桜子のたくらみ
毎日投稿予定。
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キジ狩りの数日前、高柳は黒澤家に呼び出された。応接室に通され、そこには南郷家からいったん実家に帰っていた桜子がいた。
「高柳、今度青葉山でキジ狩りが行われるのですが、あなたにやってもらいことがあるわ」
「はい、何でございましょう、お嬢様」
「当家の狩場に南郷家の若い使用人が来るの。その人を銃で驚かせてほしいの」
「え? 銃でですか? 驚かせるというのは、どのような」
「大したことはないわ、その人に向けて銃を撃ってほしいの。そうね、頭上の木を撃って枝をその人に落とすといいわ」
「な、何をおおせになります桜子様! そのような危険なことはできません!」
高柳の声が上ずる。桜子は話を続けた。
「その人を撃てとは言っていないわ。脅かすだけよ」
「しかし、お嬢様。万が一というのもございます」
「あなたの腕なら大丈夫よ。100m先のウサギに命中させたこともあるでしょ」
「人のいる方角に銃口を向けるなど、私にはできません!」
「もう、わからない人ね。あなた、お子さんはまだ小さいんでしょ? 当家の山の管理をなさっているのは先代のあなたのお父様の代からでしたわね。それもあなたで終わることになるなんて寂しいものですわ。このご時世、お仕事を探すのは大変よ」
高柳には二人の子供がいた。3歳の男の子と2歳の女の子だ。妻は体が弱く、現在病院に入院中である。幼い二人の子供の面倒を見ながらできる仕事というのは限られている。いや、今の自分を雇ってくれるところなどほとんどないのではないか。今、黒澤家を追い出されると家族を路頭にさまよわせることになる。
「大丈夫よ高柳、そんなに心配しないで。何か問題があったら私に任せなさい。悪いようにはしないわ」
「……はい。承知いたしました」
高柳はうつむき、体を震わせながら小さく返事をした。
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黒澤家使用人の高柳は英子のいる場所から100mほど離れた草むらの中にいた。高柳の持つ猟銃が英子の方角に向けられている。桜子がその場を離れるのが確認された。目を閉じる高柳。桜子が先日黒澤家の屋敷で言った言葉が頭の中に渦巻く。手が震えてきた。大丈夫だ、なにも人を撃つわけではない。南郷家の使用人の頭上にある木の枝を一本撃ち落とすだけだ。
猟銃のスコープを覗く高柳。フォーカスを合わせると大きな木の下にいる英子の姿が浮かび上がった。高柳はスコープの十字線で英子の頭上にある一本の枝の根元を捉える。息を止め、引き金に人差し指をひっかけ、ゆっくりと引こうとした、その瞬間、遠くから女性の叫び声が聞こえた。高柳はスコープから目を外し、猟銃を背に背負い直して草むらから立ち上がる。高柳は悲鳴が聞こえた方を見ると、桜子がひどくおびえたようにして立ち止まっていた。よく見ると桜子の目の前に巨大なイノシシが桜子を威嚇するように気炎を上げている。英子がいるところからはさほど離れていない草むらだ。イノシシは人の気配を感じて飛び出してきたようである。英子もまた桜子の叫び声を聞いて桜子の近くまで走ってきた。イノシシは今にも飛びかかりそうに桜子を見据えている。桜子のすぐ後ろは崖となっており深い渓谷が覗いていた。
高柳は背中に背負っていた猟銃を手に持ち、スコープを覗いた。ファインダーに巨大なイノシシの姿が映り、その前でガタガタ震えて全く身動きが取れない桜子がいる。イノシシは今にも飛びかからんとしていた。イノシシは本来おとなしい動物なのだが、パニックを起こすと人を襲ったりし、場合によっては死亡事故に至ってしまったことも実際起こっている。このままでは桜子様が危ない。そう思った高柳はスコープに刻まれた十字の照準をイノシシの脇腹心臓付近に据え、引き金を引いた。その瞬間『ドッガーン!』という耳をつんざく巨大な爆音が草原に轟いた。音に驚いた鳥たちが近くの山から鳴き声を上げながら激しく飛び散る。
銃から発射された弾はイノシシに見事命中した。しかし、わずかに急所から外れたのか、イノシシはすぐに倒れることはなかった。なんと、怪我を負ったイノシシが桜子に突進しだしたのだ。悲鳴を上げる桜子。すぐそばにいた英子がとっさに桜子に向かって走り、自分の身を挺して桜子の体を両手で押し飛ばした。桜子は地面に転がるようにして倒れる。最後の力を振り絞って突っ込んできたイノシシは突然目の前に飛び込んできた英子に体当たりした。イノシシの巨大な体がまともに激突し、その拍子に英子は崖から足を踏み外して深い渓谷に落ちる。「きゃー!」という悲鳴が谷に吸い込まれ、大きな水の跳ねる音が水流の音に混ざって消えていった。
イノシシは英子に体当たりしたあと、痙攣しながら地面に倒れた。撃たれた傷口から大量の血を流している。銃声に驚いた隆之たちが英子と桜子のいたところに来た。鶴丸も一緒だ。桜子は転んだ時に足に傷を負って出血している。英子の姿は見当たらない。
「桜子さん! 大丈夫ですか? 銃の音がしたのですが、どうしたんですか?」
桜子のそばにイノシシが倒れている。先ほどまでの恐怖と痛みで泣きじゃくる桜子が叫ぶように話し出した。
「英子さんが。英子さんが、崖から落ちました!」
隆之の表情が変わる。
「イノシシが私に向かって飛びかかってきて、それから英子さんが私を助けようとして……」
隆之が崖を見下ろした。高く切り崩された谷間の奥に川が見えた。流れが激しく水深も深そうだ。必死になって英子を呼び続ける隆之。藤原と渡瀬も大声で「英子様ー!」と叫ぶのだがその声は谷底に吸い込まれ、川の音にかき消される。隆之は川まで下りられそうな場所を探した。しかし、そのようなところはどこにも見当たらない。それでも何とか崖に張り巡らされるように露出している木の根を伝って降りようとする隆之だったのだが、突然桜子が隆之に抱き着いてきた。別のイノシシがもう一匹草むらから出てきたのだ。
草むらから出てきたイノシシは近くに横たわって死んでいるイノシシよりも一回り小柄だった。もしかしたら死んだイノシシとはつがいかもしれない。目が恐怖と怒りの色に染まり、かなり興奮している。イノシシが桜子に向かって迫ってきた。桜子が悲鳴を上げ隆之にしがみつく。その横から鶴丸が素早く桜子の前に飛び出して、「ウー、ワンワン!」と大きな声をあげながら吠える。驚いたイノシシがとっさに向きを変え草むらの中に逃げていった。鶴丸がイノシシの後を追い、「ワンワンワン」という叫び声が次第に遠のいていった。
桜子があまりの恐怖になかなか隆之から離れようとしない。渡瀬が桜子のそばまで来て優しく肩に手をかけた。桜子はなんとか落ち着きを取り戻したようで、その場にへたれこんでしまった。藤原が隆之に声をかける。
「隆之様、このまま英子さんを探しに渓谷へ降りると隆之様までもが谷底へと落ちてしまうかもしれません。それに、英子さんが万が一川へ落ちましたならば、下流の方へすでに流されていると思われます。ここはひとまず警察へ連絡いたしましょう」
隆之は歯を食いしばり、口惜しさとやるせなさに苦しみながら藤原の話を聞いている。
「隆之様、ここは一旦近くの民家に行って電話を借り、警察に連絡いたします。急ぎますゆえ、隆之様たちはこちらで待機してくださいませ。なにとぞ、むちゃな真似はお慎みください。分かりましたな」
「……分かった。藤原さん、お願いします」
隆之は体を硬直させたまま深くお辞儀をした。藤原が車で近くの集落まで行き目に入った民家に急用の旨を知らせ電話を借りて警察に連絡した。しばらくすると、連絡を受けた近隣の警察署と消防団から人員が集められ、さらに消防団から連絡を受けた地域の住民らが応援に駆け付けた。青葉山から渓谷へ降りられる小道があるのは、英子が落ちたところから500mほど下流に行ったところしかない。そこからならば、なんとか川にたどり着ける。急きょ捜索隊が組織され、一団は一旦、川へ繋がる小道のある場所まで行き、そこから川辺に行って上流と下流の二手に分かれて捜索を開始した。季節は秋口に差し掛かっていたのだが、まだ寒いわけではない、しかし夜になると冷え込んでしまうため、早く探さないと危険である。警察は行方不明となった英子は南郷財閥の客人と聞いている。捜索隊にも自然と熱が入る。
その日の捜査は夜の9時まで続いた。一向に英子の姿は見えない。痕跡さえも見つからないのだ。捜索隊の中には、もうダメではないのかと囁く声も聞こえたのだが、捜索に同行した隆之達はなんとしてでも英子を探し出す思いを捨てず、夜の闇の中で英子を探し続けた。しかし、夜の10時を過ぎ、隊員の身にも危険が及ぶ可能性があるため一旦この日の捜索は打ち切りとなった。隆之たちにも警察から退避命令が下る。みんなは苦渋の決断に涙を呑む思いであった。
その日隆之たちが家に着いたのはすでに日付が変わっていた。みんな無言のまま家に入ると玄関で多江が待っていた。英子が行方不明になったことは、すでに警察から連絡が入っていたのだ。多江が隆之に話しかける。
「隆之、英子さんは結局見つからなかったの?」
「はい、地元の警察や消防団の方や近隣の住民の皆さんにも協力していただいたのですが、見つけることはできませんでした」
疲れた様子でうなだれる隆之を気遣う多江の表情も暗い。突然桜子が泣き出す。
「わたくしが悪いのです。イノシシが突然草むらから飛び出してきて、足が震えてしまいその場で動かないでいると、イノシシがわたくしに向かって来たのです。そのとき英子さんがわたくしを押し飛ばしてイノシシから守り、イノシシが英子さんに体当たりしました。そのせいで英子さんが谷底に……」
桜子はその場で嗚咽を漏らしながら泣き崩れてしまった。多江も英子の安否を心配し目に涙を浮かべながら桜子の肩に手を置いた。桜子は英子のとっさの行動が今も目に焼き付いている。自分の身を顧みずイノシシから救ってくれた英子に対して、申し訳ない気持ちで胸がつぶれそうになっていた。桜子に今できることは、英子が無事であることを祈るだけである。
英子が行方不明になり、警察と地元消防団とで組織された捜索隊の懸命な捜査にも関らず、依然として何の手掛かりも見つけられない。ひと月に及ぶ捜査は一旦打ち切りとなったのだが、それでも隆之はあきらめきれず、来る日も来る日も英子を探し続けた。南郷財閥グループの病院に勤める傍ら、忙しい合間を縫って隆之は青葉山へと赴き、英子が落ちた川沿いを捜索する日々が続いた。
そのころ、日中戦争が勃発してから数年経過し太平洋戦争の開戦機運が高まっていた。日本軍はハワイにあるアメリカ太平洋艦隊の拠点を突如空襲し、太平洋戦争の幕が切って落とされたのだ。時代に暗い影が落とされながらも南郷財閥は軍部からの多大な支援を受け、船舶輸送を手掛けるとともに戦時医療の先駆けとして困難な責務をこなしていた。南郷財閥の一人息子である隆之も職務に翻弄され自宅に帰る日も少なくなっている。そのころ、しばらく仕事の都合で自宅を空けていた桜子の両親も自宅へと戻り、南郷家に居候していた桜子もそれを機に実家へと戻っていった。
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