魔王様の妹君と侍女と記憶
一陣の風が止むと元の静けさが戻った。
被害の状況をサリーが確認する前に壊れかけた扉が勢い良く開いた。
「今の何の音?」
いつもと変わらなく呑気な顔のヴァリエートに安堵してサリーが今の出来事をヴァリエートに報告しようと口を開く。
「アッシュという夢魔が」
「・・アッシュ?」
考えこむように手を顎にやったヴァリエートが何かを思い出そうとする前に感極まった低い声がかかる。
「ヴァリエート様」
「アッシュ、どうしてここに?」
「悪魔を懲らしめにやってきたのです」
その言葉に反射的にヴァリエートはサリーを見るが黒い笑みを浮かべたサリーを横目で見て、直ぐに顔を戻す。
「ええ、魔族を誑かした悪魔を亡き者にするためにやってきたのです」
そういうアッシュの視線の先にはエリザベスがいた。どこか誇らしげに語るアッシュは達成感に満ち溢れていた。
「エリザベス?」
「あの人間から生まれた女が皆様を誑かしたのでしょう」
眉を顰めるヴァリエートに気付かずにアッシュは話を続けるが、そこで待っていたかのように不機嫌な、それでいて冷たい声が2人にかかった。
「おや、ヴァリエート、お前の知り合いか」
その声は無機質で、またその声の主は魔力を振りまくので空気がびりびりとしている。
ばっと、まるで危険を感じ取った動物のように振り向くと残忍そうな顔をした魔王様がいた。
「・・魔王様」
呟くような声に魔王様が振り返る。
そして無表情にサリーを見つめる。怒りを顕わにするでもなく、喜びを浮かべるでもなく、ただそこには闇より深い黒い瞳とまるで血のように赤い唇と、天と射殺すかのように高い鼻があるだけだ。
「なぜ人間が魔界にいる」
「兄貴、まさか」
ヴァリエートはアッシュを見る。その顔を見て、アッシュは嬉しそうだった顔をさっと変えて、また翼を出して今度は窓から空へと出た。
「待て、アッシュ!」
「これがヴァリエート様のためなのです」
ヴァリエートの鋭い声にアッシュは悲しそうにしていたが、決意を固めたようにヴァリエートを真っ直ぐに見詰めて去って行った。
彼女が振り返ることは一度もなかった。
「お兄様?」
危機が去ったと思ったイシュバリツィーアリツァイは結界をとってエリザベスを腕から下ろした。
エリザベスは不穏な空気の中、魔王様に駆け寄る。
だが魔王様は鼻を摘んでまるでエリザベスをゴミのように見る。
「臭い臭い、人間と交わった魔族の匂いだ」
「な、に・・お兄様」
ぎゅっと、いつものように魔王様の服を掴むエリザベスを足で払う。そこに手加減などは一切見当たらない。
「エリザベス様!」
サリーはいつもと違う魔王様の雰囲気を感じとり、エリザベスと魔王様の間に入る。
「非力な人間のくせに我に逆らうか」
口の端を上げ、黒い瞳を暗く光らせる魔王様と正面から向き合う。
先程の惨劇で残った窓が全て割れるほどの魔力を出すがサリーは魔王様の瞳を見つめる。
「エリザベス様に手を出すと言うのなら、私はこの身が朽ち果てても戦い続けましょう」
「ほう、人間のくせに漆黒の髪と瞳とは珍しい」
魔王様は一瞬でサリーとの距離を詰めて、サリーのひっつめた髪からピンを取り、背中に落ちた長い髪を引っ張って顔を上げさせる。
「っつ!」
「サリー!」
痛みに呻きを上げるサリーの服の裾を皺が寄るほど握って涙目でサリーと魔王様を見上げる。
「だから言ったでしょう、魔王様。そんなに世を馬鹿にしていると痛い目を見ると」
「口だけは達者のようだな、人間。だが少々感に障る」
手に力を入れて更に顔を上げさせる。
髪が何本か抜ける音が聞こえた。
「ぐっ・・」
「お兄様、やめて。サリーが死んじゃうわ」
「何だ、こいつは」
「エリザベス様、お下がり下さい。イシュバリツィーアリツァイ様、エリザベス様を」
「わかりました」
イシュバリツィーアリツァイが嫌がるエリザベスを抱えて転移呪文を唱え始める。
「おや、お前。旨そうな匂いがするな」
魔王様は痛みに顰めるサリーの首に鼻をあて匂いを吸い込む。香水も何もつけてない彼女自身の香りだ。
舌で肌を味わうと芳醇な味がする。肌だけでこの味だ、きっとこの肌の下はもっと濃い味に違いない。
人間よりも鋭い犬歯で柔らかいこの肉を貪り、肌の下に隠れている血を無くなるまで飲み干すことを考えるだけで涎が出てきた。