284 忘れない
あー、走り書きだから、かなり汚い文字なんだ……。いくら読めないからといって、じっと見られると恥ずかしい。
「こんな文字は初めて見た。線の少ない文字と、線の多い文字が混ざっている……」
この世界というか、この大陸はどの国も基本的にアルファベットに近い文字を使っている。
私は、ヒエログリフを見たときに、全く違う世界のものだと感じた。ヒエログリフは神聖文字とも言われるから、きっと私だけではない。
別の世界の文字……神の文字と感じるようなビジュアルがあるのだ。
トゥロンも、ひらがなと漢字の混じった日本語を見て、未知なる文字に何かを感じ取っているのかもしれない。
「女神は……本当に、遠くの知らないところからいらしたのですね……」
そうだね。遠い。
鞄の中には家があって、どこへ行っても家を連れていってるから一歩も離れてないんだけど……。
でも、本当に遠い、遠い場所。
だって、この星とは違う星……たぶん。
あの、夜に空に浮かぶ無数の星のどこかから来たと言えば、遠さがわかるのだろうか。
いや、空を指さしたら、神の国は空にあると思われるだけだろうか。
天動説や地動説……星は実はすごく大きくて、私たちの国も星の上にあってって……そういう考えってこの世界にあったっけ?
「女神よ……どのような理由で私めの前に姿を現してくださったのか……もし、こうしてウォルフからトルニープを守ってくれるためだとしたら……」
違う。
私は女神でもないし、役割なんて……単に、この世界に迷い込んでしまっただけ。
「役目を終えた女神を、私めがいくら引き留めたとしても……」
引き留める?
トゥロンは不安でもあるの?
勝利の女神だと、心のよりどころにしたいのかな?
……革命は終わった。実の兄と対決しないといけないという辛い革命は終わった。
突然訪れたウォルフとの戦争も終わった。
そして、大陸にある5つの国とは同盟を組むことができる。
……もちろん、国は荒れているから相当立て直すのは大変だろう。
だが、それに関してはカーベルさんという優秀は宰相がいる。まだ数は少ないだろうけれど、ギレンのように裏切者ではない、信頼できる人間が他にもいる。
そうだ。ランちゃんだっている。シャルトの元で保護してもらったメイヤさんも。
シャルトだって、自分の領地のことだけじゃなくて、きっと気をかけてくれるはずだ。
地理的に遠いから直接的な交流はあまりないかもしれないけれど。
「帰ってしまわれるのでしょうね……」
トゥロンの目が不安ではない。悲しみの色を見せる。
「トゥロン……」
ふと、両腕がトゥロンに伸びて背に回していた。
違う。私は馬鹿だ。トゥロンは不安だから私を引き留めたいんじゃない。
私と別れるのが辛いのだ。
長い間一緒にいた。苦難も一緒に乗り越えた。
一度は、もう会えないかもしれないと思ったのに再会できた。
……。
「トゥロン……」
ぎゅって、トゥロンの背に回した手に力をいれた。
そうだ。
そうなのだ……。
もう会えないかもしれない……ではない。
日本に帰れば、二度と会えない。
吾妻さんとなら電話やメールで話をすることができるだろう。だけど、トゥロンや……この世界に人たちとはもう二度と会えない。
急に、寂しさで胸が押しつぶされそうになった。
帰るという選択肢を選べば、当たり前のことだ。
だけど、実際にこうして相手からも寂しくなるという気持ちを見せられると……。
本当に、私はどうしたいのだろう。
帰りたいとあれほど思っていたのに……。
思っていたのに……。
ここに残れっても……いつか日本の皆には会えるかもしれない。だけど、帰ったら……。
ううん、帰らなくたって、この世界の親しい人たちと距離は置かなくちゃいけないんだ……って、自分でそう言ったじゃない。
吾妻さんだって……この世界の人たちとはどれほど親しくなろうと、最後の一線を越えるような付き合い方はしていない。
オーシェたんたちが心配するほどに……。心を誰にも許せていない。うっかり日本のことを知られないようにと気を張り続けている……。
私も、この世界に残ったとしても……。
「役目を終えたとか、そういうわけではないけれど……トゥロン、やっぱり、ずっと一緒にはいられない」
人との別れはいっぱい経験している。
いや……「またね」といいつつ、そのまま別れるものとは意味が違うか……。
永遠の別れなんて、アラフォーの私だって経験不足だ。
辛いよ。
「そう……ですね、女神」
トゥロンの大きな腕が私の背中に回り、包み込まれるように抱きしめられた。
「私……、忘れない……」
トゥロンのこと、一生忘れない。ううん、忘れられるわけがない。
歴代彼氏のことは忘れても、トゥロンのことは忘れない。アラカンになっても、アラコキになっても……。100歳のおばぁちゃんになっても。
そうだ。80歳か90歳になったら、誰かにこの世界でも経験を話するのもいいかもしれない。
いつか、周りに人に「あら、梨絵おばぁちゃんったら、また何かの小説か映画の話を始めたわ。よっぽど好きだったのねぇ」なんて言われるかもしれない。
きっと、誰も、信じてくれないだろう。
私が異世界に行ったことなど。
異世界で、忘れられない素敵な人たちに出会ったこと……。




