黒澤桜子、南郷家に来る
英子が南郷家に戻ると、いつもと変わらぬ日常が待っていた。隆之の父隆夫は家を開けることが多く、たまに家にいても忙しそうにしている。母多江も父の仕事関係の付き合いで休まる暇もないようだ。夕食はもっぱら多江と隆之と英子の三人で摂る時が多い。多江は相変わらず英子に対して冷たい態度でいるのだが、英子の食事のマナーが上手くなってきたことには少しだけ満足した様子だ。
ある朝、いつものように学校の手前を曲がった路地に駐車し英子が車から降りた。そこを偶然、学校で同じクラスの黒澤桜子がその様子を見ていた。桜子は旧家の御令嬢で本当は看護学校ではなく女学校へ通いたかったのだが、父親の黒澤孝之助は『これからの女性は手に職をつけて社会に進出しなければならい』などと言っている。しかし本心は、娘を南郷財閥が経営する病院に入れ、ゆくゆくは南郷家の御曹司で南郷財閥の病院に勤務する隆之と婚姻を結ばせようと考えていたのだ。
教室に着いた桜子は南郷家の車から出てきた英子が気になり、一体どういうことなのかと詰め寄った。それで英子が南郷家に居候していることがばれてしまった。二人は同じクラスと言っても別段話をしたことはなく、華やかな雰囲気の桜子と比べると地味な姿の英子は対称的で、桜子にとって英子は少々気に入らない存在であったため、冷たくあしらっていたところがある。英子は桜子が執拗に聞いてくるので、仕方なく今までの経緯を桜子に話した。それを聞いた桜子は急に態度を変え、英子に対して異様にやさしく接する様になった。
しばらくたったある日、南郷家に桜子と母の黒澤恵梨香が遊びに来た。黒澤家は公家の血筋を引き継ぐ旧家で、財閥の南郷家とは昔から親交があり、桜子と母恵梨香は多江と仲が良く、頻繁に南郷家へ遊びに来ていたのだ。いつものようにリビングでお茶を楽しむ桜子達であったが、この日は隆之と英子も呼ばれた。「人が多い方が楽しいでしょう」と桜子が多江に提案したのだ。テーブルの上に紅茶とケーキが置かれている。桜子は隆之の前で英子と仲が良いところを見せようと、わざと英子に積極的に話しかける。
「英子さん、南郷さんのお屋敷に住まわれているなんて知らなかったわ。さぞかし居心地がよろしいでしょうね。ずっと住まわれるのかしら?」
「いえ、学校に通っている間だけお世話になる予定です」
「あら、そうなの。南郷家に住まわれているなんて、ご家族もお鼻が高いでしょう」
「あの、わたくし、家族は……」
そう言いかけた時、隆之が割って入った。
「紅茶が冷めないうちにいただきましょう。このケーキはオカモト・シェ・ダムールのフォレ・ノワールですよ」
テーブルの上にあるケーキからほのかな甘い香りが漂ってくる。「そうしましょう、いただきます」と言いながら多江は銀のフォークを指先で軽く持ち、繊細な手つきでケーキを口元へと運ぶ。ひとくち口に含むと優雅な笑みが浮かびケーキの甘美な味わいを楽しむ。英子も「いただきます」と言ってフォークを持ち、ケーキを横から切って食べようとした。そのとき桜子が話しかけてきた。
「あら、英子さん。ケーキを食べる時はフォークは指先でやさしく持って垂直にゆっくりと刺すものですよ」
英子は桜子の言う通りにフォークの先端を垂直に刺し、ケーキを手前に倒すように切って食べ始めた。フンというような顔をする桜子。桜子はマナーを指導する風を装いながらうっすらとした嫌味を英子に投げかけたのだ。そんな桜子の態度に気づいた執事の藤原が紅茶のお代わりを注ぎにテーブルまでやってきた。
「お紅茶のお代わりを持ってまいりました。おや? 英子様、ケーキの食べ方も優雅でございますな。イギリス式のマナーを心得ておられるとは存じませんでした」
藤原は深く頭を下げ、その場を後にした。
自宅に帰った桜子なのだが、どうも落ち着かない。彼女は南郷家で隆之と英子が一つ屋根の下で暮らしていることを知り、その事実に腹を立てていたのだ。丁度そのころ桜子の両親が数ヵ月間海外出張で家を空けることになった。桜子はそれを好機と見て、その間、自分も南郷家に居候させてもらえるようにしてもらえないかと父の孝之助に相談した。孝之助にしてみても、使用人が大勢いる屋敷ではあるのだが、自分たち両親が不在では確かに一人娘が心配である。孝之助はさっそく南郷家へ連絡し、桜子を暫く預かってもらえないかと相談した。連絡を受けた南郷家当主の南郷隆夫と多江にとっても、桜子の同居は願ったりであった。特に多江は大喜びしている。黒澤家は公家の出で爵位を与えられた華族であり大変裕福な家柄だ。南郷財閥と黒澤家の関係を深めるためにも、ゆくゆくは息子隆之と桜子との婚姻を考えていた多江である。そして桜子はしばらくのあいだ南郷家に住むこととなった。
桜子が南郷家へ引っ越してくる日が来た。この日を待ち望んでいた多江は機嫌よく出迎える。引っ越し業者とのやり取りは多江と桜子の指示によってスムーズに終わり、桜子の荷物は南郷家へと運び終わった。その頃、隆之は地方で開催されていた医学研修に参加するため、数日間家を留守にしていた。隆之が家に戻ったのは桜子の引っ越しが終わった次の日である。隆之は帰宅するなり、真っ先に英子の部屋に足を運んだ。ドアの前に着くなり少し強めにノックする隆之。
「隆之です、ただいま帰りました」
部屋の奥から「はーい」と明るい声の返事が聞こえ、しばらくしてドアが開いた。英子の部屋から出てきたのは桜子であった。隆之はなぜ桜子が英子の部屋から出てきたのか理解できなかった。キョトンとした表情の隆之を見て桜子が嬉しそうに隆之に挨拶した。
「隆之さん、これからお世話になります。どうぞよろしく」
深々と頭を下げる桜子。隆之は事情が呑み込めなかったのだが、桜子が南郷家にしばらく住む話を多江から聞いていたのを思い出した。しかしなぜ桜子が英子の部屋にいるのだろうか? 少し訝しがりながら尋ねた。
「そうか、桜子さん、引っ越してきたのですね。こちらこそよろしく。ところでここは英子さんの部屋だよね。英子さんはどうされました?」
桜子は薄く笑いながら答えた。
「ああ、英子さんでしたら使用人の部屋に移りましたよ。私の荷物が多くて、この部屋でないと入りきれず困っていたところを英子さんが『自分の荷物は少なくて、自分にはもったいないくらいの部屋だと思っていたので』って、快く替わって下さったの。使用人部屋の方が実家の自分の部屋と広さが近いそうで落ち着くと言ってましたわ」
隆之が部屋をドア越しから覗くと、英子が今までいた部屋には桜子が持ってきた品々がすでに並べられていた。高級なドレスや豪華な装飾品。壁際の鏡台にはたくさんの化粧品が置かれていた。
「隆之さん、よろしかったらお茶でも飲んでいかれませんか?」
桜子は隆之をお茶に誘うが、隆之は英子の所在をすぐに確かめたく、桜子の誘いを断り急いで使用人部屋に行った。
使用人の住む部屋は屋敷の一階母屋から通路を隔てた別棟にあり、4人部屋が5部屋ある。隆之が別棟に行くと使用人部屋の一室から笑い声が聞こえてきた。隆之はその部屋をノックすると中から「どうぞー」と元気のいい声がする。ドアを開けてみると英子が使用人たちと一緒に楽しそうにお茶を飲んでいた。隆之の突然の来訪に驚いた使用人たちが一斉に立ち上がる。英子も驚いて隆之に声をかけた。
「あっ! 隆之さん、どうしたんですか急に?」
「英子さん、いきさつを聞かせてください!」
隆之は少し不満げな表情をして英子の説明を聞いた。英子によると、桜子が南郷家に引っ越しきて桜子の荷物が多く、桜子に用意されていた部屋では手狭だったので桜子から部屋を代わってほしいと言われた。英子としても自分の荷物はカバンひとつであり、今の部屋は広すぎるため落ち着かない。桜子のために用意されていた部屋も英子にとってはやはり広すぎる。そこで使用人の人に聞いたら使用人部屋が一室余っているとのことだったので見に来たのだという。隆之はあまり納得していない様子だ。
「英子さんには私が用意した部屋を使っていただきたいのです」
「でも今の部屋は広すぎて、どうしても馴染めません。それにこちらの部屋にいると自宅にいるみたいで楽しいのです」
英子が話すと、近くにいた使用人たちが嬉しそうにしている。腕組みをして「うーん」と唸りながら隆之は一つの提案をした。
「そうしましたら、もしよろしければ使用人部屋ではなく他に丁度いい広さの部屋があります。英子さん、そちらに行ってみますか?」
南郷家にとっては英子は父隆夫の親友の娘である。ぞんざいには扱えない。ましてや使用人の部屋に住まわせるなどできるわけがない。
「英子さん、お願いします。父の客人でもある英子さんには相応のお部屋にいてもらわねば困ります」
隆之の提案に英子はしばし考え込んだが、最終的には「分かりました」と承諾した。隆之はさっそく現在使われていない客間に英子を案内した。英子はカバンを一つ持って使用人室から出て隆之の後に着いていく。客間は7部屋あるのだが、そのうち一番狭い8畳の部屋を英子に住んでもらうことにした。母屋の二階にある角部屋で隆之の部屋の並びにある。窓からは中庭前体が見渡せる風通しのいい部屋だ。隆之がドアを開け英子が先に部屋に入る。やっと人心地着いたと思った隆之だったのだが、少し気になっていたことがあった。使用人室にいた時はタオルを首に巻いていたので気がつかなかったのだが、英子の髪が短くなっている。以前は腰のあたりまで伸びた艶のある栗色の髪であったのが、今では首に少し掛かるほどの短さだ。隆之は気になって聞いてみた。ポケットの中で英子のためにお土産で買ってきたかんざしを握りしめている。
「英子さん! その髪の毛はどうしたのですか?」
「髪は売りました」
「えっ!? 売ったって、どういうことですか?」
英子は特に悪びれた様子もなくこたえる。
「通りを歩いていましたら髪の毛を買っていただける美容院がありましたので、売りました」
「そんな! なぜそのようなことをしたんですか?」
「隆之さんのお父様に出していただいた学費を少しでも早くお返ししたいと思ったのです。それに髪が短くなって洗髪も楽になりましたし、お掃除をするにしても邪魔にならなくなりました。それに気分もとても軽くなりました」
笑顔で話す英子は、ふと思い出したように自分のカバンから封筒を取り出して隆之の前に差し出した。
「こちらが髪を売ったお金です。お父様へお渡しください」
丁寧にお辞儀をしながら封筒を差し出す英子。隆之はしばし黙ったままであったがやっと口を開いた。
「英子さん、これは受け取れません。しまってください。おそらく父も、学生の身である英子さんからは受け取らないと思います」
隆之からすると、お金の返済について一生懸命考えている英子の姿に触れることで、彼女との心の距離がさらに広がっていくようなさみしさを感じた。ポケットの中には英子に渡そうと思っていたかんざしがあった。研修先で立ち寄った土産物店でふと目に留まったものである。淡く薄い藍色と紅色が混ざった飾り玉の色が落ち着きのある風合いをまとい、英子のイメージと重なった。隆之は思わず手に取り、英子の喜ぶ顔を見たくて買っていたのだ。しかし彼女の心の中に自分の入り込む隙間のない無力感にさいなまれた隆之は、握っていたかんざしをポケットから出すことはなかった。
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