15 アリシアの旅立ち
「いよいよ明日ね」
パトリシアがアリシアの髪に丁寧に櫛を入れながら優しく語りかけた。
夕食を終え「まだ支度が残っているから」と一人先に下がってしまったアリシアの部屋をパトリシアが訪ねて来ていた。
「……はい」
アリシアは短く答え、その後はずっと黙ったまま俯いている。
「アリシア。貴女がこの国を離れても、私たちが家族であることに変わりはないのよ。忘れないで。困ったことがあれば、必ず助けに行くわ」
アリシアは小さく頷いた。
「さあ、終わったわ。貴女の髪は本当に美しいわね」
パトリシアはアリシアの髪を綺麗に整え終えると、アリシアの正面にまわり込み、そっとアリシアの手を取った。
アリシアは不安そうな表情を浮かべて、パトリシアの顔をじっと見つめている。
それから、ずっと自分自身の心の奥深くに閉じ込めていただろう本音を、ポツリポツリと静かに母親に語り始めた。
「私はずっとこの王宮から出ることなく暮らしてきました。王立学院にも通わず、ずっと王宮の中だけで……」
アリシアの手がほんの少し震えているのがパトリシアにも伝わってくる。
「そんな私が、外の世界で本当に上手くやっていけるのでしょうか? 言葉も、文化も、生活習慣も。何もかも違うあの国で……」
「でも貴女にはクラウス様がいらっしゃるでしょう?」
「……クラウス様が?」
「そうよ。貴女との結婚の許しを得るために、一何年以上をかけてあの陛下を説得なさったクラウス様が」
パトリシアが握ったアリシアの両手に力を込める。
元々、カルロはアリシアをクリスタリア国の貴族の家に嫁がせるつもりでいたのだ。それも、できればアリシアが王都から遠く離れずに済む貴族の家に。
それなのに、スアレス公爵家のアルベルトがたまたま連れて来た他所の国の若造に、気付けばアリシアはすっかり心を奪われてしまっていた。
随分と時間をかけて手紙のやり取りをして、二人はゆっくりと愛を育んでいったのだ。
そのことを知ったカルロの嘆きようといったら……。その日のことを思い出して、パトリシアはクスリと笑った。
「貴女は必ずハクブルム国で幸せになれるわ。クラウス様と共に。母親である私が保証します」
そう言うと、パトリシアはアリシアを優しくそっと抱きしめた。
ー * ー * ー * ー
別れの日。
ヴィスタル港から船に乗るアリシアを、当然港まで送りに行くつもりでいた弟妹たちにカルロが告げた。
「お前たちが行けるのは馬車寄せまでだ」
「どうしてですか? 港までアリシアお姉様をお見送りに行っては駄目なのですか?」
ローザが納得がいかないとカルロに食い下がった。
「今日アリシアがこの国を去ることを聞きつけたヴィスタルの街の人々が、早朝から港の周辺に集まっているそうだ。そんなところへ皆でのこのこ出向いてみろ。大混乱になるぞ」
「そうじゃな。船に乗る者以外は港には近付かん方が良いな」
カルロの意見にフェルナンドが同調した。
こうしている間にも、アリシアの荷物を積んだ馬車が何台も連なって城の門を出て行く。
当のアリシアはといえば、城に仕える侍女たちに囲まれ、どうやら別れの挨拶を受けているらしい。
「港まで行ったとしても、あっという間に船に乗ってしまうでしょうから、ここでゆっくりお別れした方が良いと私も思うわよ」
パトリシアまでもがそんな風に言い出した。
もうこうなってはどんなに駄々を捏ねてもどうにもならないとローザも悟ったようで、拗ねた子どものようにローザはパトリシアにしがみついている。
「まあまあ。赤ちゃんに戻ったみたいよ。ローザ」
「だって、お母様もしばらくハクブルム国に行ってしまわれるのでしょう?」
「心配しなくても、すぐに帰ってくるわよ」
「でも……」
パトリシアは笑いながらローザを抱きしめた。
「さあ、そんな悲しい顔をしないのよ。アリシアを笑顔で見送ってあげて頂戴ね」
「はい。お母様」
「シアン。貴方がアスールとローザの面倒をちゃんと見てあげてね。頼んだわよ」
「お任せ下さい。母上」
「アスール。シアンの言うことをよく聞いてね。ローザをよろしくね」
「はい。母上」
「ローザ。兄様たちに心配をかけるようなことはしないこと。島へ行ったら、ちゃんとリリアナ様の言うことをよく聞いて良い子にね。危ないことはしては駄目よ。怪我をしないように。それから……」
「母上。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。僕とアスールが付いていますから。安心してアリシア姉上のお側に付いていてあげて下さい。僕たちは僕たちで、母上がお戻りになるまで上手くやりますから」
「そうね。貴方が居てくれるから安心だわ。シアン」
「ローザ! アスール! シアン!」
アリシアがエルダ母子との別れの挨拶を終え、最後に弟妹たちのところへやってきた。アリシアは三人を順番にそっと抱き寄せる。
この数日、少しでもアリシアの時間があけば四人でお喋りをして過ごした。アリシアはアスールとローザがまだ小さかった時のことを懐かしみ、楽しかった思い出話を二人に聞かせてくれた。
四人は、今までのこと、これから先に起こるだろうことを飽きることなく語りあった。
だからもう、こうしてそっとアリシアから抱きしめて貰うだけで充分なのかもしれない。
口を開けば、きっと涙が溢れ落ちてしまうだろう。ローザはそう考えていた。
それでは母との約束を破ってしまうことになる。アリシアの旅立ちを笑顔で見送らなくてはならない。
「さあ、アリシア。そろそろ出発だ」
カルロがそう言いながら四人のところにやって来た。
「お父様は今日出発されるわけではないのに、港までお見送りに行かれるのですか?」
「それはそうだろう。私には、私の船が無事に港を離れる様子を見届ける責任があるからな」
そう諭すようにローザに告げると、カルロはアリシアの手を取り馬車へ向かって歩き出した。
馬車寄せから少し離れた位置に集まっている使用人たちから、アリシアへの祝いの言葉と、別れの言葉が一斉に降り注ぐ。アリシアはその優しい人たちへ笑顔で手を振った。
カルロは馬車の前で待っていたパトリシアに手を貸して、先ずはパトリシアが馬車へと乗り込んだ。
アリシアは馬車の前で一歩進み出た。そこから見送りに来ていた全ての人たちにゆっくりと優しい視線を送る。
そして、ドレスを両手でつまむと、片足を引いてゆっくりと膝を曲げ、背筋をピンと伸ばしたまま、慈愛に満ちた笑顔を浮かべ美しいカテーシーをして見せた。
その直後、アリシアはカルロと共に馬車へと乗り込んだ。
「さあ、僕たちも学院へ戻ろう」
馬車が走り去った先をずっと見つめているローザにシアンが声をかけた。
「父上のお戻りを待たないのですか?」
ローザの横に居たアスールがシアンに尋ねた。
「おそらく父上は出港を見届けてから戻ってくるだろうから、僕たちはここでかなり待たされることになるよ。それよりも、早く学院に戻って、僕としては授業の遅れを取り戻したいな」
「確かにそうですね」
このまますぐに帰ったとしても、まるまる二日分の授業を欠席したことになる。アスールやローザはともかく、最終学年のシアンは少しでも早く遅れた分を取り戻したいに違いない。
「アスールはヴィオレータに声をかけてくれるかな? 僕はフーゴたちにすぐに学院に戻ると伝えてくるよ」
「分かりました」
「ローザはお祖父様に、荷物を積み終わり次第出発しますと伝えてくれるかな?」
ローザはこくりと小さく頷くと、フェルナンドの方へと歩き出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になると思って頂けましたら、是非ブックマークや評価をお願いします。
評価はこのページの下側にある【☆☆☆☆☆】をタップすれば出来ます。