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文官令嬢の小さな苦労

読んでいただきありがとうございます


「ミリア」

優しい呼びかけに仕事中であることを思い出し、顔が赤くなった。

「あ、はい。上長、こちらの書類は完了しました」

「うん、ありがとう。いつも仕事が早いね」

上長は書類を受け取ってから心配そうな顔でこちらを見つめる。

「ずいぶんぼんやりしているけど、大丈夫か?」

「あ、はい。私は元気です」

体は元気である。しかし、心は全く元気ではなかった。それが外に漏れているのが大人として申し訳ない。

「しょうがないですよ。宰相補佐、三日も休んでるじゃないですか」

「そりゃ心配だよね」

上司や同僚たちは想像でぺらぺらと喋っている。ミリアは、はい、はい……と、自分でも分かっているのか分かっていないのか、返事に気持ちがまるで入らない。

そう、あれから三日。夜会の翌日からアレクサンダーは登城していない。

「体調不良で休みなんで珍しいよなあ」

体調不良。その言葉を聞くたび、ミリアの胸は痛んだ。

あの日、自分との夜会にも「体調不良」を理由に来なかった。夜会で待ち受けていた人々には心配され、彼の体調不良を知るなりそれで参加を止めたのだろうと察された。あんなに楽しみにしていたのにねと同情されるのが、ひどく辛い。

本当のことなど、誰にも言えなかった。両親にも言わないでくれと御者とメイドに口止めをし、夜会から帰ってきた家族には「疲れたので、やけ食いして寝ました」と報告してもらった。

翌日の朝から食欲がなくなっても「やけ食いの余波だろう」と家族は温かく見守ってくれた。

今も、気が抜けた瞬間にあの日のふたりの姿が目に浮かぶ。アレクサンダーが彼女の手を取り、二人で屋敷の中へ消えていった。あれからずっと、二人は屋敷にこもっているのだと思うと、胸がぎゅうっと切なく痛んだ。


「ミリア嬢、急いで一緒に来てくれ」

突然名前を呼ばれて連れて行かれた先は、なんとまた宰相閣下の部屋だった。

「えっ、何ですか? 私なにか失敗を?」

「いいから、中に入れば分かる」

上司に流されるまま中に入ったミリアは、はっと息をのんだ。

宰相閣下の隣に立つ、黒髪のアレクサンダー。

まともに顔を見られない。あの夜、エリザベスに手を差し伸べた姿が、脳裏にちらちらと浮かんでしまう。

「ミリア嬢。先日は夜会をキャンセルしてしまい、申し訳なかった」

アレクサンダーの謝罪に、そうだ、そういうことになっているのだとミリアは思い出す。彼は、自分があの時そばにいたことなど知る由もないのだ。私はただ、急病のアレクサンダー様に驚いた、ということにしなくてはならない。作った心配そうな表情を顔に貼り付ける。

「大丈夫です! お体の調子はもうよろしいのですか? 三日もお休みになられて、もうお元気そうで……」

まずい、と言ってしまってから悔やんだ。真実を知っているのに、そんな白々しいことを言ってしまう自分が嫌だった。

俯いて見えないように唇を噛んでいると、実は、と淡々と話を始める。

「あの日、体調を崩したと言ったのは嘘だった」

「ま、まあ、そうなんですか」

「私の家に、エリザベス元王女殿下が訪ねていらっしゃった。ので、その対応を最優先にせざるを得なかったのだ」

思ったよりもあっさりと真実が明かされる。ミリアは、間の抜けた相槌しか打てなかった。

「君も、彼女のことは聞いているか?」

「はい。婚約されて、今は破棄なさったと……」

そう、ただ来ているだけ。もう何の気持ちもない。せめて彼の口からそう否定してほしくて、期待の視線を送る。

「ああ。今、エリザベス様は我が家に滞在されている」

聞きたいところはそらされてミリアは黙るしかなかった。

「王宮にお連れするには手続きが必要だ。それが終わるまで、君に彼女の話し相手になってもらいたい」

「はい?」

何を言われているのかわかりたくなくて聞き返す。周囲の文官たちが、気の毒そうな視線をミリアに向けているのがわかった。宰相閣下までもが、わずかに目を逸らしたように見える。

「我が家に通って、エリザベス様を慰め、何を求めていらっしゃるか聞き出してくれるとありがたい」

「あの」

「この国で何をなさりたいのか、どういう――」

「あの! なぜ、私なのでしょうか?」

エリザベス様には、さながら彼女の取り巻きのようにしていた令嬢達がいた。結婚したにせよまだ独身にせよ、この国にいるならばすぐに呼び出せるだろう。わざわざ親しくもない自分を指名する理由が分からない。

「あまりに近しいと、本音を言えないこともあるかもしれんからな」

曖昧すぎる説明に首をひねると、他の補佐官が補足してくれる。

「一番は、ミリア嬢の実直な仕事ぶりだ」

「令嬢に個人的に頼んでしまえば、情で動かれてしまうだろう。そうなると身動きが取れなくなる」

「王女に目通りできる貴族令嬢で文官は君しかいない。申し訳ない、頼まれてくれないか」

一斉に頭を下げられて、断ることなどできなかった。

「分かりました。最善を尽くします」

「しばらく午後の時間を、この特務にあてるといい。辞令も作ってある」

宰相の差し出した辞令には自分の名前がすでにあり、断ったらどうするつもりだったのだろうと思う。

「アレクサンダー様もついてくださるのですか?」

「いや君が来る時間、私は屋敷を留守にする。二人のほうがエリザベス様も私に言いづらいことを言えるだろう」

つまり、業務の合間にこっそり彼を見つめるチャンスさえ奪われるということだ。理不尽さに泣きたい気さえした。

いつもだったら「喜んでお役に立ちます!」と返事ができるのに、今回はさすがにそれも言えず、笑顔らしいものを作るので精一杯だった。


案内された部屋は、おそらく侯爵家の貴賓客用の部屋をエリザベスの私室として使っているのだろう。広さこそないものの、部屋の一方の壁には大きい鏡が置かれており、圧迫感は感じさせない。応接用のセットが置かれ、すでに茶の用意がされていることから、客をもてなすために使われていることがわかる。部屋の装飾はクリーム色と、ヴァンデルフォード侯爵家の紋章にも使われる緑色を基調としており、落ち着いた雰囲気であった。

「お久しぶりでございます、エリザベス様」

人待ち顔だったエリザベスは、怪訝そうにこちらを見る。

「あなた、誰?」

「ヴァンデルフォード伯爵家のミリアでございます」

「ごめんなさい、よく覚えていないわ。伯爵家なら何度か会っているはずなのに」

歯牙にもかけられていないのはわかっていたものの、隠しもしない態度には、あらためて友人にもなれない気がした。

「幾度か、幼い頃のお茶会でお目にかかりました」

とはいえこれは仕事であって、私情を挟んでいいものではない。

「それで、今日はどうしたの?」

「アレクサンダー様から、エリザベス様のお話相手になるようにと派遣されてまいりました」

「私はそんなの求めてないわ。早く家族のところに帰りたいだけよ」

苛立ちをにじませた声にミリアは軽く頭を下げる。

「その調整が未だ進まないということです。その間だけでも、エリザベス様に穏やかに暮らしていただけるよう、お手伝いし、お支えせよとのことです」

「だったら――エリック家のエマとか、シャンティー家のマーサとかいるでしょうに。どうしてあなたが?」

どうしてって、私が聞きたいぐらいだわ。ぐっとその言葉をこらえて顔を上げる。

「おそらく、私的に会うということになりますと、皆様の家に何らかの影響があると懸念なさったのかと」

元王女の表情がこわばる。ちらっとよぎったのは後悔というよりは寂しさに似ていた。

「私とあの子たちが会うと、迷惑になるということね」

「お家を巻き込むことになるのは、本意ではないかと」

「言いたいことはわかったわ。で……これから私はどうなるの?」

こういう時のために用意しておいたマニュアル通り、微笑みながら答える。

「ご説明のとおりに、まだしばらくはハートフォード侯爵預かりとしてここにいていただくと思います」

「なんですぐに戻れないの」

「エリザベス様もご存知の通り、我が国にはもうすぐマデラ国の使者がいらっしゃいます。宮中は人の出入りに最も気を配らねばならないときです」

数ヶ月前から新規に人を雇うことは止め、臨時の人員は宮中にはいらず外に本部を置く徹底ぶりだ。それもそのはずで、マデラ国とは国交を結んで50周年の記念の年であり重要な行事のひとつなのだ。

「でも、私は家族じゃない。娘なのよ?」

家族なのを捨てて出ていったのは誰なの。心の声をエリザベスが読めないことを祈りつつ悪態をつく。

「もちろん皆様も、お会いになりたい気持ちを抑えていらっしゃるのではと存じます。王族の責務として」

嫌味ギリギリだと自分でも思う答えは、エリザベスも思うところがあったのか唇を噛む。

「そう……それで、どうしてあなたがここに来たの?」

ようやく自分に興味を向けてくれたようだ。ミリアは笑顔を貼り付けた。

「私は、外務局の新人文官でございます」

「えっ、文官?伯爵家の娘なのに?」

「子供の頃から文官になるのが夢だったからです」

「そう……」

奇異なものを見るようにエリザベスがこちらを見る。

「お茶でもいれましょう。エリザベス様の最近のお好みなどありますか?」

「……この国を出てからは、好みも何もなかったわ」

「そうですか。大変だったのですね」

それはそうだろう。王宮しか知らない王女が外に出て、そんなに簡単に順応できるわけがない。伯爵令嬢から文官になった自分だってそうだったのだ。

「そう……大変だったわ」

ぽつぽつ喋りだしたので、ミリアはとにかく話を聞くという当初の目標は達成できそうと胸を撫で下ろした。


「……というわけでマデラ国っていうのは、うちよりも暖かくて活気はあるんだけれど、田舎の方に行けば排他的だったわね」

思ったより話は面白かった。そもそも生の他国の経験というのは情報として興味深い。今後の自分に役に立つと思えば、情報収集として思わず聞き入ってしまう。エリザベスが駆け落ちをした後、どこの国に流れ着き、そのルートはどうだったか。エリザベスはだんだん愚痴っぽくなりながらも、ぺらぺらと喋ってくれるのだった。

「最初こそジョエルもお金があったから、そこそこちゃんとした宿に泊まれたのよ……」

「マデラ国は大きな港に面していますし、有名なリゾート地もありますよね」

「最初はね。けれど、だんだん手元のお金がなくなっちゃうし、私の宝石をいくつか売ったりもしたの」

「宝石、ですか?」

「そうそう。例えば、子供の頃から持っていたネックレスとか、婚約者からもらった指輪とかね」

アレクサンダー様からのものを売ったんだわ! 事も無げな言葉に、一瞬、仕事中だということも忘れて激昂しかけたが、慌てて冷静さを取り戻す。

「なるほど。では、エリザベス様は、ゆっくりとお休みになることが最優先ですね」

「最優先は城に戻ることよ」

「私のできる限りは尽くさせていただきます」

「それと……マデラ国の大使が来る時のこと、どんな準備をしてるのか教えてほしいわ」

奇妙な申し出にミリアはさすがに眉を寄せた。

「なぜですか?」

「家族のことを知りたいの。お母様は私がいないと変なドレスを着たりするんだもの」

そうだったかしら、とミリアはエリザベスがいなくなってからの王妃のドレスや髪型を思い出す。そんなに変わったように思えないけれど、娘にしかわからないこだわりもあるのかもしれない。妙なことにこだわるのだなと不審に思いつつ、顔には出さない。

「承知いたしました。それでは、また明日伺います」

「明日も来てくれるのね」

「はい。エリザベス様が知りたいとおっしゃった件も、お伝えできる範囲でご報告できるよう、明日午前中に登城して確認してまいります」

「ありがとう」

最後は笑顔で別れられたので、最初の接触としては上々なのだろう。

「……」

部屋を出ると、ミリアは深々とため息をついた。足音に顔を上げると、アレクサンダーの従者がいつのまにかそこにおり、ミリアに一礼する。

「お疲れ様でございます」

「あなた、アレクサンダー様のそばにいなくて大丈夫なの?」

「廊下に待機するよう、申しつかっております。大役をお願いしてしまった手前、私がお世話をするようにとのご命令です」

「お世話だなんて。あとは家に帰るだけだから、気にしないで」

「ですが、お疲れでしょう。もしよろしければ、お茶の一杯でもいかがですか。もしかすると、我が主も戻ってくるかもしれません」

一緒にお茶が飲める、という言葉に反応したがミリアはゆっくりと首を振った。

「まさか、こんな早い時間にお戻りじゃないでしょう」

普段の生活から考えればわかるはずなのに。不思議そうに尋ねれば、従者は複雑そうな面持ちで玄関へと案内してくれる。

……それにしても、相変わらずお美しかったな。エリザベスは庶民暮らしの不運を嘆いていたけれど、その容姿に衰えはまるでなかった。アレクサンダー様は毎日こんな美しい人と、同じ屋根の下で暮らしているのだ。きっと、毎晩のようにあの女性と二人で……

「仕事!」

突然ミリアが叫んだため、先導する従者が怯えたように振り返る。誤魔化すように仕事のことに没頭するふりをする。

とりあえずエリザベス様から、マデラ国の滞在経験を聞き出せた。一緒に逃げた男がいたにもかかわらず生活が苦しかったこと、宝石を売って生活費にしていた、と。アレクサンダー様からの贈り物も売ったこと……明日、報告するべきだろうか。いや、言うべきじゃないわ。絶対に知られちゃだめ。嫌な気持ちなんかになってほしくないもの。

あとは、王宮に行ってマデラ国大使が来る時の準備……エリザベス様が気にしていた、王妃様のドレスや髪型について誰に聞けばいいのか。誰に言えば紹介してもらえるのか……というか、王妃様はエリザベス様が国にいることをご存知なの?

バタン、と大きな音がして眼の前に強い光が差し込んだ。知らないあいだに玄関まで来ていたようだった。扉が大きく開いている。

「……」

そこにはアレクサンダーが立っている。普段のような無表情だが、息が切れてわずかに顔を上気させているように見えた。いつもならまだ、彼は王宮の執務室にいる時間なのに。不思議に思うと同時に、腑に落ちる。この人は、こんなに息を切らすほど、エリザベス様のもとに戻りたかったのだ。

現実に打ちのめされて、咄嗟に目をそらす。

「お、おかえりなさいませ。今、帰る――」

「今日が初日だったな。成果を茶でも飲みながら聞かせてもらえるか」

再びの、しかも本人からの茶の誘い。嬉しいはずなのに、目を合わせないまま首を振る。

「きちんとまとめて、明日ご報告します」

「そうか……だいぶ疲れたようだな」

「たいしたことはありません。エリザベス様の方がお疲れかもしれません……どうぞ、いたわって差し上げてください」

ミリアはぺこりと頭を下げると、足早に彼の隣をすり抜けて、迎えの馬車に乗り込んだ。アレクサンダーがこちらを振り返ったのが見えたが、出発を強く急かしたせいで御者が戸惑いながら出発した。

ガタガタと馬車が揺れる。揺れに身を任せながら、戻ってきたアレクサンダーを思う。あんな風に大事にされながら、エリザベス様はなぜ裏切ったのだろう。そして裏切られたのに、アレクサンダー様はどうしてあんなにもエリザベス様を大事にするのだろう。美しいからだろうか。部外者には見えない、長い婚約者同士だった情愛があるということなのだろうか。

どんな理由を考えても、ミリアの心を慰めるほどの納得はない。ただただ、心が乱れてどうしていいか分からなかった。

自分のできることはもちろんするし、彼の役に立てるだけで嬉しいのも事実だ。でも、アレクサンダーが彼女にないがしろにされていることがつらい。もうエリザベスに会いたくないとさえ思う。


それなのに、彼女に会いに行く役目は、その後も続いた。

一度だけ思い切って、これがいつまで続くのか聞いたことがあるが、まだしばらく続けてくれと言われただけだった。

早く王宮に戻ってほしい。そして私を解放してほしい。切実に願いつつ、ミリアはエリザベスの元へ向かうのだった。

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