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只管、走った。
暑さはピークに差し掛かり、すでにグラウンドを三周も走った後。
まだ、手を洗っただけで水分補給も出来ていなかったのに。
話しかけられたことが、あまりに衝撃的で驚いた。
彼のことは、知っていた。
クラスメイトだからじゃない。
自分が輪に入っていない女子の会話。
風に乗って聞こえるひそひそ話。
〝恋バナ〟と呼ばれる、その現代の遊戯を、まだ小枝は体験したことがなかった。
そして、多分、残り少ないこの中学生活でそれは未経験のまま終了するだろうということを。
「ねぇ、知ってる?白川さんが宮ノ杜に卒業までに告ろうと思ってるんだって!」
「えぇーー!?だって、確か白川さんの友達も先に宮ノ杜に告ったって言ってたじゃん?」
「そうなの!聴いて!その子、美香っていうんだけど、私の友達なんだよ!」
その言葉に、他の女子が声を揃えて、
「えぇーー!」
と、驚きを示す。
どうして、そんなに驚くことなのか。
小枝には理解できなかった。
たかが、何クラスしかない小さな勉学をする箱庭。
友達の友達なんて、ありがちな設定だ。
そこまで考えて、小枝は机に顔を伏せた。
(友達のいない私が言えることじゃないか……)
別に僻んでいるわけじゃない。
自分で望んでこうなった。
努力もせず、友達という未知の相手が出来るとは思ってはいない。
「それで、どうなったの?」
女子たちは考えるだろうか。
この会話は、全く内緒話になっていないことを。
聴きたくもない会話を聞かされている人間がいることを。
それでも、今だけ。
こんなにまったりとした時間を過ごせるのは、この時代だけと思えば、それも赦される気がする。
「うん……。美香は泣いてだけどね。自分はフラれたのにって……」
「「だよね」」
普通、この後女子たちの言い分は決まっている。
その白川さんという女子の陰口だろう。
耳に劈く様な汚い言葉の数々。
それを聴くのはイヤだ。
小枝は、椅子を引く音を立てないように、立ち上がろうとした。
しかし、予想を裏切り、聞こえたのは深い溜息だった。
「でも、白川さんじゃねぇーー」
「うん。そうだよね……」
なるほど、と小枝は思った。
どうやら彼女たちの指し示す〝白川さん〟は、美人か人当たりが良いか。
とりあえず、人気者なのだろう。
彼女を悪く言えば、こちらが不利になる。
そんな上位の存在。
それは、察しがついた。
そして同時に、そんな彼女に好かれる〝宮ノ杜君〟も人気者なのだろう。
それが、小枝の宮ノ杜翔へのイメージだった。
やがて廊下の果てに辿り着いた頃には、息が切れていた。
しゃがみ込んで息を整える。
心臓の音が周りにも漏れ聞こえそうなほど、紗枝は動揺していた。
一方的に知っていた宮ノ杜翔は、名前通り、爽やかな笑顔の持ち主だった。
優しげな声。
シャープな顎。
男にしておくにはもったいない滑らかな肌。
そこを流れる一筋の汗。
小枝が出逢ったなかで最も完璧な美男子だった。
けれども。
逃げたのは、別に恋に落ちたからじゃない。
(見られた……。ハンカチ……)
握りしめられたままの濡れたハンカチ。
所々に汚れも目立つそれは、小枝のお守りだった。
そして、願掛けに必要不可欠な代物だった。
誰にも気づかれないように、いつも所持していて怪しくないモノを選んだ。
なのに……。
『ねぇ、それ、使えなくない?』
どうして、彼は、それに目を向けたのだろうか。
小枝は、ぎゅっとハンカチを握りしめた。
「……大丈夫か?」
その低い声に、ハッとして上を向く。
そこにいたのは、気難しそうな表情を携えた、小山田だった。
声を掛けてきた人物に気付いた小枝は、唇を噛んで、スッと立ち上がった。
そして、彼を無視して歩き出した。
「……具合が悪いなら保健室に行きなさい」
彼は、その生徒にあるまじき失礼な態度を取った小枝の背中に咎めずそう呟いた。
小枝は、右手で強くハンカチを握りしめた。
「教師面しないで下さい」
後ろを振り返らず、彼女は一言、そう告げてまた歩き出した。
その背に彼が、なにか続けて言葉を掛けることはなかった。