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降りしきる雨が、まるで涙のように流れる。

止むことを知らない雨は畑を潤し田んぼを満たした。

満ちた後も止むことはなくついには溢れ、それでもなお降り続ける。

もうやめてくれと天に願っても、これが答えだと、天から雨は降り続ける。

まるで涙のように、降り続けた。







レンの死体に縋りつき名を呼び続けていたアキは、いつの間にか眠りこんでしまった。

涙が枯れるほども泣いたせいで、疲れきった意識が夢と現の間をふわふわと漂った。

朦朧とした意識に、どこからともなく自分を呼ぶレンの声が聞えた気がして、ふと目を開ければ枕元で父が呼びかけている。


もはや何が夢で何が現なのか。アキには分からなかった。

身体は休息を欲して瞼は重く、目を開け続けることもままならず、睡魔に身をゆだねる。

そうやって眠ってしまってからは一度も起きることなく、半日を経てようやく目を覚ました時、辺りは暗闇に包まれていた。


その眠りが快適だったとはお世辞にも言えない。酷く寝汗を掻いた上に悪夢でも見たらしく呼吸が荒かった。

うなされたせいで頭は混乱して、目を開けて一瞬はここがどこなのか、自分が誰なのかも判然としない有様であった。


数秒ののち、ようやく意識が落ちついて自分が何者かを思い出す。

自分は剣聖の娘だと、そんな当たり前のことすら束の間忘れてしまうほど身も心も疲れ切っていた。


倦怠感を感じつつ、暗闇に目が慣れるまでの間、遠く雨の音を聞く。

天井を見つめて身動き一つせずじっとした。


とても悲しい夢を見た。兄が死んでしまう夢だ。無力感と悲壮感は今でもこの身を蝕んで、何一つとして行動する気が起きない。

ほんのわずかでも動いたら、その夢が現実のものになってしまう気がして、指一本動かしたくなかった。


鼻の奥がつんとする。思い出したくない記憶が頭の奥から湧水のごとく溢れてくる。

天井を見つめる目は、その実何も見ていなかった。この世のすべてから目を逸らしていた。

思い出したくない記憶を否定して、どれだけの時間そうしていたのか。

突如として鳴り響いた落雷ではっと我に返る。

一瞬部屋の中を明るく照らし、全てくっきりと目に見えた。

不意を突かれたものだから、心臓はバクバクと早鐘を打ち、鍛錬で身に沁みついた状況判断能力が如何なく発揮されてしまう。

期せずして、落雷が現実と向き合う切っ掛けとなってしまった。


堰を切ったように記憶が奔流となって溢れ出す。

人が死んだ夢を見た。口にすればそれだけのことでしかなかった。

しかしそれを思った途端、心は悲しみで一杯になる。

誰がとまではあえて思わない。それを思えば最後、取り返しはつかないだろう。

最後まで希望は捨てたくない。それがほんのわずかの儚い希望であったとしても。


果たして、それが夢かあるいは現か。確かめる術は簡単だ。

恐る恐る腕を動かして胸のあたりをそっと触れる。

本来何もないはずのそこには包帯が巻かれていて、触れた所がズキンと痛む。


――――あぁ……。


声には出さず心の中で嘆いた。

夢と同じ。いや、夢ではないのだろう。

夢であってほしかった。傷のことも兄のことも。すべてが夢であってほしかった。


傷を庇いながらゆっくり起き上がったアキは、すぐ隣で身じろぎする気配を感じ取った。

誰かと思って目を向ける。暗闇の中、見えるまで顔を近づけてみると、それは布団に包まった父であった。

安らかな寝息が聞こえ、まれに寝言でアキの名を呼んでいる。


その様子を見つめたアキは複雑な気持ちを抱く。そしてふと、自分の体調が悪いことに気が付いた。

横になっている間感じていた倦怠感だけではない。いつもより体温が高く、頭の奥は靄がかかったようにぼんやりしている。それは寝起きだからと言うわけでもないようだ。起きてすでに時間が経っている。なのに頭の中は霞みがかったままだった。


これは傷のせいか。それとも風邪でも引いたのか。もしかすると、自分はこのまま死んでしまうのか?

死と言う言葉を思い浮かべれば胸の奥が痛む。胸の傷など大したことはない。それよりも心が痛い。

こんな思いをするぐらいなら、いっそのこと何も感じたくない。喜びも悲しみも、正も負もおしなべて拒絶してしまいたい。


アキは幼いながらに本気でそう考えた。

その心境は自暴自棄に近い。今のアキに、自分の身体を慮る余裕は毛ほどもなかった。

壁に手をつきながら立ち上がり、熱っぽい吐息を吐く。

一歩動いて視界が揺れると、それ以上にぐわんぐわん頭に響いた。

本格的に体調は悪化している。たぶん本当なら動いてはならないのだろう。


自虐じみた笑みを浮かべ、知ったことではないと部屋を出る。夢で見た通りに廊下を進んだ。

暗闇に包まれた廊下は外を降る雨のせいで月明かりすらなく、どれほど夜目が利こうとも手探りで進む他ない状況だった。

アキは記憶だけを頼りにして、遮二無二突き進んでいく。


やがてその部屋の前に着いたとき、アキは疲労と怪我の痛みで満身創痍になっていた。

今にも倒れそうになるのを必死にこらえながら戸を開き、部屋の中を覗く。

夢で見たとおりに、部屋の真ん中に布団が敷いてあった。誰かがそこで寝ている。だが息遣いは聞こえない。気配はない。それも夢のとおり。


「……兄上?」


口から出た声は震えている。

布団の側に崩れ落ちるように座り込み、手探りで兄の身体を探す。

ようやく見つけた手の冷たさは記憶のそれとまったく同じだった。


「兄上……」


自然と涙がこぼれる。

つい昨日まで、アキは死と言うものを理解していなかった。

人はいつか死ぬと言うこと。親も自分も、生きとし生ける者は誰だろうと例外なく、全て死ぬと言うことを、アキはまだ知らなかった。


それは幼い子供には早すぎる事実であり、これから時間をかけてゆっくりと受け入れていくはずだった。

しかし、アキは昨日、最も身近で最も大切な家族の死と言う形で、それを半ば以上強制的に理解してしまった。


知りたくもなかった死と言う現実を前にして、幼い心はどうすればいいか分からない。

強いストレスを感じても、能動的に何をどうしようと言う発想はない。だから本能のまま泣く。布団に縋りつき、声を押し殺して泣く。

傷が痛んでも、熱が上がっても、衝動に従って泣き続けた。

そうしなければおかしくなる。


その悲しみと喪失感は、とてもではないが耐えられるものではない。

特に、アキは生来そういう気質の持ち主で、感情の発露でなんとか堪えている状態だった。


「兄上、ごめんなさい。ごめんなさい……」


昼間、混乱の渦中にいたアキには、なぜこうなったのか理性的に考える力はなかった。

だが今ならわかる。思い出したことがある。兄の声が、脳裏に浮かぶ。


『ここは任せてください。アキを頼みます』


兄は私を庇って死んだのだ。


「私が、もっと強ければ……」


あの老婆が怪しい人物だと分かっていた。

警戒だってしていた。木刀に手をかけて、いつでも抜けるようにしていた。それなのに、兄の姿を見て油断した。

兄がいるのなら、あとはもう大丈夫だと思ってしまった。あそこでもっと気を付けていれば、私は斬られなかっただろう。そうしたら、兄だって死ななかったかもしれない。


「私の、せいで……」


その言葉を口にした瞬間、心を覆い尽くしていた悲しみが何倍にも膨れ上がる。

身を包み込む罪悪感が体の震えとなって表れた。


「ち、ちがう……ちがうっ。ちがうっ!」


私は悪くない。

悪いのはあの老婆だ。あいつさえいなければ、兄は死ななかった。私も怪我をしてない。

あいつが悪い、あいつさえいなければ――――!!


背負いきれないほどのストレスを前に、罪悪感が憎しみに転じた。

自分が斬られたことが、兄を死なせた遠因かもしれないという推測から目を逸らし、仇の顔を思い浮かべる。


「……絶対、あいつだけは……」


あの老婆。黄色と白の髪。黒い杖を持っていた。あれが刀だなんて思いもしなかった。

あれのせいで……あいつが、兄を殺した!!


「兄上、待っていてください。あいつは、あいつだけは、絶対に……!」


憎しみに突き動かされるままに、アキは行動を起こす。

初めて抱いた殺意の味は甘美だった。

身体の不調も怪我も、束の間忘れられるほどに。


武器が必要だ。

アキは周囲を探る。


台所に行けば包丁がある。もっとも簡単に手に入れられる武器だ。でもあれではダメだ。レンを殺した敵を相手にするなら、あんな小さい刃物は役に立たない。

もっと長い物がほしい。欲を言うのなら、刀があれば――――。


「あ……」


ちょうどその時、外から日が差し込んできた。

伸ばした手も見えないほどの暗闇が一転して変わる。

部屋の隅にレンの刀が立てかけてあるのを見つけ、四つん這いでそこまで行き手に取った。


「兄上……」


無機質の冷たい感触の奥に、兄のぬくもりを感じた気がした。

ぎゅっと胸に抱けば、心の淀んだ部分が消えていく。

憎しみに曇っていた心と、霞んでいた頭がすっきりする。


今自分が何をすべきか、冷静な心で考えることができた。

しっかり考えた上で、アキは宣言する。


「必ず殺します。兄上」


言ったからには実行に移すのみ。

アキはその場で立ち上がって家を飛び出た。


外はいつの間にか雨が止んでいた。

雲の隙間、山の端から微かに日の光が村まで届いている。もう間もなく夜が明ける。


微かな光に照らされた地面には、幾筋もの斬撃痕が残されていた。それは戦いのすさまじさを物語っていた。

その光景を見て、アキは絶句し、次の瞬間には決意を新たにする。


しかし心の力強さとは裏腹に、怪我のせいで足が思うように動いてくれず、先行きは暗かった。

割れ目に足を取られながら、転ぶまい転ぶまいと必死に村の外を目指したが、ついには派手に転んでしまう。


「あうっ!?」


自分の口から洩れ出た悲鳴に憤りを覚えた。

子供じみて弱い自分が許せなかった。もっと強くありたかった。

起き上がろうと腕に力を込めて、震えてばかりの腕には力が入らない。


「なんで……」


刀を抱きしめながら忸怩たる思いで呟く。

そもそもの問題、アキは重症人だ。

その身体は辛うじて死を免れているだけで、本来なら一歩も動いてはいけないほどの怪我である。休息が必要なのに満足に休まず、あまつさえ追い打ちをかけるように転んでしまい、その際傷口を強く打った。すでに包帯には血が滲んでいる。


「こんな、ところで……まだ少しも……」


起き上がろうにも起き上がれない。

身体が言うことを聞いてくれない。


約束したのに、仇を討つって。それなのに、それなのに……!


うつ伏せに寝転んだまま、地面に残る斬撃の痕を指でなぞる。

兄上はこんなに頑張った。それなのに、私はあまりに弱すぎる。


「うっ、うう……」


泣いても泣いても、涙が枯れることはない。ずっとずっと泣いている。

人はこんなにも泣けたのだ。きっと、死ぬまで泣き続けられるのだろう。

けれど今は泣いていられない。泣くのは弱い証だ。私は強くなりたい。


「あぁ――――っ!!」


雄たけびを上げて立ち上がる。刀を杖にして前に進む。


「う……」


威勢よく立ったはいいが、視界は常に揺れている。加えて頭痛とともに眩暈までした。

気分の悪さは如何ともしがたいほどにこみ上げている。


もう一回倒れたら、きっと起き上がれない。

村の外に出た所でのたれ死ぬだけだ。刀を振ることすら叶わないだろう。


それを分かっていながら、それでもアキは前に進んだ。

懸命に歩いて、歩いて、訓練場へと続く林の入口へと差し掛かる。


「……」


頬を汗が垂れる。

ほんのわずかの逡巡の末、アキはそちらの道を選んだ。

今となっては、もうなにも考えていなかった。

日々繰り返した営みが、無意識のうちに選択させたのかもしれない。


アキは日を遮る木々の下、冷えた空気の中を訓練場に向かって歩いた。










ここに来た理由は、たぶん思い出したかったからだろう。

そう、アキは他人事のように思う。


ここにはたくさん思い出が詰まっている。

実際、こうして木にもたれているだけで、自然と記憶が蘇った。


いつか、無理な鍛錬をして兄上に叱られたことがある。

今だからこそ思うが、あの時ほど死にそうになったことはない。


早く兄に追いつきたくて、命じられていた以上の鍛錬を自分に課した。

自分の限界など、まるで考えもしなかった。

大丈夫大丈夫と己に言い聞かせて、まるで大丈夫ではなかった。心の強さと体の強さに、あれほど差があるなどとは思いもしなかった。


結果、兄が言うには脱水症状になったらしい。汗を流しすぎたと言う話だ。

その時の苦しさは今の比ではない。喉が渇いているのに、満足に動けもしないのだ。全身が高熱を発し、手足が痙攣して、喉の渇きに苦しんだ。


その時に比べれば、今は痛いだけだ。ただ胸が痛いだけ。

ついさっきまで感じていた眩暈や吐き気は座っていたら落ち着いた。


アキは胸に抱きしめる刀を見る。

年季の入った刀は、あちこちに細かな傷がついていた。

握りやすくするため柄に巻かれている皮は、あちこちが擦り切れて限界が見えている。いずれは巻き替えねばならなかっただろう。

しかし持ち主がいなくなってしまったから、巻き替えることはないかもしれない。次の持ち主が現れるまでは。


「兄上……いま、どこにいますか」


追いつきたかった背中がある。

いずれは追いつこうと思っていた。追いつけると確信していた。まるで根拠のない自信だったが、信じて疑わなかった。

しかし、見失ってしまった。どこに行ってしまったのか最早皆目見当もつかない。


「兄上と同じことがしたくて、兄上に追いつきたくて、刀を振ったけど、兄上が死んじゃったら、もう無理です」


私は、もう無理ですとアキは言う。

太陽はすっかり顔を出している。

村人たちも起き出して、畑や田んぼに出ていた。

大勢の人間がすぐ近くで動いている。だが、アキの場所に来る人間はいない。ただ一人を除いて。


「兄上の仇をとれそうにない……私は、どうしてこんなに……」


震える手でゆっくりと刀を抜いた。

木陰で刀身は輝くこともせず、ひんやりと無機物らしい冷たさを放っている。


「死んだら、どうなるんですか……死ぬのは、怖くないですか……教えて兄上……兄上……」


また涙がこみ上げてくる。泣いてばかりいる。

こんな自分とは対照的に、兄の泣いた姿は見たことがない。

本当に兄妹かといまさら思う。レンが聞いたら笑っただろう。今となっては聞こうにも聞くことは出来ない。


「……っ」


どうしようもないやるせなさを感じ、柄を握る手にぎゅっと力を込める。だがすぐに力を抜いた。力むばかりで、何一つ実行出来ない自分が酷く哀れだった。


仇を討とうにも体は動かず、気ばかり逸って、今やこうして座り込んでいる。

立つこともままならない。無力感に苛まれるばかりである。


目を閉じれば瞼の裏にレンの姿が浮かぶ。

それに誘われるようにして、全身から力を抜いた。


意識が急速に落ち込んでいく。

だが復讐に駆られる心はなかなか治まらない。


時間だけが過ぎていき、その内サアッと風が吹いて前髪を揺らした。

森の向こうから近づいてくる気配に、アキは気が付かなかった。


「何をしている」


聞こえた声に曖昧な意識は覚醒する。

はっと我に返り、条件反射で全身が強張る。肌が引き攣って胸の傷が痛んだ。


その声はよく聞き覚えのある声で、しかし今の今まで忘れていた声だった。

恐る恐る声の方向を見ると、黒に赤の外套を羽織った長身の女性が立っていた。


「……母上」


「ああ。今、戻った」


足音なくやってきた椛は、アキの側で腰を落とし「渡せ」と刀を指さす。

アキは刀と母親を交互に見比べ、もたもたと鞘に戻してから差し出した。


渡された刀を撫でながら、椛はいつもの調子で呟く。


「色々あったようだな」


アキは無言でその言葉を受け止める。言っていることの意味を考えた。

押し黙る二人の間を風が吹き行き、頭上の葉が音を奏でた。

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[良い点] レン泣 マジで亡くなってるとは思わんかった
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