鹿と雨宿り
山間の道。突如の大雨。1軒のあばら家。
軒先に身を寄せ、濡れたイヤホンを手に取ると視線を感じる。
隅に鹿。
よりによって鹿。
日菜子は身構える。
去年の修学旅行。
鼻先に近づけた鹿せんべい。
そっぽを向く鹿。
一瞬振り返り、鼻を鳴らし日菜子をせせら笑った。
おのれ、鹿。
いつの間にか内野手の守備練習のような体勢になっている。
私は負けない。
鹿がわずかに動く。
「吉田さん?」
喋った。
「大丈夫?」
そんな馬鹿な。鹿だけに。
「うわっ、鹿だ!」
ガラっと戸が開く。
山崎くん?
声が出ない。
野球部の山崎くん。代走の山崎という絶妙な異名の持ち主。
途方に暮れる山崎、中腰の日菜子、鹿が三つ巴の様相を示す。
まジカ…
そんな言葉が頭をよぎる。
沈黙をやぶったのは山崎だった。
「びしょ濡れだよ、中に入ったら?」
「いい!動けないの」
「風邪ひいちゃうよ」
「いいの!」
山崎は何がなにやらわからない。
「タオルとってくるね」
山崎は家の中に消えていく。
見られた。
困惑した山崎くんの顔が浮かぶ。
鹿と見つめあう姿。
しかも中腰。しかもずぶ濡れ。
しかも人の家をあばら家と思うなんて。
頭が鹿だらけになっていると、山崎くんがタオルを手に戻ってきた。
「こんなのシカなかったけど」
シカ…
タオルに顔をうずめる。顔が熱い。
「助かった、ありがと」
顔を上げると鹿の姿はなかった。雨も弱まったようだ。
「行っちゃったね」
「私も、もう、行くね」
タオルを山崎の腕に押し込むと日菜子は走り出した。
霧雨が頬を濡らす。
これは私の心の雨なんだ。
「ちょっと待って!」
山崎の声が聞こえる。
なんなのだ。もう帰りたい。
「待って!」
声はぐんぐんと近づいてくる。
代走の山崎は伊達じゃない。
シカたない。
日菜子は足を止めた。
その時、鹿が山崎くんの脇を駆け抜ける。
戻ってきた。私に会いに?
と、今度は車が猛スピードで迫ってくる。
「危ない!」
二人は同時に叫んだ。
鹿すれすれを車は走り抜ける。
「あぶないっしょが!」
車とすれ違いざまに日菜子は叫んだ。
鹿はそのまま日菜子の脇を通り過ぎる。
見送る日菜子の瞳には優しさがあった。
山崎が追いつく。
「鹿さん危なかったね。」
鹿さん。優しい言葉。
雨はもう上がっていた。
「イヤホン落としてたよ」
手が触れ合う。
夕暮れの光が二人を照らした。
シカし、大変な一日であった。
日菜子はびしょ濡れだったことを思い出し、ブルッと震えた。
「山崎くん」
「ん?」
「ごめん。トイレ貸して」
二人は再び走り出した。




