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道なき道を突き進む。

山中に人が通れるような道はない。獣道すら見つからなかった。

例え道はなくとも進まなければならないので、無理やり藪を突っ切る以外に選択肢はない。

だが、藪を通るとどうしてもあっちこっち引っかかって擦り傷ばかり出来てしまう。一度や二度なら何とも思わないが、ずっと続くとちょっと辟易する。


俺がうんざりしている側で、母上とゲンさんは平気そうにしている。流石と言うべきだろうか。

と言うか、ゲンさんは手袋や肌着、頭巾などで全身をきっちり保護していた。

対する俺と母上は外套以外は普段着だった。山に登るにしては明らかに装備が甘い。

やっぱり本職は違う。平気な顔で藪に突っ込み傷だらけになっている母上は少し見習うべきではないだろうか。


出来る限り母上の後ろにくっついて、少しでも楽をしようとする。

そんな甘い考えがいけなかったのか。大自然は洗礼を浴びせかけてきた。

突然目の前に現れたのは断崖絶壁。楽なんざさせてたまるかと声が聞こえてくるようだ。


頑張れば何とか登れるぐらいの勾配なのが厭らしい。足を引っかける箇所も多くある。

こちらには頑張ることを厭わない人がいる。

ゲンさんの年齢を考えれば、普通は迂回して然るべきなのだろう。

しかし母上にそこまでの配慮を期待できないのは、この10年で嫌と言うほど思い知った。

思った通り、先頭を行く母上は立ち止まらず、背後の俺たちを顧みることすらせず崖に脚をかけた。見ている間にどんどん登っていく。


猿のような身軽さを見せつけてくる。

俺は人間なのであれの真似事なんかとてもじゃないが出来ないが、だからと言っていつまでも立ち止まってるわけにはいかない。行くっきゃない。まずは若い人間が登る。

途中生えている木に掴まったり、四つん這いになったりしてある程度登ったら、上からゲンさんを引っ張り上げる。

ゲンさんは文句ひとつ言うことなく懸命に登っていた。年のわりによく動く。

山狩りは毎年のことだし、多分慣れてるんだろうな。


登り切った後は息を整えるのに小休止。

ぜえ、はあ、と肩で息をするゲンさんに、母上が水筒を手渡した。

どれだけ鍛えていようと、寄る年波には勝てない。


汗を拭いながら、たった今登り切った斜面を振り返った。高所からの眺めはとてもいいが、足を踏み外したら終わりだ。こんなところをよく登ったものだと自画自賛する。


ここから村は見えるだろうかと遠くを見る。木に邪魔されて村は見つからなかった。見えた所で豆粒程度だろう。双眼鏡があればと思うが、ない物ねだりでしかない。この世界にレンズはあるだろうか。ガラスや鏡はあったけど。


そろそろ行くかと誰ともなく腰を上げた時、ゲンさんが何かを見つけ、一時固まる。

次の瞬間、這うようにして駆け寄ったのは一本の木。


「おい。これ見ろ」


ゲンさんが触っているそこだけ樹皮が剥がれ、樹液が漏れ出ていた。

よく観察すると何かがひっかいたような跡が無数についている。


「奴らの仕業か」


「いや、位置が高い。この爪痕はたぶん熊だ」


ただでさえ熊は厄介なのに、冬眠明けとなると殊更厄介である。

飢えた獣は人だろうが何だろうが見境なく襲い掛かってくる。


「近いんですか?」


「臭いがしねえからな。近くにはいねえな」


ゲンさんの見立ては信用できるが、用心のため鈴を鳴らしてみる。

甲高い鈴の音が響き、森の奥からは静寂が返ってきた。周囲には何の気配もない。


「村から近い。ついでにこれも狩るとしよう」


「こいつはかなりでけえが、いけんのか?」


「なぜわかる」


「高いって言っただろうが。抉れてる所を見ろ。そこの坊主よりたけえぞ。あとは足跡だ。見ろ」


茂みを掻き分けたそこには足跡があった。

人間のように細長い足ではない。

全体が円を描くように丸く、五本の指先からは長い爪が生えているのが分かる。

ゲンさんの言う通り、これが熊の足跡だとするとかなり大きな個体になりそうだ。


「ふむ……」


「いけるか?」


「問題ない」


「よし」


登山を再開する。

熊の存在で弛緩していた空気が否応なく引き締まった。

熊は獣臭さで近くに居ればすぐわかるが、万が一風下から接近されたら発見が遅れるかもしれない。

奇襲に弱いのは人も獣も同じだ。

風の向きには絶えず注意して、慎重に進むことを余儀なくされた。


山の奥へ進むにつれ、空気の質が徐々に変わる。

春の爽やかな空気はどこへ行ったのか。息をするのも億劫なほど粘り気を帯びた空気。肌にベタッと纏わりつく不快さ。急に湿度が上がったような感覚。


近くに川でもあるのかと耳を澄ましても水音は聞こえない。

そもそも湿度が高い時の感覚とは少し違うようだ。この感覚には本能的な危機感を呼び起こされる。身体に沁みついた癖で思わず抜刀したくなる。


……これはあれだな。母上に殺気向けられた時の感覚だな。


「母上。この先に何かいるようですが」


「わかるか。流石だな」


「……あん? 何の話だ」


ゲンさんは感じ取れないらしい。

刀を向けられたことはあっても、殺気を向けられたことはないのだろう。

どんな素人でも、一度母上の殺気を体感すれば身体は覚えてくれる。トラウマの可能性に目を瞑ればこれほど手っ取り早いこともない。

今度試しに体験してみてはいかがだろうか。頼めばやってくれる。


「源。死臭だ。近いぞ」


「……」


すんすんと鼻を鳴らしてみるも、ゲンさんは嗅ぎ取れなかったようで半信半疑な様子。

それでも周囲を探る目に警戒心が色濃く宿った。いつでも矢を放てるように弓を握る手に力が籠る。


無言で慎重に進んだ。足音一つ立てぬよう気を付けた。

その内、血の匂いと腐臭が辺りに立ち込み始め、ゲンさんの喉がごくりと動く。


「待て」


母上の制止に即座に停止する。

指さす方向にどす黒い血痕があった。


それは点々と草木に付着していた。

移動しながら撒き散らしたように、小さく細かく無数に飛び散っている。


血痕の行く先を確認し後を追う。

鼻が曲がりそうなほどの悪臭のせいで臭いは嗅ぎ取れない。

耳と目に神経を集中し、一歩一歩確実に進む。


そこから然程離れていない場所でついに見つけた。生き物の死骸だ。


「こりゃあひでえ……」


一目見て、ゲンさんがそう溢す。

辺り一面が血飛沫で染められ、死骸にたかる虫が耳障りな羽音を奏でている。


中心には生々しい肉塊が散らばっていた。

高所から飛び降りたかのように、内臓や肉片が無造作に転がっている。

これが一体なんの動物なのか、元の姿は皆目見当もつかない。下品に食い散らかされた、むごたらしい惨状だった。


「なんですかこれ」


「さあなぁ……」


生前の姿を知りたい好奇心はあった。しかし長居したい光景ではなかった。

周囲には虫が飛び回っているし、足元の肉片には蛆が湧いている。

まだ春先なのに腐敗が進んでいた。鼻で呼吸したら、濃密な腐臭でむせそうになる。


「骨は残っているな」


「確認しますか」


「お前は周囲を警戒していろ」


何のためらいもなく肉片に触れる母上は、一際長い骨を漁り出してじっと観察を始めてしまった。

俺は周囲に気を配り、万が一にも襲撃されないように警戒する。

ゲンさんは辺りに散らばった肉片などを調べていた。地面に付いた足跡も見ている。


「たぶん、熊だな」


何かを見つけたゲンさんはそれを手に摘まみながら結論付けた。

血に濡れた毛皮。元の色は恐らく茶色。


「熊って筋肉質でまずいんじゃないんですか?」


「調理の仕方によってはな。獣くせえが、きっちり血抜きすれば食えねえこともねえ。つうかそれは人が食う時の話だ。生で食う奴らはそんなこと気にしやしねえよ」


がらんと音がした。

母上が手に持っていた骨を投げ捨てた音だった。


「大きい熊だ」


「わかんのか」


「見ろ。背骨だ。熊ならほとんど人と同じだ。比べれば大体分かるだろう」


母上の足元に転がる骨を見て、ゲンさんは顔をしかめる。


「でけえな……」


通常、背骨の太さが小指ほどなら、これは人差し指以上はある。

背骨が大きければ大きいほど、支えていた図体も大きいはずだ。


「狐狼は熊も狩るのか」


「普通は狩らねえよ。むしろ狩られる側だ。それでも狩ったっつうことは、それだけ飢えてんのかもしれねえ」


「これだけ大きな個体を仕留め切るか。群れの数はどれぐらいになる?」


「山ほどだ。多すぎてわからん」


土に残る足跡はいくつも重なって判別不能になっていた。

ゲンさんでもわからないほどに。


「一足先に繁殖期に入りでもしたか。この数は異常だ」


「元々年がら年中増える奴らではあるがな。冬が明けたばっかでここまでとなると記憶にねえ」


沈黙が場を支配する。

腹立たしそうに舌打ちするゲンさんとは対照的に、母上はどこまでも冷静だった。

足元の死骸を見、森の奥を見、やってきた方向を見る。

一度帰るのも手段だろう。狐狼の数が多いのなら、こちらも増援を連れて来ればいい。堅実な方法だ。

だが母上はそれは選ばず、俺を見てふっと笑った。


「連れてきて正解だった」


「はあ?」


ゲンさんが訝しげな声を上げる。


「戻さねえのか? ここまででかい群れ相手に足手まとい庇う余裕ねえぞ」


「このまま行く。戻しに行く時間がもったいない。なにより意味がない」


正気かよと天を仰ぐゲンさんを無視して、母上は俺に告げた。


「レン」


「はい」


「お前の力が必要だ。役に立て」


「わかりました」


我ながら良い返事だった。

期待されているのなら、全身全霊を持って答えなければなるまい。

意気込む俺に母上は満足げに頷き、ゲンさんは気炎を上げた。


「おいおいおいおい。ちょっと待て!」


「くどい」


一言で斬って捨てられ、ゲンさんは鼻白む。

だが母上の言葉は余りに言葉足らずだった。

もはや余計な問答に費やす時間はないのに、それでは怒りを助長させるだけだ。


「くどいじゃねえ! いいか、俺は反対だぞ! 血まみれの餓鬼の治療なんざ――――」


「源。半歩ずれろ」


母上の急な注文にゲンさんは動けなかった。

茂みに身を隠し、ゲンさんに襲いかかろうとする痴れ者がいる。

母上は気が付いた。当然、周囲を警戒していた俺も気が付いていた。

頭に血が上っていたゲンさんだけが気が付けなかった。


「っ!?」


次の瞬間、痴れ者はゲンさんの喉笛を噛みちぎろうと跳びかかる。

母上の場所からではゲンさんを守れない。

だから俺が斬った。


「――――」


斬り上げられた獣に、断末魔はなかった。

ぬるりとした感触が刀越しに伝わってくる。

生き物を斬ったのは初めてだ。思っていたよりもずっと生々しい。

死の間際にぶつかった視線が、命を奪ったと言う自覚を生んだ。


スローになっていた時間が動き出す。

血飛沫が舞い、獣臭さと鉄臭さが鼻をつく。


飛び散った血がゲンさんの服を汚した。

思っていたより助けるのがギリギリになった。たぶん、無意識下で斬るのを躊躇したのだ。

だがもう斬った。ならば次はない。

一度踏み出したのなら、二度と躊躇することはあり得ない。


「ご無事ですか?」


「……」


首を斬り、絶命させた狐狼を前に、ゲンさんは呆けたままだ。

あれだけ気を抜いていて、咄嗟に矢をつがえたのはさすがの反射神経と言える。

母上の突拍子のない言葉に気を取られていなければ、自分で返り討ちにしていたかもしれない。


俺が殺した狐狼は緑色の毛の大きな狼だった。

大きさは一メートル強。犬歯が発達していて、もちろん四足歩行する。

今でこそ毛の色は緑だが、季節によって毛は生え変わると言う話だ。昔村に下りてきた奴は、雪景色に融け込む白い毛並みだった。


狐狼の死骸を見下ろす俺に、母上が声をかけてくる。


「生き物を斬ったのは初めてか」


「殴った事ならあります」


「そうだったな。……それで、気分は?」


「語るほどのものではありません」


「そうか」


次いで、未だに呆けているゲンさんを見る。


「たった今、息子はお前の命を救ったが、まだ異論はあるか」


「……いや」


はっと我に返ってバツが悪そうな顔になる。

それから伺うようにして俺に尋ねた。


「本当になんともないのか」


「別に吐きはしませんよ」


「こんなもんじゃねえぞ。この群れとやるんだぞ。これとおんなじのがたっくさんいるぞ。それでも平気か」


「毛皮売れるなら小遣い稼ぎにもってこいですね」


「この小僧は……」


はぁとこれ見よがしにため息を吐き、気持ち悪いものを見る目で俺を見る。


「やっぱお前気色悪すぎるわ」


「子供に言う言葉ですか」


「お前の台詞は子供の台詞じゃねえんだよ」


言い捨てて母上に向き直った。


「とりあえず文句はねえ。言っとくが、もしもの時は見捨てるからな。そん時はお前が何とかしろ」


「そうしよう」


問答は終わった。

山の奥に向かって歩き始める。


斬った狐狼は、残念だがここに置いておくことにした。

毛皮の剥ぎ取りよりも優先することがある。

どうせ、この十数倍と言う数を斬ることになるのだ。一匹ぐらいどうでもいい。


鈴を鳴らしながら、狐狼の群れを探す。


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