Pocetak
たしか時刻は深夜三時頃だった。
不意に目を覚ました少年は、重い布団を振り払ってベッドを抜け出した。
ドアを開けた先には廊下と階段。
毎日見ているはずの景色が、彼にどこか奇妙な感覚を齎す。
手すりから身を乗り出し下に目をやると、微かに明かりがついているのがわかった。
途端、階段を駆け下りる。
少しカーブを描いたこの階段が何故か、いつもより長く感じられた。
ステップを降りても降りても、また新しいステップが伸びていくように。
「母様!」
彼が現れることがわかっていたのか、特段驚きもせず優しく微笑んだ。
「どうしたのイヴァン、こんな夜中に」
「ごめんなさい、急に目が覚めちゃって」
何も言わず膝をたたんで彼と目線を合わせ、左手で頭を撫でた。
その優しさが謂れのない不安感を覚えさせる。
薄いコートを着た母の姿とその後方にある小さな荷物を見て、幼い少年は確信した。
「母様、どこかにお出かけ?」
今度は彼の頭にのせていた手を自分の膝の上で組んだ。
若干左に首を傾けるのが彼女の癖だった。
「そ。ちょっとながーい旅に行ってきます」
そう言って左手で敬礼しながら、にっこりと笑って見せた。
今となってはその笑顔に苛立ちすら覚える。
何も言葉を返せずただ立ち尽くしていた少年に、彼女は様々なパターンの笑顔を見せてくれた。
「行かないで」
ただその一言が言えなかった彼の気持ちに気づいていたのかもしれない。
いや、気づいていたのだろう。
暫くして、口を開いたのも母の方だった。
「ねぇ、イヴァン?」
「なぁに、母様」
「イヴァンはさあ、将来何になりたいんだっけ」
答えは今も昔も変わらない。
彼の野望はたった一つ。
「アルカラス国営防衛団に入って、一番強くなります!」
彼女はやはり、ただ微笑んでいるだけだった。
だがその表情はどこか悲しげなものに見えた。
「強くなって何がしたい?」
柔らかい口調で問いかける。
「アルカラスとアルカランのみんなを守ります!」
「そっか」
彼女は立ち上がった。
視線は左上に注がれ、先ほどまでの柔らかな雰囲気は何か鋭い別のものに変わった。
パンパンッと膝の埃を払い、荷物を持ち上げた彼女にはもう母の面影は見当たらない。
「イヴァン、おやすみなさい」
「久しぶり、イヴァン」
彼女は柔らかい口調でそう言った。
相も変わらずふざけた人だ。
「お久しぶりです、母様。いや……」
彼女のまとっている白い衣装。
間違いない。
彼は目の前が滲んでいくのを感じていた。
なのになぜだろう、よく見える。
彼女が左に首を傾けているのが。
「ソシアナ=イェナ、あなたを国家反逆罪で極刑に処する」