13 穏やかな日常
「ねえ、アスール。夏にタチェ自治共和国へ行くんだってね! 良いなあ」
王宮から戻った翌日。朝食を食べていると、山盛りのトレイを持ったルシオがアスールに話しかけてきた。
ルシオもこの週末は実家へ戻っていた。きっと父親であるバルマー侯爵か、兄のラモスのどちらかから話を聞いたのだろう。
「そうだよ。ギルベルト兄上が父上の名代で式典に参加するんだって。僕は……まあ、オマケみたいなものだよ」
「でも、それだったら尚更良いじゃない。責任は無いけど自由はあるってことでしょ。羨ましいよ」
「……そうかな」
「そうだよ!」
「ああ、そうだ。ルシオ、このことカレラさんにもう話した?」
「カレラ? カレラは週末に家に戻っていないから、この件に関してはまだ何も知らないよ。どうして?」
「ローザもまだ知らないからさ。他の人の口から伝わる前に、自分の口で伝えようと思って。そうじゃないと……」
「前みたいに口をきいてもらえなくなると困るもんね」
「本当にそうだよ!」
アスールは一刻も早くローザにタチェ行きの事実を伝えてしまおうと思い、昼休みに入るとすぐに第二学年のローザの教室を訪ねた。
「ローザ・クリスタリアを呼んで貰えるかな?」
突然の第三王子の登場に、ローザのクラスは騒然となった。
アスールからローザを呼んで欲しいと頼まれた女子学生は、どうしたことかすっかり言葉を失い、頬を染めアスールを見つめたまま呆然と立ち尽くしている。
「アス兄様! どうして私のクラスに?」
入り口の喧騒に気付いたローザが、慌ててアスールのところまで駆け寄って来た。
「ローザ! 一緒に食堂でお昼をどうかなと思って。ちょっと話があるんだ」
「分かりました。荷物を片付けて来ますのでお待ち頂けますか?」
「もちろんだよ。ルシオが先に行って席を確保しているから、カレラさんも誘ってくれるかな?」
「はい」
ローザは自分の席へと戻り、カレラに何か声をかけている。カレラが入り口で待つアスールの方を向き、笑顔でペコリと頭を下げるのが見えた。
アスールは自分に注がれる不躾な視線に耐え切れなくなって、入り口から少し離れた廊下でローザたちを待つことにした。
「ねえ、ローザ。さっき僕が話しかけた子って、もしかして留学生だった?」
食堂へ向かいながら、アスールは隣を歩くローザに尋ねた。
「いいえ。第二学年に留学生の方は一人もいらっしゃいませんよ。彼女は王都にご実家がある筈ですが。どうしてですか?」
「そうなの? てっきり彼女はクルスタリア語がまだ不自由なのかと思ったよ」
「……?」
すぐ後ろを歩いていたカレラが二人の会話を聞いて可笑そうにクスクスと笑っている。
「どうかした?」
「先程の女の子は、殿下に見惚れていただけではないですか?」
「えっ?」
「一国の王子様から急に話しかけられれば、普通の女の子は誰だってああなりますよ。彼女が耳まで真っ赤だったことに、アスール殿下はお気付きでは無かったのですね」
そう言ってカレラはまたふふふと楽しそうに笑った。
「……ああ、そうだったんだ」
今度はアスールの方が赤くなる。
食堂に到着すると、三人を見つけたルシオが笑顔で手をぶんぶん振っているのが見えた。カレラが少し困ったような笑みを浮かべて兄に小さく手を振りかえしている。
「アス兄様がタチェ自治共和国へ? ギルベルト兄様とご一緒に? お二人でお父様の名代をされるのですか?」
昼食を食べながらアスールはローザにタチェ行きの話をした。
「いや、違うよ。父上の名代なのは兄上だけで、僕は一緒に行くだけだよ」
「一緒に行くだけ?」
「そう。付いて行くだけ」
「でしたら、私も付いて行っても良いのかしら?」
「えっ?」
「今度の週末お城へ戻ったら、私もタチェへ一緒に行っても良いかお父様に聞いてみますね」
ローザは笑顔でそう言うと、目の前でアスールが呆然と言葉を失っていることにも気付かずに、デザートのプリンを美味しそうに食べ始めた。
ー * ー * ー * ー
放課後、アスールはタチェ自治共和国について調べようと、図書室へ向かった。
書棚からタチェに関して書かれている本を数冊見つけ出し、いつもの特等席に陣取る。ページをめくっていると、図書室のオーク材の床の上を軽快に歩く二人分の靴音が近付いて来た。
余り足を持ち上げずに歩く音がレイフで、レイフのそれとは対照的に、弾むように歩いて来るのがルシオだ。
「アスールはもう来てたんだね」
レイフはアスールの向かいのキャレルに荷物を置いた。ルシオはアスールの隣に座る。
「さっきからずっと、そんなに熱心に何を読んでいるの?」
ルシオがアスールの広げている本を覗き込んだ。
「タチェを作る三つの民族。へえ、アスールはもうタチェ自治共和国のことを調べ始めていてるんだね」
「夏季休暇に入ったらすぐに出発するって話だったから。今のうちに」
「うかうかしてると、すぐ試験前になるしね」
「そうなんだよ。今年は去年までより試験科目が多いしね」
ガタンと椅子が動く音がして、キャレル越しからレイフが顔を出した。
「えっ。ちょっと待って! アスール、どこか行くの?」
「えっと、タチェ自治共和国に。バルマー侯爵とギルベルト兄上と一緒に」
「それから僕の兄も一緒にね」
「……そうなんだ。ちっとも知らなかったよ」
レイフの顔が曇った。
「知らなかったのは僕も一緒だよ」
「えっ?」
「一昨日、王宮に帰った時に聞かされたんだ。父上の名代としてギルベルト兄上が調印式に出席するんだって。僕は知見を広げるために同行させて貰うんだ」
「じゃあ、今年の夏はアスールは島へは来れないね」
「うーん。詳しい日程は分からないけど、残念だけど、そうなるかな」
「アスールが行かなくても、今年は僕が行くからね!」
ルシオも身を乗り出す。
「去年は行かれなかったからね。今年は必ず行くよ!」
「はぁ。僕もタチェよりもレイフのところの方が良いな。調印式に出席とか……気が重いよ」
「でも、向こうで久しぶりにヴィスマイヤー卿に会えるんでしょ?」
アーニー先生が通訳として同行することもおそらく父親であるバルマー侯爵から聞いたのだろう。ルシオは羨ましそうだ。
「タチェ自治共和国って、確か三つの言語が使われてるんだよね? 通訳として同行するってことは、やっぱりヴィスマイヤー卿は三つの言語、全部話せるのかな? きっと話せるよね!」
「えっ。タチェ自治共和国って、一つの国なのに、話す言葉が違うの?」
ルシオの話を聞いていたレイフが、驚いたように聞いてきた。
「そうみたい。ほら、見て! 確かこの辺に書いてあった筈だから」
アスールは開いてあった本のページを遡って目当てのページを探した。
「なになに? 異なる共同体が自治を求めて同盟を結んで成立した国家でもある “タチェ自治共和国” は、多言語・混成民族国家である。首都はタチェ市。公用語はゲルダー語、メーラ語、ダリア語の三種類」
ルシオがアスールの指差した部分を読み上げた。
「首都のタチェ市は、三つの地区が接する中心にあるんだね。そうなると、タチェ市にある学校は何語で授業をするんだろう? 三言語全部が必修科目だったら大変だと思わない?」
「でもさ、小さい時からそこに住んでいたら、それが当たり前の生活になるんじゃないの?」
「ああ、そうなのかも」
ルシオとレイフはページをめくりながら、真剣に話し合っている。アスールはそんな二人を見て、思わず笑みが溢れた。
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