で一番賑やかだと教えて貰った界隈をぶらぶらと歩いていた。
すれ違った人がゲルダー語を話していたかと思えば、すぐ近くの屋台の売り子が話すのはメーラ語で、少し歩くとダリア語で話す会話が聞こえて来る。
三つの言語を話す三種類の民族が入り混じって暮らしている、タチェ市はなんとも不思議な街だ。
「ここなんかどうですか? 店内にきっとローザ様がお好きなものも置いてあると思いますよ。入ってみませんか?」
エルンストが指差した店のショーウィンドウに並べられていたのは、繊細なレースの縁が付けられたハンカチや、色とりどりのリボン、いかにもローザが気に入りそうな物ばかりだ。
アスール一人ではちょっと入り辛い店だが、エルンストと二人だし、知り合いに見咎められる心配も無いので、思い切って店の扉を開けることにした。
店内はショーウィンドウ以上にローザが好みそうな品が所狭しと並べられている。
「私からも是非ローザ様に何か贈り物をしたいのですが……アスール殿下にお願いしても宜しいですか?」
アスールはローザから、アリシアの結婚式の絵のお礼としてエルンスト宛の手紙と贈り物を預かって来ていた。船を降り、ジェガの領主の館に到着すると、アスールはすぐにそれらをエルンストに手渡した。
何がそこに書かれていたのかはアスールには分からないが、エルンストは大笑いしながら、嬉しそうにそのローザからの手紙を読んでいた。
その他にもローザはハクブルム国へ戻ったら届けて欲しいと、アリシアとクラウス皇太子への手紙と贈り物もエルンストに託していた。
つまり、エルンストは大荷物と共にハクブルム国へ戻らなくてはならないのだ。
「もちろん構いませんよ」
アスールは笑顔で答えた。
エルンストはしばらく店内を物色して、最終的に薄いピンク色の毛足の長いモヘアで作られたウサギのぬいぐるみを手に取った。
「これにします」
アスールも慌てて選び終わっていた土産の品々の支払いを済ませた。店員が慣れた様子でアスールたちが買い求めた品物を次々と美しく包装していく。
「あの、アーニー先生?」
「なんです?」
「買われるのは……そのウサギ一つだけですか?」
「ええと、困りましたね。ローザ様は、このぬいぐるみだけではお気に召さないですかね?」
「えっ? ローザ? ローザだったら、そのウサギだけで大喜びすると思います!」
「ん? どういうことでしょう?」
「……婚約者の方の分とか」
「ああ。あの女性は……そうですね、こういった感じの物を喜ぶタイプでは無いですね」
「そうなのですか?」
エルンストは包装を終えた品々を全て受け取ると、満面の笑みを浮かべて言った。
「どこかで少し話しましょうか」
賑やかな大通りをしばらく歩くと、先程の店の主人が言っていた公園に到着した。公園内の散歩道を更に進むと石造りのベンチが並んでいるのを見つけた。
「ここで如何ですか?」
エルンストはアスールの返事を待たずに、持っていた大量の包みをベンチに下ろした。
散歩道の両脇に植えられた樹々のお陰だろう、ベンチの周辺は夏の強い日差しも遮られ、心地よい風も吹いてくる。
まだお昼前のせいか、公園内は人影も疎で、たまに散歩道を行き交う人も居るには居るが、ベンチに座っているアスールたちを気にする者など居ない。
「学院生活を楽しめていますか?」
「えっ? 学院ですか?……はい、それなりに」
「それなり、ですか」
アスールはここまで来て学院の話題が出るとは思っていなかったので、思わず口から溢れ出た、余りに考えなしの自分の回答に顔を赤らめた。
「本当は……それなりってことは無いです。学院生活は毎日充実しているし、楽しんでいます」
「それは良かった」
エルンストが余りに優しい表情で自分を見つめるので、アスールは更に赤くなった。
「ジェガで再会してからも、いろいろと慌ただしくて、殿下と二人だけでなかなかゆっくりお話しする時間が取れませんでしたからね。バルマー侯爵に感謝しなくては」
王家の人間が他国を訪問した際に、こんな風に護衛も無しに街歩きをする許可が降りることなど、普通ならばあり得ないそうだ。
ましてやエルンストはクリスタリア国の者ではない。余程フレドからの信頼を得ているということだろう。
「私は、三日後にここタチェ市から、直接ハクブルム国へ戻ることになっています」
「三日後ですか?」
「ええ。確かその日に、殿下たちもこの街を出発されるのでしょう? またジェガ経由で船に乗るとバルマー侯爵から伺いましたよ」
「そっか。もう帰るのか。……なんだか、あっという間だったな。折角ここまで来たのだから、アリシア姉上に会いに、ハクブルム国まで行きたかったな……。ここからハクブルム国の王都までどの位ですか?」
「行きは馬を乗り換えながら来たので二日で来ましたが、帰りは荷物もかなり増えたので、馬車ですと……四日かかるかもしれません」
「ははは。思ったより近いですね」
「ええ、そうです。望めば何処へだって行くことはできますよ」
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