英子、アルバイトをする
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次の日の朝食の時間、隆之がダイニングに入ると多江と桜子がすでに食事をしている。英子がいないのを不思議に思った隆之が給仕をしていた藤原に聞いた。
「藤原さん、英子さんは?」
「英子さんでしたら朝早く自転車で学校に行かれました」
「自転車?」
「はい、英子さんは今後も自転車で通うとおっしゃっておりました」
南郷家にある自転車は必要な時に誰でも使っていいことになっている。朝早くひとりで家を出ていくなんて、英子からは何も聞かされていなかった隆之は、何か事情があるのだろうかと心配になった。
この日、隆之は桜子と一緒に車で学校へ向かった。桜子は英子と同じ学校に通っているため英子をいつも降ろしていた場所で車を止めようとした。桜子が車を運転していた藤原に話しかける。
「藤原さん、校門の前まで行ってくださらない」
藤原が返事をしようとしたところを隆之が遮るように桜子に聞く。
「桜子さんの学校は校門の前でさえも男子禁制ではないのですか?」
「そんなことはございませんわ。実家から通っていた時は男性の使用人にいつも送っていただいておりました」
なぜ英子は手前で降ろしてと言ったのか? 英子の気持ちが益々わからず不安になる隆之であった。
その日の夕食の時間にも英子は顔を出さなかった。心配した隆之が藤原に聞いた。
「藤原さん、英子さんは?」
「何やらお金を貯めるためにアルバイトを始めたいとおっしゃっていて、今日はアルバイトを探しに行くので少し遅くなるとおっしゃってまいした」
「アルバイト?!」
英子は以前、馬小屋の掃除を体験してから、その後も藤原の手伝いをするようになっていた。馬小屋の掃除をしている最中、よく藤原に相談事を持ち掛けていたのだ。隆之は英子が自分には相談をしてこないことへの寂しさと頼りにされていないことに虚しさを感じていた。桜子が驚いた顔をして話しだした。
「アルバイトですって? そんなにお金にお困りなのでしょうか。南郷家のお屋敷に不自由なく住まわせていただいているのに、アルバイトをしていることが周りに知られれば、南郷家はお金がないと有らぬ噂を立てられ、恥をかかせるようなことがないといいですけど」
それを聞いた多江も複雑な顔をして聞いていた。二人の会話を聞いた隆之はやり切れない思いに苛まれる。英子が自分の家に来て喜んでいたのもつかの間、隆之が思い描いていた生活とかけ離れていく気がした。同じ家に住みながらも英子が自分から遠いところに行ってしまうような寂しさを感じる。英子のことで心配そうに思い詰めている隆之の様子を見た桜子は、さらに英子への不満が募るのであった。
隆之は昨晩、英子に会って話を聞くつもりでいたが、緊急で勤務先の病院から出勤要請がきてしまい、夜遅くに帰宅した時には英子は自室で就眠していたので話をすることができなかった。隆之は英子のことが気になり、翌日藤原の運転する車で英子の学校まで送ってもらい、下校時間に間に合うように校門の前で英子を待った。隆之は地元では有名で知らない者はいないと言っていいだろう。背が高く、物憂げな黒い瞳の奥に光を宿し、すじの通った鼻梁に聡明さが漂っている。本人には自覚がないにせよ、歩いているだけでも人目を引いてしまう、地元の女学生たちの憧れの的であった。学校の校門の脇に立つ隆之に女学生たちが気付くのに時間はかからなかった。通りすがる女学生たちが興奮気味に騒ぎ始める。
「ねえ、校門の脇に立っている人。南郷様じゃない?」
「え!? 本当。本物だわ! なぜ南郷様がうちの学校の前にいるの? 誰かを待っているのかしら?」
下校時、校門を通る女学生たちがざわめきながら隆之の横を通り過ぎていく。何人かの女学生が駆け寄ってきて「こんにちは!」と緊張しながら挨拶をする。隆之は小さくうなずき、通りすぎる女学生達の中から英子を探した。丁度その時英子が校舎から出てくる。英子は校門の前がやけに騒がしいなと思いながら見ると、その先に隆之の姿があった。女学生たちに囲まれている隆之が少し困った顔をしている。英子はしばし立ち止まり、遠めに見ていると桜子がやって来た。桜子も校門にいる隆之に気がついたようだ。
「隆之さん!」
桜子は隆之のいる方に向けて大きな声をだしながら駆け寄って行った。
「隆之さん、どうされたのですか? こんなところまでいらっしゃるなんて。もしかしてわざわざ迎えに来てくださったのですか?」
隆之を囲んでいた女学生たちが一斉に桜子を見る。桜子は自慢げに口元に笑みを浮かべる。
「嬉しいですわ。校門の前までお迎えに来てくださるなんて。隆之さんのご自宅に住ませていただいているうえにお迎えまでしていただけるなんて。大変うれしゅうございます」
恭しく頭を下げる桜子なのだが、周りの女学生に対してどことなく勝ち誇った雰囲気でいる。隆之はというと、桜子へは特に返事をする様子もなく、英子の姿を探していた。校庭の隅で立ち止まっていた英子は校門にいる隆之を確認すると、踵をかえして校舎の方に戻って行ってしまった。そして校舎の裏手にある小さな裏門から出た。英子は自分が南郷家に住んでいることを他の生徒には内緒にしていた。今校門の前で隆之に会ってしまうと、自分と隆之の関係が周りにばれてしまう。そうなると、自分の存在により南郷家の評判が悪くなると思っていたのだ。学費や生活費の一部も貸与という形ではあるが実質は援助してもらっている。肩身の狭い思いと引け目もあるし、地元でも有名な隆之と一つ屋根の下に暮らしていることで、あらぬ嫉妬ややっかみを持たれたくないのである。
隆之は英子が来るのも待っているのだが、いつまでたっても校門に現れない。心配になり隆之は桜子に聞いてみた。
「桜子さん、英子さんはまだ校内にいますか?」
「もうほとんどの生徒は校舎には残っていないはずです。先に帰ったのではないでしょうか」
英子のことを気にかけている隆之を不満に思いながら桜子は適当なことを言う。結局その日は英子を迎えるのはあきらめて、桜子だけ車に乗せてもらい家まで戻っていった。
英子は南郷家から援助してもらったお金を少しでも早く返したいためアルバイトを始めることにした。英子は、隆之の父隆夫からは卒業してからゆっくり返してもよいと言ってもらっていたのだが、卒業後は病院勤務はせず実家に戻り、今まで通り実家の医院で風岡の手伝いや子供たちと世話をすることを考えていた。元の生活に戻れば当然収入は少なく、学費の返済が滞るのは目に見えている。そう考えた英子は時間が許す限りお金を貯めて、なるべく早く南郷に返済したいという思いが強くなっていたのである。今回決まったアルバイト先は学校から南郷家の中間あたりにある商店街の一角で営業しているカフェだ。昼間は喫茶店として店を開き、学生や近隣の主婦の憩いの場となっている。夜はアルコールも出しており、仕事帰りのサラリーマンや工場勤務の作業員などが一日の疲れをいやしに集まっていた。日給が周辺の店よりも少し高めで、店の前に張り出されたアルバイト募集の紙に『若い女性急募』とあったので英子はここで仕事をさせてもらおうと応募したところ、お店側も英子の容姿を気に入ったようで即決したのだ。
その日も英子は朝早く家を出て学校へ行き、学校が終わるとアルバイト先へと向かう。多江と桜子は英子の帰りが遅くなったことなど気にせずにいつも通り夕食をとっていた。隆之は昨日英子を学校の校門前で待っていたが結局会えずじまいであった。英子と会う時間が取れず、どんなアルバイトをしているのか不安で、隆之は居てもたってもいられず、藤原に英子がその後何か言っていなかったか聞いた。
「藤原さん、英子さんは最近どうされたのかご存じですか?」
「はい、うかがっております。英子さんはアルバイト先が決まったとかで今お忙しいそうでございます」
「英子さんは私には何も言っていませんでしたよ」
「それについては私にはわかりません。多分皆さんにご心配をおかけしたくなかったのではないでしょうか」
黙り込む隆之。藤原の話によると、英子はどうやらカフェでアルバイトをしているようだ。夜はお酒も出すそうで、遅くまで営業する日もあるという。隆之は心配になり、藤原に車を出してもらい英子のアルバイト先へ行くことにした。
カフェに到着した隆之は、外から窓越しにカフェの中をのぞいてみた。女性店員達に混ざってエプロン姿をした英子が忙しそうに店内を走り回っている。久々に英子の元気な姿を見て隆之は少し安心した。今日は一旦帰ってから英子の帰宅を待ってアルバイトの件についてじっくり話し合おうと思っていたら、何やら店内が騒がしくなった。隆之が店の中をのぞくと英子が男性客を前でぺこぺこ謝っている様子だ。気になった隆之は足早に店の入口に行きドアを開け店内に入った。店の奥のテーブルには、三人組の男性客が足を投げ出すような形で座っている。作業員風でシミやペンキの汚れが付いた作業服のまま店に入りお酒を飲んでいた。態度や口調も横柄ですでにかなりのお酒を飲んでいる様子だ。店の奥から店内中に響くほどの大声がする。
「お嬢ちゃん、隣に座って一緒に楽しく飲もうと言っているだけだよ」
「もうしわけございません。今お仕事中ですし、そのようなことはできません」
「俺の言う事が聞けないのか? お嬢ちゃん、こんなところでアルバイトして金に困ってるのか? 俺の親父は建築会社の社長なんだ。バイトなんかやめて一緒に飲んだらバイト代くらい出してやるぜ」
男が英子の腕をつかみ自分たちの席に引き寄せようとしたとき男の後ろから声がした。
「おい。この子は嫌がっているじゃないか。仕事中に邪魔をするのはよくないな」
男たちが振り向く。
「た、隆之さん。どうしてここに?」
英子が驚く。
「心配で来ました」
男達3人が立ち上がった。その勢いでテーブルの上にあったコップが倒れ、床に落ちて『ガシャーン!』と激しい音を立てて割れる。一人の男が語気を強めて叫ぶ。
「なんだてめー! 調子に乗ってんじゃねーぞ! このやさ男が!」
「白馬に乗った王子様の登場ってわけか、ちょっと表で話そうか!? おうっ!」
もう一人の男がテーブルを激しくたたいた。思わず他の客が悲鳴を上げる。騒然となった店内に男の怒鳴り声が響く。隆之はそんな男達の態度を意に介さず英子に声を掛ける。
「英子さんはここにいてください」
「かっこつけんじゃねーよ! お坊ちゃま風情で何ができるってんだ? 後で吠え面をかくなよ!」
隆之は店内を見渡し、「皆さんお騒がせいたしました」と言いながら店の外に出た。三人はいきりたち、隆之を追うように足早に外へ出る。英子が「隆之さん!」と叫びながらあとを追った。男たちは店の表にある駐車場わきの路地に入っていった。日はとっぷり暮れており、薄暗くなった駐車場の奥は照明も少ないので人目に付かない。
英子は駐車場の脇に南郷家の車が置いてあるのを見つけた。運転席には藤原がいた。英子は車に走り寄り藤原に叫ぶ。
「藤原さん! 大変なの、誰か助けを呼んでください!」
「ああ、確かに大変そうですね。隆之さま達が先ほどお店を出ていかれるのを見ました。まあ大丈夫でしょう、隆之さまはお優しいから」
露路の裏から怒号がして『バキッ!』っと何かが割れる音がした。英子が慌てて叫ぶ。
「藤原さん、早く! 隆之さんが心配ではないのですか?」
「心配なのはあの三人組の方でございます」
「え?」
藤原は落ち着き払っている。英子は意を決して隆之と三人組がいる駐車場わきの路地に向かった。すると路地裏には隆之が一人だけいる。全く疲れたそぶりも見せず服のほこり両手で軽く払い襟元を整えていた。心配している英子が話しかける。
「隆之さん! 大丈夫ですか?」
「ああ、英子さん。ご心配をおかけしました。大丈夫ですよ」
何事もなかったように平然と応える隆之。
「あの三人の人たちはどこへ行かれたのですか?」
「帰られました。ずいぶん酔われているようでしたが、お話したら分かっていただけたようです」
隆之の足元に折れた棒きれと破れた服の袖が落ちている。英子が心配そうに尋ねた。
「隆之さん、お怪我は?」
「私は何ともありません。あの方たちも大丈夫だとは思うのですが」
少し遅れて藤原がやってきて、ため息交じりに話しかけた。
「隆之様、ちゃんと手加減なさったのでしょうな?」
隆之は苦笑いしながら小さくうなずいた。
隆之に怪我はなかったようだ。英子はほっと胸をなでおろし、アルバイト先に戻った。隆之は藤原に「お店の人に少しお話がありますので車で待っていてください」と言って、英子に着いて店に向かった。英子は店に戻るなり、その場にいた女性店員達やお客様に向かって深々と頭を下げる。年配の男性が心配して英子のところに駆け寄った。どうやらこの店の店長のようだ。
「大丈夫? 二階堂さん、お連れの方にお怪我はなかったの?」
「はい、大丈夫です。三人のお客様はそのままお帰りになりました」
ほっとしている店長に隆之が話しかける。
「あの、すみません。お話があるのですがよろしいでしょうか?」
「はい、かまいませんが」
「フロアではなんですので事務所の方でお話しできればありがたいのですが」
店長は「どうぞ」と言いながら事務所へ案内した。隆之が後をついていく。英子は小首をかしげそのまま店の仕事に取り掛かった。しばらくすると事務所から隆之と店長が出てきた。店長が英子に声を掛ける。
「二階堂さん、今日はもういいですよ。南郷さんからお話を聞きました。今までありがとうございました」
「え? あの、どういう意味でしょうか?」
店長が二人に深々と頭を下げる。
「英子さん」
隆之が英子の後ろから肩を叩く。隆之は英子を促して店の外に出ると一緒に車に乗り込んだ。シートに座って一呼吸おいてから隆之が英子に話しかける。
「英子さん、あの三人の男性の支払いは私が済ませました。今日はもう帰っていいそうです。店長とのお話は済みましたから」
藤原が運転する車の中で隆之はどう話を切り出していいのか考えていた。英子は先ほどから黙ったままだ。しばらくして英子が隆之に話しかけた。
「あの、隆之さん、聞いてもいいですか?」
「はい」
「店長が私に『今までありがとうございました』と言われたのですが、隆之さんが店長とお話されたというのはどういったことでしょうか」
隆之は唇を軽くかみしめるように話し出した。
「英子さん、私はあなたにアルバイトなどはしてもらいたくない。あなたは学生であり学業が最優先です。ましてや、夜お酒も出すカフェの給仕なんて、今日のようなことが今後も起こりえることは多いにあります。もしあなたの身に何かあったらご実家の義兄様に顔向けできません……」
「私は学業の合間にアルバイトをして、南郷さんに出していただいている学費や生活費をできるだけ早くご返済したいだけです」
車の中に重い時間が流れる。返済についてこんなにも心を苦しめている英子を前に隆之は心臓が締め付けられる気分であった。
「英子さん。店長さんとお話しし、あのお店を今日で辞めてもらうことになりました」
「え? そんな」
驚きとともに悲しそうな目をする英子に隆之が話しかける。
「英子さんの父への返済に関してのお気持ちは十分わかりました。しかし、カフェでのアルバイトは止めてください。そこで一つご提案があります。私専属のメイドになっていただけませんか?」
「え?」
「仕事内容ですが、私の身の回り全般の手伝いをお願いします。その他に鶴丸の世話、雪風の餌やり、これは藤原さんと一緒にお願いします」
「え? あの……」
「ただし、勉強時間を最優先にしてください。それから、食事は一緒にすること。また、私の勤務時間と英子さんの通学時間が合う時は一緒に出かけましょう」
英子には隆之のメイドになるという提案が理解できない。隆之が言った仕事内容は自分がいつもやっていることであり、そんなことが仕事だとは思えないのである
「隆之さん、私にはお金が必要なのです」
英子は少し強い口調で言い放った。隆之は続ける。
「英子さん、先ほども言いましたが、私はあなたを絶対危険な目に合せる訳にはいかない。お金でしたらカフェでのアルバイト料の二倍出します」
隆之にしてみれば、そうすることで英子といつでも一緒にいることができる。英子にとっても今までと変わらぬ生活をすることでお金を貯めることができて返済も早くできるのだ。しかし英子にしてみれば、やはりいつもの手伝い程度でアルバイト料が二倍というのが理解できないのであった。
「隆之さん、私、そのメイドというお仕事がよくわからないのですが、南郷家の使用人の立場で隆之さんご専用のお世話をすればよろしいのですか?」
「そうです、英子さん、やっていただけますか?」
英子はしばし考えを巡らし、小さくうなずいた。隆之はようやくほっとした表情で車のシートに体をもたれた。
「面白かった!」
「続きが気になる!」
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