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初めての舞踏会

毎日投稿予定。

 ある日の夕食の時間、隆之が一枚のパンフレットを手に取りだした。パンフレットには舞踏会の案内が書かれている。隆之が通う医大の同級生からもらったものだ。その同級生が言うには、

『婦女子と言うものはだな、ダンスパーティーに誘えばその気になるものだ。自分がレディーとして認められていると再確認できるからな』

 とのことであった。もともと華やかな世界は隆之は苦手であったが、ここのところ、英子と良い関係性が築けている。そうなると英子とさらに距離を縮めたいと欲がでた隆之は、思い切って夕食後に舞踏会の話を切り出してみた。

 「今日、友人から舞踏会の案内チラシをもらって来たのですが、舞踏会は興味ありますか?」

 隆之は英子に聞いたつもりが、英子の隣にいた桜子が身を乗り出し、大喜びではしゃぎだした。

 「まあ! うれしい! 舞踏会ですわね。しかも隆之さんからお誘いしてくれるなんてとても嬉しいですわ! ドレスを新調しないと!」

 一方、英子は浮かない顔をしている。

 「折角のお誘いですが、私は勉強がありますし、ダンスなどしたことありません。何よりドレスがありませんのでご遠慮いたします」

 そう応える英子に対し隆之は少し慌てて話しかける。

 「ダンスは私が手ほどきしますよ。せっかくの機会だから、今後社交の場へ出る機会があるかもしれない。ダンスは習得されておいた方がいいですよ。ドレスは私の知り合いに貸してもらえるか聞いてみます」

 「そんな、お手数をおかけしてしまうので結構です」

 英子が改めて断ると隆之は続けて話す。

 「実は風岡さんをお誘いしたんです。そうしたら、久しぶりに英子さんに会いたいといっていました」

 風岡は隆之と同じ医大の出身で、世代は違うのだが二人とも英子の父親の二階堂祐輔に指導を受けたこともありお互い面識があった。

 「義兄が参加するのですか!?」

 その時はまだ隆之は風岡を舞踏会には誘ってはいない。隆之は英子が風岡に思いを寄せていることに気がついていた。なので風岡さんの話をすれば英子は舞踏会に来てくれるのではないかと思ったのだ。隆之の話を聞いた英子は驚きとうれしさで顔をほころばせる。

 「義兄が来るのでしたら……、参加してみようと思います。義兄と久しぶりに会って話をしたいです」

 英子は最初気乗りがしなかった舞踏会なのだが、風岡にはやはり会いたいのである。そこへ多江が話しに入ってきた。

 「英子さん、私のお古でよければお使いなさい。今は着ていないドレスがありますから」

 「え?」

 「今回、隆之が舞踏会に出るなんてとても珍しい。社交界への挨拶回りがようやくできます。英子さんは南郷家でお預かりしている夫の親友のご息女です。南郷家の住人がみすぼらしい格好で行くことは避けなければなりません」

 多江は変わらず息子の隆之を桜子と結婚させたいと思っているのだが、ここ最近は学業と両立して使用人の業務をこなし、看護学校の成績も上位を維持している英子の生活態度に好感を抱くようになっていた。多江が使用人に持ってこさせたドレスは、派手さはないがシックで落ち着いたものである。確かに少し古い感じはしたのだが、英子にとってはドレスを着ること自体が初めてで、何となくうれしい気持ちが込み上げてきた。


 南郷家には100名ほど収容できる大広間があり、社交用のダンスホールにも使われる。簡易なステージの上にはグランドピアノと大型のレコードプレーヤーが置いてあり、高い天井の中央には立派なシャンデリアが設置されている。時折り仕事上の取引先や各財閥の知り合いなどを招き、小規模ではあるが華やかなダンスパーティーを開催していた。今回隆之が持ってきた舞踏会の案内には参加人数が300名と書いてあり、かなり大規模の舞踏会である。

 南郷家のダンスホールに隆之と桜子と英子、藤原と使用人長の渡瀬がいる。本番の舞踏会に向けて練習しようと隆之が提案して集まってもらったのだ。

 「皆さん、忙しい中お集まりいただきありがとうございます。舞踏会の日が近づいてきたので少し練習しましょう」

 桜子は楽しそうに目がキラキラしている。

 「隆之さんとダンスの練習ができるなんて夢のようでございます。英子さんは踊ったことはないわね。私と隆之さんでお手本をお見せしましょう」

 隆之は不本意ながらもホールの中央に桜子を招いた。渡瀬がレコードプレーヤーのスイッチを入れると大型のスピーカーから音楽が流れだす。藤原がつぶやく。

 「ほう、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』ですな」

 音楽に合わせてステップを踏む隆之と桜子。慣れた足取りで華麗に舞う隆之に桜子は身を任せる。5分ほどでダンスを終え、隆之は英子を呼んだ。

 「はい、次は英子さん、お願いします」

 「はい」

 体が硬くなって返事もぎこちない。

 「あの、わたくしダンスは初めてでございます。脚を踏んだらすみません」

 「大丈夫ですよ、私がエスコートします。英子さんは私のステップをゆっくりでいいので真似して着いて来て下さい」

 「はい」

 小さくうなずく英子を前に隆之が微笑む。音楽が鳴った。隆之は硬くなった英子の手を優しく取り、もう片方の手を英子の背中を包み込むように添える。ゆっくりとステップを踏む隆之、その足の運びを真剣に見つめながら英子も足先で床をなぞる。

 「初めてにしては上手いですよ、英子さん」

 と言いながら次第に動きを速める隆之。英子は少し要領が呑み込めてきたものの、やはり足取りが硬い。上手く踊らなくてはと思えば思うほど緊張感が増していく。突然隆之が足を止めた。英子が緊張しすぎて隆之の足を踏んでしまったのだ。立ち止まった隆之が苦笑いしている。

 「ご、ごめんなさい!」

 頭をぺこりと下げて必死で謝る英子の姿に、微笑ましく思った隆之が

 「大丈夫ですよ。ゆっくりと覚えていきましょう」

 と声を掛ける。その様子を見た桜子が不満げに声を荒げた。

 「英子さん、無理に踊らなくてもよろしくてよ。人には得手不得手と言うものがあるんだから!」

 少し気落ちした英子は思った。確かに自分はダンスには向いていない。今まで踊ったことがなかったし、急に上手くなるわけでもない。舞踏会の当日、風岡さんに会えればいいだけだ。ダンスには参加しなくてもいいのではないか。そんなことをぼんやりと考え込んでいる英子に隆之が話しかける。

 「風岡さんも英子さんと踊ることを楽しみにしていると思いますよ」

 英子はしばしうつむいていたが、軽くうなずいてから頭を上げた。

 「分かりました、隆之さん。ご指導のほど、よろしくお願いします」

 微笑む隆之は英子の手を取り、レコードプレーヤーのそばにいる渡瀬に目配せする。音楽がまた鳴りだした。藤原が英子に声を掛ける。

 「英子様、さあ、体の力を抜いて。優雅に美しく、ゆっくりと静かに、そして軽やかに。自ら楽しむのです」

 藤原の方をちらっと見る英子。藤原のおかげで緊張がほぐれたのか、英子は先ほどとは比べ物にならないように軽快なリズムでホールを舞った。英子は初めての経験に戸惑いながらも次第に楽しさが込み上げてきた。心地よい音楽の調べに合わせ優雅に導く隆之の優しさがその手を通じて英子に伝わってくる。桜子は「ふん!」と言いながらホールを出て行った。


 舞踏会当日となった。南郷家では準備に大忙しだ。舞踏会に出席するのは隆之と桜子と英子の三名である。隆之はすでに準備が終わりリビングにいた。洗練されたタキシードに身を包み誇らしげにしている姿は、いかにも南郷家の御曹司であるという風格がある。ドレスアップした桜子がリビングにやってきた。

 「まあ! 隆之さん、タキシードがよくお似合いで素敵です。わたくしの出で立ちはいかかでしょうか?」

 「良く似合っていますよ」

 桜子は顔を赤めながら仰々しくお辞儀をすると喜びながら軽く体を一回転させた。フリルがたくさんついた明るいピンク色のドレスが風をはらんで大きくたなびく。しばらくして英子がやってきた。リビングのドアが遠慮がちにゆっくりと開けられる。扉の端から恥ずかしそうに英子が顔を出した。隆之は英子のドレス姿を見て息をのんだ。黒く輝くレースに包まれたドレスの裾が揺れ動き、繊細なシルクの布地に添えられたクリスタルビーズとパールの煌めきが光の加減によって微妙に輝き、英子の体を美しく包み込む様は、まるで夜空に浮かぶ星々のような儚さと輝きを持っている。多江のお古とはとても思えない仕上がりのドレスだった。少しうつむき加減にしている英子の頬がうっすらとピンク色に染まり、はにかんでいる様子だ。隆之は何か言葉を探しているようにも見えるがうまく声に出せない。やっとのことで隆之が言葉を発した。

 「英子さん、とても、とても綺麗だ」

 そう、隆之の目の前に現れたのは、隆之が今まで見たこともないような美しい女性の姿だった。英子は隆之の感動をよそに初めて着るドレスが恥ずかしいのか、どことなく落ち着かない。

 「隆之さん、お褒めに預かり光栄です。でも、背中あたりがスースーして落ち着きません」

 思わず吹き出しそうになった隆之が一つ咳払いをして笑いをこらえる。そんな隆之の前で緊張しつつもほっぺを膨らませる英子であった。それにしても、風岡さんは自分のドレス姿を見てどう思うのだろうか? 少し恥ずかしい気持ちもあるが、風岡の驚く表情を思い浮かべ期待に胸が膨らんだ。


 準備が整った隆之達は南郷家の駐車場に行った。すでに車を用意していた藤原が深くお辞儀をしてドアを開ける。後部座席へ先に隆之が乗りこみ、その隣に素早く桜子が乗った。英子が助手席に乗ろうとしたとき、日頃履き慣れていないヒールでドレスの裾を踏んで、ドアの手前で転んでしまった。地面には昨夜小雨が降ったみたいで小さな水たまりができている。英子がドレスの裾を手に取り広げて見ると、少し水汚れがついていた。英子は申し訳なさそうな顔をしている。

 「ごめんなさい、汚れを取るので先に行ってください」

 「まだ時間があるから待ちましょう」

 隆之が応える。

 「いえ、多江様からお借りした大切なドレスです。しっかりと汚れを落としてから舞踏会へ参りたいと思います。どうぞ先に出発してください」

 隆之はそれでも待つと言うのだが、その様子を見ていた藤原が声を掛けた。

 「隆之様、舞踏会の会場は当家から近うございます。隆之様達を先にお送りし、すぐに英子様をお迎えにまいりますので、先に参りましょう。その方が英子様もゆっくりと身支度できると思います」

 隆之は、英子が慌てないようにと気遣う藤原の気持ちがわかったようで、「お待ちしています」と言って車を発車してもらうことにした。桜子は久しぶりに隆之と二人っきりで車に乗れるのがうれしくて仕方ない様子だ。隆之と桜子を乗せた車は英子を南郷家に残し舞踏会会場へと向かった。

 隆之と桜子が会場に到着する。二人は並んでダンスホールへと足を運んだ。会場にはすでに各財閥の来賓客、華族関係といった豪華絢爛な貴賓客であふれていた。舞踏会は上級貴族の社交の場であると同時に御子息御息女らの出会いの場でもあるのだ。隆之と桜子が大きな扉の前に来ると両隣りにいたドアマンが扉を開けた。二人がホールに入ると、会場からどよめきが起こった。南郷財閥の御子息と黒澤家の御令嬢のツーショットである。ブリティッシュ・スタイルのスーツを纏った隆之の隣に、派手な装飾を凝らし煌びやかに輝くドレスを優雅に着飾った桜子。見る者を魅了してやまない二人の出で立ちに会場にいる者は息をのんだ。この上なく上機嫌な桜子の隣で隆之は、早く英子が来ないだろうかと心配してばかりしているのであった。

 しばらくして英子が会場へとやってきた。舞踏会会場の門をくぐった英子は、ホールへは向かわず先に化粧室に入った。ドレスの方は何とか綺麗になったのだが、急いで屋敷を出たせいで身づくろいが出来ているのか不安であったのだ。ダンスホールにはすでに音楽が奏でられ、紳士や貴婦人たちが優雅にダンスに興じている。ホールの隅でワクワクしながら桜子が隆之に声を掛けた。

 「隆之さん、一曲お相手願えませんか?」

 「あっ、ええ……」

 ドアの方を気にしながら英子のことが心配でたまらない隆之。桜子からのダンスの誘いを断るのも礼に反する。まだ時間はある、英子が来るのをゆっくり待っていればいいのだ。隆之は桜子の誘いを受け、しばらく踊ることにした。ホールの中では音楽が流れ、華やかな雰囲気に包まれている。『英子さんはどうしているのだろうか? そろそろ見えてもいいはずなのだが』。隆之がダンスに集中できないでいることを感づいた桜子が、ツンとした目で隆之を見つめながら隆之の手を強く握りしめた。ふと桜子を見る隆之。何食わぬ顔で踊りを続ける桜子が顎を上げてすましている。

 そのころ、化粧室に入った英子は何とか身だしなみを整え、化粧室のドアを開け通路へ出た。その時、少し場違いな雰囲気に見える男性が目に入った。風岡だ。久しぶりに箪笥の奥から出したようなよれよれのスーツを着て、どことなく落ち着かない様子でいる。驚いた英子が声を掛ける。

 「お義兄さん!」

 「英子さん?」

 以前と変わらない風岡の姿を見て安心した英子。初めて着たドレスと、舞踏会と言う慣れない場に参加して緊張していた英子であったのだが、懐かしい顔を見た瞬間、張り詰めていた心の糸がほぐれていくのを感じた。いつもと変わらぬ優しいまなざし。いつもと変わらぬ穏やかな声。英子は込み上げてくる思いを胸に、ジワリと潤んだ瞳をこらえながら微笑み、ゆっくりと風岡に近づいた。

 「お義兄さん、お久しぶりです、お元気でしたか? 子供たちは元気にしていますか?」

 「うん、富雄や早苗は元気にしているよ。そうだ子供たちが英子ちゃんの似顔絵を描いたんだ。良かったらもらってくれないか」

 スーツのポケットから小さく折りたたまれた紙を出す風岡。英子はその紙を手に取り広げてみると、色鉛筆で描かれた自分の似顔絵が微笑んでいた。一生懸命描いている二人の姿が目に浮かぶ。英子は思わず泣きそうになった。風岡が声をかける。

 「南郷さんのお屋敷での生活には慣れたかい?」

 「はい、お蔭様で、南郷さんご家族や侍女の方々にとても良くしていただいております」

 「それは良かった。便りでは近況は分かっていたけど、改めて英子ちゃんの口から直接聞けて安心したよ。いや、しかし英子ちゃん、すごく綺麗になって、初め誰だか分らなかった。僕はダンスは学生時代以来で、こんなスーツしかなくて場違いだったかな」

 「いいえ、お義兄らしくて、ほっとします」

 「それを言うならお世辞でもカッコイイと言ってよ」

 風岡が照れくさそうに軽口を言うと、二人は一緒に住んでいたころに戻ったかのように自然と笑みがこぼれた。

 「英子ちゃん、ダンスはいつ覚えたの?」

 「ほんの2週間前です。本当は舞踏会へ来るつもりはなかったのだけど、隆之さんからお義兄さんも誘ったと聞いて、お義兄さんに会いたくて来たようなものです」

 「僕も英子ちゃんの元気な姿が見たくて今日はお誘いを受けたんだ」

 優しく微笑む風岡に、英子は懐かしい日常を思い出し、このまま風岡や富雄、早苗と一緒に実家へ帰れたらどんなにいいだろうかと、叶わぬ望郷の思いを抱いた。それは恋心ではなく、家族を想う気持ちだと英子自身よく分かっていた。

 そんな思いをよそに「グー」とお腹の虫が鳴り、英子はお腹がすいているのに気がついた。考えたら緊張のあまり今日は朝から何も食べていなかったのだ。

 「お義兄さん、こんなところではなんですから、まずは腹ごしらえをしましょう」

 会場の隅にビュッフェがあることを藤原が説明してくれたことを思い出した英子は、風岡と一緒にダンスホールへと向かった。二人が一緒にホールへ入ると華麗な音楽が鳴り響いており、踊る人々の優雅な姿がホールを彩り、舞踏会の華やかな雰囲気に包まれた。ビュッフェに足を運んだ英子と風岡は、テーブルの上には美味しそうな食べ物がたくさん並べてあるのに驚いた。シャルロット・オ・フレーズや生クリームデコレーションケーキのミルフィーユ、濃厚なオペラなど、英子が食べたことのない物ばかりだ。給仕をしている人が笑顔で『どうぞ』と言いながらデザートを小皿によそる。風岡と英子は懐かしい話と美味しい食事に酔いしれながら、笑顔に包まれたひとときを楽しんだ。

 優雅な曲が流れているホールでは、桜子と隆之がダンスに興じている。隆之がふとビュッフェの方を見ると英子の姿があった。桜子とダンスをしながら横目で英子を見ていると、何やら男性と親しく話している様子だ。よく見ると風岡だった。隆之は二人が楽しそうにしている姿に気を取られステップが力んでしまう。桜子は隆之のダンスが突然ぎこちないものになったのを感じ、隆之の顔を見ると、視線はホールの端に向いている。桜子もホール端に目をやると、そこには英子と風岡の姿があった。

 曲が終わり、隆之は先ほど英子がいたところを見たが二人がいない。隆之は急いで英子たちを探しに行った。しかし会場のどこを探しても二人の姿はなかった。隆之はふと窓の外を見た。すると、ちょうど風岡と英子が玄関ゲートに向かって歩いているのが見えた。どうやらもう帰る様子である。実際、風岡は家に子供が待っているので長居をする気はなかったのだ。風岡にしてみると、隆之から英子が来ると聞いていたので少し挨拶ができればと思っていた。隆之は二人を追いかけるようにして外へと向かった。

 会場の外に出た英子と風岡はそのまま会場正面の車寄せのところへと向かい、風岡は会場に用意されていた車で自宅へ帰っていった。英子は風岡を見送ると、その足で会場正面脇に止められていた藤原の乗る車の方へ行った。英子を見かけた藤原が声を掛ける。

 「おや? 英子さん、もうお帰りですか?」

 「はい、風岡さんにお会いできましたし、たくさん食事をいただいたら疲れがどっとでてしまいました。わたしはこういう社交の場は向いてませんね。勉強や屋敷の手伝いが気になるので帰ることにします。藤原さん、すみませんがお屋敷まで送っていただけますか」

 そう言って英子は藤原の運転する車に乗って南郷家へと帰っていった。英子は車の中で幸せなひと時を噛みしめていた。風岡との再会の余韻が英子の心を包み込む。ビュッフェでの楽しい時間、可憐な音楽が流れるきらびやかな会場の雰囲気。初めて食べたチョコレートカースドブラウニーのほのかな香りがまだ記憶に新しい。結局あんなに練習したダンスを興じる機会がなかったのが少し残念な気もする。ダンスが苦手な英子ではあるのだが、風岡とだったら一緒にダンスをしたい。英子は静かに目を閉じた。すると眼瞼には、風岡と舞踏会でダンスを踊っている光景が浮かんでくる。脳裏に広がる淡い夢。自然と笑みがこぼれた。しばらく車が走り、南郷家に着いた。英子は藤原に伝言を頼む。

 「藤原さん、ありがとうございました。会場に戻りましたら、隆之さんには先に帰ったとお伝えください」

 藤原は「承知しました」と言って舞踏会会場へと戻っていった。英子たちを追って一足遅く駐車場へとやってきた隆之は、二人の姿を探したがどこにもいない。ちょうど客待ちで停まっていた別の来賓の迎えの車に無理を言って同乗させてもらい、運転手に頼んで風岡が住む英子の実家へと向かった。隆之は、英子が風岡と一緒に実家へと戻っていったと思ったのだ。車を飛ばしてもらいしばらくして南郷家からは少し遠いところにある英子の実家に着いた。玄関の前まで行き隆之が呼び鈴を押すと風岡が出てきた。

 「風岡さん、お邪魔いたします!」

 「おや? 南郷君じゃないですか。今日は舞踏会へお招きいただきありがとうございました。義妹の元気な姿が見れて安心しました。普段口にできない美味しいものもたくさんいただきました」

 「それは良かったです」

 「で、わざわざうちまでいらして、どうしましましたか?」

 「風岡さん、あの、英子さんはご在宅ですか?」

 「いえ、会場で別れましたよ。僕は子供たちがいるから一足先に帰らせてもらったのだが、英子さんはまだ会場にいると思います」

 「そうでしたか、突然うかがって失礼しました。今後は我が家に遊びに来てください」

 そう言って隆之は表に待たせてある車に乗り会場へと戻っていった。風岡の家に英子はいなかった。駐車場で見かけたときは風岡と英子は一緒にいたのだが、そのあと風岡だけ車に乗って、英子は見送りをしただけだったようだ。少し安心して隆之が会場に戻ると会場のエントランスに南郷家の車を見つけた。車のそばに藤原がいる。英子の実家から戻ってきた隆之は藤原のそばまで行った。藤原が声を掛ける。

 「隆之様、どちらへ行かれておいででしたか?」

 「藤原さん、英子さんは見かけませんでしたか?」

 「英子様なら、わたくしが南郷家へお送りいたしました。隆之様へは『先に帰ります』と伝言を授かっております」

 英子は風岡のところに行ったと思っていたのだが、南郷家に帰ったのか。全くの勘違いをしていた隆之であったが、すぐさま藤原に頼んで南郷家に向かってもらった。車の中で隆之は落ち着かない様子だ。どういうわけか早く英子に会いたくて仕方がない。そんな隆之を藤原はバックミラー越しに目で見ている。ふと目が合った二人なのだが、特に言葉は交わさない。南郷家に着いた。車から飛び出るように降りる隆之を見送ると、藤原は再度、桜子がいる舞踏会会場へと戻っていった。今日はずいぶんと忙しい日だなと思ったのだが、藤原にしてみると隆之の英子に対する思いがにわかに感じとられ、どことなく微笑ましい気持ちになるのであった。


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