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失われた記憶

毎日投稿予定。

 黒澤家使用人の高柳から連絡を受けた隆之は柴嶺山に行くことにした。南郷家の執事藤原、使用人長渡瀬、風岡、そして鶴丸も一緒だ。英子がいなくなって既に1年半が過ぎてしまい、警察は動いてはくれないであろうと思われたのだが、執事の藤原は念のため柴嶺山中腹にあるという山小屋に行くことを警察には連絡しておいた。警察からの返信によると、地元警察を数人、調査に向かわせるとのことであった。高柳からの連絡があった次の日早朝、隆之たちはまず黒澤家所有の青葉山まで行き、高柳と落ち合ってから川沿いを下り対岸の柴嶺山へと向かった。時を同じくして、連絡を受けた地元の警察官2名が柴嶺山の山小屋に向けて出発した。

 青葉山から少し下ったところに柴嶺山があった。道が整備されておらず車で入ることができない。山全体は杉林となっており、ひとむかし前は炭焼きが盛んであったが、今は殆ど行われていない。高柳の知り合いの地元の猟友会の人によると、そこで人の姿を見かけたとのことだ。隆之たちは柴嶺山の急斜面にある狭い獣道を高柳を先頭に登る。鬱蒼と茂った木の葉に視界が遮られているのだが、足元の小道は何とか人一人が通れるくらいの幅はある。深い森の中を40分ほど進むと急に視界が開け、一棟の山小屋が見えた。小屋の周りは最近伐採されたような跡があり、人の気配が感じられた。周囲が高い木に覆われている割には日当たりは良さそうだ。季節はちょうど春になったばかりである。鳥のさえずりが聞こえ、温かい日差しが降り注ぐ。小屋の裏側から子供と女性の笑い声が聞こえた。聞き覚えのあるその声に「はっ」とした隆之が走って小屋の裏へと周る。隆之の目に飛び込んできたのは、子供と楽しそうに洗濯物を干している英子の姿であった。

 「英子さん!」

 隆之が叫ぶ。あとからやってきた風岡と藤原、渡瀬も驚いた表情だ。行方不明から1年以上経過していたが、英子の姿は以前と変わらない。むしろ笑顔が絶えない明るい表情でいる。隆之は今までの不安感、焦燥感、安堵感が一気に押し寄せ、足に力が入らないのをこらえ、英子に近寄り声をかけた。

 「英子さん、無事だったのですね」

 英子は突然の来訪者に驚いている。

 「英子さん、探しました」

 風岡も喜びの表情を浮かべる。見知らぬ男性二人が駆け寄ってきたことで英子のそばにいた紗智子は少しおびえていた。藤原に連れられた鶴丸が「ワンワン」と尻尾を振って英子に向かって走ってきた。鶴丸が紗智子に近づいて小さな手をペロペロと舐めた。白いふわふわした毛を蓄えた大きな鶴丸を見て、紗智子は少しほっとしたようだ。『かわいいワンちゃん。若い男の人二人は身なりがしっかりとしていて礼儀正しい。品のいい年配の男性と女性も先ほどから静かにこちらを眺めている。どうやら突然現れた人たちはお父さんを捕まえに来た悪い人たちではなさそうだ』。少し安心した紗智子は嬉しそうに鶴丸の頭をなでた。

 隆之が英子を見つめている。英子が生きていたことが確認できた。しかも元気そうだ。そう思った瞬間、隆之の目から思わず大粒の涙があふれ出す。思わず隆之は英子の両肩をしっかりと握りしめた。

 「英子さん! 英子さん! よかった、本当によかった。生きていたのですね、心配しました、英子さん!」

 隆之を見ながら不思議そうな顔をしてじっとしている英子であったのだが、しばらくして口を開いた。

 「あの、どちら様でしょうか?」

 真顔で聞く英子に少し驚きながら応える隆之。

 「え? 私です、隆之です」

 訝しげな表情のままでいる英子を前に隆之は話を続ける。

 「ずっと探していました。一緒に家に帰りましょう」

 「すみません。そうおっしゃられましても、どなたか存じ上げないのですが……」

 戸惑いながら口ごもる英子。風岡も「英子さん」と口ずさむのだが、英子はちらと視線を向けるだけで風岡のことも初めて見かけたような表情だ。隆之は英子の両肩を掴んでいた手から力が抜けていくのが分かった。両手を弱々しく下げ、その場に立ちすくむ隆之は英子をじっと見つめたままだ。その状況を山小屋の奥にある森の中から伺う者がいた。栗林だ。政府の戦争政策に反対し思想犯として指名手配中である栗林は警察を警戒していたのだ。栗林が草葉の隙間から山小屋の方を伺うと、若い男性が二名、それに年配の男女と犬が一匹確認できた。どうやら警察ではないようである。少しほっとした栗林が森の陰から出てきた。

 「里美さん、どうかしましたか?」

 少し大きな声で話しかける栗林。隆之たちが声のした方を見ると、つい先ほど仕留めたと思われるイノシシを背中に担いだ大柄の男がこちらを見据えていた。栗林が話しかける。

 「里美さん、そちらの人たちはお知合いですか?」

 「いいえ」

 きっぱりと答える英子。"さとみ"という名前は何だ? 混乱している隆之に栗林が声をかける。

 「どうやら里美さんのことをご存知の様ですね。分かりました、どうぞこちらへ」

 栗林は担いでいたイノシシを地面に下ろすと、隆之たちを山小屋へと招いた。山小屋の中は思ったよりも広い。隆之たちは栗林に促され、板張りの床の上に座る。隆之たちは軽く自己紹介をして、ここに来た理由を述べた。

 「一年位前です。私たちはここから少し登ったところにある青葉山にキジ狩りに行きました。そのとき英子さんが川に落ちてしまったのです」

 英子の方とちらっと見る隆之。

 「来る日も来る日も英子さんを探し続け、そして、こちらの山奥に人が住んでいるらしいとの情報を得た。もしやと思い、本日こちらにお邪魔しました」

 「そうでしたか」

 目を閉じて隆之の話を聞いていた栗林が、英子がここに来たいきさつを話し出した。栗林によると、英子は川でおぼれていたところを助けられ一命を取りとめた。しかし、川の水を大量に飲み込んで気を失った英子は回復したあと記憶を失っていたのだ。自分の名前さえも思い出せないので、今は仮の名前で『里美さん』と呼んでいる。説明を終えた栗林は小さく息を吐いた。隆之たちはみな黙ったままだ。栗林が英子に話しかける。

 「『英子さん』、でしたっけ。どうやらあなたの帰る場所が見つかったようです」

 先ほどまでうつむいていた英子が顔を上げる。

 「わたし、帰る場所などありません。ここで暮らしているのが幸せなのです」

 「英子さん!」

 隆之が困惑した表情を浮かべる。風岡も心配そうな顔で黙ったままだ。栗林が続ける。

 「英子さん、あなたは一時的に記憶を失っているだけなのです。この人たちの元へ帰ると、きっとあなた自身のことを思い出してくると思います」

 「でも……」

 言いよどむ英子の袖を紗智子がぐっと握る。

 「里美お姉ちゃん、どこにも行かないで」

 黒い瞳には大粒の涙があふれている。ここでふと、渡瀬が何かに気がついたようだ。栗林の顔をちらちらと横目で見ている。自分の記憶の中から何かを手繰り寄せていた渡瀬が、はっと目を見開いた。栗林の顔に見覚えがあったのだ。町のあちらこちらに設置されている警察の掲示板の中に栗林によく似た写真があったのを思い出した。栗林の顔を横目で見ていた渡瀬の記憶が鮮明になってきた。この人は指名手配犯に間違いないと確信している。しかし決して悪い人ではない。ましてや、今目の前にいるのは英子の命の恩人である。渡瀬はふと思い出した。そういえば、藤原が警察にこの場所を連絡していたのだ。自分たちが先に到着したのだが、もうじき地元の警察もここにやってくるだろう。考えを巡らせる渡瀬が意を決して藤原に声を掛けた。

 「藤原さん、確か地元の警察の方にもこの場所を連絡してあるのですよね」

 「はい、そろそろこちらへ来ると思うのですが」

 慌てた英子が栗林を見る。英子は栗林が指名手配中の身であることを栗林本人から聞いていた。栗林の顔に緊張が走る。体を硬直させる栗林が紗智子の顔を見て「紗智子」と小さくつぶやく。自分が思想犯として捕まれば娘と離ればなれになってしまう。父親が刑務所にいるとなれば世間から受ける風当たりも強くなるだろう。突然英子が栗林に叫ぶ。

 「栗林さん、逃げて!」

 「し、しかし」

 「紗智子ちゃんは私が面倒を見ます! あなたは戦争反対を訴えているだけなのです。戦争が終わればきっと許される日が来ます」

 「お父さん!」

 紗智子が泣きじゃくる。英子は紗智子を抱きしめながら栗林に話す。

 「栗林さん、今までありがとうございました。戦争が終わったらこの山小屋へ寄ってください。連絡先を置いておきます」

 「里美さん」

 栗林は"英子"ではなく、娘が付けた名前で呼んだ。

 「わかりました、里美さん。必ず紗智子を迎えに来ます。きっと、きっと迎えに来ます。それまで紗智子のことをどうか……」

 泣きじゃくる紗智子を見ながら栗林の目にも熱いものがあふれ出した。その時小屋の外で足音がした。

 「早く!」

 英子が叫ぶと、栗林は山小屋の裏にある小さいドアから外に出てそのまま森の奥深くへと走っていった。泣きじゃくる紗智子。英子が抱きしめる。鶴丸が紗智子のそばにきて紗智子の顔をペロペロとなめた。

 「鶴丸……」

 英子がつぶやいた。それを聞いた隆之が驚きながら英子に声をかける。

 「英子さん! 鶴丸のことは覚えているのですか?」

 英子が目を見開いた。『私はなぜこの犬の名前を知っているのだろうか?』。一番驚いているのは英子自身であった。


 英子が行方不明となってから約1年半後、英子は青葉山にほど近い柴嶺山にある山小屋で暮らしているところを発見された。隆之は記憶を無くした英子を引き連れ自宅へと戻すとともに、行き場のない紗智子も引き取ることとなった。南郷家へと戻った英子は、記憶を喪失したまま南郷家の家族と生活することとなった。隆夫の配慮により以前より南郷家に住んでいた英子なのだが、今は記憶の断片すらない。英子にとっては今の南郷家の屋敷はあたかも初めて住む家のように感じられた。家に入り大広間に通された英子を、多江や屋敷に勤めている14名の使用人たちが整列して待っていた。多江が声をかける。

 「英子さん、お帰りなさい、よくご無事でしたね。主人は仕事で家にはおりませんが、ずいぶん心配しておりましたよ。隆之も仕事が手につかず、あなたのことばかりをお考えしていました」

 「は、はい。あの、よろしくお願いいたします」

 初めて会ったかのように挨拶する英子。久しぶりに英子の姿を見た使用人たちが目頭を押さえている。多江が続ける。

 「お話は伺っております。昔のことをお忘れになったとかで。まあ、ご心配にはおよびませんわ。このお屋敷には以前と同様に住んでください」

 「はい。ありがとうございます」

 状況が呑み込めないでいる英子が仰々しくお辞儀をする。簡単な挨拶も終えて、英子は前に住んでいた部屋へと案内された。紗智子も慣れない場所での生活となり、英子と同じ部屋に通された。以前は、英子が南郷家に居候することをよく思っていなかった多江なのだが、英子が記憶喪失になり不憫に思ったのだろうか、前ほどには英子に対してつらく当たらなくなっている。紗智子に対しても両親と離ればなれになったことを気の毒に思っていた。多江は二人に対してどことなくやわらかな対応で接している。そして、英子と紗智子にとっては山小屋生活とは全くと言っていいほど環境が違う南郷家での生活が始まった。英子が通っていた学校へは、英子が行方不明になってから休学届が出してある。今は南郷家の生活に慣れることだ。多江は英子を客人として当屋敷に迎えると言っている。

 「英子さん、以前は当家の使用人と同様に当屋敷の雑務を何かとやっていただいていたのですが、今後はそのようなことはせずとも、なに気兼ねなく過ごしてください」

 「え、あの、奥様。それでは申し訳ないです。家のお仕事を手伝わせてください」

 英子は紗智子ともども居候させてもらうことをとても申し訳なく思っている。隆之が多江に話しかける。

 「お母様、英子さんには以前、わたくし専属のメイドをやってもらっておりました。これからもその職務を続けていただければ、英子さんもお客様扱いをされるより少しは気が楽になるのではないかと思います」

 「そうだけど、しばらくはゆっくりと休んでいただいた方がよろしいのではないですか」

 藤原が多江に話しかける。

 「多江様、英子さんが屋敷の掃除や庭の清掃などをするうちに記憶を取り戻すかもしれません。また、当家のしきたりや屋敷にも慣れていただくためには全体の雑務に携わるのがよろしゅうございます」

 長年南郷家に仕えている藤原の言うことには、多江も納得せざるを得なかった。英子にはしばらく屋敷の仕事をやってもらうことになった。英子のそばにいた紗智子もなぜかうれしそうだ。今後の英子の生活についての話は終わったのだが、英子にとって先ほど藤原が隆之を『隆之様』と呼んでいたのが少し気になった。隆之はずいぶんと自分に対して優しくしてくれる、しかし隆之は南郷家の御曹司であるのはすぐに理解した。ほかの使用人たちもみな隆之を『隆之様』と呼んでいる。自分も使用人の身ならばそれに倣うのが道理だ。英子は南郷家での自分の立場をしっかりと認識しなければという思いを強く持った。

 屋敷の仕事については藤原と渡瀬が以前同様指導することとなったのだが、英子にやらせてみると不思議なことにテキパキと要領よく作業をこなす。特に馬小屋の清掃や鶴丸の世話などは以前と全く変わらぬ手順で滞りなくできた。藤原が、「次は馬小屋の清掃をいたしましょう」というと英子が笑みを浮かべている。庭に出ると英子は藤原よりも先に歩き馬小屋へ向かった。紗智子もすぐ後についていく。馬小屋は屋敷を出て中庭の奥まった所にあるのだが、まったく迷わずにたどり着いた。英子は馬小屋の場所を覚えていたのだ。馬小屋に着いた英子が先に入る。すると英子は思わず「雪風!」と叫び、雪風のもとへ走り首に手を掛けてなでると雪風が大喜びしながら「ブルル」といなないた。いつの間にいたのか英子の足元に鶴丸も来ていた。鶴丸たちと楽しそうにたわむれる英子の姿は、とても記憶を無くしているようには見えない。紗智子も鶴丸に久しぶり会えて嬉しそうだ。藤原が英子に話しかける。

 「雪風も鶴丸も英子さんのことが大好きでございます。英子さんがいらっしゃらない時はずいぶんと寂しがっていたのですよ」

 小さくうなずいた英子は、ふと馬小屋の壁に立てかけられている竹ぼうきに目をやる。英子の視線の先に気がついた藤原が竹ぼうきを取り、英子に渡した。藤原が声をかける。

 「英子さん、馬小屋の清掃をいたしましょうか」

 「はい」

 嬉しそうに返事をする英子。藤原がいつもと同じようにリズムを取りながら竹ぼうきを左右に揺らす。英子もそれにならって優雅にダンスを興じるかのように竹ぼうきを操る。

 「あれ? 私、以前ここでお掃除をやったことがあるような気がします」

 「さようでございますか」

 静かにほほ笑む藤原の足元で鶴丸が「ワン」と吠えながら嬉しそうにしっぽを振った。


 夕食の時間になった。ダイニングには多江と隆之と英子と紗智子の四人が広いテーブルの上に並べられた料理を前に座っている。南郷家にとってはいつもと変わらぬ食事なのだが、今の英子にとっては見たこともないような豪勢な料理がテーブルを飾っていた。紗智子はとても喜んでいるのだが、英子にしてみるとなんとも落ち着かない豪華さである。英子はフォークやナイフよりもお箸の方が使い勝手がいいのは以前と変わらないようであった。そう思った藤原があらかじめお箸をテーブルに用意していた。食事も食べ終わり藤原が淹れた紅茶をみんなでいただいているとき多江が話しかけた。

 「英子さん、少しは昔の記憶を思い出せているのかしら?」

 「はい、雪風や鶴丸のことは名前が自然と出ました。しかし他のことは思い出せません。すみません」

 英子は多江や隆之のことが思い出せないことを申し訳ないと思っている。

 「何も謝ることはなくってよ、英子さん。あなたの記憶が戻るきっかけになるようなものは無いか考えてみましょう」

 「ありがとうございます」

 深々と頭を下げる英子。隆之が話しかける。

 「英子さん、記憶を取り戻すきっかけになるかどうかはわかりませんが、あなたが当家に来たいきさつについてまずお話いたします」

 「はい」

 「英子さん、あなたのお父様は二階堂祐輔さんという方で、私の父の学生時代からの親友で、小さな医院を経営していました」

 「隆之、ちょっとよろしいですか?」

 突然言葉を遮る多江。

 「私、思ったのですが、英子さんが昔のことを思い出すのはゆっくりと時間をかけたほうがよろしいでしょう。英子さんの記憶が戻らずとも、今は私たちと一緒にいてくれることが大切なのです。英子さん、お疲れでしょう。もうお部屋に戻ってよろしいわよ」

 「ごめんなさいね、隆之と少しお話したいことがあるので」

 「はい、では今日はこれで失礼いたします」

 英子は軽く頭を下げ、席を立って自室へと戻っていった。紗智子も英子の後をついていく。英子がいなくなったリビングで多江が隆之に話し出す。

 「隆之、英子さんはご家族を亡くされたことさえお忘れになっています。今いたずらに家族の不幸を教えるのはあまりいいことではありません。ゆっくりでいいじゃないですか。英子さんの記憶が戻るのを待ちましょう。今はそうすることが一番だと思います」

 多江の言葉にはっとする隆之。少しうつむき寂しそうな表情を浮かべていた。


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