一章~1~
一章
1
感情認証システム。それがどういったシステムなのかを一宮が理解したのは、彼女――ミサキが一宮の返答に頷いたより、もっと後だった。
「感情認証システム『ON』に設定します。初期記憶の定着を行います。所要時間は二十時間となりますので、安全な環境下にミサキをお連れして下さい。
五分後、自動で初期記憶定着。及び、ミサキ起動に関する全ての初期設定を開始します」
そう返答した彼女を、一宮は仕方なく家に招いた。
仕方なく、と言うのは、そもそも起きた出来事に思考が追いついていなかったため、一宮は彼女を放置して家に逃げ込もうと考えたのに、身を翻した一宮の動きを真似するように一歩後ろを続いた彼女は、ドアの閉じた音がした時には家の中にいたからだ。
一宮がどうこう考える暇も無かった。
「動作停止を確認、初期記憶定着をこの場で開始して宜しいのですか?」
追い打ちをかけるように、ミサキの声と視線が一宮を捉える。
「ま、待ってくれ。こんなところで良いのか?」
立つ場所は玄関だ。加えてミサキは扉の真ん前に立っているので、ある意味ドアを塞ぐような形に落ち着いている。外に近いからか、いくら家の中でも隙間風はあるし、温度は外に近くなっている。つまりは、夜の寒さが肌を打つ程度には、過ごしづらい環境だ。
「構いません。外気温や酸素濃度、その他空気や環境的要素においては、ミサキは大抵の環境で問題なく稼働できます」
言う瞳は、無機質に一宮を射抜き続けている。
ふと、少しずつ頭の回転が戻りつつある一宮に、疑問が浮かんだ。
「あ、っと。それじゃあ、安全な環境下ってのはどういう意味だ?」
訊いた時にはそれほど大きな意味を考えずに訊いたのだが、その質問の意味を理解し、後悔したのは彼女の返答を聞いてからだった。
ミサキは声のトーンも表情も変えず、機械的に言葉を綴る。
「他の『人形』との接触が起こらないような場所に置いて頂きたい、という意味です。私はある程度の戦闘を行えますし、駆動中であれば問題なくそれらを迎撃する手筈は御座います。しかし、初期記憶定着、及び起動関連の初期設定中は、完全駆動では無く、一部駆動状態となります。半分でも無く、ミサキ内プログラムのみの駆動となるため、身体や部品の駆動を行えません。故に、ミサキを二十時間安全な環境下に置いて頂きたいのです」
後悔、と言うよりか、最初に想定できたのは疑問符の束だった。
人形、戦闘、迎撃、駆動。およそ一般的に言う、日常会話ではあまり登場しない単語達が一宮を惑わせた。人形ぐらいは普通かもしれないが、彼女はそれらを迎撃すると口にした。人形を迎撃するとは如何なる意味か、彼には判らなかった。
襲ってくるような、人形があって、それからこのミサキという子を守れる環境に、と言う意味なのか? 一宮はそう考えると同時、自分の考えを疑った。
非日常的と言える段階では無い。既に日常では有りえない考えだ。例を挙げるなら、作り話の世界の話なら、十分に理解できる考えと言えた。
だが、一宮が立つそこは、明確に現実だった。空想の世界では有り得ない。
「えっと、いまいち意味が分からないのですが?」
苦し紛れに重ねて問う。
ミサキは特に気分を害した様子もなく、言葉を綴る。
「噛み砕いて言えば、私が『人形』達に見つかって破壊されないような場所に置いてほしいという事です。問題は無いと思いますが、万が一の遭遇が無いと、断言は出来ません。
それ故、最低限他人に見つからずに二十時間を過ごせる場所があれば構いませんので、そう言った定義で安全な環境下を提示して頂ければ幸いです」
一宮は追加の説明を受けても、理解には及ばなかった。
「判った。取り敢えず、君をどういった環境におけば良いのかは分かった。
それで、一つ良く判らないんだけど、人形って言うのは、女の子が遊ぶ玩具とかの人形、だよね? むしろ、他の人形を僕は生憎知らないんだけれど」
ミサキの虹彩が暗闇で、輝いて浮かぶ。
「いえ、その人形とは根本的な意味が違います。
玩具としての人形は全て作り物で出来ていますが、私の言う『人形』は人の形を成し、人の形を縁取ったモノです。人の一部を継承し、人ではない部分を内包した存在。
それが、私の言っている『人形』であり、私のような『人形』と呼ばれる存在です」
一宮は、ミサキの言葉に息をするのを忘れた。
「――は、――? 待って。それって、その『人形』って言うのは、人の形をしてるけど人ではなく、また君もその『人形』とやらで人間では無い、ってこと?」
見るからには人間としか見えない美少女。人間らしさどうこうより、人間としてトップクラスの美しさを持っているように、一宮には見えていた。
それはある意味、一般的な人間では有り得ない美麗さ、とも形容できる。
だが、いくらなんでも、当たり前の様に自宅の前に立っていた人の形をしたモノを見て、人間では無いなんて、そんな想定を、普通はする筈がない。
空気が凍り付いた気がした。気温が一気に低下したような感覚。
初春にある冬の残滓と言うよりは、夜故の冷えに近い感覚だ。
思い返してみれば、彼女の手にも唇にも、およそ人間のような体温は存在していなかった。
人間らしくないと言えば、その時点で不可思議さは帯びていた。一宮自身がそれを不思議とは思わなかっただけだ。
人の形をしたモノが人間であるという定義は、常識以前の根本的な生きてきた環境の問題とも言い換えられる。
一宮は、人間の形をした人間以外のモノがいるという環境で育ってこなかった、あるいは彼が気付かずに生きてきた。しかし、彼の知らない環境、世界ではそれが当たり前の通説、あるいは常識として通る環境もあるのかもしれない。気付かない、知らないだけで、それは自身の身近にもあるのかもしれない。
そう言った、不思議番組の前説のような口上が一宮の頭に浮かぶ。つまりは、その過去気付かなかった環境、世界に今現在一宮が足を踏み入れたという事になる。
見かけた程度では無く、事実目の前にその不思議が有って、絡み、関係している状態でだ。
「――」
一宮はゆっくりと呼吸をし、自身の体に酸素を十分に通わせる。
落ち着いた心持ちを、一片程は取り戻し、再度眼前に視点を置く。
電気を点けていない家の内は、月光下の外よりも余程暗闇で、ミサキの姿は闇に紛れていると言うより、溶け込むように同化していた。
それでもミサキの瞳は、変わらずに一宮を見ている。
銀の虹彩が、闇に近付くほど余計、恐怖心と動悸を煽る。
ふと、ミサキの瞳が揺れた気がした。
「――……残り、一分で初期記憶定着と起動関連の初期設定を開始します。安全な環境下にミサキが置かれているか、再度確認をお願い致します」
「――! 待って、せめて居間に!」
一宮は一先ず考えるのは止めて、急かすミサキに靴だけ脱ぐように促すと、玄関を上がってすぐ左、磨りガラスが張られた押し戸を開き、居間のソファに座らせた。
靴を脱いでくれ、こっちに来てくれ、ここに座ってくれ。
一宮が言ったその言葉通り、正確にミサキは動いた。その動作が余計に人間らしくない程に従順で、言外ではあれど彼女が人間外である要素とも感じられた。
薄ら寒い空気を感じながらも、居間の電気を点けた。
ソファがクリーム色なので、ミサキのドレスと髪が共に映える。
そう言えば、今一宮自身は自宅である故、観葉植物、テレビ、机等の障害物を暗闇の中でも自然と認知していたが、彼女は初めての場所でそれをどのように感知したのか。
考えれば考える程、彼女が人間ではなく『人形』であると言うファクターを生む。
彼女が自身を『人形』と言い、それを聞いたからこそ、起こる出来事や現象がさもそれが事実であるように認識してしまう。あるいは思考してしまうのは仕方ないとも言える。
人間は物事を都合良く解釈するよう、脳が勝手に整理するのだ。
一宮は彼女が人間では無い『人形』とやらである可能性を思いつつ、実は人間で『人形』どうこう言うのは全て嘘であるという可能性も示唆することにした。
「それでは、初期記憶定着、及び起動関連の初期設定を開始します。
緊急事態が起きた場合は外部での対処を要求します。ミサキ本体の移動は原則禁じます。緊急停止プログラムの稼働はできますが、記憶定着、初期設定中にそれを行った場合は、不具合を生じるか、不測の事態を起こしかねませんので、基本的には使用を禁じます。仮に何かが生じた場合の責任等は、全て貴方様が被りますのでご注意を。
それでは、改めて、初期記憶定着、及び起動関連の初期設定を開始します」
機械のプログラムじみた言い回し、言葉の反復、注意事項を終えて、ミサキは座ったまま少し首を下に落とし、人間で言えば転寝をしているように見える体勢をとった。
人口灯下においてさえ、彼女、ミサキの美しさは霞むことは無かった。
月光下での美しさは息を呑むほどで、現状は見惚れるほどで、程度においては然程の差は無く、むしろそれぞれの良さが見えるとも感じられた。
一宮は居間の真正面、テレビの丁度対面辺りに座ったミサキの横顔を、ぼう――っと眺めてから、思い出したかのようにミサキを正面に据えて右にあるキッチンの方へと向かった。
今頃になって、遅効性の毒が効いてきたみたいに、喉が渇き出したのだ。
冷蔵庫を開けて、麦茶の2リットルサイズのペットボトルを手に取り、食器棚から小さなグラスを取り出した。キッチンはカウンター式になっていて、冷蔵庫や食器棚などが奥の壁沿いに並び、その対面にコンロと流し場がある。その流し場の正面は、お店のカウンターの様に胸元辺りから上が開いており、奥のテレビとソファが目に入る。くつろぎスペースとしてのそことは別に、食事のスペースとしてカウンターのすぐ前には四人掛けのテーブルがある。焦げ茶色の椅子の一つを引き、一宮は腰を掛け、麦茶をコップに注ぐ。
呷る様に一息に飲み干し、次を注ぐ。
一宮はソファに座る、ミサキの後ろ姿を見やる。
暗闇の中にいる彼女はひたすら不思議な女の子だったが、こうして見ると、むしろ普通の女の子にしか見えなかった。先程まで感じていた全ての違和感、そして彼女自身が言っていたこと。それらが全て夢幻の幻想だったのではないか、そうとさえ思えた。
「――っ、ふ」
息を吐くように小さく笑うも、彼にとって自身が体験したことは絶対だ。聞き間違いでも何でもない。数秒前の記憶だ、誤差が生まれるにしても早過ぎる。
一宮はそれなりには自身のことを信用していた。だからこそ、幻想だったなどとは微塵も思えなかったのだ。
注いだ麦茶を飲み下す。甘くも苦くもない、風味と清涼感が喉を通る。
そんな当たり前が、酷く懐かしく、一宮はその後も何杯か喉を潤した。
2
一宮唯は、近くの蒼嶺高校に通う一年生だ。少し前まで受験生という身分で、その後には卒業生と言われ、今は新入生という称号に変化した。
ほんの一か月やそこらで呼ばれ方が目まぐるしく変わるので、一宮はその境遇に辟易していた。仕事の都合で両親共に在宅していない一宮にとっては、親も来ない式典など形骸化しており、意味など無いに等しいものだった。つまりは、中学生だろうが高校生だろうが、彼にとっては大した違いは無かったのだ。
通い始めて、そろそろ一ヶ月。無理に友達を作ろうともしていなかった一宮は、結局のところ、妥協的な話し相手もまともに作らず、部活にも所属することなく、ほとんどを孤独なまま適当に過ごしていた。
適当と言っても、遅刻も欠席も早退もしないし、授業は全て真面目に聞いていた。勉強はそれなりに出来る方で、中学の全ての試験で一桁順位の常連だった彼にとって、中学の総復習から変化していくような授業は難しくもなかったし、面白くもなかったが、授業を受ける態度として、真面目に受けることは止めなかった。
だと言うのに、一宮は今現在平日の真昼間に、自宅の居間でくつろいでいた。
いや、実際はくつろいでいるように見えた、だ。
一宮の隣には、昨夜から初期記憶定着やら何やらを続けているミサキが鎮座している。
彼はその横で、自宅であるはずなのに他人の家にいるような緊張感を帯びて座っていた。苦し紛れに新品同様の国語の教科書を開いているが、落ち着きは明らかに無い。ついで、目の下には黒い隈があり、彼があれ以降一睡もしていないのは一目瞭然だった。
「ふう――、まさか小中と続けてた無遅刻無欠席記録が、こんな形で消えるとは」
呟きながら、自身の行為を見直す。
朝方は悪いことをする感覚に負けそうになったが、見ず知らずの女の子、あるいは『人形』とやらを自宅に置いたまま学校に行ける程、一宮の神経は太くなかった。
結果、学校を休むことにした。これまた慣れない仮病なんて演出を電話でして。
成績や勉強についての不安は無かった彼だが、いつも当たり前にしていた行動から逸脱した動きをとるというのは、存外精神的に負担になる。一宮はその負担を胸中で抱えながら、ミサキの隣にいた。
朝食を摂り、教科書を開き、トイレに行き、昼食を摂り、トイレに行って、教科書を開く。
食事は簡易的な麺類を茹でるだけにしておいた。
やろうと思えば大抵の料理は出来るのだが、ミサキの傍を一定時間以上離れていると落ち着かなくなるので、やめておいた。食器類は幸運にも豊富に有った為、洗うのも後回しで流しに入れてある。
それ自体も一宮としては嫌だったのだが、優先順位はミサキの目の届く範囲になるべく居続けることだったので、諦めて自分の内に抑え込んだ。
改めて、あれから幾度も視界に収めている白い髪の彼女を見る。
ミサキは、あれから身動ぎ一つしていない。
瞼は下りているので、銀の瞳は伺えないが、口も開いていないし、鼻から呼吸の音もしていない。確かめようは無いが、心臓の拍動さえ無いように思えた。
人間で言えば仮死状態、そう呼んでも差支えない状態だった。
一度だけ恐る恐るミサキの腕に触れてみたが、変わらず人間では無く、モノのような無機質な冷たさを肌に覚えただけで、直ぐに手を引っ込めた。それでも肌が返してくる弾力性は人間のそれで、余計に混乱を呼ぶ。ちなみに触れた時も、彼女に動きは無かった。
一宮は常に沸騰しそうな緊張感の最中に置かれつつも、過ぎない時間に嘆息した。
早く過ぎてくれ。思わないようにしているそれが浮かぶ度、体感速度が遅延している気がしてならない。悪転にせよ好転にせよ、彼女が目を開かないことには始まらない。体感速度に加速度が足されることは無い。一宮はそうして徐々に気持ちを落としていった。
平行線なのは緊張感だけで、集中力は確実に低下の一途を辿っている。
だからだろう。
普段鳴らない携帯電話が鳴ったのに、警戒もせずに通話ボタンを押してしまったのは。
『出るとは思わなかったわ。
体調不良の申告で学校を休んでいるあなたが。
こんな昼間の段階で3コールも鳴らない内に』
段階的な倒置法は、頭の回転速度が落ちている一宮には難解に、しかし明瞭に聞こえた。
少しずつ明瞭になっていく意識の中、余計な事をしてしまったと悔やんだが、時は既に選択の後だ。遅い。
一宮は次の選択として声を発さないまま切ってやろうかと考えたが、仮にそうした場合、この人物は自宅にまで乗り込んでくる可能性があったので、迷いはしたが、大人しく返答することにした。
「ああ、昼食を食べていたんだ。だからたまたま直ぐに出れた」
体調の悪さと態度の悪さが浮かぶ。
彼女は『ふーん』と、意味有り気な失笑を挟んでから会話を継続する。
『にしても早い。そんな気がするけど、――まあ、仕方ないから、納得しておいてあげるわ』
仕方ないから、を強調した一文。一宮はその変化に気付かない振りをして頷く。
「それはどうも。それで、どうかしたの? 神代絢。僕の記憶が正しければ、今の時間は昼休みで、普通の生徒なら休んでいるだけのその時間、授業よりも忙しなく教室や廊下を行き来しているのが、君にとっての平穏だったような気がしたんだけど」
『普段の三倍の速度で終わらせたわ。だからこうしている余裕があるの』
皮肉の応酬を交わす相手は、神代絢。
女子にして初、一年生にして初、そして過去最速で、風紀委員委員長と生徒会会長兼任の偉業を成し遂げた、一般人とは格も身分も言葉に含まれた棘も段階が異なる女生徒だ。
口調の強い女子にしては低めの声が、余計に彼女をそれらしく見せる一要因。
身分相応の空気と風貌、それを電話越しでもびしびしと感じる。
当然だが、普通なら一年生の、しかも入りたての新入生が、委員の委員長をやったり、生徒会の会長を担うのは不可能である。
前者なら可能性はゼロではないが、後者においては可能性も無い。生徒会の会長とは、本来年度の終わりの方で行われる選挙によって選ばれるしかなる方法が無いので、四月という月では、最低でも二年生でなければなれない職の筈なのだ。
それでも彼女が、事実としてそれらの役職を担えているのは、勿論イレギュラー。
前生徒会長も、他生徒会役員も、はたまた一般生徒も、不満の一つさえ抱いてない。
それだけのイレギュラーが、彼女という存在だった。
日本を裏からも表からも操り、牛耳り、あらゆる国の覇権を手にしていると、囁かれているだけではなく、最早通説として成り立っている神代家。
その神代家の一人娘が彼女。神代絢だ。
彼女を彼女たらしめているのは、その権威と地位であった。
実の父親が元総理大臣で、今は一線を引きつつも国の決め事の全ては彼を通さなければ、動く事さえ許されないという人物。そんな彼は、大きな枠組みだけでなく、小さな枠組みでも容赦も油断も余裕も隙も見せることはない。
故に、一人娘の要望を叶えるために、一学校のルールや慣習を変えてしまうことを辞さないどころか、何とも考えていない。
彼にしてみれば「あの玩具買って」ぐらいのおねだりなのだ。
一身に国の最高的な権力者と言っても差支えない人物の、家族愛を受けて育った彼女は、その環境下における成長をし、高校生にまでなっていた。
中学でも三年間生徒会長を務め、高校ではそれと同時に風紀委員もこなしたい。そう言った娘の要望を、父は躊躇いなく叶えた。
学院長や校長に話を通し、校則を捻じ曲げ、彼女をその立場に置いた。
そうして、彼女は現立場にいる。
4月末とはいえ、彼女――神代絢が役職に就任してからは、一ヶ月も経ってはいない。
だからこそ、慣れない境遇に迷いや疲れを覚えていてもおかしくはない。ましてや、余裕など生まれる筈がないと、一宮は考えていたのだ。
だが、一宮は自身の考えが誤っていたことを今頃になって悟った。
「で、そろそろ床に就こうかと思うんだけど、切っても良いのかな?」
なるべく伺う様に、口調と声のトーンに気を配る。
『何言ってるの、声にそれだけ張りがあれば元気でしょ。それに体調不良だからと言って、誰とも会話をしないまま一日を終えるというのは感心しないわ。
身体の毒は抜けても、今度は精神的な毒が残ってしまうわ。だから、仮にあなたが体調不良だったとしても、この方が良いのよ。少し私との会話に付き合いなさい。
ああ、今の口調だと誤解を招くかもしれないけど、私は貴方に伺いを立てている気は無いからね? 有無を言わせるつもりもないし、返答も求めてない。
私はただ、そうしなさいって言ってるのよ。一宮唯』
傲慢な物言いに、配った気を返して欲しい気分になりつつも、一宮は会話を継続する。
「仮に、ってのは心外だな。まあ、良いよ。話くらい少しなら付き合う」
神代は確実に一宮の仮病を見抜いている。
そんな気が一宮にはした。けれども、そこを掘り下げると立場が悪くなるのは判っているので、軽く皮肉だけ述べて、彼女の申し出を了承することにした。
『ありがとう、助かるわ』
一宮はギリギリの会話をしていると言うのに、神代にはそんな焦燥感は無く、むしろ飾らない感謝の台詞は一宮の心を朗らかにさせ、過去を思い起こさせる。
先程見せた傲慢さも霞む、声音の色。
見た目と環境と地位と権威と立場と、対人的な圧力や印象が強く、少なくとも自分から関わりたくはないを超えて、何としてでも関わりたくないと思える相手だと言うのに、一宮は彼女が見せるそういう面に弱く、逆に魅力さえ覚え、結局今まで関係性を切れずにいた。
3
神代絢と初めて会ったのは、入学式の少し前。
出会ってからは一ヶ月も経っていない。なのに、数年来の親友みたいな会話をする間柄。
入学式。華々しい飾り付けや、豪奢な着飾りを学校が施す行事。
親も来ないどうでもいい式典、一宮にとってはそう捉えられる入学式の場所。しかし大半の生徒や親、教師にとっては大事な式典。
その温度差になるべく触れたくなくて、式典間際まで一宮はトイレに籠っていた。
やり過ごそうという気持ちは無かったが、せめて式典前くらいは、緊張感溢れる新入生に紛れるのは嫌だと考えた結果がそれだった。
美味しくもない空気を吸って、時間が過ぎるのを待った。
そうして、後五分ほどで始まるという段階になって、一宮はやっと足を動かしトイレを出、体育館に向かう廊下に踏み入れる。
そこで、神代絢に遭遇した。
美しいと、言ってしまえばそれまでだが、その言葉を凌駕する『美』がそこには、存在していて、その美しさを誇示することもなく、ただ君臨していた。
華美でもなく、豪奢でもない。
化粧をしているわけでもないし、着飾った衣装でもない。
そこら中に溢れている筈の、一宮が通う高校の女生徒用制服を着用している。ブレザータイプの制服で、スカートの長さも膝丈ぐらいで平均的。胸元に見えるリボンも有り触れた朱。黒の膝下までの靴下に、先が赤の上履き。
特別性など無い、どこにでもいそうな女子高生の姿だった。
あくまでも、彼女が纏う服、服装については、だが。
評価が服等ではなく、彼女自身に及べば、その特異性は滲み出ている。とは言っても、別段女子を見慣れているわけでもなく、審美眼があるわけでもない一宮には、綺麗であるという情報しか浮かばない。
肩より少し下まで伸びた、栗色の髪。
茶ほど明るくはないが、焦げ茶ほど濃くもない。丁度その中間の色合いといったところか。下手をすれば汚い色に見えてしまうような危うい色合いだったが、彼女においてそんなことはなく、美しさの一つになっている。ストレートでは無く、ふわりとした髪質のせいで、風を纏い、広がっているように見える。当然、窓も空いていない廊下には風などあるわけもなく、見ている一宮は不思議な感覚を覚えた。
栗の前髪に少し隠れた、大きな瞳。
目は吊り上がっても下がってもおらず、良く言えば冷静、悪く言えば無感情ともとれる目をしていた。虹彩の色までは伺えないが、黒ではない明るさを帯びているのは確かだった。見え方によって薄い茶っぽくも、金のようにも見える色。面と向かっても、彼女に対して瞳を覗き込めるほどの勇気が無い一宮は、今現在もそこまでは把握出来ずにいた。
顔の形は、顎先まで丸みと鋭さがあり、女性らしさと美しさの棘を兼ね備えているようだった。鼻は少し高く、口は小さめ。
顔の他に見えている手先や足の一部分、首元などの肌の色は、白に近い色だった。
「貴方も新入生? 式がもう始まりそうな時間に、こんなところで何を?」
触れば傷付いてしまいそうな危うさを帯びていた彼女は、見た目とは裏腹な語調の強い言葉を発した。音は、アクセントを内包している。
「――、えっと、ちょっとトイレに」
間違ってはいないのだが、後ろめたさから一宮の声が縮む。
彼女と言う姿を認識した時よりも、彼女の声を聞きながら姿を見た方が、圧倒される強さが段違いなことに一宮は自身の反応で気付かされる。
声と表情、出で立ち。それら全てが合わさって、彼女という存在を作り上げ、美麗、かつ荘厳。威厳さえ漂う空気と風貌になっているのが判る。
「そう、なら急いだ方が良いわ。あと五分もしない内に式が始まるから。どうせなら私も同じ場所に向かうから、一緒に行きましょう。これでも私も新入生ですし、それに、貴方よりはこの学校には慣れていると思うから」
言うと、有無も言わさず歩き出す。
「――あ、っと」
急な申し出に、反論も肯定も出来ず、一宮は声だけ漏らして足は彼女の方へ向く。さながら先導する笛吹きについていく子供だ。
それならば、笛吹きは前を向いて歩くだけと言うのが普通だろうに、彼女は一宮の息を感じてか、髪を翻して振り返った。
「私は、神代絢。神様の神に、依り代の代。絢爛の絢で、神代絢よ。貴方は?」
急な自己紹介に驚くも、それより神代という名を口にした彼女に驚く。一宮でも神代家の名ぐらいは知っていたからだ。ただ、この段階ではあの神代家と同じ苗字なんだ、などと思っていただけで、まさか本当に神代家の人間とは思っていなかった。
「――一宮、唯です」
意思が希薄なまま、名乗る。
「漢字はどう書くのかしら?」
「数字の一に、宮司の宮。唯一の唯です」
見た目の近寄り難さの割に、明け透けな物言いに面喰いながら、一宮は答える。
神代は楽しそうに口角を上げる。
「男性で唯、と言うのは珍しいわね。覚えておくわ」
「あ、りがとうございます」
変に緊張していた一宮は、言葉が上手く発音できずに、少し戸惑った。
「敬語」
そんな一宮に、突き刺すように言葉を続ける神代。たった一語の単語が、責め立てるように鼓膜を揺らす。「え」とまともな反応も出来ない一宮に、眉を顰めて言葉を重ねる。
「同級生なのに、敬語は止めて。同い年の人にまでそうされてると、気が狂うわ。私、嫌いなのよ、畏まられるの。同年代の男の人にそんな反応されると、余計嫌悪してしまう。
だから、普通でいてよ。普通に、話してもらえない?」
思い返せば、彼女のその言葉には様々な意味が含まれているのが判る。神代家の一人娘たる彼女に敬語を使わないものなど、いやしないのだ。
恐らくいたとしても身内ぐらいの者だろう。過去大人にも畏まられ、頭を下げられていて、学校でも同級生、先輩、教師、例外なく彼女には敬語を使っている。
「判った。じゃあ、そうさせてもらうよ」
だから、彼女にとっては普通にしてくれと言うのは、最上級の頼み事ともとれる。
出会ったばかりだからこそ出来る芸当。
メディアへの露出がゼロではない彼女を、知らなかった一宮だからこそ出来た返答。
多少の恐縮を覚えつつも、良くある光景だろうと大して考えもせずに、一宮は答えた。
その後で、新入生代表として入学式で挨拶する彼女を見、聞きたくなくても聞こえてくる周りの噂を聞き、最後にネットで調べ、彼女が紛うことなき、神代家の一人娘であると知った。
それでも、そう知ったからこそ、一宮は神代への対応を変えなかった。
外聞など最初から気に掛けない一宮だからこそ、彼女の苦しみを緩和出来た。
「ありがとう」
一宮の返答に、神代絢は最上級の笑顔を見せた。
同時にその美しさに魅せられていた。以降、彼女からその時のような笑顔は見たことが無いが、希少な彼女の笑顔は、一宮の記憶に深く刻まれていた。
4
あれからの神代絢は、明らかに調子に乗って会話をしていた。小さな愚痴や、ちょっとした報告。それを一宮に事細かに話す。話題の一つ一つに関連性など無く、多岐に渡る。学校での話や神代の主観で感じたことが大半だったが、物語の考察や、食べ物の話なども無造作に入り込んでくるから恐ろしい。
話題の転換、など無く、それら全て神代絢に関する話題という一纏めなのだろう。
神代は吐き出すように、喋っていた。
一宮は容易に話を聞くと言ったのを、少し後悔しつつあったが、今更彼女の勢いを止めることも変えることも出来ないため、聞いて頷くしか出来なかった。
『唯は、先日の世界法律の制定については聞いた?』
丁度前の、学校の在り方についてというやたら堅苦しい話題が終わった時、次のワードとして彼女はそう口にした。今の学校についての文句も入り混じったその前は、クラスメイトについてだったり、最高の嗜好とは何かについて一人で論じていたりしたわけだが、それらを前にしても明らかに堅い。政治家が好くような話題だった。
「お次は世界情勢? 随分と飛躍した話題だね」
『飛躍した、ね。それが世界法律の新たな一ページについての、皮肉的な言葉だとすれば、唯君は随分博識ねと褒めちぎるところだわ』
「買いかぶりすぎだよ、残念ながらそこまでは知らない。むしろ、これでもニュースや新聞には一通り目を通してるんだけど、そんなトップニュースや一面に出そうな話題は聞いたことが無いんだけど、まさかそれもオフレコ情報?」
神代は、その立場上一般人が知り得ないような情報を、幾つも幾度も手にしている。特に日本と言う国についての話題であれば、お手の物、手の内だ。一宮もそれを何度か話されたことがあるので、経験則からの問い掛けだった。
『ええ、御明察。推察の通り、箝口令が敷かれている情報よ』
「神代は箝口令の意味を知っているのか?」
言うと、神代は非常に不機嫌そうに嘆息してみせた。
『苗字じゃなくて、名前で呼んでって言ったわよね? 唯? 貴方は私に何度この言葉を吐かせれば気が済むのかしら。反応を楽しんでいるならそろそろ止めなさい。流石に私だって愛想を尽かすことはあるのよ。
ちなみに、箝口令くらい知ってるわ。でも貴方の口が堅いのは、とっくに立証されていることだから良いのよ。これで貴方が誰かに話したり、ネットに拡散してしまうようなら、それは私の人を見る目が無かったというだけの事。気にも留めないわ』
普通なら莫迦にされたことを怒りそうなものだが、神代はそうではなかった。彼女は莫迦にされたことについては、受け止め、自分の事として処理した。
代わりに、彼女が嫌がったのは呼び方だった。
神代家の威厳や家柄を存分に使いながらも、彼女はそう言った対応を周りからされることを好んでいない。
他人とは対等な関係を築いていきたいと、本気で考える人物だからこそ、特別性と特異性を名前だけで言えば日本ではトップクラスに兼ね備えたその苗字で呼ばれるのを嫌がる。
当然、一宮以外にはそんな年相応の子供みたいな反応はしない。いっそ笑顔で受け答えすらしているのだが、事一宮についてはそうはいかない。
彼女が、唯一と言っていい程、立場に関係なく話してくれる存在が彼なのだ。
一宮一人くらいには、神代家の一人娘では無く、絢という個人として対応してほしい。そう彼女は考えていた。と言っても、口は厳しさとキツさを十二分に内包しているので、一宮も少し気圧された。でもわざわざ唯と名前で呼ばれてしまえば、大人しくならざるを得ない。
「悪かった。それで、絢が言う世界法律の制定っていうのはどんな?」
箝口令が国民に及ぶものでも、一宮は委縮することなく、名前を含めて訊いた。
事に慣れてきているのもあるだろうが、前言で神代が一宮に対する信頼の言葉を口にしたのも、少しくらいは影響を及ぼしているだろう。
『ええ。世界法律自体は、三年前の二千二十年に制定された法律よね。核兵器を始めとする武装関連についての言及や、国家間同士の協定を恒久的に結ぶものなどがあり、先進国の大半がこの法律下に置かれることとなった。
ヨーロッパ諸国や米国、アジア諸国も名を連ね、日本もその法律を取り入れている。当然国ごとにある法律とは違って、主には国家間、世界という枠組みで語られる法律。
ここまでは大丈夫かしら?』
「絢程ではないけれど、これでもメディア関連への情報収集はそれなりにしてる方だ。教科書にも載っているようなことくらいは、流石に理解してるよ」
神代は嬉しそうに笑い声を入れてから、言葉を続ける。
『なら良いのよ。あくまでもこれは確認。
で、世界法律は国家間、ひいては地球上の国々、人々が滞りなく生きていけるようにする為の法律故、基本的には強制的な、圧力のかかるような言葉で記載されているのも周知よね。核兵器の保有を禁じる、とかね。かつ、罰則は国としての威厳や発言権を地に落とすものでもあり、国としての運営を潰すものでもある。
事実罰則で国名が消えたって前例も、幾つもあるしね』
「前置き、と言うか前述をかなりしっかりするんだな。それで、話の根幹は?」
一宮が先を促すと、一泊おいてから神代が語る。
『世界法律の一つである、
世界法律従事各国は自然環境問題、二酸化炭素排出量の軽減やオゾン層復元等、地球をより良い形で保つ、あるいは向上するための努力を怠ってはならない。
という一節を知ってるわね?
簡単に言えば、この一節について、書き換えが求められて、それが通ったの。
私からすれば向上も何も元々良い環境だった地球を壊した人類が、それを元々の地球の状態に近付けようとしているだけの話だって笑っちゃうけどね。
兎に角、その書き換え、改変が厄介なのよ』
「――どんな?」
『新しい文章に直すと、
世界法律従事各国は自然環境問題、二酸化炭素排出量の軽減やオゾン層復元、人口問題等、地球をより良い形で保つ、あるいは向上するための努力をしなければならない。数字、あるいは明確な形として、国家ごとに提示しなければならない。
という、文章になるわ』
一見、あまり変化は無いが、一宮は異変に気付く。
「推奨が強制に転じたって言うのは、判る。それぐらいしなくちゃ国家が動かないから、ってことなんだろう。でも、人口問題ってのが追加されたのは――なんだ?」
等で纏められる直前、追記された人口問題のワード。
『示す意味は何となく想像がつくのではないかしら? まあ、それでも想像することさえ頑なになるのも判るから、一先ずは私が言いましょう。
追記されたその意味を。
そもそも、過去今に至るまで世界の人口が増加の一途を辿り続けたわけだけど、その中でそこに深く言及した対策はあまりとられてはこなかった。どうにも出来ない事なのは明白だったからね。一人っ子政策みたいなものはとられたけど、その程度。戦争をしなくなって、平和を享受し、殺し合う必要が無くなった世界は、今までとは全く違った方向で牙を剥いた。野生動物や同じ人類に殺される脅威ではなく、自身が暮らす地球の許容量オーバーという逃れようのない鋭牙をね。そして、今頃になって世界規模で最も力を持つ世界法律と言う形で、対処することを求めた。この世界法律の書き換えが示すのはその道筋。
自然環境問題等々についての研究は、先進国の、それもトップクラスの技術力を有した一部の国でなくては成し得ることすら難しい。かつ世界に認められるレベルとなると、殊更絞られてきてしまう。基本的には先進国が加盟しているものだが、発展途上国も流れに乗ろうと、幾つもの国がこの世界法律を取り入れている現状。その発展途上国が、先進国と技術力や開発力で勝るなど、可能性は万に一つどころか皆無。有り得ない事、なの。
そこで追記された一言が威力を増す。
人口問題、あるいは人口増加問題についての言及。
これはつまり、技術や開発等で世界の役に立てないのであれば、せめて国民の数、人口を人為的に減らして世界の為になることをしろ、って言う強制なのよ』
長ったらしい神代の口上が、吹き飛ぶほどの言葉が最後に告げられた。語られていく言葉から徐々に察してはきていた一宮も、キッチリした言葉になって恐怖を覚えた。
人間の倫理観は何処へ消えたのか、
そんなことを思ってしまった一宮は、一瞬言葉を無くした。
取り繕う様に、自然と震えた声で神代に向き直る。
「そんなにさらっと、俺なんて一般人に言うようなことじゃ、ないんじゃないのか? その、話題ってのはさ」
『かもね』
「それで――、……日本は?」
『判らない。その政策については、まだ議論の段階だから。でも、他の国で既に国による大量虐殺が起こり始めているのは、確からしいわ。頭を回転させてまだ出来ることはあると模索して苦しむより、目の前にある命を事故や事件を装って、民を守るべき国が殺している。そんな出来事が、今現実で生じ始めてるの』
「――……それは混沌とした狂乱だな」
『間違いないわ。地球の限界が近づいているなんて、昔から判っていたのに、過去の人間達はそれを蔑ろにして自分達が有益になることばかりを追い求めた。結果、今の人間達が狂った舵取りを始めてしまった。この舵が切られた今――、退路は断たれた』
「世界が丸ごと崩れ始めるっていうのか?」
『直ぐにかは判らない。でも時間の問題でしょうね。この事が浮き彫りになっても、問題視する国は多分無い。落下した物体は到達点に至るまで、停止はしない。
既に落ちるところまで落ちる、それ以外の選択肢は排されたのよ。世界も、それに日本も』
そこまで話して、神代は満足したのか、その後一言二言言葉を交わした後、それじゃあまたと名残も何も無く電話を切った。
妙なしこりだけが残ったが、一宮はそれを消化する術を知らない。
未だに微動だにしない、電話中も常に視界に収めていたミサキに視線を送る。
変わらない彼女を見て、当面の自分の問題は世界情勢よりは、彼女の事なのかもしれない、と、思考を世界レベルから自分の周りレベルまで持ってきて、息を吐いた。
不安と言っても、曖昧模糊とし過ぎているというか、要領を得ない現状ではその対象が定かではないので、どうにも出来はしない。
キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。ペットボトルに入った無糖のアイスコーヒーを取り出して、ガラスのコップに注いで飲み下す。
舌に纏わりつくような苦味が広がっていく。甘さを捨てたコーヒー本来の風味だ。一宮は苦いコーヒーが得意ではない癖に、時折こうして飲む。
自分の中のスイッチを切り替えるために、顔を顰めて。
5
転じて、再びの夜。
夕方の様相は終わり、夜の空気が浸ってくる。住宅街の大半に蛍光灯が点灯し、野外から及ぶ光は街灯程度になっていく。
月明かりなんて、都会では死滅した言葉だ。月の明かりなど、結局は人口の光に及ばない。実際の光量は比べるべくもないのだろうが、人の近くには輝く人口の灯がある。距離を考えれば月でさえ、乱雑した蛍光灯に負ける。足元を照らすにも、視界を保持するにもそれで十分。手元、身近に在る蛍光灯は、人間の意識下で月光を凌駕した。
ともなれば、月を見上げるのは天体観測をする者か天文学者。あるいはロマンチストか、精神的に弱くなっている者ぐらいだろう。
一宮はそのどれもに該当しなかったが、月明りを強く感じ、視ていた。
彼の家の蛍光灯は灯っておらず、カーテンも空きっぱなし。最近の住宅では珍しい。
暗い家の中を照らすのは、街灯でもない。
何故だか、一宮家の真正面に位置する街灯が、壊れたのか灯っていないからだ。
故に、在る光は、淡い白と蒼を混ぜ合わせた月光のみだった。
直視しているわけではないが、一宮は確かに月光を視ていた。反射でもなく、鏡写しでもない。紛いモノでもなければ、見間違いでもない。
「――……ん」
幻想的な空間は、自宅と言う概念を打ち消すほどの色彩で、睡眠不足から意識を失うように眠りについていた一宮を、殊更蠱惑的な空間へ誘う。
重い瞼が、現実だと告げる。
一宮は自身が眠ってしまったのだという事には気付いた。しまったと、思いもした。けれども、そんな杞憂が掻き消える程の光景が眼前には在った。
月光を透かした白銀の髪が、さながら月そのモノであるかのような輝きで、窓際に居た。
眩惑的な光景。
月であるはずがないのに、月にしか見えない。
月の光を纏っているに過ぎないのに、実際の月が光を放っているようにしか、視えない。
「……あ、――」
目を覚ましたのか。
そんな言葉を目の前に立つミサキに投げ掛けようとした一宮は、結局息を呑み、それさえ出来ずに見惚れた。
昨夜は深夜だったからか月が真上で、淡い蒼の光が強く、誰かを認識するのは難しかった。それでも自身もその月光下にいたからか、美しさを感じ切れずにいたようだ。
有り余る美しさは、昨夜の度量を明確に凌駕していた。
正確に言えば、一宮が昨夜感じた彼女への美しさを、今夜感じた彼女の美しさの方が強く感じたというわけだ。
真っ暗な部屋の中、月明りが届かない位置にいる一宮は、床にある月光が届いている向こう側と届いていないこちら側を作るそこに、境界線を感じた。
一宮の立ち位置から窓際のミサキまで、距離にすれば5メートル弱。なのに、遙か遠方にいるような錯覚さえ覚える。
中心に引かれた、光と影の線を越えたら異世界への扉。
今見えているのは、異なる世界の断層に過ぎない。そう言われたら真に受けて信じてしまいそうな、幻のようなワンシーン。
「一宮、唯。よね?」
一宮に背を向けていたミサキが、彼の息遣いを感じてか、振り返りざまに問う。
髪が靡き、腰にも届く長い白が、薄く帯びた蒼を撒き散らす。小さな唇が大きく開かれ、一語一語が丁寧に紡がれる。
その質問は昨日も行われた質問だった。だからと言うわけではないが、彼女の姿に放心状態の一宮は言葉を発せなかった。それがミサキの琴線に軽く触れてしまう。
「認証は済んでるから、間違いはないんでしょう。なら、返事は? 一宮唯。私は質問をしたのよ?」
美しさに相応しい棘が、言葉には散っていた。
間違いは無いのにどうして再度質問するのか、などとは言えない境遇だった。
「え、あ、はい。そうです。一宮、唯です」
籠った一宮の返答が気に食わなかったのか、ミサキの眉尻が余計に吊り上がり、強い目付きが彼を射抜く。
「感情認証システムは正常に作動。その他記憶定着等も、問題なし。初期の起動確認も済んだから、こうして本起動してる。何か質問は?」
話すミサキに一宮は昨日からの変化を覚える。
音では無く、ミサキが言葉を発しているということだ。
昨夜のミサキが発していたような、音声。声であり、音でしかないモノではなく、それは確かに誰かに伝えるための言葉として、発音されている。
感情が、声に乗っている。それは正しく肉声と呼ぶに相応しいものだった。
一宮は気圧されながらも、そんな昨夜との差異をこの数言で感じた。
「――疑問なら沢山あるけど、それでも?」
言葉を慎重に紡ぐ。
誰かと会話をするという事が別段得意ではない一宮は、他人と言葉を交わし会話を成立させなければならない状況下では、なるべく丁寧な会話を心がけることにしていた。当然知り合いともなれば変わってくるのだが、ミサキの場合は知り合いではない。正確には昨日遭遇して、今夜再度言葉を交わしているのだから、知り合い程度ではある筈なのだが、
一宮には、昨日のミサキと今宵のミサキは、似て非なるモノという印象があった。
機械のような人形のような無機質さは見えない。年相応の女の子、そんな印象を一宮はミサキに対して抱いていた。
それ故、彼からしてみれば初対面の会話も同然。緊張は募っていた。
対するミサキは緊張どころか、既に強い感情の奔流が見受けられた。
「簡単なものなら、直ぐに」
簡素に彼女が言う。
一宮は愛想笑いを浮かべながら、疑問を口にする。
「そもそも、感情認証システムって、何なのかな?」
一宮がそう問いかけると、彼女の眼力は五割増して強くなった。
そこには明らかな怒りの感情が見えた。
「はああ?」
挙げ句の果てに高圧的な音が、小さく美麗な唇から漏れ出した。
「アンタ、それ本気で言ってるの? 冗談なら笑えないわよ。大体、感情認証システムの説明ぐらい、最初に受けたんじゃないの? 私の起動の時に」
私の起動。自身を人間とは評さない物言いに、一宮は少しだけ怖気を募らせた。
「それ……は、無かった。オンかオフかを選べとしか言われなかったよ」
「ふーん……、でも私の中にエラーは無い。記憶違いじゃない?」
信じていませんよ、と言外に告げる態度。
実際の距離は変わらない5メートルなのに、精神的な距離感は増しているどころか溝さえ生んでいるようで、一宮は息苦しくなる。
愛想笑いを苦笑いに変えながら、会話を続ける。
「いや、印象的だったからそれは無いと思うよ」
過ぎるのは昨夜の記憶。目の前にいるミサキとは違って、もっと機械的で、神秘的な冷静さを持った昨夜の彼女との記憶。
鮮烈過ぎて、思い返すまでもない。ここに至るまでだって、日常の合間に思い出すくらいの刺激だった。ミサキを視界に入れたなら、毎回その記憶が呼び起される程の。
網膜に焼かれ、脳に記憶されたそれらが間違っていることなど有り得無い。一宮には人体の構造を感覚的にしか捉えられない故、曖昧ではあったが、それでも確信があった。彼女との邂逅における記憶が偽物では無く、寸分違わず記憶されていると。
美しき異性の立ち姿を、男と言う生き物は容易に忘れることが出来ないものだ。
「そう。具体的には何が印象的だったの? 私みたいなモノとの遭遇?」
モノ。自身をそう言う彼女の口調は、酷く無機質だった。
一宮はミサキの冷めたような口振りが嫌だった。達観したような、一般的な観点や視点とは違った場所から見た、その口振りが。
だから、一宮は言葉を訂正する。
「あまりにも……その、綺麗、だった君という一人との出逢い」
言葉的には大した変化は無いのだが、一宮は自分が感じた通りの言葉に言い直した。
女性に対してそんな言葉を口にするのに慣れていない彼の言葉の音量はかなり絞られていたが、それでもミサキには問題なく届いた。
「モノ、だなんて見方は僕には出来なかった。
僕にはただ、君が綺麗で美しい一人の女の子ってことしか浮かばなくて、まともに麗人を見慣れてない僕からしたら、君は現実から逸脱した美しさで……。
だから、記憶には自信がある。こんなにも綺麗な人を目の当たりにしたことなんてなかったから、会話も出来事も鮮明に覚えてる。会話だって一言一句間違えることなく、記憶していると、そう言える。だから記憶違いでは、ないよ」
言葉の途中、苦笑いは、自然な笑みに変化していた。
「あ――……っ、そ、そう。なら、良いわ。判った、アンタの言葉を信じる」
ミサキは一宮の言葉を真っ向から聞いて朱色に染まった頬を、隠すように横向きになった。高圧的な目尻は下がり、目元は見るからに穏やかさを取り戻す。
怒りの矛は、意外にもすんなりと下りてくれたようだ。
会話に不慣れな一宮は、彼女の怒りがおさまった点と、彼女がまた違った一面を見せてくれたことが嬉しくて、笑った。
気を取り直してか、空気を切り替えてか、ミサキが声を上げる。
「で、感情認証システムって言うのは、私達『人形』と言う容れモノに人間に近しい感情をインプットするかどうかを選択するシステムのことよ。
元はと言えば『人形』は人形らしくと考えない人によって作られたシステムなの。
アンタは、それをオンにした。だから、私には『人形』らしくもない感情がある。喜怒哀楽も、その他の機微も感じ取る。それでも『人形』であることに変わりはないけど。
これで、理解した?」
早口で捲し立てるように、ミサキは言った。
「『人形』は人形らしくと考えない人?」
「判りづらいでしょうけど、ようはモノをモノとして見ないで、モノを人として認識できるように、その要素として感情を取り入れたって話よ」
言葉に乗ったミサキの感情に先程までの敵意にさえ近い怒りは無い。
決して穏やかでは無いが、それは怒りとは違った感情。少なくとも一宮に対しての配慮が少しは生まれてきている。
「難しいね。でも、それが無ければ少なくともこうして君と話せてないってことだよね?」
「機械的な返答は出来たでしょうけど、その程度でしょうね」
「そっか、なら良いシステムだね」
笑い掛けた一宮の言葉に、ミサキは驚いた表情を見せるが、それもすぐ隠された。
「とにかく、感情認証システムっていうのは、そういうシステム。疑問は解けた?」
一宮は全てを理解できたわけではなかったが、柔らかくなった彼女の口調に、安堵の溜め息を彼女に聞こえないよう、小さく吐き出してから会話を続ける。
「システムについては大よそ大丈夫。『人形』どうこうってのは、まだ曖昧だけど」
「そこは、難しく考える問題ではないわ。簡単に言えば『人形』って言うのは人の形を成し、人の形を縁取ったモノ。人の一部を継承し、人ではない部分を内包した存在のこと。
つまりは、私みたいな存在の事よ」
一宮の新たな疑問にミサキは不満も不平も、言葉や態度に出さず、返す。
しかし、彼女の言葉を、一宮は理解したくなかった。
「つまり――、やっぱり君は人間では……?」
「ではないわね。人間とは違う。私は『人形』よ」
一宮の願望に反し、ミサキは即答する。
ミサキは終始変わらない。自分を人としては認識していない。一宮にしてみれば、彼女が人以外であるなど、これだけ言われても信じられないのに、彼女は言葉を曲げない。
「それは機械とはまた違うの?」
「明確な線引きは私にも良くは知らないけど、違うことは明確。機械は機械、『人形』は人形。違うものだってことは確かよ」
「そう――か」
新手の人工知能や機械、となればもう少し理解は効く。一宮はそれなりには読書家だし、頭も良い部類に入る。現実的にも空想的にも、思考は適していると言えた。ファンタジーでもサイエンスフィクションでも問題は無い。
そんな一宮でも、理解速度が追い付かなかった。
混乱した一宮がとる行動は、一旦の休憩だった。言い方を変えれば、思考停止。あるいは考えることを止めた、と言ったところだ。
「ならさ、何か飲み物でも飲むか?」
そこまでの文脈を切り捨てて問う。ミサキの表情も不思議なものを見る表情になる。
「ならさ、って文章接続は会話的におかしいと思うけど、質問には答える。いらないわ。
私は人間みたいに水分を取らなくては死んでしまうなんて、弱さがあるわけでもないんだから必要ない。文字通りお構いなく」
「嗜好としても、無しなのか?」
「趣味嗜好の上なら、無しではないわ。分解機能が備わってないわけじゃないし。でも、別に私はいらない」
食い下がる一宮に、心の距離を近づけさせまいとしてか、ミサキは少し言葉で突き放す。
一宮は、そんな言葉を口にしたミサキの口の端が、噛み締められるように引き結ばれているのを見た。
機械では無く、感情が有る。
『人形』とやらが何なのか、一宮は未だに理解しかねたが、そこを掘り下げていっても彼女との会話は進歩しないし、関係性は遠ざかるばかり。
感情認証システム、そのシステムの組成がどうなっているのかは理解できない。それでも彼女には人間に近しい感情が有る。少なくとも一宮には人間との明確な違い、遜色を見出すことは出来ていない。こうして話している分には、普通の女の子。年相応とはいかないが、それでも同年代の女の子ぐらいには感じられる。
だからコミュニケーションとして、慎重に言葉を選んで、一宮は言った。
傲慢にはならないように、それでも彼女がこちらに来やすいように。
「美味しい紅茶があるんだ。勝手かもしれないけど、僕はそれを一人では飲みたくない。ティーパックなんだけど、どうしても一度で二杯分くらい出来てしまうからね。そこで、残りの一人分を飲んで欲しいんだけど、ダメかな?」
女子への誘い文句など経験のない一宮にとって、精一杯のアピール。ダメでもやるだけはと思ってやってみた、一宮にとってはその程度の、賭け。
それでも、柔らかな一宮の言葉に、ミサキは自然と彼の方を向いていた。
少しだけ口が開いているのが可愛くて、一宮は後出しで笑みを加えた。
開いた口は閉じ、ミサキは再び目線を逸らして後頭部を一宮の方へと向ける。
「そこまで頼むなら仕方ないわ。熱すぎない程度でお願いね。私猫舌なの」
素直ではない態度と、素直な言葉。
人間らしい言葉と、人間らしい習性。
一宮は嬉しさが募って、自然と笑みを強めて「判った」とだけ告げると、キッチンに身体を向ける。
相変わらず『人形』どころか、彼女についてや、これからどうするのか、彼女の言う、あるいは言った言葉への疑問、そしてこれから先の事についてなど、疑問は絶えなかったが、一宮は一先ずそれらを呑み込むことにした。
急いて知らなければならないことでもない。ゆっくりといこう、そう思ったのだ。
距離が少しだけ、近付けた気がした。
6
穏やかな気持ちで一宮がキッチンに向かう姿を、ミサキは見ていた。その後ろ姿を、暗闇に溶けていく彼の姿を追っていた。
月光がミサキの中の何かを薄めていく。
穢れを払う様に、厳かに彼女を包み込んでいく。
事情について何も知らないのだろう一宮唯を見て、浮かぶ感情は多かったが、ミサキにはそれらが自分の心を揺らし、穢れになっていくのが嫌で仕方なかった。我慢ならなかった。
浴びる月光はそれらを清めて、薄めてくれる。決して消し去ってくれるわけではないが、だから良いとミサキは思っていた。
穢れや汚れも、全ては自分の内側から生まれたモノ。それらを消してしまっては、自分という個さえ消してしまうことと同義だ。
善や癒しが自分のモノなら、害悪や苦しみも自分のモノなのだ。
痛む自分を、せめて動かせるようにするための清め。ミサキは浄化をそう理解していた。綺麗さっぱり消してしまうなど、傲慢を超えて過失だ。
マイナスの感情は薄まり、プラスの感情は大抵綺麗に鎮座している。
一宮とのほんの少しのやり取り。それだけでも普通の人間とは違った感性を彼が有しているのは、ミサキにも判っていた。彼は普通、では無い。
それが良いわけでもそれだから良いわけでも無かったが、感情は正直に揺れる。
胸に手を当て、音のしない自分の駆動を感じつつ、ミサキは言葉を放る。
「宜しく、一宮唯。私の主人」
その一文は、感情が滲み出る程強いのに、弱弱しく無感動に告げられた。
音は小さすぎて、当然ながら一宮には届かない。
お湯を沸かして紅茶を注ぐ、どこか楽しげな一宮を視界に見つつ、ミサキは微笑んだ。
7
『先日S市にて起きた通り魔殺人事件ですが、同様の手口で殺された被害者が発見され、連続通り魔殺人事件となりました。警察は犯人の動向を追っていますが、未だに手掛かりは得られておらず、市民の不安は募るばかりです。事件現場付近の柿崎さん、中継お願いします』
『はい、柿崎です。私は今、事件現場となった路地裏に入る通りに立っています。今回の被害者も先日起きた最初の被害者と同じ学校に通う男子高校生です。遺体は損壊が激しく、司法解剖の結果暴行の痕は殺害前につけられたものと判明し、犯人の残忍性、凶暴性が示唆されています。死因は頸動脈断裂による失血死。その他主な動脈が全て切断されており、事件現場となった路地裏は血の海どころか、血で浸っていたとのことです。死亡推定時刻が深夜と言うのもあり、犯人の目撃情報は全く無く、警察は厳戒態勢を敷きつつも、市内の高校に夕方や夜間帯の外出は比較的控え、外出するにしても決して一人にはならないようにと、注意を呼びかけています。現在は被害者同士の関係性や、通っていた高校から捜査の線を伸ばしているとのことです。以上、現場から柿崎がお伝えいたしました』
『ありがとうございます。今後の動向が気になるところですが、犯人の情報が不明瞭と言うのは良くないですね。学生の皆様は勿論ですが、近隣に住まわれる住民の皆様は、外出の際には一人では出ない。これを徹底して頂きたいですね。さて、本日は犯罪心理学に通じる寺坂さんにお越し頂いています。寺坂さん、今回の事件をどう捉えますか?』
『えー、犯人は――……』
一宮はキッチンで作業をしつつ、居間のテレビから流れるニュースを聞き流していた。
紅茶を受け入れてくれたのを良いことに、夕飯も同じパターンでへりくだって問い掛けたところ、それはそつなく躱されてしまった。
自分の提案を受け入れてくれなかったことに、少し距離が遠退いたように思えた一宮は素直に悲しさを感じた。
何はともあれこうして共に過ごすのだから、彼我の距離が遠いよりは近しい方が良い。人間関係は苦手な一宮だったが、努力しようと決め、行動していた。だからこそ調子に乗って夕飯も、というのは性急すぎたかと思い返す。
なので、仕方なく簡単な炒め物と白米と味噌汁、玄米茶を出して、一人で食事をとった。
そうして食事が終わり、一宮は食器を洗って乾燥機にかけて、の洗う段階をやっていた。ミサキが駆動するまで待っている間使用した食器も含めて、シンクは汚れた食器で溢れており、洗いながらどう乾燥機に入れるかを思案していた。
ミサキに、最近の時事を知るには何が手っ取り早いか、と食後に聞かれたので、一宮がテレビのニュースか新聞紙が良いんじゃないかと答えると、新聞の購読をしていない一宮家において自然と選択肢は絞られることになり、彼女は大人しくテレビに見入っている。
一宮自身はテレビを見るのが好きでもないし、事実を伝えるニュースも、虚実を語るフィクションにも然程興味は無いので、良く長く見ていられるなと感心していた。
物騒な事件のニュースが終わり、コラム的な内容に切り替わる。それでもミサキは変化なく視線はテレビに固定したまま、身動ぎもせずに見入っている。最初は昨日の様に動いていないんじゃないかと思ったのだが、作業ついでにさり気なく伺った彼女の横顔は真剣で、眼はしっかりと開いていた。
昨夜の無感情さとは違い、冷徹な、言い換えればクールな空気を纏っている。
一宮はそんなミサキに若干見惚れつつ、最近の女子が異性に感じること、なる街頭調査風景を写したテレビに見入る彼女が面白くて、微笑した。そこにはクールさも、昨日の機械らしさも、先程の激情に任せたミサキもなく、単に相応の女の子がいるだけだった。
微笑ましい情景に心を和まされて、一宮は軽快に作業へ戻った。
食器の全てを洗い終え、少し大きめの乾燥機に緻密に計算して全てを収め、流し場も綺麗に整備してから、一宮はソファに座った。ミサキの隣に。
「終わったの?」
「ああ、一段落ついたよ。そっちは?」
「もう少しで終わる。一応はここ周辺の時事については何となく把握できたわ。曖昧だけど」
「そっか、有意義な時間だったみたいで良かった」
最近の女子が異性に感じることからどんな情報を得たのかは興味があったが、茶化すようで聞くのも憚られたので、一宮は笑い掛けながら頷くに留める。
「で、なんだけど。お願いが一つ、……あるんだけど」
不本意そうに、照れながらミサキが言う。真横でそんな表情と言葉を見聞きさせられては、耐性の無い一宮は動揺を隠せる筈もない。
「ああ、お願い、か。どんなだ?」
努めて冷静に問うと、ミサキの瞳が少しぶれてから一宮へ向く。
「……さっきアンタが言ってた、新聞紙ってのを明日には手に入れたいんだけど、良い?」
「そりゃあ、構わないけど」
あまりに仰々しい物言いの割に小さなお願いをしてきたミサキに微笑交じりに許諾の意思を示したが、目的はその言葉では無かったらしく、ミサキは難しい表情を浮かべている。
「――…………、」
「え、っと? 買っても良いよ。何なら一緒に買いに行っても良いけど?」
更なる譲歩の台詞にも反応は無く、むしろ顔の俯き加減は増している。
「――そうじゃ、……なくて」
「うん。そうじゃなくて、何?」
恥じ入るようなミサキの言い方に引っ掛かりつつも問うと、ミサキは眉尻を上げたまま、頬を軽く染めて、上目遣いに言った。
「お金が……、無いの。主人のアンタからもらわないと……」
「あー、そう、なのか?」
相変わらず彼女の立ち位置が不明な一宮からしてみれば、その回答は意味が分からない。
自分と同年代くらいの女子が新聞の一部も買えないなんてあるのだろうか、と疑問を抱きもした。しかし、彼女が言う『人形』と、この状況から、現状に一般常識を照らし合わせるのが無茶なのは明白だったので、一宮はそれらの疑問は呑み込んで、言葉を続ける。
「構わないよ。それぐらい僕が出すよ。主人、の務めなんだろう? なら任せてくれて良い。新聞一部買うくらい、どうってことないよ。主人って言われるのには照れるけどね」
主人など、一介の高校生が言われ慣れなどしていない呼ばれ方だ。一宮からしてみれば当たり前の照れ。でも嫌な感じはしなかった。
「ありがとう、嬉しい」
声が大きいわけではないが、籠っている感情の大きさは確かに感じた。言葉をはっきり言えず、ぶっきら棒な言い方が逆に好感を誘う。
高価な物ならまだしも、新聞紙一部に大袈裟だなと一宮は思ったが、言いはしなかった。
「なら、明日の朝にでも行こうか」
学校についてはどうするか、まだ考えは纏まっていなかったが、最悪また休んでしまえば良いと考え直し、ミサキへ向く一宮。
「ええ、お願い」
言うと、ミサキは立ち上がる。豪奢な黒のドレスが蛍光灯の下で立っていると言うのは、あまり映えないを通り越して、逆に目立つ。明らかに一般家庭内では、浮いている。
「どこか行くのか? 何か用なら、出来る限りは答えるけど。お風呂とか入る? ちなみにトイレは廊下に出て真正面のドアだよ」
一宮の言葉に、ミサキは静かに数度首を横へ振る。
「最低限のことが出来るように、家の中を探索したいの。
飲み物も頂いて、情報を頂いて、明日は新聞まで買ってもらえる。そこまでしてもらって私からは何もしないなんて、主人に対しての『人形』の有り方としては最低。だからせめて家事や、その他諸々が出来るようにしたい。
そのためには屋内の状況、家事の方法、道具の使い方を知らなきゃならない。だから、家の中を見たい。その許可をもらえる?」
「構わないけど、『人形』らしさとか、主人だからとかそんなに考え過ぎなくて良いよ?」
「それは、仮にアンタが気にしてなかったとしても、私には大問題なの」
「そっか、そういう事ならとやかくは言わないけど。せめて気楽でいなよ」
「簡単に構えるわけにもいかないのよ。それで、良いの? 悪いの?」
未だに視線はまともに合わない。
けれども、自分のしたいこと、思っていることを伝えようとしてくれているのは良く分かった。一宮からしてみればそれで十分。視線が合わないくらいで怒るわけでもない一宮は、むしろこうして語ってくれた彼女を寛容に捉えることにした。
一宮自身人間関係が得意ではないので、視線が真正面から合ったままよりかは、逸らされていた方が幾分か話しやすい。
それが良い悪いは関係なく、彼女の態度は今の一宮にとって丁度いい距離感を築いていた。
それに出会ったばかりの段階で、自分がどうこう言える立場でもないとも考えていたのだ。これ以降彼女をどうするか、彼女とどうしていくのかは未だに判らないが、だからこそ一宮はミサキと変な軋轢を作りたくは無かった。少なからず彼女と関係を作っていくことは有りそうな現状、関係性を悪くする要因は作りたくなかった。
加えて一宮から見たところ、彼女は感情表現が得意ではない。のに、そこを指摘したところで普通は嫌がられるに決まってる。ほぼ初対面ともなれば当然だ。
だから、一宮はそんなミサキに対してどうこう言うことは無く、自分だけはせめてと思いながら、視線を送って返答した。
歩み寄る、その意思があることを一方通行でも伝えようと、視線に込めたのだ。
「ああ、構わないよ。開けられて困る部屋とかもないしね。好きに歩いて良いよ」
一宮の返答を受けて、頷きを返したミサキは、そのまま居間の中を歩き始めた。
周りの小物や電気系統に触れたりしながら歩いている。視線で辺りを見回しながら、触って更なる感触を得ると言った風だ。そんな彼女を見て、一宮は二階での行動を制限させた方が良かったかと思ったが、自身の私室には特に大したものは無いし、両親の部屋はベットくらいしかない殺風景な部屋なので、困ることもないかと考え直して大人しくテレビに目線を送った。
自然モノの特番をやっていて、その光景に目を向ける。
美しい世界の風景と題された映像を見ながら、一宮は物足りなさを感じざるを得なかった。美しい風景、世界遺産、自然。動物や珍しい自然現象などをつまびらかに見せてくる。元々興味は感じなかったが、美しいと、少しも感じられない自分に一宮は驚いていた。
何でかな、そんな疑問を抱きながら、一宮は身近に在る、有り得ない美しさを持つ存在に視点を移した。
そうして理解した。一宮はテレビに映る光景や風景よりも、上質な美しさ、荘厳な美を見たことがあったから、下位の美しさでは心を微塵も揺らされなかったのだということに。
改めて、一宮は見惚れる。
白銀の髪を有し、現実から乖離した美しさを纏うミサキの出で立ちに、心を呑まれ、あまつさえ奪われてしまう。
テレビでは色彩が、空気が、何と何のコントラストが、などと風景や世界遺産に対して言葉で評していたが、それこそが二流の美しさと語っているようなものと一宮は感じる。
だって、人は有り得ない美しさを目の前にしたとき、余計な事など思えない。
美しい。
それ以外の言葉は、華美。不必要だ。美しさを飾りたてるものは、美しき存在が全て有している。それを見ている存在が飾り立てる必要などない。
美しいモノは美しいと、感じ、評すだけで十分。
見る側の人間にそれ以上を語る資格など無い。
送っていた視線に気付いてか、単に方向を変えただけか、とにかくミサキの視線が一宮の方へと向いてくる。一宮はそれに気付き、とっさに言葉を紡ぐ。
「ねえ、ミサキ」
「何? 何か要件?」
自分が視線を送っていたのを誤魔化すための声掛けだ、などとは言えない。
「えっと、綺麗だなって……思った、だけだよ」
言えない筈が、気付けばそう口にしていた。
案の定唐突な物言いに、ミサキは驚いた表情を浮かべている。さっきまでの目を逸らしていた行動が嘘みたいに、丸い瞳が真っ直ぐに一宮を捉える。
「そ……う」
暫くしてそれだけ言うと、また視線は逸れていく。
「――ミサキ」
気付けばまた、目を背けられるのを嫌がる様に一宮はミサキを呼んでいた。
呼ばれたミサキも、嫌ではなさそうに、でも少し照れを帯びて見返してくる。
「……何?」
今度こそ本当に話題などなく、回避する言葉も浮かばず、一宮は適当な言葉を並べるしかなかった。
「いや、これと言って大きなことでもないんだけど」
言うと、ミサキは「そう、それで?」と返してきた。
大したことじゃないなら後にして、くらいは言われる覚悟でいた一宮は拍子抜けしつつも、考えに考えた後、言い残していた疑問の一つを問い掛ける。
「ミサキは、家には帰らないの?」
年頃の女の子に向けるにすれば、至極同然の言葉だったが、それはミサキにはそぐわない質問だったようで、問われた彼女は硬直してしまう。
不自然に止まった体が、一宮の方へ向く。
表情は、哀しみ。美しさは憐憫の色合いを纏う。
「それは、『人形』としての私に、帰れって言ってるの?」
「は、え?」
自分では当然の質問をしたと思っている一宮は、言葉を詰まらせる。
「私の主人はアンタ。私の居場所は主人の近く。『人形』は常に主人の傍にいて、守り、付き添い、寄り添う。私の居場所はここ、家はここよ。
なのにそんなことを言うってことは、……ダメなの?
アンタは、私をアンタの『人形』として認めてくれないって、そういうことなの?」
急激にトーンダウンした声音。目尻は潤い、悲痛な表情は時に比例して増していく。
一宮はそこで自分のした質問がまずかったことに気が付いた。どうまずいのか、そこまでは詳しく把握できずにいたが、まずいことだけは判った。
彼女が自分で言っていたことを思い返す。
人間とは違う。『人形』だと。
そう言った台詞を、息遣いも含めて思い出した。
だから、理解は出来ずとも、一宮はこれ以上彼女を傷付けないように言葉を手繰る。
「そんなことないよ。ごめん。色々と勘違いしてたみたいだ。大丈夫、ミサキはここにいて良いんだ。間違ってない。
ここにいることを、僕が認めるよ」
真っ直ぐに、合いづらかった視線が交錯した。
純朴な言葉。飾りのない、素っ気ない言葉だったが、ミサキにはそれだけで十分に伝わった様で、表情は一気に柔らかくなった。
哀しみが、スーッと息を潜めていく。
「なら、良いの。ごめんね、ありがとう。これから――、宜しく」
一宮には届いていなかった先程の言葉を、ミサキは改めて言い直す。
今度は真正面から視線を交わして。
「ああ、宜しく」
頬を朱に染めたミサキの面持ちに、一宮も緊張からのぎこちない笑みを返す。




