16 フレド・バルマーと勉強会
「なんだ馬車が一台しか入って来んと思って見ていたが、やはり今週もアスールとローザの二人だけか?」
馬車から降りて来た二人に向かって、フェルナンドが不満を漏らした。
「剣の鍛錬をするから王宮に来るようにと儂が言っていたと、アスールは皆に伝えなかったのか?」
「もちろん伝えましたよ。ですが、マティアスは普段から週末も剣術クラブの練習に参加しているし、レイフは急だったので既に何か予定が入っているそうで、ルシオは……」
「ルシオは、逃げたか?」
「えっと、あの……」
(流石に正直に「はい」とは言い難いな……どうしよう)
「そうか。逃げたんだな?」
「あ、……はい」
(ごめん、ルシオ)
「まあ良い」
そう言ってフェルナンドは、大きな厚みのある手でアスールの頭をガシガシと撫でまわした。
馬車寄せに迎えに出ていた城の使用人たちが、フェルナンドの指示を受け、手際よく馬車からアスールたちの荷物を下ろして、あっという間に城内へと運び込んでいく。
その様子を眺めながら、アスールはクシャクシャになった髪の毛をどうにかこうにか手で撫でつけた。
ローザがそんなアスールを見て笑っている。
「ダリオ、エマ、馬車での移動ご苦労だったな。この二人は儂が引き受けるから、お前たちはもう部屋へ下がって構わんぞ」
「「では、失礼致します」」
「うむ。一日しかないが、部屋でゆっくり休んでくれ」
「「ありがとうございます」」
側仕えであるダリオとエマには、宮殿の離れにそれぞれ自室が与えられている。
ダリオは昨年の夏以降、エマは今年に入ってからすぐに、こうしてアスールとローザが王宮へ戻っている間は、側仕えとしての仕事を免除されるようになっていた。
アスールとローザの二人がそれなりに成長したということもあるだろうが、ダリオもエマも若くは無い年齢になっている、というのが本当の理由だとアスールは思っている。
学院に居る間は授業に参加している時間以外はずっと、余程のことが無い限り外出時にもこうして何処へでも同行しなければならない。
側仕えとは、殆ど休みも無い過酷な仕事なのだ。
「姫様、余り夜更かしをされてはなりませんよ!」
先週、ローザがパトリシアの部屋に泊まり、夜更けまでずっとお喋りをしていた事が耳に入っているのだろう。
エマは立ち去り際、ローザにそう言い残して部屋へと戻っていった。
「さあ、ローザ。パトリシアが首を長くしてお前を待って居るぞ。早く部屋へ行ってやると良い」
「はい、お祖父様。でも、私だけなのですか?……アス兄様は?」
「アスールか? アスールは今日から毎週、フレドと勉強会じゃ」
「えっ?!」
アスールはフェルナンドの口から出た予想外の “勉強会” と言う言葉にギョッとして、フェルナンドの方を振り返った。
「勉強会? 勉強会って、何のですか?」
「ああ。フレド曰く、タチェへ行く前に知っておくべきこと、覚えておかなくてはならんことが山程あるらしいぞ」
「……えええっ」
フェルナンドはアスールの反応を楽しんでいるのか、ニヤニヤ笑いながらアスールを見ている。
「あらら。お兄様、頑張って下さいね!」
タチェに連れて行って貰えないローザは、意趣返しでもするかのように、クスクスと笑いながらフェルナンドの腕にしがみついた。
「はあぁぁ。……頑張ります」
ー * ー * ー * ー
「それでは、本日の講義はこの辺で。次回は、タチェ自治共和国を作る三つの共同体について学びましょう」
「ありがとうございました」
フレド・バルマー侯爵による “勉強会” という名の講義は、おおよそ二時間程度で終了した。
初日の今日は、タチェ自治共和国の地理、大まかな歴史、主たる産業、現在の国政に至るまで、ざっくりとではあったがタチェに関することの基本情報が網羅された内容だった。
「お疲れのようですね」
ノートを広げ、椅子に座ったまま呆けているアスールに、フレドが小さなガラス瓶を差し出した。
「……飴ですか?」
「ええ。野イチゴだったか……黒スグリだったかな。実はラウラ、妻の手作りなんですよ。宜しければお一つ如何ですか?」
瓶の中には、かなり不揃いだが、綺麗なピンク色の飴がいくつも入っている。
アスールは瓶の中から一つ取って、そのまま口に放り込んだ。甘味と酸味は強いが、なんだか優しくて懐かしいような味が口いっぱいに広がっていく。
「美味しいです」
「それは良かった」
ルシオの母親は貴族の令嬢にしては珍しく料理が好きで、侯爵夫人となった今でも、たまに厨房でこうして料理をしているらしい。
そういえば、ルシオが小さい頃にも、城へ遊びに来る時にルシオは手作りの弁当を時々持って来ていた。
ルシオの料理好きは母親のラウラに似たのだろう。
「タチェ自治共和国への出発まで、後二ヶ月ちょっとですね。確か、殿下も学院ではゲルダー語を履修されているんでしたよね?」
「はい。やっと中級に入りました」
「第三学年の前期でもう中級ですか。それは素晴らしい」
「僕はルシオのように平行していくつかの言葉をいっぺんに習得するのは無理なので、まずはゲルダー語をマスターしたいと思って」
「語学でもなんでも、それぞれに合った方法で学ぶのが良いと思いますよ」
フレドはもう一つ飴を取って口に放り込むと、アスールにも瓶を差し出した。アスールももう一つ口に入れた。
「殿下。タチェ自治共和国でゲルダー語の他に使われている二つの言語を覚えていますか?」
フレドは、今日の講義をアスールがちゃんと理解しているか確認するつもりらしい。
「メーラ語とダリア語です」
「正解です。タチェへ行かれた際には、是非ゲルダー語圏では積極的に話しかけて、あちらの国の人との会話を楽しむのが良いですね」
「ヴィスマイヤー卿が通訳として同行すると父上から伺ったのですが」
「ええ、その通りです。彼はメーラ語もダリア語も堪能なようです」
フレドは帰り支度を始めた。
「そう言えば、ギルベルト殿下とうちのラモスも、せめて挨拶くらいはできるようにと今必死にメーラ語とダリア語の勉強をしているみたいですよ」
「そうなのですか?」
「付け焼き刃でどの程度通用するのか……それはそれで結果が楽しみではありますね」
そう言ってフレドは悪戯っぽい笑みを浮かべた。こういう表情を見ると、やはりルシオはフレドにそっくりだとアスールは思った。
「では、私はこれで失礼致します」
「侯爵は、今日はご自宅へ戻られるのですか?」
王宮府副長官として非常に多忙なフレドも、離れに自室を与えられている一人だ。
王宮府の最高位に座しているのはハリス・ドーチ侯爵だが、実際に実務の殆どを掌握し指揮しているのは副長官であるフレドだ。
そのフレドのところには、日々国内外から多種多様な案件が持ち込まれる。
フレドはここ最近、殆ど王宮離れの住人と言って良いくらいに帰宅できない日々が続いていた。
「ええ。この時間でしたら自宅へ帰りますよ。今日は娘たちが久しぶりに学院から戻って来ている筈ですしね。どういうわけかルシオは戻らないようですが……」
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