夏のおちん、もしくはヒトクイウサギのはなし
夏のおかしのはなしです。
お菓子、お菓子、美味しいお菓子。ぼくらのデリシャスなお菓子。
お菓子、お菓子、美味しいお菓子。さぁさ、いらしませ、美味しいお菓子。手によりをかけて美味しい夏のお菓子をご馳走いたします。どうぞ、いらしませお客様。
ある夏の日のこと。町を歩いていると、見たことがない路地を見つける。確か、昨日まではなかった筈なのに。怪しいと思いつつも、沸々と湧き上がる好奇心には勝てず、気が付けば路地の中に足を踏み入れてしまう。路地に入った途端、いきなり空が陰り出す。これは一雨くるだろうかと思いながら、路地裏の探検を続ける。まるで、迷路に紛れ込んだかのように。
暫く歩くと、路地の一番奥に、奇妙な扉があるのを見つけた。
扉の前には『夏のおちんあります』と書かれた看板。いったい『夏のおちん』とは何だろうと首を傾げる。
チリン、チリン、チリン。
来客を知らせる鈴の音。
扉を開けて中に入ると、薄暗い室内には誰もいない。店に入った途端、外で雨が降ってくる音がした。目に入るは鮮やかな木目の焦げ茶色の長いカウンター。椅子が並んだカウンターの向こうの壁には造り付けの棚に様々な茶碗が並んでいる。他にも湯気を出している薬缶や健康に悪そうなポップな色をしたカップケーキが山と並べられた硝子のケーキドームがあった。
どうやら、ここは喫茶店らしい。
店には人はいないけれど、雨宿りはしたいと思っていた時のこと。
「いらっしゃいませ」
と、突然、後ろから声を掛けられて、私はびくっと飛び上がる。恐る恐る振り向くと、そこにはウェイターの格好をした人間大の黒ウサギが立っていた。真っ白なシャツに蝶ネクタイを締め、黒いベストとズボンを穿いた黒ウサギは、ルビーのような瞳を期待でキラキラさせながら、「いらっしゃいませ」と再び言ったのだった。
黒ウサギの登場に私が呆然としていると、黒ウサギはお席へどうぞと言って肩を掴むと、有無を言わさぬ態度で椅子に案内する。
どうやら、私はこの店の客になってしまったらしい。
カウンター席に座ると、黒ウサギはうきうきした様子で冷たい水が入った硝子盃とメニューをカウンターの上に置くと、くるりと廻ってポーズを取る。そして、ご注文は何でしょうかと私にメニューを選べと急かしてくる。期待に満ちた顔で。私の他に客はいないというのに。
当店自慢の夏のお菓子を選んで、選んで、黒ウサギの目が私に訴えかける。客が来るのが嬉しくて堪らないと言わんばかりの様子だった。
そんなに急かさないで欲しいと思いながら、メニューを開くと『白雪姫の林檎パイ』という装飾された文字が目に入る。もしかして童話に因んだお菓子を出す店なのだろうか。これは期待できるかもしれないぞと私は思う。恐らく、きぐるみを着ていると思われる黒ウサギ自体の存在も、店のコンセプトに合わせたものなのだろう。
そんな事を考えながら、メニューに書かれた説明に目を通す。
『白雪姫の林檎パイ』
雪のように白く、黒檀のように黒く、血のように赤い白雪姫のアップルパイです。熱々のパイを開けば、そこには瑞々しい白雪姫が顔を出す素敵なパイ。限定商品のため一度きりしか味わえないのに、また食べたくなるほど病みつきになることうけあいです。夏のすぺしゃりてな一品をどうぞ。
『ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家』
お菓子の家にローストされたヘンゼルとグレーテル詰めた贅沢な一品。夏らしく黒い森の奥にある湖の半透明の青を基調とした魔女が日曜大工気分でこつこつと作ったお菓子の家も必見です。お味の方も一級品。是非、専用のとんかちとのこぎりで景気良く壊して下さい。
『雪女のカキ氷』
夏の間冬眠をしている氷室から手に入れた雪女をゴリゴリと職人が手作りした氷カキ器で削った後、和三盆と一緒に煮詰めてトロトロに溶かした雪女を掛けたシンプルなのに上品な一品。深みのある不思議な味に虜になるに違いありません。食べた後は一日中温かい風呂に入る事をお勧めします。
随分とけれん味が溢れたメニューだなと私は思う。きっと、白雪姫も赤ずきんも雪女も何かの喩えか商品名なのだろうが。このメニューの他に、『人魚姫のソーダ水』や『虎のバターを乗せたパンケーキ』等もあるらしい。
暫く悩んだ後、メニューに書いてある文言に惹かれ、私は黒ウサギに『白雪姫の林檎パイ』を頼む。すると、黒ウサギはどこからどこなく猟銃を取り出すと背中に背負ってどこかに行こうとする。いったい、そんな物騒なものを担いで、彼はどこへ行こうとしているのだろうか。
「どこへ行くんですか」
と、私が慌てて訊くと、黒ウサギは何を訊くんだと言わんばかりの顔を器用にすると、材料を取りに行くに決まっているじゃないですかと言う。材料を取りに行くのはいいが、何故銃が必要なのだろうか。材料と首を傾げると、黒ウサギは重々しい態度で大きく頷いた。
「新鮮な白雪姫を狩りに決まっているじゃないですか」
黒ウサギは凄く愉しそうに言う。白雪姫を狩りに行くと当たり前のように言われて、私は当惑する。白雪姫を狩ってどうするのだろうか。確かに、一度しか味わえないだろうが。当惑している私に向かって、黒ウサギは新鮮な白雪姫をパイに詰めて焼いてすぺしゃりてな一品を作るのですと言う。その言葉を聞いて、脳裏にパイの皮にナイフを入れると美しい白雪姫が現れる姿が浮かび上がり、ごくりと息を呑む。私の頭の中のパイに詰められた白雪姫はとろりと笑ったのだった。
他にも色々と訊ねてみたが、ヘンゼルとグレーテルも雪女も狩りに行くらしい。その様子は決して冗談を言っているようには見えなかった。反対に、今にも狩りに行きそうな彼を必死で止めたのは我ながら筆舌に尽くし難い。
結局、私は珈琲だけ頼んだのだった。
酷く残念そうな顔をした黒ウサギが淹れてくれた珈琲は、意外にも悪くなかった。
珈琲を飲み終わると、外から聞こえる雨の音が止んだ。どうやら、潮時らしい。遣らずの雨はもうお終い。
帰り際、好奇心から黒ウサギに、良くできたきぐるみですねと訊ねてみると、黒ウサギは目をキラキラと光らせながらニヤリと笑う。そして、私の問いに対して、
「いえ、これは自前ですよ」
と、彼は手を左右に小刻みに振りながら明るく言ったのだった。
路地から出た後、そういえば『夏のおちん』の意味を聞き忘れたことに気がつく。戻って訊いてみようかと振り返ってみても、さっき出てきたばかりの筈の路地を見つける事ができなかったのだった。
お菓子、お菓子、美味しいお菓子。ぼくらのデリシャスなお菓子。
お菓子、お菓子、美味しいお菓子。さぁさ、いらしませ、ほっぺが落ちる位に美味しい魔性のお菓子。手によりをかけて美味しい夏のお菓子をご馳走いたします。どうぞ、いらしませお客様。