39 それぞれの夏の過ごし方(3)
「それでね。そこにはイアン兄様が仰ったとおり、いろいろな色のとても綺麗なお魚が凄く沢山いて、その魚と一緒に三人で手を繋いで泳いだのです」
余程楽しかったのだろう。夕食のテーブルで、ミゲル船長に向かってローザが些か興奮気味に捲し立てていたのは、今日の午後の海での話だ。
あの後ローザはシアンとイアンに両方から支えられるようにして、初めて海の中を泳いだ。
厳密に言えば、泳いだと言うよりは泳ぐ二人にただ引っ張っていかれただけだったように岩場に居たアスールからは見えたのだが、ローザが泳いだと主張するのだから、そこは兄としてそっと触れずにいることにした。
「ならば、来年はイルカとも一緒に泳げるな」
「そうですね!」
ローザは嬉しそうにミゲルに返事をする。それを聞いたアスールとレイフがニヤニヤしながら二人で顔を見合わせた。
「お前たちは笑っているが、別に俺は冗談でこんなことを言っているわけじゃ無いぞ」
ミゲルがアスールたちに向かってそう言った。
「船の乗組員が万が一海に転落した時、俺たち船乗りはどうすると思う?」
「救助用のロープを投げるとか?」
レイフが答えた。
「まあ、そうだな。それも悪くは無い。だが溺れている者が細いロープの先を掴むのは簡単なことではない。だからロープの先に浮具を付けたものを投げるんだ」
「浮具ですか?」
「ああ、そうだ」
「それってどんな?」
「例えばコルクだったり、小さな酒樽でも良いな。ただし中身が入っていないものだぞ」
「空っぽ?……水に浮くものってことですね?」
「そうだ」
「じゃあ、ローザちゃんはそういうのを抱えて海に入れば良いんだね?」
「レイフ、それじゃあ泳ぎにくいだろ?」
「だったらどうするのさ」
レイフがミゲルに聞いた。
「例えば、あの子の腕に丁度良い具合にはまるようにコルクを加工するのさ!」
「父さん。それ、良いね!」
「だろう? 来年までに作っておくよ」
ミゲルはそう言ってローザの頭をクシャっと撫でた。
「それがあればイルカと一緒に泳げるのですね?」
「もちろん今よりもっと長いこと水に顔をつけられるようになっていれば、なおさら良いけどな」
「頑張ります!」
ー * ー * ー * ー
「ねえ、レガリア」
「なんだ?」
「レガリアはヴィスタルへ帰る前に、もう一度お友だちのサスティーに会いたいとは思わないの?」
部屋に戻ったローザは、大きな姿のレガリアの白銀に輝く美しい毛皮にブラシを当てながら呟いた。
「サスティーなら、ついこの間顔を見たばかりだろうに」
「もう三週間近く前よ! それに次に会えるのは、早くても一年後だわ。それだって、この島に遊びに来る許しが貰えたらの話だし……」
ローザの声が段々と小さくなる。
「ローザ。何度も言うが、一年や二年など、我ら神獣にとっては瞬きする程の時間だぞ」
「それはそうかもしれないけど……」
「……何が言いたい?」
「お友だちは大切にした方が良いわ。この前はあんな別れ方だったし」
ローザは自分とレガリアが契約を交わしたことに対して、サスティーが余り良い感情を持っていなかったのではないかとずっと気にしていたようだ。
「我にとってはローザとの契約は絶対に必要なことだった。お前が気にすることは無い。それにこうしてお前にブラッシングをして貰う時間も我は気に入っているぞ」
そう言いながらレガリアは鼻先でローザの頬を優しくつついた。
「レガリア、大好きよ!」
そう言うと、ローザはレガリアのふわふわした首にぎゅっと抱きついた。
ー * ー * ー * ー
王都へ戻る朝、いつもよりも早く目が覚めてしまったシアンが庭に出ると、リリアナが一人、庭のベンチに座っていた。
シアンが出てきたことに気付いたリリアナに促され、シアンもリリアナの隣に腰を下ろす。
「長いことお世話になりました」
「こちらこそ。勉強部屋のお手伝いも、本当に助かったわ。ありがとう」
「いいえ。僕も楽しかったですし、いろいろ勉強になりました」
「そう? それなら良かったわ」
朝の空気は清々しく、今日も一日良い天気になりそうだ。
「ねえ、シアン。貴方はどう思っているの?」
リリアナは急に真面目な顔でシアンに向き直ると、落ち着いた声でそう問うた。
「何をですか?」
アスールもリリアナの目を見て聞き返す。
「アスールとローザのこれからについて。ヴィスマイヤー卿はそう遠く無い将来ハクブルム国を出てあの国に戻るのでしょう? カルロもフェルナンド様もヴィスマイヤー卿が次の侯爵位につけるよう支援するつもりよね?」
「そう聞いています」
「その後は? その後はやはり彼を通してあの国に干渉する気なのかしら?」
「おそらくそうだと思います」
「そう。……でも、果たして本当にそれが正しい道なのかしら?」
リリアナは大きな溜息をついた。
「確かにあの国は、本来アスールが国王になるべき国よ。でも、スサーナを、私の可愛い妹をあんな形で殺した国なのよ! 国王であるヴィルヘルム陛下のことまで……許せる筈は無いわ」
膝の上で強く握られたリリアナの手の甲に涙の粒がポタポタと落ちるのをシアンは黙って見つめていた。
「もし将来、万が一また同じようなことが起きたら? アスールやローザを危険に晒すことになったりはしないかしら? 私は怖いのよ……」
「そんなことにならないように、父上もお祖父様も動いておられるのだと思います」
リリアナが顔を上げ、シアンをじっと見つめる。
「もちろん僕だって、二人を不幸な道へと進ませる気は更々ありません。それに、今すぐ何かが起こるわけでは無いですよ。まだアスールは十一歳ですからね」
「十一歳。……そうね」
リリアナは涙を拭った。
「ロートス王国の正式な時期王位継承は、おそらくアスールが二十歳になる年だと思われます。本格的に父上がコトを起こすのは、その数年前でしょうね。時間は、まだまだたっぷりありますよ。今からそんなに心配していては、リリアナさんの身が保ちませんよ」
「ええ、そうね」
リリアナはようやくふふっと笑った。
「学院卒業後は僕も父上の補佐をするつもりです。しばらくは大して役に立たないかもしれませんが、それでも僕なりにあの二人のことは守りますよ。必ず」
「ありがとう、シアン」
「そろそろ皆が起き出しますね」
そう言うと、シアンは意を決したようにすくっと立ち上がった。
「そうね。屋敷に戻りましょうか」
ー * ー * ー * ー
「また遊びにおいで。待っている」
「はい。ありがとうございます! お世話になりました」
ミゲルと握手を交わして、アスールが最後に船に乗り込んだ。
「じゃあ、出港するぞ!」
全員が乗り込んだことを確認すると、ジルがよく通る大きな声で船員たちに出港の合図をする。船がゆっくりと船着き場を離れて動き出した。
その時、裏山の方から強い風が吹きつけた。船の船首に取り付けられているアルカーノ商会の紋章が入った旗が、強風を受けて大きくなびいた。
ローザの腕に抱かれたレガリアが、しっかりと首を上げ、吹きつける風の向こう側を見ている。
島の船着き場で、勉強部屋に来ていた子どもたちが遠ざかっていく船に向かって、一生懸命手を振っているのが見えたが、その姿はあっという間に小さくなっていってしまった。
そのまましばらく、三人は黙ってデッキに立ったまま、もうとっくに見えなくなった島の方をずっとぼんやりと眺めていた。
「ここから先、強い追い風を受けて走ることになる。行きよりも船は少し揺れるかもしれない。そんな風にぼーっと雁首揃えてデッキに留まっているのは、正直お勧めできないな」
ブリッジからジルが三人に向かって声をかける。
「ローザ、アスール。もう中に入ろう」
シアンに促されて三人はキャビンへと入った。キャビンではダリオがよく冷えた果実水を用意して待っていてくれた。
「アス兄様は座らないのですか?」
ローザにそう指摘されて気付いた。
アスールは行きの船からずっと一緒だったレイフが隣に居ないという今の状態が、なんとなく落ち着かない気がして、キャビンの中を意味もなくずっと歩き回っていたのだ。
「学院の再開は一ヶ月も先か……」
「あっという間だと思うよ」
それぞれの夏の思い出を乗せて、船は風に乗りヴィスタルの港へと向かっている。
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