57
アキたちの帰りを待って、日がな一日縁側で過ごす日々が続いた。
待てども待てどもアキは帰ってこない。迎えに行くべきかと迷い、身体のことを鑑みて行かない方が良いと判断する。けれどもやっぱり帰ってこないから、無理を押してでも行くべきじゃないかと迷いが生まれ、理性で断ち切る。そんな毎日だった。
そんな日々を過ごす中、焦燥感に駆られる俺の内心など露知らず、待ってもいなければ歓迎すらしていない村長が他愛のない話をしにやって来る。
玄関口ではなく、縁側へと直接やって来る村長は父上を避けているらしい。それを迎え入れるのはどうかなと思いもしたが、村長から敵意は感じられず、家に籠りっきりで外の状況を知る術のない俺としては少しでも情報が欲しかった。
そういう考えから迎え入れてみて、村長の口から語られるのは大体は家族のこと。孫夫婦や玄孫のことが主だった。特に玄孫は溺愛しているのが言葉の節々に表れていた。その時の村長は穏やかで気の良い老人と言う風情。
互いの立場や置かれた状況さえ違えば仲良くなれたかもしれない。
そんなことを思ってしまう。そして残念にも思った。もうそんな機会は永遠に訪れそうになかったから。
そんな俺の内心を村長が露ほども理解していなかったように、当の村長の内心自体、どれほど会話を重ねたところで、俺は欠片も理解出来ずにいた。
普段は好々爺然としている村長であったが、時折血が凍るようなことを言うことがある。それはもっぱら飢饉に関連したことだった。
「もう、この村に私以外の老人はいないからね」
突拍子のない言葉だった。サラリと紡がれた声色に感情の類は感じられない。
しかし、その内容が衝撃的過ぎたために前後の会話を失念した。あまりにも脈絡がなく、突然過ぎた。
それを聞いた瞬間、疑問符が頭に浮かび、そして嫌な予感が駆け巡った。
自然と思い浮かぶ顔ぶれ。村長と同じ年代の人たち、老人と呼べるその人たちの顔。聞かずにはいられない。
「それは、どういう意味ですか?」
「昨日、死んだ」
二度目の衝撃に襲われる。
一体何があったのかと、何の変哲もなかったはずの昨日を順々に思い出しながら、最後には母上の言葉を思い出す。
『老人共は自ら命を絶つようだ』
どうやら、実行したらしい。
この村には村長と同世代の人間が他に四人いた。
その人たちは昨夜、毒を呷って自ら命を絶ったらしい。
かねてより相談していた約束の日にちが昨日だった。それだけの話だと村長は言う。
「みんなを先に逝かせて一人残るのは心苦しい。けれど子供を一人で逝かせるわけにもいかないから。最後の役目だ」
言葉だけ聞くなら狂気に満ちている。けれども実際の所、村長の瞳には慈愛が満ちていた。そこに悪意はなく、見る者を安心させる暖かな光が宿っている。
あの世がどんな所かなんて、この世の誰にもわからない。
素敵なところだったら何よりいい。優しくて救われる場所なら何も心配する必要などない。
けれどそうではないかもしれない。恐ろしいところかもしれない。怖い場所なのかもしれない。
そんな何一つ分からぬ場所に、自分たち大人の都合で子供を逝かせるわけだから、一人で逝かせるよりはせめて共に逝こう。連れ添っていこう。村長を始め、老人たちはそういう考えを持っていた。
それはこの人達なりの道理なのかもしれない。あるいは風習。習慣。善意。なんだっていい。
どれであったところで、俺には何一つ理解できないものだけど、それが悪意じゃないことだけは分かった。
村長が毎日俺の元にやって来るのも、死を待つ子供の苦痛を少しでも和らげようと言う意図があったのかもしれない。
けれども、そんなことで和らぐのか果たして疑問ではあったし、そもそも俺にとってはいらぬ世話だった。どんな形であれ、死は死である。もはや、俺は死を怖いとは思えない。村長にとっては、死を厭わない子供の存在など想像の埒外だったろう。
噛み合わない関係だった。相手のことを考えながらも、どこか致命的にズレていた。
互いを理解する時間さえあったなら、もしどこかで歯車が一つ噛み合うことさえあったなら、俺たちは仲良く出来たと思う。
村長の慈愛に満ちた顔を見ながら、心の底からそう思った。
「――――何を、やっているの?」
唐突に背後から聞こえた声に肩を跳び上がらせた。その感情を押し殺したような声は、まごうことなく父上の声だった。
恐る恐る振り向くと、やはりそこには父上が立っていて、母上の様な無表情でこちらを見つめている。
その視線の先には当然のことながら俺がいて、隣には村長が座っている。
まずいところを見られたと言う気持ちが込み上げた。父上が村長を家に上げずに追い返したのを俺は知っている。
油断した。気もそぞろだった。家の中のことは何も気にしていなかった。
俺の意識はもっぱら家の外に向いていて、アキたちが帰って来るのを今か今かと待っていた。
気にするべきだった。村長と密会めいたことをするならば。面倒を避けようと思うならば。
そんなことにも考え至らないなんて、今の俺はその程度の者でしかない。
「レン? 何してるの?」
再度の問いかけ。今度は的を俺に絞っている。
冷え冷えとした声音は変わらない。むしろ一層増している。
「……父上。あの、これは……」
「こんにちは」
下手な言い訳を連ねようとする俺を遮って、村長が矢面に立つ。
「お邪魔していますよ」
すっと父上の目が細まった。
「もう、来ないでくださいと言いました」
「確かに。聞きました」
「どうして、いるんですか?」
その声がわずかに震えているのを聞き取った。
殺しきれない感情が漏れ出している。激情に駆られる一歩手前と言う印象。
いつ爆発してもおかしくない。そんな人間を目の前にして、村長は相も変わらず穏やかな表情で応対する。何一つ悪びれることなく言ってのけた。
「それでも、会わなければと思いまして」
沈黙が場を支配する。
俺に言わせれば、村長の答えは答えになっていない。火に油を注ぐだけの挑発に思えてならなかった。
一度口から出た言葉はもう返らない。俺も村長も父上の反応を待つ。十中八九激高すると思っていたから、どのように落ち着かせるか頭を巡らせていた。
けれども、いつまで経っても何一つ言葉を発しない父上を訝しみ、俺の方から「……父上?」と問いかけてみれば、底冷えのする眼差しが向けられて言葉を飲み込む。
固唾を飲むひと時を経て、ようやく発した父上の言葉には、先ほどまでと同じように冷え冷えとした感情が乗っかっていた。
「僕には、子供を守る義務があります」
「ええ。ええ。もちろんそれは。それはそうでしょう。けれどご理解ください。私にも村を守る義務がある」
「……もう、来ないでください」
村長は頷いた。
一礼をして去っていく。
その背中をかける言葉もなく見送る俺の背後に、父上が音もなく近づいてきていた。
一瞬、殴られることも覚悟して身体を強張らせたが、父上は優しく俺を抱きしめ、耳元で懇願する。
「お願いだから。お願いだから、危ないことはしないで……お願いだから……」
その身体は小刻みに震えていた。
本気で心配されている。本気で俺を守ろうとしている。
それが伝わって来た。
俺は、今にも泣き出しそうな父親に泣いてほしくなくて、安心させようと言葉をかける。
「……大丈夫ですよ」
村長が母上がいない間に俺を間引くことはないと考えていた。
村長と母上は約束をしたと言う。もし母上のいない間に俺を間引いたら、それは約束を破ることになり、ひいては剣聖を敵に回すことになる。
いくら飢饉と言えど、まだそれほど追い詰められているわけではない。だから、この段階で拙速な行動はしないと踏んでいた。
思った通り、村長は俺に何もせず、ただ話をしに来ていただけだった。
話をすると言う行為にどういう意図があったのかはともかく、結果からして危害を加えるようなことはなかった。
俺の言い分としてはそんなところだったが、わざわざそれを説明したりはしない。
する意味などないと思った。よしんば説明したところで理解されるかは怪しい。だから俺は大丈夫だよと言う。父上が心配する必要なんかないんだよと伝える。
「大丈夫。大丈夫だから」
抱きしめたままいつまでも動かない父上は、やはり泣いているように思える。
その背中に手を回そうとして、身体が痛いからしなかった。代わりに壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返す。それ以外に何かしようとは思えず、他の言葉も思いつかない。
ただ時間ばかりが過ぎていく。無意味にしか思えない時間が刻々と過ぎていった。
「お兄さん」
ついに村長が父上に見つかって、多少の面倒が起こった後、村長と入れ替わるように泥だらけのエンジュちゃんがやって来た。
「……エンジュちゃん?」
縁側で毛布に包まっていた俺の元にやってきたエンジュちゃんは薄汚れた格好をしていた。
衣服のあちこちに泥が飛び散っていて、特に手足は泥だらけで、顔にも泥を拭った跡があり、どこでどういう遊びをしているのかとちょっと心配になったのも束の間、差し出された薬草を見て顔をしかめる。
「必要、ですよね?」
そうに決まってると言う眼差しで見つめられる。
以前、山に入るなと注意してからそう日は経っていない。だと言うのに、早々に言いつけは破られた。そもそも薬草はいらないと言わなかったか。
妙な光を帯びた視線を見返し、ふうと短く息を吐く。
そうしたらエンジュちゃんの肩がびくりと震えた。
「あの、わたし……」
一気に潤んだ瞳。何を言われる前に、涙声で言い訳を連ねようとしている。
聞く気はなかったので、はっきりと言う。
「こっちに来て」
「わ、わたし……」
「来なさい」
有無を言わさない圧力を出す。
9歳と11歳。この年代の2歳差は数字以上のものがある。性別の差があったとしても、年上の言葉には中々逆らえるものではない。
「それを渡してくれる?」
「……はい」
エンジュちゃんから薬草を受け取り、いつもの薬草だと確認した。
それから改めてエンジュちゃんを見る。全身泥だらけで、あちこり擦り傷を負っていて、痛々しい姿を。
もうこんなことはさせてはならない。心を鬼にしなければならない。
本当であればゲンさんを参考に拳骨の一発でも与えるところだが、今の俺にはそこまでの余力はないので、出来る限りのことをする。
おもむろにエンジュちゃんの額に腕を伸ばす。
エンジュちゃんはぎゅっと目を瞑って震え始めた。この様子だと普段から殴られてそうだ。そう思って、少しだけ意思が挫けかける。
それでもやらなければならない。心を鬼にして――――デコピンをする。
べちっと、我ながら情けない音がエンジュちゃんの額から響いた。
きょとんと目を開けるエンジュちゃんは、何が起こったのか理解できていないようだ。
俺の方は割と思いっきり力を込めただけに大した威力にならないのが残念で、右腕に走った激痛を表情に表さないように必死だった。
「ごめんね。痛かった?」
左腕でエンジュちゃんの額を撫でる。叩いた所が少し赤くなっている。それもすぐに治るだろう。
撫でられるエンジュちゃんは束の間呆然として、次の瞬間には顔全体が真っ赤に染まった。
額を抑えながら数歩後ずさりする。あわあわと声にならない声を発し、ふるふると頭を振った。
「あ、あの……あの!?」
「うん」
「わたし、わたし!?」
随分と動揺している。あまりこういう経験はないのかもしれない。しかし、このままだと前回同様に逃げられそうだ。
それではまた同じことの繰り返しになるかもしれない。やるからには徹底的にやってやろうと気合を入れる。
「おいで」
「……え!?」
「こっちにおいで」
両腕を広げて催促した。
誰がどう見ても、抱き合おうと言う意思表示。なぜ抱き合うのかと言われれば自分でもよくわからないのだが、直前に父上に抱きしめられたのが理由かもしれない。
つまり、同じことをしてやろうと思ったのだ。エンジュちゃんを抱きしめて、その耳元でお願いする。もうこんなことはしないでね、と。
警戒心の強い野良猫のように、ゆっくりと近づいてくるエンジュちゃんは辛抱強く待つ。
ようやく腕の中に入って来たエンジュちゃんを抱きしめれば、全身泥を被ってるだけあって泥くさかった。多分、俺の服も泥で汚れる。まあ、それはどうでもいい。
抱きしめる腕に出来る限りの力を込めれば、エンジュちゃんの全身が震えた気がした。
耳元に息を吹きかけるように囁けば、明らかに身体から力が抜ける。
「危ないから、もうしないように。いいね?」
「……っぁ、の……」
「わかった?」
「んっ……ふ……」
「……返事は?」
「……ぁい」
正直、返事をしたか微妙なところだったが、多分しただろうと思ってエンジュちゃんを放す。
鼻がくっつくぐらいの距離から見たエンジュちゃんの顔は、今までで一番赤く染まっていた。
「もうしちゃ駄目だよ。次は本気で怒るから」
「……ほ、ほんき?」
「本気」
言いながら、エンジュちゃんの鼻頭を突っついた。
ごくりと唾を飲み込んだエンジュちゃんは、あわあわと慌てふためきながら俺の腕から逃れると、くるりと身を翻して躓きながら逃げ去って行く。
果たして、今ので効果があったのかなかったのか。正直よくわからない。もしこれでもやめないようなら、今度はゲンさんに叱ってもらおうと思う。
効果はてき面だろう。その場合、恐らく俺はエンジュちゃんに嫌われるだろうけど。
何にせよ、アキとゲンさんが帰ってこないと無理な話だ。
早く帰って来てほしい。そう思いながら意識を外に向け、二人の気配がどこにもないことを確認する。
今日も帰ってこないのかと落胆し、汚れた衣服を見下ろして着替えようと部屋に引っ込みかける。
その間際、一瞬誰かの視線を感じた気がしたけれど、振り向いた時には視線は消えていて、探しても見つからなかったため、気のせいだと片づけた。
言い知れない不安を抱えたまま襖を閉め、また一日を終える。
内心に渦巻くその不安は、きっとアキのことに違いないと信じて疑わず、足元まで迫っていた脅威に俺は気づけなかった。