1
彼女に気が付いたのは、なんてことはない瞬間だった。
どこの中学校にもある体育の授業。
蒸し暑い七月の照りつける太陽に、元気に上を向くのは校庭の隅に植えられた何本もの向日葵だけだった。
唯一救いだったのは、今日の自分のクラスの体育が一時限目だったことだろう。
東京郊外にある、それなりに裕福な子息が通う私立中学。
名を〝私立清麗中学校〟という、清く麗しくがモットーというありがちな校訓を掲げた学び舎。
その三年生であっても、内部進学で高校へ上がれる自分たちには、良い気分転換の授業だった。
たとえ、その恩恵で広々としたグラウンドを五周するという単純かつ難解な授業内容、いや、ダンジョンであろうとも。
彼、宮ノ杜翔も、そんな現代を生きる中学生男子だった。
自己紹介すると、必ずと云っていいほど、この名前で一笑を買えた。
『一体どこの武家屋敷の息子だよ!?』
なんてことはない。
別に生まれが由緒正しいわけじゃない。
父親は、その日本古来よりありそうな苗字に相反して、海外線のパイロットで、キャビンアテンダントだった母親と職場内恋愛の後、結婚。
そして、自分が産まれた。
確かに、生まれは悪くないだろう。
一人っ子といえども、こうして好きに私立に通わせてもらっている身分なのだから。
まぁ、前置きはこの程度だろう。
とにかく、彼が言いたかったことに話を戻そう。
こういった授業では、必ずと言っていいほど、男女差別が堂々と氾濫する。
男子がグラウンドを五周するのに対し、女子はたったの三周。
日頃から、男女差別における職場での横暴がニュースで取り上げられていても、こうやって少年時代からなにも知らぬ子供に大人が行う、無意識な差別が、それを増幅させて行っているのではないだろうか。
本末転倒もいいところだ。
しかも、女子という生き物は、普段は男女差別だと、大声で断罪するにも係わらず、こういった場面では、さも当然という顔つきをする。
したたかな存在。
それが、翔の同世代の女子に持ち合わせていた感情だった。
少し金持ちが通う学校というオプションが付いているのも、彼女たちの鼻を高くする所以だろう。
甚だ、迷惑極まりない。
そんなくだらない妄想をしながらなんとか走り終えたマラソンは、後ろを振り返れば、まだまだ走り続けるクラスメイトでごった返していた。
皆、グループを作って走るせいか、まるで集団下校でも見ているかのようだった。
遠くで、彼の悪友の羽柴勇気が、自分へ息を切らせながら声を掛けてくるのが聞こえた。
「翔!お前、速すぎんだよぉーー!」
そして、もう一周また、同じ道を歩んでいく。
(意外に、早く終わったか)
彼は、流れる汗を素手で乱暴に拭い、水道へと一人歩いて行った。
そこは、あまり人気の少ない体育館裏の古惚けた水道だった。
所々に苔が蔓延っており、確かに校舎で流れるのと同じ水は流れるのだが、生徒は嫌ってあまり使用したがらなかった。
あまり、学校へ来る来客者からも見えない位置に設置されていることもあり、学校側もなんの処置も取らない。
しかし、翔はこの場所が好きだった。
人がいないからこそ、得られる一瞬の静寂。
そのなかにただ一人佇む。
自惚れ屋にとっては、格好のシチュエーションを与えてくれる、小さな舞台のような場所。
しかし、今日は先客がいたようだ。
女子の体操着が視界の端に見え、翔は密かに溜息を吐いた。
(物好きな奴……。今日は止めとくか)
彼は、そうやって踵を返そうとした。
けれども、その足をふっと止めたのは、彼女の顔が絶世の美女だったからではない。
魅かれるような体つきをしていたわけでもない。
彼女が手を洗ってから取り出した、グショグショに濡れたハンカチを見たからだった。
手を洗う前から濡れていたように見えたハンカチを、彼女は無言で使い続けていた。
そうしていても、手の渇きの速度は速まらない。
むしろ、太陽に両手を上げていた方が、早いかもしれない。
非効率的。
彼女のその行為が、翔の興味を引いた。
「ねぇ、それ使えなくない?」
気づいたら声を掛けていた。
それに、ハッとしたように振り返る。
これが、彼女、神奈川小枝との初の接触だった。